「はぁ、はぁ、はあぁ、くふぅ、はぁ…………」
追いつかれたら終わりだとは分かっていた。しかし追いつかれてしまった後にそんなことを思ったところで仕方ないということも分かっている。
私を、物を見るような眼で見下ろすそのヒトは、恐らく既に人殺しだ。もう引き返すことのできない世界にいるのだろう。その覚悟の表れなのか表情はもはや人のものではない。
人はこうも変わってしまうものなのだろうか。私を優しく歪んだ瞳で捉えるお父さん。その義眼のように微動だにしない鏡には既に私の姿は映っていなかった。
悪いな、という謝罪の言葉が私の頭の中で何度もリプレーされる。しつこく脳内に這いずり回るそれは私が耳にする最後の言葉となるのかもしれない。
私には既に、狂い、変わってしまった人に抵抗するだけの体力は残っていなかった。私の乱れた衣服は私の疲労を表しているようにくたびれた皺をいくつも織りなしていた。
不意に迫ったお父さんのゴツゴツとした手。私の中からお父さんとの、そしてお母さんとの想い出が涙と共に滲んでくるように溢れ出てきた。その優しかった手に握りしめられた包丁に、私は自分の意識が薄れるように遠のいていくのを感じた。
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ぐっしょりと冷たく濡れた何かが私の身体に絡み付くように張り付いてきていた。それが汗を吸いこんだ布団の感触だと知ったのはすぐ後のことであった。
思えば先ほど、おはよう、と言われた気がする。たぶんだが、それは母の声だった。しかしその母は今、私の瞳には映ってはいない。本当に先ほどのことだと思ったのだが不思議なものだ。もしかしたら、母の声だけここに来たのかもしれないが。
ああそうか、ここは挟間なのだ。
唐突に私は理解した。母は未だここには来ていないのだ。もしくはここに来る途中なのかもしれない。それではもしくはここにいる私は死んでしまったのだろうか。殺されてしまったのだろうか。いいや、それは恐らく違う、ここは生と死の挟間なのだから……
突然、眼前の光景がその形を不安定に揺らした。私が見る全ての物が上の方から徐々に暗くなっていくのが分かった。
これはそう、きっと私はここを出るのだ。そして戻るのだ。絶望へと。
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全身を取り巻く寒気によって私はその意識を絶望という名の記憶と共に蘇えされた。
私の喉元に突きつけられた包丁には神秘的な光沢が纏わりついていた。
しかしこの輝きは間もなく私の真紅の血によって鈍いものに変わり、そしてそれは私の血が凝固するのと時同じくして光を失うだろう。
私には私が歩んできた人生を自然と振り返るという現象は起きなかった。ただお父さんとお母さんの顔が脳裏に浮かんだだけだった。
私の涙で彩られる優しかった手が、振りかざされた銀色の刃と共にぼやけて見えた。それが私の首に当たるのを確認すると私は意識が崩れ去っていくのも同時に確認した。
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頬に感じる柔らかで温かなぬくもりに私は眼を開いた。見ると、母が私の頬を優しく擦ってくれていた。さっきはいったいどこに行っていたのだ。それとも、まだ来ていなかったの?
その問いに母はこう言った。
「私はさっきまで彷徨っていたの。…………さあ、これからはここで何不自由なく、楽しく暮らしましょうね」
その穏やかな物言いの言葉の後に母が独り言のように呟いた台詞を私は図らずとも聞いてしまった。
「お父さんは抜きでね」
私もそれには同意せざるをえない。
私達は挟間を背後に死へと続く階段を躊躇うことなく昇っていった。
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