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無何有軍記

作者:鉛筆削り
■はじめに

 あなたには、心の底から信頼し、その思いを通わすことのできる人はいるだろうか?

 もちろん、それはどんな人でもかまわない。
 ほんの少しだけでいい。頭に思い浮かべてみて欲しい――。

 ――その人は、あなたの大切なお友達だろうか? それともご両親だろうか?
 はたまた先生と呼べる人だったり、よくいくお店の店主だったりするのだろうか?

 もし、そんな人をたった一人でも、頭に思い浮かべることができたなら、きっと、あなたは大丈夫。

 なぜならば。

 それは多くの勇気と、たくさんの幸せと、それから一杯の思い出をくれる最高の宝物と、あなたはいつも一緒にいるということなのだから。

 この物語は一人の少年と若き女性が互いの絆の強さを確かめ合いながら、荒れ狂う激動の時代を駆け抜けてゆく、そんなお話である。


■第一章

*第一節

 城壁の上に女性は立ち、静かに遠くを見つめていた。
 彼女の視線の先には広大な平原があり、その左右には大小の山々が連なるようにして立ち並んでいる。
 ここは見渡す限りが自然に囲まれた、辺境の地。
 そこに造られた城、紫苑城にて、女性はある報告を待っていた。
 陽光に照らされた女性の長い黒髪は、まるで黒曜石のように輝いて、それがふいの風で静かに揺れた。
「春華≪しゅんか≫様!」
 春華と呼ばれた女性は、声の方へと振り返った。つられて風になびいていた黒髪が、ふわりと肩に舞い降りる。
 男は慌てた様子で彼女の元へと駆け寄った。
 余ほど急いできたのだろうか、男の額からは汗が吹きでるように流れており、息もかなり荒い。
「物見の報告によりますと、間もなく眞≪しん≫軍が、こちらに到着する模様です」
「そうか。で、数はいかほどか?」
 そう問い返した春華の声は、二十を過ぎたばかりとは思えないほど落ち着いていて、どこか風格のようなものさえあった。
「そ、それが……」
 対称的に男の顔には明らかな動揺の色が浮かんおり、しゃべる言葉もおぼつかない。
「黙っていても何も解決はしない。はっきりといえ!」
 そんな歯切れの悪い男を叱咤するように、春華は声に力を入れた。
「は、はい! 物見の報告によれば敵の数、およそ三万と思われます!」
 男は我を取り戻したかのように、しっかりとした口調で語った。
 春華はそれでいいんだとでもいわんばかりに頷きを返すと、「わかった」と短く答え、それから城壁の外へと視線を向けた。
 そして。
 はからずも、遥か向こうにそれは見えた。
 長蛇の列をなし、砂塵を大量に巻きあげながらに進む、眞軍の姿。
 それはまるで一匹の巨大な蛇のようであり、春華たちのいる城など、ひと飲みにできてしまいそうな数であった。
 春華は兵に指図する。
「みなに伝えてくれ。予定どおりに行動せよと」
「はっ、直ちに」
 男は軽く一礼すると、足早にその場から姿を消した。
 目の前に広がる絶望的な現実。
 それを眺めながらに春華は苦笑を浮かべた。
 ――敵の数は三万。対する我が軍は僅か二千四百。私のような小物相手に敵もぞんがい大人げがない……。
 礎が誇る、八駿の将が一人、桃華≪とうか≫。
 それが彼女のもう一つの諱≪いみな≫であり、眞国の大軍を招き寄せるにいたった元凶でもあった。
「いずれにせよ、こんな馬鹿げた戦をいつまでも続ける訳にはいかぬだろうな……」
 中天に輝く太陽の下。
 春華はくるりと踵を返すと、確かな足取りで、自分の戦場へと歩きだした。


*****

「西方の守りが薄い! 兵を百ほどそちらにまわせ! 負傷した者はすぐに手当てを受けろ! いいか、何としても、城内にだけは敵を入れるな!」
 春華は眼前に迫りくる敵へと刃を振り下ろしながらも、随所では兵たちに指示を飛ばし続けた。
 そんな獅子奮迅の活躍をする春華の手によってまた一人、頭部を割られた敵兵が、無言のまま城外へと転落していった。
 彼女はそれを見届ける間もなく、城壁の上に手をかけた新たなる敵兵へと駆け寄ると、剣を振るった。敵は悲鳴と斬られた手首だけを残し、城外へと消える。
「弓兵! 何をしている! 地上の者には構うなといっておいただろう! 矢は城壁を登る者だけに集中しろ!」
 とどまることを知らず、まるで津波のように押し寄せる眞兵。それを前にしてもなお春華は、冷静に指示を下し続けた。
 と、そんな彼女の右耳に、味方とおぼしき兵のうめき声が届く。
 春華は声の方へと体を向けた。すると。
 そこには地面に両膝を付け、今まさに倒れこもうとする礎兵の姿があった。そしてそのすぐかたわらでは、常人の二まわりはあろうかという大男が立っていた。
 まるで猪をそのまま大きくしたようなその大男は、鎖を持っていて、その両端についた巨大な鉄球を、こともなげに振りまわしていた。
 その鉄球がまわるたび、味方の兵が次々と凪ぎ倒され、そして吹き飛ばされていく。中には四十尺≪約四.五メートル≫もの距離を飛ばされ、体を城壁へと打ち付ける者さえあった。
「一番乗りの武勲はこの俺様がいただいた! 命がいらぬ者は誰でもかまやしねぇ、好きなだけかかってきやがれっ!」
 男は大音声でそう吼えると、正面から斬りかかってきた礎兵の頭を、まるで西瓜のように鉄球で叩き割った。頭を失った男は、地面へどさりと倒れた。
 彼が鉄球を振るうごとに一人。そしてまた一人と、礎兵たちはまるで泥人形のようにばたばたと倒れていく。
「……ひっ、ひぃ……ば、化けものだ!」
 たまらず一人の兵が悲鳴をあげた。
「……邪魔だな」
 敵兵を二人斬り捨てたばかりの春華は、気だるげにそうつぶやくと、我がもの顔で鉄球を振りまわしている大男へと駆けだした。
「どうした。俺様に挑むヤツはもういないのか!」
 腹に響くような男の大声に、礎兵たちは気圧され、じりじりと後ろへと下がっていく。それでも彼らは自分たちの責は果たそうと、城壁を背にして立つ大男を、囲むようにして半円を築いていた。
「ふん、越しぬけどもがっ!」
 遠巻きに剣を構えるばかりでまるで動こうとしない礎兵たちに、男は侮蔑の表情を投げ捨てる。
 が、ここで男は、急に表情を笑みへとかえた。
「そういえば、まだ俺様の名をいってなかったな」
 礎兵の前で不敵にそうつぶやく大男。彼は息をこれでもかといわんばかりに肺へと送り込むと、それを一気に放出した。
「いいかくずども! 冥土の土産によく聴いておけ! 俺様は眞に並ぶ者なしとまで称えられた鉄鎖球≪てっさきゅう≫が使い手。その名――もっ!?」
 大男が名乗るのを待たずして、春華は相手の懐へと飛び込んでいた。彼の首筋にはすでに、彼女の剣が深々と突き刺さっている。
「名乗りの途中ですまぬが、それはあの世ででもゆっくりと語ってはくれぬだろうか。こちらもそれほど暇ではないのでな」
 それは瞬きほどのできごとであった。相手に構える余裕すらも与えないほどの。
 大男は首から大量の血を溢れだしながら、永遠に名乗ることも許されず、城の外へと落ちていった。
 春華はそれを無表情で眺めながら、剣に付着した血を振るった。赤い飛沫が下に散り、模様となって地面を飾った。
 それから彼女は、呆然と立ちつくしている味方の兵たちに振り返ると、静かに微笑を浮かべた。その笑顔はまるで桃花のつぼみのように涼やかである。
「みないい判断だった。今後もその調子で動いてくれ。面倒な相手があらわれたら、私を頼ってくれて構わないのだから」
 その言葉を聞いた一人の礎兵は、慌てて両の手を前にだすと、激しく左右に振った。
「と、とんでもありません。これ以上春華様のお手をわずらわせるようなこと、決してできませぬ!」
「何を馬鹿なことを……。私は礎の八駿が一人、桃華だ。私はみなに心配されるほどやわではないし、すがるほど困ってもいない。そのような者にいらぬ心配をするのは、度が過ぎるというものだ」
 そう春華がしゃべり終えるや否や、一刃が彼女の背後を襲った。春華は左に体をまわして避けると、勢いそのままに右手の剣を横へと払う。
 敵兵はその成果をあげることなく、地面へと沈んだ。
「わかったなら、みなさっさと持ち場に戻れ!」
 この間も、襲いくる敵兵を二人。春華は続けざまに葬っている。
 背を向けたまま味方を鼓舞する彼女の勇姿に、兵士たちは剣の柄に再び力をこめると、声をあげて走りだしていった。
 次々と襲いくる敵を斬り伏せながら春華は、
「私も眞軍≪ヤツら≫と大してかわらんな……。随分と身の丈にそわぬことをいっている……」
 と、皮肉めいた言葉を漏らした。


*****

 城壁をはさんでの礎と眞の攻防は、夕暮れまで及んだ。
 その間にも春華は数十名の敵兵と、名も知らぬ強者たちを七人斬り捨てていた。
 真っ赤な返り血を全身に浴び、夕日にたたずむ八駿が一人、桃華。
 誰もが畏怖を覚えるであろうその姿に、しかしながら兵士たちはみな、一様に眼を奪われていた。彼女はまるで、血池の水面≪みなも≫に咲く睡蓮花のように凜としていて、何より綺麗だった。
「春華様、敵が退いていきます!」
 春華の元にその報告が届いたのは、彼女が八人目の強者を斬り伏せたその返り血で、さらに自身の妖美を増した頃であった。
「そうか。では我らも休息を取るとしようか。みなにもそう伝えてくれ」
「はっ。して、何名ほど休ませましょうか?」
「全員だ」
「……ぜ、全員でございますか?」
「ああ、全員だ」
「それでは敵の夜襲に備えられませぬが……?」
 春華が城壁の向こうに目をやると、野営の準備を進めているのであろうか、敵兵がせわしなく動いていた。大地を覆いつくすほどの数である。
「その心配なら不要だろう。ここにいたる道のりだけで、彼らはもう十分に疲れているはずだ。ましてや敵は大軍。これ以上の無理はすまい」
 眞の軍勢を見下ろしながらに春華はそう答えたが、瞬間、彼女は視線を虚空に移すと、すぐに言葉を改める。
「しかし、そうだな……。お主の意見もっともだ。一応、何人か見張りだけは立たせておこうか」
「はっ。では直ちにそのように伝令いたします」
「但し、必要以上の見張りは不要だ。他は全員休息させてやってくれ。この戦では、一兵たりとも無駄にはできぬからな」
 立ち去ろうとする兵に、春華はそう付け加えた。
 その言葉に兵は応じると、再び走りだした。
 春華は背中でその足音を聞きながら、じっと敵陣を見据えたままである。
「いかに大軍とはいえ、何と緩慢なことか……。我が手にもっと兵があれば、こちらから夜襲をしかけてやるものを……」
 それが天と地とが入れかわるほどに不条理だと知りつつも、春華は苛立ちを吐きださずにはいられなかった。
 そんな中、ふと彼女の脳裏にある一つの顔が浮かぶ。

 ――お主が危険な目にあったときは、必ず助けてやる!

 そう語る少年の顔はまだ幼く、しかし自分に向けられたその眼差しは真剣で、何より心揺さぶられる熱さがあった。

「馬鹿なことを私は……。このような状況化で一体何を期待しているというのか。まだ、少年のあのお方に……」
 春華は自分の中で芽吹きそうになった淡い期待を、頭と共に振り払った。


*第二節

 礎国の首都、譚陽≪たんよう≫
 その城の近くに建てられた廟にて、桓昌は目の前に立つ一人の男から、ある報告を聞いていた。
「……さ、崔淤期さいおきよ、……それは真か?」
 その声はあまりにも細く、痩せこけた白い頬は小刻みに震えている。
 桓昌は礎の公子の一人であり、譚陽の留守を預かる将でもあった。現在、彼の右手側には武官が。左手側には文官がそれぞれ数名ずつ、縦に並んでいた。常時であればこの三倍の数が立ち並び、壮観なはずであるのだから、彼の怯えも押してはかるべしであろう。
「はい、真でございます桓昌様。我が礎の軍勢が先刻、靖により敗れたとの報告がございました」
 崔淤期と呼ばれた狐目の美丈夫は、その頼りない公子に何の色も示さないまま、淡々と報告を繰り返した。彼は春華と同じく八駿の一人である。
「それは何かの間違いではないのか……。我が礎の兵は八万。それに同盟国である眞が六万。それに比べて靖は多く見ても七万ばかり……。二倍……、我が軍は敵の二倍の数を誇っていたのだぞ。それが敗れたなどと……、どうして信じることができようか……」
 桓昌のその声に、覇気などと呼べるものは微塵もなかった。彼の両の瞳もどこかせわしない。
「報告によりますと、我が礎と同盟を結んでおりましたその眞国が、靖に寝返ったとのことでございます」
「眞が裏切っただと? そんな馬鹿なことがあるものか!」
 桓昌のとなりで報告を聞いていた、体躯のよい老齢の男が急に声を張りあげた。それはわだかまった空気を、無理やり払うかのような大声であった。その証拠に、彼の張りのある頬骨がわなわなと震えている。
 彼は八駿が一人にしてその筆頭の、伯費≪はくひ≫である。
 崔淤期はそんな老将の言動に別段動じるふうでもなく、静かに頷いた。
「確かに信じられぬ話ではございます。ですが伯費殿、これは王の側近の者からの報告でございますゆえ、まず誤報とは思われませぬ」
 伏せっていた桓昌が、突然弾けたように身を起した。
「父は……、父上はご無事なのか!」
「そのことにつきましては……、真に申しあげにくいことではございますが……、桓秦≪かんしん=桓昌の父≫様、桓栄≪かんえい=長男≫様、桓儀≪かんぎ=三男≫様、並びに先鋒を務めておりました八駿五名、ことごとくが騙し討ちに合い、首を奪われたそうにございます」
「おお……何ということか……。父上ばかりか、兄上やハ駿までもが……」
 再び桓昌は目を伏せると、自らが座る椅子の端を力なく握った。椅子の肘かけに施されている獅子の彫刻が、彼の落胆のせいでみすぼらしく見える。
「それで。今、眞と靖はどこにいるのか?」
 うつむいたきり口を開こうとしない桓昌の代わりに、伯費が話を促した。
「はい。現在敵は我が国に向かって軍を進めております。数は眞軍が三万、靖軍が七万。両軍合わせておよそ十万になります」
「眞が三万? それでは数が合わぬではないか。残りの兵はどうした?」
「これもまた、真に申しあげにくいことではございますが……」
 崔淤期は途中で言葉を止めると、沈黙を続けているもう一人の老将へと横目を向けた。そしてその老将に動揺の色がないことを確かめると、彼はゆっくりと話を続けた。
「報告によりますと、残りの眞兵三万は、春華殿がおられる紫苑城へと向かったそうにございます」
 それを聞いた伯費もまた、となりにいる老将へと横目を向けると、
「む、うむ、……そうか。紫苑に……な」
 と答えにくそうにいった。
 それでも伯費は当然ともいえる疑問に思いいたると、それを口にする。
「それにしても妙な話ではある。紫苑は我が国でも辺境にある地。そこをいくら攻めたところで、敵に利があるとは到底思えぬのだが……」
「それには一応の理由がありまして、紫苑へ向かった将の名は、蒙京にございます」
 崔淤期のこの一言により、廟にいる誰もが腑に落ちたような様子となった。
「愚弟の敵討ち、という訳か……。何とも涙ぐましいことだな」
「味方にとってはよき将であっても、敵国から見れば、ただの人殺しとさしてかわりはありませぬゆえ……」
 崔淤期は伯費にそう答えると、再び寡黙を守る老将へと視線を向けた。
 荘厳な白髭を蓄えた老将、春岳≪しゅんがく≫。
 目じりには齢に相応しい皴がいくつもきざまれてはいるのだが、その突き刺すような眼光はいまだ健在で、自分の娘である春華の危機を聞いてもなお彼は、眉一つ動かさず黙ったままであった。
 ふいに訪れた静寂が、あたりを包みこもうとしたそのとき。
 沈黙を破って一人の守兵が、桓昌の前へと飛び込むようにしてあらわれた。
 桓昌に向ける守兵の顔は驚くほどに青ざめており、吐く息はとても荒い。
「……も、申しあげます。東の国境に……伍が、……伍の大軍があらわれました!」
「な、何だと!」
 兵の報告に桓昌は頭を跳ねあげると、それからおもむろにこめかみへと手をやった。ふいの凶報にたえるので精一杯といった様子である。
「よりによってこのような……、――いや、これは恐らく示し合わせてのことか……」
 伯費が体をわなつかせながらにつぶやいた。彼は老将とは思えないほどに厚い胸板を持つ男である。そのため、その震えが怒りからくるものなのか、恐怖のためか。本人以外には誰にもわからない。
「それで、数はいかほどか?」
 崔淤期が兵に話しを促した。
「はっ、その数、およそ二万と思われます」
「二万……? そうか……」
 数を聞いて崔淤期の目に憤怒の表情が浮かんだ。しかしそれはほんの一瞬のできごとであり、彼はすぐに元の表情へ顔を戻すと、自国に起こっているであろう現状を淡々と語りはじめた。
「桓昌様。今までの報告をまとめますと、敵は眞、靖、伍の連合軍であり、その数は合わせて十二万にのぼります。対する我が礎は、この城に残った兵、それに新兵、老兵を掻き集めたとしてもせいぜい四万二千が限界でございましょう。それで敵に当たらねばならなぬのですから、普通に考えてもまず、勝ち目は薄いように思われます」
「……な、何とかならぬのか?」
 桓昌のその声は、今の彼の心を如実にあらわすかのように、見事にかすれていた。
「残念ながら……。私にはどうすることも……」
 崔淤期がそう答えると、広間には重苦しい空気が流れはじめた。
「……き、貴様! こういうときのために、守将を任されているのであろうが!」
 その場の重さにすぐにたえきれなくなった桓昌が、声を荒げて崔淤期を責めた。
「そうは申されましても……」
 崔淤期は、確かに留守を任された将の一人ではあった。しかし、今の城の主は桓昌であって彼ではない。いってしまえば難癖以外の何者でもないのだが、それでも彼は進展を探るべく、横にいる伯費へと愁眉を向けた。
「伯費殿、何かよき策はございませぬか?」
 しかし伯費の反応は冷たいもので、彼は「ふん」と鼻を一つ鳴らしたきり語ろうとはしなかった。
 再び沈黙が流れだした。
 崔淤期はその空気を察したかのように、打ちひしがれている桓昌へと顔を向けると、それから神妙な面持ちで何かを伝えようと口を開いた、と、まさにそのとき。
 礎の老将春岳が、突然口を開いたのだった。
「桓昌様、私に少々お時間をいただけませぬでしょうか?」
「おお! 春岳、何かよい策でもあるのか?」
「いえ、恥ずかしながら策……、と呼べるほど、まだ思案がまとまっている訳ではございませぬ。それゆえに、そのためのお時間を少々いただきとうございます」
「それはいかほどであろうか?」
「はい。今が未の刻≪午後二時頃≫でございますから……、戌の刻≪午後八時頃≫までには何とかまとめてごらんにいれます。それまでの間、桓昌様にはゆっくりとお体をお休めいただきたく思います。急なできごとにご心労もさぞやお溜まりでございましょうし、先王亡き今、我らの主は桓昌様をおいて他にはおりませぬゆえ」
「そ、そうか……。ああ、確かにそうであるな。私も少し疲れた……。春岳よ、後のことは任せてもよいか?」
「はい、もちろんでございます」
 春岳はそういうと、深々と頭を垂れた。
 それをまわりの文官、武官たちは無表情で、桓昌はその白い頬に僅かに赤みを帯びさせて、白髭の老将を見つめていた。


*****

 廟を後にした崔淤期は、自宅の一室へと戻っていた。
 部屋はさほど大きなものではなく、竹簡≪ちくかん≫と、木簡≪もっかん≫(古代の書物は竹や木を紐で組み合わせたものを書物として使っていた)の類が隅の棚へと無造作におかれていて、あとは食を取る長方形の机と、そのまわりには背のない四角い椅子が三つ並んでいた。
 崔淤期は椅子の一つに座り、机の上におかれていた青銅の椀を手に取ると、中にはいっている酒を口へと運んだ。それからその椀を机の上に戻すと、ゆっくりと口を開いた。
「春岳め……ただの死にぞこないの爺だと思っておったのに、随分と余計なことをしてくれたものだ。おかげで桓昌に降伏を勧めることができなんだわ」
 そう忌々しげに吐露した崔淤期のかたわらには一人の若い女性が立っていて、彼の言葉に耳を傾けていた。
 年の頃は二十前後といったところか。
 黒髪は首元までと短く、まだらに色が抜けていて、一見奇異である。
 しかしその脱色部に光があたると、まるで金色を帯びたかのようにも見えるため、暗めであるはずの彼女の容姿を一段上へと昇華させている。
 服装も赤を基調に牡丹の刺繍が幾つもほどこされており、王侯貴族の従者に相応しいいで立ちをしていた。
 彼女は崔淤期の言葉に思案する様子をみせると、おもむろに唇を開いた。
「確かに……、春岳様は文武に優れたお方ではございます。ですが、まだ全てが決した訳ではございません。その証拠にあのお方も、随分と迷われていたご様子」
「いや、それは違うな、凌菲≪りょうひ≫よ。俺が恐れているのは春岳などではない。俺が真に恐れているのはやつの補佐する公子、桓秀だ」
 崔淤期の言葉に、凌菲と呼ばれた女性の黒髪が僅かに揺れた。
「あの、愚公≪愚かな若様≫……でございますか?」
 凌菲の顔は驚きで満たされていて、それを隠そうともしていない。
「ああ、そうだ。あの愚公だ。恐らく春岳はやつの元へとおもむき、智恵を借りるはずだ。そうなってしまえば、礎を降らせるという俺の策は夢でしかなくなる」
「崔淤期様、お言葉を返すようで恐縮でございますが、あのお方は公子の身でありながら礎王の逆鱗に触れ、軍事、政治において一切のかかわりを禁じられた愚公にございます。崔淤期様ともあろうお方がそのような者に警戒なさるとは……。正直に申しあげて、私はあなた様の意図をはかりかねております」
「愚公か……。そんな訳なかろうよ。何せ、当時神童と呼ばれていたやつを愚公に貶めたのは、他ならぬこの俺なのだから」
「――まさか……。二年前のあの事件は、崔淤期様自らが起こされたとでも……?」
「ああ、そうだ。そのまさかだ。この十年、俺は礎王と、その国を滅ぼすことだけを考えて生きてきた。その俺が、当時まだ未熟であったとはいえ、将来の禍根になるであろうあの公子を、なおざりにする道理などどこにもあろうはずがない」
「それでは私を拾ってくださった十年前にはすでに、今日のことをお考えに?」
「ふふ、そうだ。こんな未練を垂れ流したような、執念深い男で失望したか?」
「い、いえ、そのようなことは決して……」
「別にいつでも、でていってくれて構わないのだぞ?」
「私は……、いつまでもあなた様のおそばにいたいのです」
「ふん、まあいい。それよりも、今は後のことを考えておいた方がよさそうだな……。凌菲よ、しばらく俺を一人にしてくれぬか。少し考えたいことがある」
「わかりました。では、私は別室にて控えております。ご用の際にはいつでも声をおかけください」
 そういって立ち去ろうと背を向けた凌菲であったが、崔淤期から急の声がかかったため、すぐにその場で立ち止まった。
 と、そこまではよかったのだが、凌菲は崔淤期の発した言葉を正確に聞き取ることができていなかった。そのため彼女は小首を傾げながらに振り返ると、まずそれを問うた。
「何か、仰いましたでしょうか……?」
「ああ、少し待てといったのだ」
 崔淤期はそういってゆらりと立ちあがると、凌菲に歩み寄った。それからふいに彼女の髪をわし掴みにすると、そのまま自分の顔近くへと強引に引き寄せた。
「貴様! 俺の家に戻っているのになぜその服を脱がん!」
「……も、申し訳ありません」
「貴様ごときにこんな高貴な服が似合うはずもなかろうが! 俺が貴様に豪華な服を与えてやっているのは、単に俺の面子と周囲に対する飾りに過ぎぬのだと、いつもいっておろうが!」
 涙ぐむ凌菲の髪を崔淤期はさらに強く引いた。互いの顔の距離はますます縮まり、今や額がすれ合うほどになっている。
「貴様は俺の何だ?」
 凌菲は苦痛で顔を歪めながらも、何とか言葉をしぼりだす。
「わ、私は……、あなた様に……あなた様に拾われた……奴隷でございます……」
「それがわかっているのならば、かびと犬の臭いの染み付いた貴様に相応しい布切れに、すぐ着替え直せ!」
 そうしゃべり終えるや否や崔淤期は、掴んでいた彼女の髪を床に叩きつけるようにして放した。
 凌菲は咄嗟に床に手を付いて自身を庇った。が、そんな凌菲の努力を鼻で笑うかのようにして崔淤期は、彼女の腹をつま先で思いきり蹴りあげた。
 途端に凌菲は苦悶の表情を浮かべて床の上を転がる。
 地べたで苦しそうにしているそんな彼女を見て崔淤期は、満足したかのように笑みをうかべると、再び自分の席へと着いた。それから。
「ふふ……、もう少し……、あともう少しでお前の仇が討てそうだ……。瑞燕≪ずいえん≫……」
 焦点定まらず、遥か遠くをみるような目つきで、彼はそう言葉を漏らした。



*第三節

 ときは廟での話し合いの直後まで遡る。
 その頃、城内の回廊を二人の男が歩いていた。
 一人は老齢で、一人は若者である。
 しばらくの間二人は無言で道を歩いていたのだが、ふいに若者の方がもう一人の男に向かって口を開いた。
「流石は春岳様でございますな。みな青くなるばかりのあの状況で、あのご発言。八駿を退いてもなおご健勝。いやはや頼もしい限りでございます」
 それはどこか人を食ったようなものいいに聞こえなくもない。
 若者の名は、藺相覇≪りんしょうは≫という。
 髪は長くぼさぼさで肌は僅かに黒い。みなりは整っているのだが、どこか遊び人のような雰囲気がある。
 とあることがきっかけで、彼は春岳が最も信頼する手飼いの一人になっている。
 だから藺相覇のその言葉にむろん他意はなく、彼なりの賛辞のつもりであるといってよかった。
 春岳としてもそれがわかるだけに、心中複雑な思いはあるものの、苦笑を浮かべるしかない。
「何が、健勝なものか……。この危急のときに策をまとめることすらままならず、こうしてよき案を求めて歩いているのが、何よりの証拠であろうが」
「まとまっておらずとも、策は策でございます。それがあるとないとでは、天と地ほどの開きがございます。なればこそ、春岳様はやはり名将といわざる終えないのです」
「もうよい、お主がいうと嫌味にしか聞こえん」
 春岳は藺相覇の言葉を、気だるげに手で払った。
「嫌味とは……。これはまた随分と心外なお言葉ですな」
 そう答えると、藺相覇は笑みをこぼした。それからおもむろに表情を改めると、言葉を続けた。
「まあ、私のことなどよりも、春岳様はどちらでそのよき案とやらを、手に入れられるおつもりなのでしょうか?」
「むろん、桃花園でだ」
「桃花園? ああ、あの愚公のところでございますね」
 藺相覇は桓秀のことをあえてその名で呼んでみた。もちろん、彼に悪意はなく、主である春岳が、どう反応するかを見てみたかったからに過ぎない。
「なるほど、愚公か……。お主も周囲と同じくそう思っておるのか?」
 ――これは質問を質問で返されてしまった……。やはりこのお方は、八駿を退いてもなお、名将と呼ぶに相応しいお人だ。
 藺相覇はそんなことを考えながらも、態度では小さく首を横に振ってみせた。
「とんでもございません。私は桓秀様に救われた身でございますれば、そのようなこと決して。ただ……」
「ただ、何だ?」
「ただ、私自身、あのお方のお知恵に直接触れたことがございません。ですから桓秀様が愚公であるかどうかは、いまだにはかりかねている、というのが本音でございます」
「そうか。ならばあのお方は間違いなく賢公だ、といっておこう。一を知るや、十を知るほどのな」
「ええ、ぜひそうあって欲しいものでございます。何せ私は少なくともあと百年は生きるつもりですから」
「そうか、それは随分と長生きなことだ……。まあいずれにせよ、これから会うお方が愚公か賢公か。それは自身の目で確かめるがよかろう。――そしてその後のことについてもな……」
「はい、それはもちろん承知しております。すでに手の者も放っておりますのでご安心くだされ。何せ桓秀様のお智恵はまだわからずとも、あのお方のお心だけは、痛いほどにわかっているつもりでございますから……」
 廊下を抜け、視界が開けたところで春岳は歩みを止めた。
 藺相覇も立ち止まると、春岳の向ける視線の先へと目をやった。
 そこには昼下がりの陽光を浴びて、何十本もの桃の木が立ち並んでいた。枝には今にも咲かんばかりにして、つぼみが全身を膨らませている。
 そしてその木のかたわらには大きな石がおかれ、その上に少年は座っていた。彼はぼんやりと桜の木を眺めていた。
 桓昌と同じく礎の公子の一人であり、つい先ほど、藺相覇に愚公と呼ばれていた桓秀その人である。
 彼はどこにでもいるような平凡な顔立ちをしているのだが、常人よりも随分と背が低くい。そのためか年齢よりもだいぶ幼くみえる。
 桓秀は葡萄の果汁が入った陶器を右手に持ち、ときおり思いだしたかのようにそれを口に運んでいた。
「桓秀様、少しよろしいでしょうか?」
「春岳か。何か用か?」
「はい、少々相談したいことがございましてな。となり、よろしゅうございますか?」
「ああ、別に構わんぞ。席はいくらでも空いているからな」
 桓秀は笑顔を作ると左手で、鼓のように石をぽんぽんと二回叩いた。その反動で、右手に持っていた器の中から果汁が外へとこぼれだし、彼は慌ててそれをすすった。
「では、失礼して」
 春岳は桓秀の元へと歩み寄ると、空いている石の上へと座った。
「お主も遠慮なく座るがいいぞ!」
 といって桓秀は、藺相覇にも笑顔を向けた。陽だまりのように明るく、人なつっこい笑顔である。たいていの者はこの表情にやられてしまい、心を許してしまう。
 藺相覇もその例外ではなく、「では遠慮なく……」などといってついつい座ってしまった。
 そしてすぐに自分の取った行動に自分で信じられないといった様子をみせる藺相覇であったが、桓秀が春岳としゃべりはじめたため、彼は耳を傾けた。
「それで、その相談とやらは危急のことなのか?」
 桓秀の声はいたってのんびりとした声である。
「いえ、危急ではありません。大危急でございます」
 それに対して春岳の口調も、またゆったりとしていた。とても切羽詰っている人間には見えない。
 まるで日向ぼっこをしている好好爺と、その曾孫のようである。
 相次ぐ凶報で今の譚陽は、どこも騒然としているというのに、この桃花園だけがまるで別天地のようであった。
 そんな中、桓秀は、
「そうか……。大危急か……」
 といって、虚空へと視線を移した。それから僅かに黙すと、すぐに言葉を続けた。
「父上たちに何かあったのだな?」
「はい……。残念なことに敵国である靖に破れました」
「なるほど、眞が裏切ったということか。父上も、また随分とよき者たちと手を結んだものだな」
 無邪気な顔で桓秀はそういった。だが彼の眼の奥だけは笑ってはおらず、だから続く言葉もそれに適うものであった。
「ところで、お主ほどの男が大危急というくらいだ……。他にもまだ、何かあるのではないか?」
「はい。ご推察のとおりでございます、桓秀様。伍国も動きだしました」
「伍が? 眞国だけならまだしも、あの国が靖と仲がいいとは初耳だな」
「三つの国を結ぶ優れた智者がいれば、それも妙ではありますまい」
「それほどの者があの三国にいるとも思えぬが……」
 桓秀は無造作に頭をぽりぽりとかくと、それから果汁を一口すすった。葡萄の芳香が口いっぱいに広がり、彼はそれに満足した表情を浮かべると言葉を続けた。
「……我が国を狙う第四の国、もしくは我が国の者――か」
「はて? それはどういうことでございましょうか?」
「はは、惚けるのもほどほどにしておいてくれないか春岳。お主がわざわざ潜むようにして私の元へきたのは、そのためではないのか?」
「――桓秀様の目には、この老いぼれの何もかもが見えるのでございますな」
「私の目が特別優れているというよりも、春岳がわかりやすいだけだ。まあいいさ。ここにきたということは、何か思案あってのことであろう? まずはそれを聞いてみることにしようか」
 二人の会話を聞きながら藺相覇は、愚公と呼ばれるこの少年に対して畏敬を抱かずにはいられなかった。だから彼は。
 ――一を知り、十を知る、か……。なるほど、尾ひれのつかない噂というものも、この世には存在するのだな……。
 と、素直に思うのだった。


*第四節

 礎の東にある国境。
 そこへといたる大道を伍軍は進んでいた。
 その先頭を馬に乗って進む長髪の男が一人。
 艶やかな白の甲冑が映えるほどの美丈夫である。男はとなりで馬の歩を合わせて進める者へと語りかけた。
「李朱≪りしゅ≫様、礎の譚陽までは十日ほどありますが、恐らく敵も我らに気づき出陣して参りましょう。いつ敵と遭遇してもよきよう、お気持ちだけはしかっりと、引きしめておいてくだされ」
 その言葉に李朱と呼ばれた人物は軽く頷いた。まだあどけなさの残る幼さ顔ではあるものの、こちらも目鼻立ちの整った綺麗な顔をしている。
「わかっている。士庶≪ししょ≫も油断してしくじるでないぞ」
 そしてその声は、相手を包み込むかのように、おおらかでいて優しい。
「何といってもお前はこれからの伍に必要な人材だ。こんなつまらぬところで死なれては、たまったものではないからな」
 伍国の王、李朱はそういうと悪戯っぽくはにかんだ。
 つられるようにして、士庶も顔に笑みを浮かべる。
「精々気をつけることにいたしましょう。――ただまあ、王よ。つい先ほど申した口でこのようなことを申すのはあれなのですが……、礎国の現状を考えれば実際のところ、我らが攻める譚陽の兵はたかが知れておりましょう。何せ今頃、眞と靖が我らのために存分に働いてくれておりましょうから」
「うむ、ぜひそうあって欲しいものだな。まあ、もっとも、眞と靖にしてみれば、向こうの方こそ我らをたっぷりと、こき使うつもりではあろうがな。……まったく、不愉快なことだ」
「いいではありませぬか。なればこそ我らも気兼ねなく、礎の城へと攻め入ることができるというもの」
「いや、士庶よ。そういう意味でいったのではないのだ。一時とはいえ、眞や靖のような不義の国と手を結ばざる終えず、結果としてこのように姑息な手段を用いているということが、不快なのだ。もし昨年の内乱で我が国が疲弊していなければ、正々堂々とまみえてやるものを……」
 李朱は眉をしかめると、薄紅色の唇をぎゅっと結んだ。苦虫を噛み潰したような、見事なしかめっ面のできあがりである。
「民のためとはいえ、よくご決断くださいました。王にはどれほど感謝を尽くしても尽くしきれませぬ」
「いや、こちらこそ一国の王たる者がいらぬ小言をいってしまった。許してくれ」
 そういうと李朱は深々と頭を下げた。赤茶けた短い髪がさらりと耳元をかすめる。
 それを見ながら士庶は思う。
 どこまでも誇り高く、どこまでも素直な心根。疲弊した我が国が、大きな混乱もなくいられるのも、このお方の存在あってのもの。なればこそ、我が命にかえてもこのお方だけは必ず守らねば……。
「……李朱様、もうお顔をおあげください。そんなに長い間、頭を下げられると私の方が恐縮してしまいます」
「しかし……」
「李朱様!」
 心のこもった小さな叱咤を士庶は王へと送った。
 李朱はその声に、飛びあがるようにして身を起こした。
「うっ。気持ち悪い……」
 弱々しい声と共に李朱の体が士庶へと傾いた。
 士庶はそれを咄嗟に胸で受け止める。李朱の体から蜜のような甘い香りが漂い、彼の鼻腔をなでた。
「長い間、頭を下にしていたせいでございましょう。それに長い道のりで少しお疲れなのかも知れませぬ。あの木陰で少し休息を取ることにいたしましょう」
 士庶は二頭の手綱を器用に操って馬を止めると、李朱を木の根元へと下ろした。彼の空いた両腕には、柔らかい王の感触だけが残っていた。
 その感触を確かめながらに士庶は思う。
 この若き王は必ず俺が守ってみせる。この若き少女の王だけは必ず、と。


*第五節

 一方その頃、礎国の北の地では。
 眞、靖の両軍が、礎の譚陽を目指して南に向かい兵馬を進めていた。軍の中央には兵に守られるようにして進む、二人の男の姿があった。
 一人は痩せていて、ひょろりと背が高く、目元には少し隈があるものの、その眼光は獣のように鋭い。
 眞王、扶佐≪ふさ≫である。
 もう一人の男は、中背で腹はでっぷりと膨らんでいる。その体に身に着けている黄金色の甲冑は、自らの権威を誇示するかのように、あからさまに仰々しい。
 こちらは靖国の王、呂券≪りょけん≫である。
「扶佐殿、それにしても本当に上手くいきましたなあ。こうも容易く礎王を殺めることができるとは。そうとわかっていたならば、もっと早くにことを起こしておくべきであったと、今では悔やまれてなりませぬぞ」
 呂券は弛んだ頬を揺らしながらげらげらと笑った。彼の笑い声にあわせて馬の腹につるされた三つの顔も、同時にゆらゆらと揺れた。
 首の主は礎王桓秦、そしてその息子、長男の桓栄と三男の桓儀である。
 それを目にしながら扶佐は、心の中で舌打ちを鳴らさずにはいられなかった。
 ――なんとも醜悪な笑い声であろうか。常人ならばこうして首だけになってしまった敵を前にすれば、大小異なれど憐憫の情の一つや二つは沸くものであろうに。しかしこの呂券という男はどうであろうか? これ見よがしに馬へ首を吊るし、必要以上に自分を誇示している。敵である礎人の感情など爪の垢ほども考えていない。
 しかも礎王だけならいざ知らず、二人の公子までをも安易に手にかけいる。生かしてさえいれば、人質として使い道はいくらでもあったというのに。
 おかげでこの俺までもが、礎へと攻め入るはめになってしまった。この病食がごとき無能者のせいで……何と忌々しくも無様なことか……。
 空は雲ひとつない晴天である。
 にもかかわらず、まがまがしい装飾品をぶら下げた男のせいで、扶佐はずいぶんと陰鬱な気分であった。むろん、それを彼が表にだすことは決してない。だから口をついてでた言葉は、彼の本心とはまったく異なるものであった。
「まったくですな。ここ十数年で急激に領土を拡大していた男がどれほどの猛者かと構えておりましたが、いざ出会ってみればただの無口な凡人でございましたな」
「無口な凡人……? ああ、確かにそうでしたな。哀れに命乞いなどしておればまだ可愛げがあったものを。息子どころか自分の首を刎ねられるときですら、一言もしゃべらなんだですからな」
「呂券殿の雄々しき姿に恐れおののいて、声もでなかったのでしょう」
「ふふ、確かに。そのとおりかも知れませぬな。……今にして思えば、このような男に少しでも用心していたかと思うと、自分が歯がゆくて仕方ありませぬぞ!」
 そういうと呂券はものいわぬ桓秦の首を、馬上から無造作に蹴りあげた。首はまるで、西瓜のようにゆらゆらと左右にゆれ、それを呂券は忌々しげな表情で見つめた。
「そうお怒りになられますな。これから捕らえる公子どもが、彼らのかわりによき泣き声を聞かせてくれましょうから」
「ああ、そうあってほしいものですな」
 そういうと呂券はまたもやげらげらと下卑た笑いをみせた。そしてひとしきり笑い、満足したのかこの男は、ふいに表情を改めたのだった。
「ところで蒙京殿の軍が途中で進路をかえておられましたが、何か問題でもあったのでございますかな?」
「いえ、呂券殿がご心配されるようなことは何も……」
「わしと扶佐殿の仲だ。もちろん心配などしてはおりませぬ。ですがなあ……。そのおかげで我が軍に負担が増えるようなことにでもならぬかと思うと、それはそれでかんばしくはありませぬな。いや、もちろん勘違いしないでいただきたいのだ……。わし自身はそんなことはまったく気にしてはおらぬのでな。ただ……、その分、領地や金品のわけ前をこちらが多くいただかなくては、ものわかりの悪い兵士たちに、示しが付かぬやも知れぬ。と、それでわしは頭を痛めておるのだ……」
 見え透いた下衆の言葉である。
 扶佐の胸中には吐き気にも似た感情が、ふつふつと沸きいでていた。にもかかわらずにこの男は、それをやはり顔にだすことはしなかった。
「申し訳ない。しかし、礎との戦がはじまるまでには必ずや戻ってまいりますゆえ、どうか今しばらくの猶予をいただきたい」
「そうは申されてもなあ……。もし差し支えなければ蒙京殿がどちらへ向かわれたのか、それだけでもお教えいただけませぬかな?」
 扶佐は心の中で再び舌打ちをすると、軽く頷いた。
「お恥ずかしながら……、それは蒙京の私情でございます。あの者の弟は蒙隗と申しまして、二年前に礎の将に敗れております。その敵討ちに向かったのでございます」
「おお、その話ならば存じておりますぞ。蒙隗殿はこの大陸において並ぶ者はないとまでいわれた猛将。その彼を一太刀のもとに斬り伏せた者がおるとか。確か名は礎の八駿の……、そう、春華とか申したかな」
「よくご存知で……。左様でございます。お恥ずかしい話ではございますが、あやつは女将ごときに不覚を取り申した」
「はて? 女将とな? それは初耳ですぞ」
「左様でございますか……?」
 扶佐はそう答えながらも、心の中では大いに憤怒していた。
 ――当たり前ではないか! 天下に名を知らしめていた将が、女ごときに敗れたなどと誰が触れまわれようか。自国のものにも口外せぬよういい含めているに決まっているではないか!
 そんな彼の胸中をよそに呂券は、表情を崩すと下卑た笑いを顔に浮かべた。
「ああ……して、その春華とやらは……、女子として、こう、容姿の方はどのようなものなのですかな?」
 ――卑しい笑みをみせるな、この養豚めが!
 喉元まででかかったその気持ちを扶佐はぐっと飲み込むと、表情をかえぬよう細心の注意を払いながら言葉を紡いだ。
「傾国の美女だと聞いております」
「何、それは真か! いやあ……そうか。それは何よりだ。して、その者の仔細はどのようなもので?」
「さあ、そこまで詳しくは……」
 扶佐はそ知らぬ体を装った。が、もちろん嘘である。
 彼は戦場で一度、春華の顔を見ていた。
 それは思わず目を奪われてしまうどの美将であった。一部の兵が桃華などと称揚しているのを耳にはしていたが、実際に出会ってみると、なるほど、そう思えるだけの眉目を、その女は確かに持っていた。敵の返り血で自身を染めるその姿は、まさに咲き狂う桃華そのものであった。
 ――まあいくら美将であろうとも、俺の食指はまったく動きはせぬがな。女はどこまでもたおやかで、どこまでも清楚であり続けるべきなのだから。
 それが扶佐の偽らざる本音であった。
 だから彼は呂券に対し、惜しげもなくこう付け加えた。
「もし、敵将を捕らえましたならば、呂券殿に必ず差しあげましょう。かの者がどのような容姿かは、そのときの楽しみになされませ」
「おお、なるほど。それはよき考えじゃ。こうなってはいたし方ない。蒙京殿には、ぜひとも頑張っていただかなくてはなりませぬな」
「お任せください。そのためにも礎を奪った暁には、ほんの僅かで構いませぬ。我らにもお目こぼしをお願いしたい」
「……まあわしも、そう話のわかからぬ人間ではないですからな。承知した。一考しておきましょう」
「大海がごとき呂券殿のお心に、感謝いたします」
 扶佐は嬉しそうな面持ちを作ると、ゆっくり頭を下げた。
 が、むろん、それは全て演技であり、地面を見つめたときにはもう彼の顔からは一切の笑みが消えていた。
 そうとは知らない呂券は、顔をより一層卑猥なものへとかえていた。
 それを頭ごしに感じながら扶佐は、またもや舌打ちを心の中で鳴らせた。
 ――くそっ、なぜ俺が臣のわがままのために、このような苦労をせねばならぬのだ。女ひとりなど、礎を奪ってからでもどうとでもなろうものを。それをやつめ、蒙一族の名誉のためだ、などとぬかしおってからに……。
 扶佐は蒙京の主君であり、蒙京は彼の臣下である。君臣の関係でいえば、臣下の我がままを、王が聞く必要などはまったくない。だが彼にはそれができない。
 なぜなら蒙一族は古くからの臣であり、その財と権力は、扶佐など及びも付かないほどに強大であるからだ。そんな彼らにへそでも曲げらようものなら、彼の立場など枯葉のごとくに霧散してしまう。はっきりいってしまえば彼の王としての立場とは、その程度のものでしかない。
 ――ふん、まあいいさ。女などいくらでもくれてやる。そうして貴様はその豚面を晒したまま、あの女に寝首でもかかれてしまえばいいのだ。
 しかしそんな思いを微塵も感じさせることなく、この男は顔をあげると、
「楽しみにお待ちくだされ」
 と、穏やかな笑みで呂券に語ってみせた。
 扶佐は一国の王にはめずらしく、自分を巧みに操れる器用な男といえる。


■第二章

*第一節

 扶佐が沸々と苛立ちを募らせている頃、ここでも同じように一人の男が苛立ちを募らせていた。扶佐の悩みの元凶、蒙京その人である。
 彼はいまだに抜けない紫苑の城を、地上から憎々しげに見あげていた。

 蒙兄弟といえば、智の蒙京、武の蒙隗として、天下に有名である。もっとも蒙京にいわせれば、智はいうに及ばず、武についても蒙隗に一切劣っていないと自負している。いや、むしろ大きく勝っているとさえ彼は思っていた。
 今まで弟が先方を任される機会が多かったばかりに、結果として蒙隗の武の方がまわりに広がっただけのことである。むろん兄として、弟の活躍を妬む気持ちなどはないが、それでも智の蒙京とのみ呼ばれることについては、いささかの不満を感じていることは確かであった。
 ――歳が十以上も離れた小娘を相手にするだけで、弟の敵を取れるばかりか、自らの有名も天下に轟かすことができるのだ。何と喜ばしいことではないか。
 そんな気持ちで望んだ戦であっただけに、当然彼は春華を舐めてかかっていた。小娘が守る城など一捻りだと、高を括っていたのだ。
 だが、蓋を開けてみればどうであろうか?
 蒙京の思いとは少々異なった様相を、その現実はみせていた。
 彼はまずはじめに、堀を埋めるための工作として兵に土豪を持たせ、城に近づかせた。すると土豪ばかりを矢で射られ、土豪は綻び、土がこぼれて用をなさなかった。
 また蒙京は別の手として、城壁を上から超えるべく梯子車を用いたのだが、油の入った袋を車にぶつけられ、そこに火矢を放たれた。梯子車は瞬く間に炎上し、兵は撤退を余儀なくされた。
 もちろん春華の城の守りは常套手段であり、特に珍しいものではなかった。
 蒙京もそれは理解しているし、それを打ち破る方法もいくつも知っていた。だから今のところ眞軍の被害は少ないし、城壁へ幾人かの兵を押しあげることにも成功していた。しかし彼にとってそれは大いに不満である。今まで彼が経験した攻城戦であれば、すでに決着がついていてもおかしくはない状況だったからだ。
 そしてついに今日、蒙京は三度目の後退を余儀なくされたのだった。
「生意気な小娘だ。今一歩のところでしぶとく粘りおって」
「ですが、我が軍が圧倒的に優勢であることにかわりはありません。三度城を攻めて、三度とも、城壁に肉迫しているのでございますから。今はただやつらの悪運が強く、たまたましのがれているに過ぎませぬ。しかしそれもそう長くは続きますまい。近いうちに必ずやあの城を落とせましょう」
 となりで意気揚々と語る佐官の言葉に、蒙京はふと違和感を覚えた。
 こやつのいうとおり、確かに我が軍は一度目の攻防で、すでに幾人かの兵を城壁へと押しあげている。二度目、三度目も同様だ。だが、なぜだ……。もう少しで勝利を手に入れようかというところで、いつもしぶとく撃退されている。
「蒙京様、もうそろそろ日が暮れます。兵に休息のご指示を」
 決まりきった言葉を、さも大事のごとくに語る部下を無視したまま、蒙京は考え続けていた。
 わしの見たところ、あの小娘はやはり非凡だ。認めたくはないが、あのような寡兵で今まで持ちこたえておるのだからな。凡人であれば、我が軍を前にして、ここまでの抵抗は決してできはすまい。
 しかし、やつが非凡だとすればまた妙なこともある。要所要所でのやつの戦いぶりは驚くほどに冷静で、こちらが舌をまくほどだ。だがそれと同時にこちらが拍子抜けするほどにもろい部分もある。攻城戦の経験がまだ浅いだけなのか? いや、もしそうだとするならば、やはりここまで持ちこたえるのは不可能であろう。ではなぜ、敵はこのような危うき戦を続けるのか……。
 と、そのとき。
 蒙京の脳裏に雷光のごとき思いが過ぎった。
 ――そうか! そういうことであったか!
 春華が非凡であるならば、彼もまた非凡であった。今、この男は春華の戦術を、正確に読み取ったのである。
 弟が討たれたのも、あながち偶然ではないのかも知れぬな。――いや、このような考えを持たせることこそ、すでにやつの策そのものなのであろう。これは本腰を据えてかからねば、礎が滅んでもなお、この城だけは落ちなかった、などという笑い話にもならぬことにもなりかねん。
「おい! すぐに中隊長以上の者を集めろ!」
「きゅ、急にどうしたのでございますか?」
「明朝までに軍を再編する」
「あのようなつまらぬ城のために、軍を再編するのでございますか? 今のままでも十分に攻略できましょうに」
「賢しらなことを抜かすな! この愚か者がっ! 一体どこに目をつけておるのだ! あの城はつまらぬ城などでは決してない。あれこそまさに古今に比類なき堅城だ。くだらぬことをいう暇があったら、すぐに伝令として走れ!」
「は、はっ!」
 あまりの怒号に男は焦ったのか、地面に途中足をとられながらに駆けていった。
「わしは少々弟のことで、冷静さを欠いていたらしい。だが小娘の策がわかった以上、最早今までのようにはいかん。そちらが小賢しい策をろうするというのならば、こちらはその策ごと踏み潰してくれようではないか」
 そう言葉を吐きだすと蒙京は、射抜くような鋭いまなざしを城へと向けた。


*第二節

「なあ、春華よ。人は何のためにこの世に生まれて、そして生きていくんだろう」
 桃香る春の日差しの中で、背を向けたまま少年はそうつぶやいた。
「さあ……、私にその問いは少々難しゅうございます」
 春華はふいの質問に、戸惑いの表情をみせた。
「そうか。じゃあお主自身は?」
 そう尋ねられて春華は、今度ははっきりと頷いた
「はい、それであれば私の答えは明白です。私は幼少の頃に家族を失い、縁あって義父≪ちち≫に拾われ今を生きております。ゆえに私がこの時代に生まれて、そして生きていく理由は二つ。一つは春家に恥じぬ武勲をあげること。そしてもう一つはあなた様を全力でお守りすることです」
「ん? それでは春華自身の幸せは、どこにあるというのだ?」
「私自身の幸せは今申したことが全てでございます」
「そうか、それは立派なことだ。立派なことだが……、それだけだと少し寂しい気もするな……」
「寂しい……? 別に私はそう思ってはおりませぬが……」
 少年の言葉の意味をはかりかね、春華はそう答えた。
 が、それには応じず少年は、桃の木を眺めたままである。
 時間だけがただ、ゆっくりと流れいく。
 と、ふいに少年が声を発する。
「よし、では春華は私が守ってやろう」
「はあ……? あなた様が私を、でございますか……?」
 思っても見なかった少年の言葉に、春華は小首を傾げずにはいられなかった。
「そうだ、不服か?」
「いえ、そうではございませんが……、古今を通し、主が臣を守るなど、ついぞ聞いたことがございませんので……」
「別にいいではないか。母上が死んでからというもの、本当の家族と呼べる人間は誰もいなくなってしまった……。血の繋がった兄上たちはいるが、それはあくまでかりそめのもの。だから彼らが私に与えてくれるものは、いつでも嫉妬と悪意だけだ……」
 腰で組んだ少年の手の指が、もぞもぞと動いているのが見て取れる。
「それに比べて春華には、たくさんの大切なものをもらった気がする……」
 おもむろに少年は春華へと振り向いた。
「だから私は約束しよう。お主が危険な目にあったときは、必ず助けてやる!」
 そう語る少年の顔はまだ幼く、しかし自分に向けられたその眼差しは真剣で、何より心揺さぶられる熱さがあった。
 それを見て春華は思った。
 何と愚かな公子であろうか……。武も力も持たぬこの少年に、そんなことができるはずがない、と。
 そしてこうも思った。
 私の生きる道において、そんなお方をお守りするという自分の選択は、やはりそんなに間違ったものではないのではなかろうか……、と。

「――様」
「……華様」
「春華様!」
 眠っていた春華はその声に目を覚ますと、おぼろげな意識のまま寝台から身を起した。それから彼女は部屋の扉へと目をやると、その声に応じた。
「……何ごとだ?」
「春華様、何やら眞軍が、慌しく動いております」
「そうか……。わかった、すぐにいこう」
 そう答えると春華は、衣服を身にまとい具足をはめた。血豆だらけの足に痛みが走り、彼女は思わず顔をしかめてしまう。
 それでも春華は気力を振り絞って立ちあがると、急いで物見台へ向かった。

「春華様、あそこでございます」
 男が指差す方に春華は目をやった。
 彼女の視線の先では、なるほど眞兵が、報告どおり慌しく動いていた。
 よく見ると、彼らは軍を大きく三つの塊に分けているようだった。
「どうやら敵はこちらの策に気づいたようだな」
「智の蒙京という名も、あながち嘘ではありませぬな……」
「ああ、そのようだ。まあもっともこちらとしては、有名負けしてくれていた方が、有り難いのだがな……」
 春華は胸の前で腕を組んだ。
 高台の風で彼女の長い黒髪が頬をなで、あたりに桃の香りが漂う。
「いずれにせよ我々も今までと同じ、という訳にはいかぬな。とりあえずみなを広場に集めてはくれないか?」
「は、かしこまりました」
 そういって部下は駆けだした。その彼の身に着けている鎧は、矢刀傷が目立つ。
 そんな姿をじっと見つめながら春華は。
「そう、私自身も今までと同じ、という訳にはいかぬだろうな。いずれにせよ早い方がいいだろう……」
 と、小さな声で言葉を吐きだした。

 城内にある中央の広場。
 そこに集った兵たちを前に、春華はよく通る声で話しはじめた。
「みな聞いてくれ。我々は、ぎりぎりまで敵を引きつけることで、後もう少しでこの城を落とせる、と敵に思わせるよう勤めてきた。おかげで敵は大いに油断してくれ、陽のあるうちにしか攻めてはこなかった。だが、流石にそれももう限界のようだ」
 春華は話を一旦止め、呼吸を整えると落ち着いた様子で話を続けた。
「敵は現在、軍の再編を行っている。その狙いは恐らく、我らに休息を与えないことにある。やつらは軍を三つにわけ、一軍は城攻め、二軍は一軍の護衛と物資の補給、三軍はその間に休息する。そして決められたときと共に二軍は城攻め、三軍は二軍の護衛と物資の補給、一軍は休息というふうに役割をかえ、それを延々と繰り返す。それにより昼夜を問わず攻め続けることを可能とする布陣を取りつつある。兵の数を生かした持久戦という訳だ。非常に単純な策だが、それだけに敵の虚をつくことも相当に難しくなろう」
「……それで、春華様。我らの策はどのようなものでしょうか?」
「我らの策か……。我らの策は……、――ない」
 兵たちにどよめきが起こる。
「いや、みな落ち着いて欲しい。正確には敵に下るのが策なのだから」
 一人の男がそれに問い返す。
「春華様、仰られている意味がわかりませぬが?」
 春華はその男に頷くと、再び兵たちを見渡した。
「みなも知ってのとおり、我々は寡兵だ。その我々がこの紫苑の地に留まり敵を引きつけていたのは、眞軍を撃退することではなく、少しでも本国への負担を軽くするためのものであった。そして今このとき、その役目は十分に果たせたと私は思っている。だからどうであろう、あとは私に任せてはくれぬだろうか?」
「……そ、それはどういう意味でございましょうか、春華様?」
 また違う男が春華に問い返す。
 彼女はその男に頷くと、再び口を開いた。
「みなの命と引き換えに、自分の首を敵に差しだそうと私は考えている。みなも一時の間捕虜の身となってしまうが、蒙京は天下に名の通った一角の武人だ。いずれ家族に会う機会も与えてくれよう。私のわがままで、勝ち目のない戦に巻き込んでしまったこと、ここに詫びさせてくれ……。そして、今まで本当によくたえてくれたと、心からみなに感謝したい」
 春華は一人ひとりの顔を眺めやると、それから右手で自分の左拳を包みこみ、前へとかざした。揖礼である。
「あの~」
 と、そこへ。
 一人の男がゆっくりと手をあげた。
「申し訳ありませぬが、私は頭が悪うございましてな。春華様の仰られていることの意味が、やはりようわかりませぬ。それに残念なことに私は天蓋孤独の身でございます。ですから難しいことは仰られずに、共に戦えとだけ仰っていただけませぬか?」
 別の男がそれに答える。
「まさか、それはお前、この戦は独り身しか参加できぬ、などとぬかしているのではあるまいな?」
「当たり前ではないか! 妻子ある者を勝ち目のない戦に巻き込み、死なせたとあっては、後で春華様がその妻子に叱られるやも知れぬ。そんなことにも気付かぬのか、この大馬鹿者めが!」
「何いってやがる。春華様を見捨てて家に帰ったりしてみろ、それこそ俺が妻に絞め殺されるわ!」
「そのとおりだ!」
 また、別の男がそれに答える。
「独り身は嫁の怖さを知らんから、そんな無茶なことがいえるのだ!」
 そしてまた、別の男がそれに応じる。
「そのとおりだ!」
 広がりゆく声に慌てた春華は、右手を前にだし、大声を張りあげた。
「みな、少し落ち着かぬか! 冗談などいっている場合ではないのだ。独り身といえども友はおろうし、妻子ある者にいたっては、今後一体誰がその者たちの面倒をみるというのか! 少し考えればわかりそうなものであろうが!」
「春華様こそ落ち着いてくだせぇ。わしはずっと大真面目だ」
 最初に手をあげた男はそう語った。
「何いってやがる! 俺だって大真面目だ!」
 それに押されるようにして、声は先ほどよりも早くにどっと広がりをみせた。
 制したはずの春華の右手はいき場を失い、所在なさげにさ迷う。
「春華様、どうか戦えとのご命令を!」
 春華の右手がびくりと動く。
「春華様!」
「どうかご命令を!」
「春華様!」
 次々と湧きあがる声に春華は急いで顔を空に向けると、右手を目頭に当てた。赤い唇はわなわなと震えている。
「……私の部下は目端が効いてよく考える、賢き者ばかりだと思っていた。……だが、どうやらそれは私の見込み違いであったようだ。将の命令もろくに聞けぬ阿呆者ばかりだっ……た……と――」
 たまりかねた春華は、言葉を詰まらせてしまった。
「それは残念でございましたなあ、春華様。阿呆者というのはすぐに楽をしたがりますからな。なればこそ優れた将に群がるのも当然のことでございます。あなた様は若くして八駿などと大層なご身分になられてしまったお方です。ここはもういたし方なしとお諦めくだされ」
「この、阿呆者共が……」
 春華は上を向いたまま腕を下ろすと、そのままの姿勢で大きく息を吸い込んだ。それからおもむろに部下たちへと顔を戻した。
「……だが、よくわかった。私ももう二度と降伏など口にはせぬゆえ、お前たちも泣き言は許さぬぞ!」
 彼女の目は僅かばかりに充血はしていたが、優しさと鋭い光の宿る、いつもの桃華のそれであった。
「敵の狙いは先ほどいったとおり持久戦だ。そこで我らも敵と同じく隊を三つにわけ、持久戦の構えを取る。一隊は休息を行い、残りの二隊で城を守る。隊の休息時間は二つ刻≪四時間≫とする。但し、敵と我らとで大きく違う点は、相手は大兵、我らは寡兵ということである。敵は城を攻める軍を除いて残りの二軍はほぼ休息しているといっていい。それに対し我らは二隊が全力で戦い、休息できるのは一隊しかない。この差は、ときと共に必ず大きな差となってあらわれてくるであろう。だから、そこは気力で何とか補ってもらいたい。なお、我らの勝利条件は、味方の援軍が到着するまでこの城を守りぬくことだ。……もちろん、その保障はどこにもありはしない」
「なあに、心配には及びませぬ。味方がこないときは、敵兵を道連れにするまででございます」
 春華はゆっくりと兵を見まわした。この絶望的な状況にきてなお、誰一人として悲壮をみせる兵はいなかった。
「うむ。敵には礎国に攻め入ったこと、必ずや後悔させてくれようぞ!」
 春華の力強い声に、兵たちは一斉に拳を振りあげて呼応した。



*第三節

 桃花園。
 そこにある岩に座り春岳は、桓秀に事情を語っていた。
「最初に我が礎国がおかれている今の状況を説明したいと思います。まず敵の数ですが、北から攻めてくる眞軍が三万、靖軍が七万、そして東からの伍軍が二万になります」
「やけに少ないな……」
 桓秀は不審げな表情を春岳へと向けた。
「伍でございますか?」
「いや眞軍だ。残りの三万はどうした?」
「不意打ちとはいえ、我が軍を相手にしたのでございます。敵も無傷という訳にはいきますまい」
 桓秀の眉根が上へと僅かに動いたが、それ以上言及することはなく、「そうか」とつぶやいただけであった。
「では改めますと、北から攻めてくる敵の数は、眞軍が三万、靖軍が七万、そして東からの伍軍が二万になります。対する我が礎軍ですが、ここにいる兵の数が四万二千になります。後は北の要所となる五つの城に各二千ずつ、東の国境に四千となります」
 春岳は言葉を一旦区切って間をおくと、再び語りはじめた。
「当然、兵力差からいっても常道では敵に勝つことはできませぬ。ですから、我が軍は北に一万、東に三万を充てて、これに対処したいと考えております」
「なるほど。敵より多くの兵をもって、まずは数の少ない伍を叩くという訳か」
「左様でございます。その後、東の軍を北と合流させ城を守ります。ですが――」
「これには大きな問題が三つ存在する、という訳か」
「流石は桓秀様でございますな。一つは譚陽で内乱が起こった場合に、残り二千の兵で守りきれるかということ。二つ目は東の兵が到着するまでの間、一万の兵で北の城を守りきれるかということ。そして三つ目は――」
「そもそも二万とはいえ、あの精強な伍軍を短い間に破り、兵の数を減らさずに北と合流させることができるか、か」
「仰るとおりでございます。桓秀様にお聞きいただいたことで、自分の策がいかに浅はかなものであったかがよくわかりました」
「いや、そんなことはないさ。春岳が礎の人間でつくづくよかったと思うよ。それに三つともそんなに難しい話じゃないからね」
「おお、それは嬉しきお言葉でございます桓秀様。これで礎は救われます」
「やめて欲しい。なぜならこれから話す思案は国力を大きく損なう、下策の部類に入るものなのだから……」
「いえ、桓秀様の策であるならばそれでも一向に構いませぬ」
「あまり持ちあげないでくれないか? ……まあ、いいだろう。まず一つ目の内乱についてだが、それは民に守ってもらうことにする」
「民でございますか?」
「ああ、そうだ。まず、街を百の集落にわけ、その集落ごとに志願兵を募る。性別も齢も問わない。そして我が軍の残した二千の兵を二十名ずつにわけ、各集落の指揮をそれぞれの兵に行わさせる」
「しかし経験のない民にそのようなことをさせて、内乱を防げましょうか?」
「志願兵を募る目的は、あくまで彼らの街は彼ら自身で守るという意識を持たせるために行う。そうすることで不遜なことを考える者を少しでも減らそうという考えさ」
「民たちがそんなに都合よく志願しますでしょうか?」
「都合よく、とはいかないだろうね。だから通常の三倍の禄で志願兵を募る」
「それでは法外な報酬を彼らに与えることになり、国の秩序が乱れる恐れがあります。何より今戦っている兵たちに不満が残ることにはなりませぬか?」
「今は危急のとき。敗れれば秩序も何も残らないさ。それに今の兵たちには後でそれなりの褒章を与えれば不満もなかろう」
「確かに……。仰るとおりでございますな」
「ふむ。そして二つ目は北の五城の兵を使う。今配置している城の兵を全て綱紀城まで撤退させる。これで援軍に向かう兵が一万、北にある兵が一万、合わせて二万の兵になる。それだけあればひと月防ぐことも少しは楽になるのではあるまいか」
「確かに綱紀城は要害です。あの城であればそれも可能でありましょう。しかし思いきったことをなされますな。あの城が抜かれればもう要害はありませぬぞ」
「どこで守ろうが敗れればそれで終わりさ。ならば軍が最も集まりやすく、こちらに都合のいい場所の方がよかろう」
「――確かに。して、残る三つ目の思案は?」
「それについても問題はないと思う。なぜなら伍は元々、眞や靖とは思想を異にしている国だからね。その彼らが心の底から手を組んだとは到底思えない」
「本位ではない、ということでしょうか? しかしそうは申されましても、現に伍は眞や靖と手を組んでいるではありませぬか?」
「だから妙なのだ。それでふと思いいたったのが、最近伍で内乱が起こった、ということだ」
「確か……、伍では昨年に王がかわっておりますな」
「そうだ。恐らくその影響で財が困窮しているのだと思う」
「なるほど、やむえずの同盟ということでございますな。……ですがそれだけでは、敵が我らと本気でことを構えない、という証拠には不十分ではないかと」
「いや、証拠ならあるさ」
「本当でございますか?」
「ああ、それは敵の数さ。疲弊しているとはいえ、伍の国力を考えれば今の倍の数は軍をだせるはずだ。にもかかわらず、敵はそれをしていない。自らは傷つかず、漁夫の利をえようと企んでいるのは明らかであり、それが本気で伍が攻めてきていないといういい証拠にもなる」
「なるほど。そういうことであれば、伍を破り、ひと月で東から北にたどりつくのもそう難しくはありませぬな。流石桓秀様、お見事でございます。これで問題は全て解決したといっても過言ではございませぬ」
「いや……、三つ目の問題はまだ全て解決した訳じゃない」
「それはどういうことでございますか?」
「その前に春岳に尋ねたいのだが、伯費は信頼に足る人物であろうか?」
「失敗が多く、少々口の喧しい男ではございますが、彼が戦において嘘を付いたことを、私は今まで一度も見たことがありませぬ」
「そうか。春岳がそういうのであれば間違いなかろう。わかった。では最後の問題について話すとしようか――」


*第四節

「……お、おお! 流石は礎の名将春岳だ! これで伍は救われる!」
 春岳の策を聞き、礎の公子である桓昌は膝を叩いた。
 戌の刻≪午後八時頃≫になり、再び桓昌、伯費、崔淤期、春岳を含む主だった文武官の面々は、廟へと集まっていた。
「して、東と北の将の配置はどのようなものか?」
「はい。東は野戦となりますゆえ、その名手である伯費殿、それに安全を考えまして桓昌様が向かわれるのがよろしいかと考えます。残る私と崔淤期殿で北へ向かいます」
「よし、わかった。春岳よ、すぐに準備にかかってくれ。みなの者もそれでよいな?」
 桓昌の顔は危急の報が入ったときとは比べものにならないほどに、生気で満ち溢れていた。そんな彼の言葉に他の将たちも、異論を唱えることなく「はっ!」と短く応じたのであった。


*****

 冷えた石畳の上を桓昌と伯費は歩いていた。
 桓昌がおもむろに口を開いた。
「伯費よ春岳は伍の誇りであるな」
「左様で、ございますな……」
 伯費の詰まったようなものいいに、桓昌は戸惑いの表情を浮かべる。
「どうした伯費よ。何か気になることでもあるのか?」
「……はい。桓秀様のことでございます」
「桓秀がどうかしたのか?」
「実は……。廟にみなが集まる少し前に、私は春岳殿より内密で話を受けました」
「どんな?」
「はい。春岳殿が申しますには、今回の策を使いものになるよう考えたのは、桓秀様であると」
「これほどの策をあの愚公がか? 何を馬鹿なことを……」
「ですが、春岳ほどの男がこの危急のときに、嘘をつくとも到底思えませぬ」
「馬鹿馬鹿しい。伯費よ、よもやお前、その話を信じた訳ではあるまいな? 宮廷でのやつの今までの振る舞いをお前も見てきたのだろう? やつは自分の母が亡くなった後、いつも何かに怯えたような様子で、我らとまともにしゃべろうともしなかった。何よりやつの初陣を思いだしてもみよ。やつは戦の最中自分の旗色が悪くなった途端、敵地で兵をおき去りにして、一人で逃げだしているのだぞ。そのおかげで桓秀の軍は総崩れだ。もし後続の春華が機転を利かせて敵の横腹を突かなかったならば、我が軍は負けていた可能性すらあった」
「もちろん私も昨今まで信じてはおりませなんだ。……ですが、よくよく考えてみれば春華殿は、そのおかげであの、眞の猛将蒙隗を破り、多大なる武勲をおあげになっているのです」
「それがどうしたというのだ。春華がよき武人であっただけのことではないか。桓秀には何の関係もない」
「それは今だからこそ、申せるこではございませぬか? 春華殿は女人でございます。あのとき、我らの中に、彼女を今ほどに信頼していた者はおりましたでしょうか? いや、少なくとも私は信じてはおりませなんだ。先王にいたっては、この戦がはじまったときですら、そうでございました。だからこそ彼女には、戦にならぬであろう後続を守らせていたはず。よくお考えくだされ。春華殿が目を見張る活躍をはじめたのは、桓秀様が愚公と呼ばれるようになってからではございませぬか?」
「……だが、もし仮に桓秀のあの愚公ぶりがわざとだとするならば、なぜそのようなことを今さらになって、春岳は申すのか?」
「はい、そこなのでございます、桓昌様。なぜ、今さらに申すのか、ということでございます」
「――ま、まさか……!」
「はい、そのまさかでございます。王位への継承権のあった桓栄様、桓儀様がお亡くなりになった今、その継承権があるのは、桓昌様だけなのでございます」
「何を馬鹿な! 先日も春岳自らが申していたではないか! 次の王はわしだと!」
「どのような考えがあって、春岳殿が申されたのかはわかりませぬ。ですが、万が一を考えておく必要があるやも知れませぬ」
「愚公を……殺せ、ということか……」
「王位継承で国がもめるのは悪しきことでございます。自信をお持ちくだされ。どこの馬の骨とも知らぬ女人から生まれた、あの愚公などとは比べものにならぬほど、あなた様は高貴なお方なのでございます。そして私はいつでも桓昌様の味方でございますれば」
「そうだな……、そうであったな……。伯費よ、いつもすまぬな……」
「今日は色々とお疲れでございましょう。明日には大事も控えておりますゆえ、今宵はゆっくりとお休みくだされ」

 去りゆく桓昌の後ろ姿を眺めながめながら伯費は思う。
 なんと気の小さき男であろうか。
 あれが小さかったこの国を、ここまでの大国に押しあげ、覇者に最も近いと噂されたあの桓秦様のお子なのか……。亡き王は非の打ちどころのない名君であらせられたが、たった一つだけ悪点があったとするならば、それはよきお子に恵まれなかったということか。――いや、こればかりは運も大いにあろうから、いっても詮のないことだな……。それにしても恐るべきはあの愚公であろう。やつが智者であることだけは確かなようだ。これは早々に策を練らねばならぬな……。
「伯費殿」
 それは小さな声であった。
 伯費は自分のつぶやきを聞かれたのではないかと思い、背筋の凍るような感覚に襲われた。それでも彼は表面上は落ち着きを保ったままで、声の主へと振り返った。
 そこには彼のよく知る顔があったが、伯費が胸をなで下ろす理由にはむろんならない。だから彼は警戒は解かぬまま、その者へと語りかけたのだった。
「……いや、これは崔淤期殿。こんな夜分にどうなされたのかな?」
「つい今し方、伯費殿をお見かけしたものですから、お声をかけさせていただきました。戦の前に少し話をしたいと思いまして」
「ほう、それは一体何かな?」
「はい、これはご相談、というよりはご提案なのでございますが……。率直に申しあげて伍と戦わないでいただきたいと思っているのでございます」
 そう語る崔淤期の言葉には、多分な毒気が含まれている、と伯費は思った。
「ほう、これはまた異なことを。国が危うきこのときに、戦うな、とは一体どういったご了見かな?」
「伯費殿の方こそお戯れを……。いやしかし、私の方がそれ以上に少々まわりくどいいい方をしたかも知れませぬな……。はっきりと申しましょう。眞と靖に力をお貸しいただけませぬか?」
「眞と靖に……? ――崔淤期殿は私に寝返れと申されるのか?」
「寝返れとはまた恐れ多い。伯費殿にこの国を攻めていただきたいとお願いしている訳ではございませぬ。ただ伍と戦わないでいただければ、それでよろしいのでございます。それだけであれば伯費殿は誰にとがめられることもありますまい」
「伍と戦わず、礎が滅ぶまでときを稼げということか……?」
「左様でございます。もちろんただとは申しません。この戦が終わった暁にはそれ相応の職を差しあげます」
「いや……しかし……。私はお亡くなりになられた桓秦様の代より、ずっとこの国で禄をいただいてきた身。今さらそのご恩を仇で返すような真似はできかねるが……」
「何を仰います。あなた様のお慕いする桓秦様はもうこの世にはおりませぬ。それに今までの伯費殿のご武功を考えれば、ご恩はもう十分にお返しされているはずです。よくお考えくだされ。あのような凡人の公子などを補佐し続けたところで、なんの得がありましょうか? 今後この衰えゆく国から不幸こそいただくことはあれど、伯費殿の忠誠心にみあった報いなど、決していただくことは叶いますまい」
「桓昌様は確かに奸智に長けたお方ではない……。だが、だからこそ……あの方は王に相応しいのだ……」
「いいえ、悪いことはいいませぬ、どうか私に力をお貸しくだされ。私がこのような危険を冒してまでお伝えしているのは、伯費殿なればこそ、なのでございますぞ」
「いや……、やはりこのような場所では決めかねる大事だな……」
「ですが、伯費殿! このままではあなた様は、礎もろともに滅びの道を歩むだけになりますぞ!」
「し……っ! 声が大きいですぞ崔淤期殿」
 伯費は自分の口に指を当ててそう答えると、そっと崔淤期の耳元に顔を近づけた。
「何もまだ礎と共に滅びたいといった訳ではござらぬ。ただ、誰が聞いているかもわからぬこのような場所では、答えられぬと申しているのだ」
「それはどういうことでございますか?」
「明日、崔淤期殿の家へ伺おう。仔細はそのときに」
「おお、では!」
「それよりも、わしの職、本当に約束してくれるのだろうな?」
「むろんでございます。眞でも靖でもお好きな方を」
「……承知した。では、この件についてはまた明日ということで」
「かしこまりました」
 そう答えると崔淤期は、伯費に向かって深々と頭を下げた。

 崔淤期と別れた後も伯費は、廊下に残り、夜に浮かぶ月を眺めていた。
「ふふ、これは願ってもないことだな。わしは伍と戦をするつもりはないし、もちろんこのまま滅ぶつもりもない。崔淤期は実によいときに、よい話を持ちかけてくれたものだ。明日は是が非でも話をまとめたいものだな……」
 そう語った伯費の頬骨のあたりは、はっきりとわかるほどに赤みを帯びていた。むろんそれは高揚のためである。
「見ておれよ春岳め! いつもわしのことを大口だけの将だなどとぬかしおってからに。目にものみせてくれようぞ……」
 伯費は不敵な笑みを浮かべた。


*****

 一方、伯費との会話を終えた崔淤期は、自宅へと戻り椅子に座っていた。
「春岳のおかげで俺の策が水の泡になりかけたが、これで何とかことが運びそうだ」
「崔淤期様、一言よろしいでしょうか?」
 先刻、崔淤期にいわれたとおり、凌菲の服装は布切れ一枚のぼろ服である。所々に虫が喰ったような穴が開いていて、僅かにかびも浮いている。腹部も蹴られたところにあざができていて、そこが今でも鈍くうずいていた。
 そんな状態にもかかわらず凌菲は、崔淤期を心配して問うたのであった。
「何だ? 何がいいたい?」
「はい、崔淤期様は春岳様と北の要所である綱紀城へと向かい、そこで機を見て城門を開け放たれるおつもりなのでございましょう?」
「そうだ、それがどうしたというのだ?」
「先刻、崔淤期様は仰いました。公子、桓秀様が恐ろしいと」
「ああ、いったさ。その気持ちに今もかわりはない。現にあれほど口の重かった春岳が、僅か数刻の間に諸事への対応を見事に語ったのだからな。これも全てはやつの智恵のなせるところだろう」
「問題はそこなのでございます、崔淤期様」
「だから何がいいたいのだ凌菲よ。まわりくどいいい方は必要ない。はっきりいえ」
「はい。率直に申しあげまして、桓秀様がそれほどお智恵のまわるお方だというのであれば、崔淤期様の裏切りも計算に入れているのではないかと」
「ああ、そんなことか。ならば問題ない。なぜならやつは当然俺の裏切りなど予測しているはずだろうからな」
「それは……、どういうことでございましょうか?」
「簡単な話だ。桓秀が俺の行動を予測しているというならば、さらにその裏をかけばいいといっているのだ。俺は伯費など信頼していないし、綱紀城の門を開け放つ予定に変更もありはしない」
「す、少しお待ちください……。伯費殿を信頼していないとはどういうことでございましょうか? お味方にするおつもりで、本意を打ち明けられたのでは……?」
「味方? それは少し違うな。俺は別に伯費が味方になろうがなるまいがどちらでも構わないと思っている。伯費が味方であればそれはそれでよいし、もし敵ならば俺の裏切りについて今頃せっせと報告してくれていることであろう。ここで重要なのは、俺が馬鹿正直に裏切るぞと告げたことだ」
「では、崔淤期様はご自分が騙されている、と相手に思い込ませるためだけにわざと……」
「そういうことだ凌菲よ。だからお前にも、俺のこの策を完遂させるため、人肌脱いでもらわねばならぬことがある」
「はい、それは何でございましょうか?」
「何、いたって簡単なことだ。お前は今からここを立ち、後に向かう礎軍よりも先に眞と靖の王に合い、こう伝えてくれ。――綱紀城はすでに空いております、とな」
「それだけでよろしいのでございましょうか……?」
「ああ、構わない。靖王はともかく、眞王は相当に頭がきれる男だからな」
「承知しました。では、私は早速報に向かいたいと思います」
「そうだな。そうしてくれ」
 凌菲は一つ頷いてそれに応じると、崔淤期に背を向け扉へと向かった。
 そんな腹心の姿を眺めやりながら、崔淤期はまったく別のことを考えていた。
 だから彼女が扉の外へと消えると、こうつぶやいた。
「もう少し……。もう少しで俺は……、お前の仇を討てそうだ。だから今しばらくの間、俺を見守っていてくれ……、明生君、いや瑞燕よ……」
 と。


*第五節

 冬を越えたとはいえ、春になりたての夜はまだまだ肌寒い。
 そんな中、馬小屋に一人の少年がいた。
 月明かりを頼りに、馬小屋の中をせわしなく動くその少年の気配を感じ、馬がいななきの声をあげた。
「しー。静かにせんか!」
 もちろんそんな少年の声に馬が耳を傾ける訳もなく、いななきはさらに大きなものへとかわる。
「こ、こら! そんなに騒ぐとまわりに聞こえるではないか!」
「何が聞こえるのでございますかな、桓秀様」
 怪しげな少年、もとい桓秀はびくりと肩をすくめると、声の方へと振り返った。
「何だ春岳か……。夜分にこのようなところへ何の用だ?」
「それはこちらがお聞きしとうございますな。こんな夜遅くに何をなさっておいでなのですかな?」
「見てわからぬのか……?」
「わからぬから、聞いているのでございます」
 この間桓秀は、春岳の足元を見ていた。つまりは視線をそらしたままである。
「戦を前にして興奮で眠れなくなってな。少し馬で走ってこようと思ったまでだ」
「甲冑を身に付けてでございますか?」
「今は敵も近づいていて危険だからな。どこに間者がいるやも知れぬし、用心に越したことはない」
「では私がお供いたしましょう」
「よい。春岳はもう歳だ。夜風は老骨には悪かろうて」
「ご心配には及びませぬ。こう見えても私は夜には滅法強うございましてな。夜分の方が武功が多いくらいでございます」
「いや、それは大きな間違いだ。春岳の歳くらいになると体は悲鳴をあげているというのに、いつまでも自分は元気だと思い込んでいるせいで、それに気付かぬそうだ。だから老人は大人しく寝ておれ。戦のときに倒れられでもしたら敵わんからな」
 そう語る若き公子に春岳は、大きくため息を吐きだした。
「……桓秀様、ようもそれだけすらすらと嘘がでてきますな。本当は春華の元に向かうおつもりなのでございましょう」
「わかっているなら、下らぬ質問をするな!」
 たまらず桓秀は声を荒げてしまった。
 が、それに対して春岳は。
「はて、桓秀様、とぼけた者が悪いのでございましょうか? それとも嘘をついていた者が悪いのでございましょうか?」
 と穏やかに言葉を返した。
 桓秀はぎろりと春岳を睨み据える。
「ならばいわせてもらうが、貴様、春華が危険な目にあっていることを、私に黙っていたであろうが!」
「こうなることがわかっておりましたからな」
「よくもぬけぬけと……。貴様はそれでも人の親か!」
 そんな桓秀の罵声に春岳は微塵も動じることなく、首をゆっくりと横に振った。
「桓秀様、私は民でございます。しかしただの民ではございませぬ。民を守る民なのでございます。その私がまず行わなければならなぬこと。それは国事にございます。そして王とそのご子息は、その象徴なのでございます。それを我が娘とはいえ、たかだか一人の女子のために、それを誤ることなど私には決してできませぬ」
 そう語る春岳の目は力強く、そしてどこか悲しくも見える。数多の戦を生き延びてきた者だけが持つことを許される、そんな顔であった。
 そしてそのような顔を向けられた桓秀が、怒気を保ち続けられるはずもなく、
「少しいい過ぎた……。ゆるせ春岳」
「いえ、こちらこそ臣の身でありながら過分なことを申しました。ですが、これもまた臣の務めなれば。おわかりいただけたこと大変嬉しゅうございます」
「ああ、そうだな。春岳が我が国を思う、誠の忠臣であるということがよくわかった。私はお主のような臣を持てたこと、誇りに思う。それでこそ後顧の憂いなく、お主に全てを託せるというものだ。春岳よ、後のことは頼んだぞ」
 そういうと桓秀は、馬の手綱へと手をかけ、さっさと馬上してしまった。
 その頑なな公子の姿に春岳は、諦めたように言葉を吐きだす。
「やはり、どうしてもいかれるのでございすな」
「うむ。私は愚公であるからな」
「ではいたし方ありませぬな……。藺相覇!」
 どこにいたのか、春岳の声に合わせ暗闇からすうっと男が姿をあらわした。
 髪は無造作に乱れているが嫌味がなく、月明かりに照らされた若く凛々しき顔に、それがよく似合っていた。
「桓秀様。この者をお供へお連れくだされ。多少調子者ではありますが、腕と度胸は確かでございますゆえ」
「いらぬ。邪魔だ」
 にべもなく断られた藺相覇は肩をすくめると、苦笑を春岳へと向けた。
 そんな彼らの様子に春岳も思わず苦笑を浮かべた。もちろん彼は藺相覇を見て笑った訳ではない。桓秀の心の内を察したから嬉しくて笑ったのである。
「桓秀様。藺相覇を共につけるのは、別に死への旅をさせるためではございませぬ。僅かではございますが、この者の兵を共に付けるためでございます」
「我が国は逼迫しているのだ。これ以上融通の効く兵がいる訳がなかろう」
「それがいるのでございます、桓秀様。詳しくは旅中でこの者にお聴きくだされ」
「なんなりとお聴きくだされ」
 春岳の声に合わせるように、藺相覇は仰々しく胸に手を当て頭を垂れた。どこか人を喰ったような態度ではあるのだが、桓秀にはなぜか嫌味には見えなかった。
「何もかもお見通しという訳か……」
「残念なことに、こうなることは最初からわかっておりましたからな」
「そうか。やはりお主はよき臣だ。先ほどは詮ないことをいってしまった、許せ。そして私に彼を預けてくれること、感謝する」
「いえ、国の宝を危地に向かわせる臣はやはり悪臣にございます。それに感謝するのは私の方でございます。一人の父親として、我が不肖の娘を、どうかお頼み申しあげます」
 桓秀はその言葉に大きく頷くと、にこりと笑った。
「春華はよき父に恵まれたな」

 春岳は小さくなるまで桓秀の背を見つめていた。
「春華はよき父に恵まれたのではありません。よき主に恵まれたのです」
 歴戦の老将は誰に聞かせるでもなく、一人そうつぶやいた。

 この翌日、桓昌と伯費は東へ。春岳、崔淤期は北へと出発した。


*第六節

「さ、三万だと! 見間違いではないのか!」
「いえ、確かでございます、桓昌と伯費率いる三万の礎軍が、こちらに向かって進行しております」
 礎の東の国境に伍軍を進めていた士庶は、その再度の報告に、舌打ちせずにはいられなかった。
「李朱様、これはまずいことになりました。まさかこの東側にこれほどの大軍を送り込んでくるとは……。我らは敵の戦力を侮っていたのやも知れませぬ。ここは一度本国に撤退すべきが上策と思われます」
 そう口早に語る士庶に対して李朱は、慌てることなくゆっくりと首を横に振った。
「士庶よ、何をそんなに慌てているのか? 我が軍は二万とはいえ、軍は精強で指揮も高い。それとも何か? お主は伯費と比べて見劣りする将だとでもいっているのか?」
「いえ、李朱様、決してそのようなことはございませぬ。確かに伯費は、かの有名な礎の八駿が一人ではございますが、お歳をめされた過去の人物です。そのような老将に勝ることはあっても、劣るなどいうことは、決してございませぬ」
「では、迷うことなく存分に戦おうではないか士庶よ。こんな状況でこれほどの好機、望んでも滅多にやってはこぬだろうから」
「好機……、でございますか?」
「ふむ。私は今回のような敵の弱みに付け込む策は、はじめから本位ではなかった。もちろん祖国でまつ百万の民のため、気分が乗らぬまでもこの心、鬼にかえてでも戦うつもりではいた。それが蓋を開けてみればどうだ? 敵はそんな我らに弱みをみせるどころか、三万もの軍勢を送ってきたのだ。これで誰に気兼ねすることもなく、正々堂々と戦うことができるというものではないか」
 そう語る李朱の姿には、少女とは思えぬほどの堂々たる威風があった。
 士庶は打ち震える心に身をゆだねながら、目をまっすぐに王へと向けた。
「そのとおりでございます李朱様。これぞまさしく好機でございます」
 ――このお方は少女の皮を被った麒麟児だ。
 そのことがたまらなく嬉しくて、士庶の胸の高鳴りは増すばかりであった。
 と、そこへ新たな報が。
「李朱様、礎兵が一騎、こちらに向かっているとの情報が」
 李朱の前へとあらわれた兵は、そう告げた。
「戦の前の挨拶といったところか……」
「捕らえますか?」
 士庶は李朱の心中を確かめるべくそう尋ねた。
 むろん、返ってきた答えは最高のものであった。
「いや、よい。丁重に迎えよ。これから滅びゆく礎国の使者だ。その者が語る前口上なのだから、じっくりと聞いてやらねば哀れであろう。それが強者の勤めというものだ」
「我らはあくまで正々堂々と、ということでございますな」
「そうだ。正々堂々と、だ」
 その王の言葉を聞きながら、士庶は思った。
 昨年は前王が逝き、伍は大いに乱れた。そしてこの少女は王の一人娘であるにもかかわらず、その身に鎧をまとい、剣を手にして内乱を戦った。全ては民のために――。
 ――だから私も全力で戦おう。この王のために。


*第七節

 一方眞、靖の両軍は、内に秘めたる思いは別にして、表面上の温度差だけは維持したまま、礎の譚陽を目指し軍を進めていた。
「……妙でございますな。どの城にも礎兵が見あたりませぬ」
 靖王扶佐は、靖軍の将の一人である泉超≪せんちょう≫に向かって語った。今回の靖軍において、唯一まともな考えを持った人物。それが泉超である。
「確かに妙でございますな。てっきりここらあたりで戦がはじまるとばかり思っておりましたのに……。どの城も全て、もぬけの殻。それも要所といえる城も含めて……」
「まあ、よいではないか。敵がいないのであれば結構。この調子で行けば予定よりも早くに礎を奪えるというものだ」
 呂券は二人の会話に割って入ると、欲望むきだしの笑みを浮かべた。
 ――予定より早くだと? 何を馬鹿なことをいっているのだこの男は。ここに敵がいないということは、兵を分散させるという愚を避け、別の場所で待ち構えている可能性があるということではないか。もしそうであれば、こちらもことを運ぶのが容易ではなくなるというのに。この無能者めが……。
 扶佐がそんな歯がゆい胸中でいるのを察してか知らずか、となりにいた泉超が、呂券へと話しかける。
「しかし、ここまで敵がおりませぬと、どこかで待ち伏せしている可能性もございます。それにあの男からの連絡が少々遅いのも気になります」
「ふん。どうせ、ここにきて、臆病風にでもふかれたのであろう」
 靖軍のもう一人の将、単度≪たんど≫が、泉超の懸念を小馬鹿にするようにいった。彼は典型的な体力任せの将であり、それに付随するかのように、態度や言動にもしばしば配慮に欠ける人物であった。
 そんな男であるのだから、泉超としても単度に好意など持てようはずがない。が、それでも彼は良識者らしく、なんとか体裁だけは保ちつつに答える。
「そうは申されるが、単度殿。彼も礎では名の知られた男です。まさかここにきてそのようなことはいたしますまい。何か事情があってのことだと私には思われます」
「ふん。どうだか……」
 靖の誇る智の泉超、武の単度。彼らは犬猿の仲といっていい。そんな二人をなだめるようにして、呂券が口を開く。
「まあ、二人とも落ち着けい。別にどちらでも構わぬではないか。やつがここにこようがこまいが、我らは真っ直ぐに礎を蹂躙することだけを考えておればよいのだからな」
「おお! 流石は呂券様! 立派なご決意でございます」
 靖王の言葉に勢いよく単度は呼応し、そんな彼を見て泉超は、瞬きほどの間に侮蔑の表情をみせた。
 靖王たちは気づいてはいなかったが、扶佐はそれを見逃さなかった。
 ――やはりこの国で話が通じそうなのはこの男だけか。そして今後注意せねばならぬ男でもあるな。
 そんな扶佐の思案を中断するかのようにして、一人の兵が呂券の前へとあらわれた。
「申しあげます。凌菲と名乗る女が、靖王に面会を求めて参っております」
「凌菲? だれだそれは?」
「崔淤期の使いの者と申しております」
「そうか。ならば会わぬ訳にもいくまい。すぐにその使者をここに連れてまいれ」
「はっ」
 兵は声をあげると、すぐさま踵を返した。
「ふふ、単度よ。お主の読みは外れたな」
「はい。まったくもって残念にございます」
「まあ、許してやろうではないか。やつも必死なのであろう。それよりも崔淤期ほどの男が、まさか我が軍と通じていようとは、敵は夢にも思っておらぬであろうな。ほんに面白いことだ。これこそまさに靖の威信というものだな」
 ――何が靖の威信だ。崔淤期を招き入れたのはこの俺。そして桓秦を罠にかけたのも、伍を味方につけたのも、全てはこの俺だ。貴様らはその有難味もわからぬまま、だされた材料をただ食らっているだけではないか。
 扶佐はあまりの靖王の無知なる発言に、憤りを覚えずにはいられなかった。が、彼はすぐにそれを沈めるべくゆっくりと首を横に振った。
 ――まあ、いい。本気で俺が恐ろしかったのは礎のみだ。その国さえ滅んでしまえば、あとは俺の好き勝手にさせてもらうさ。靖など泉超と単度を上手く利用すれば簡単に落とすことができる。今のうちにせいぜい笑っているがいいさ。
 一見不健康そうにも見える体つきの扶佐ではあったが、彼の目だけはいかなるものをもきり裂くような、そんな鋭い眼光を放ち続けるのであった。


■第三章

*第一節

 南の大国礎。
 そこから軍を持って攻めるには、三本のうち、いずれかの道を通らねばならない。
 一つは礎と伍を結ぶ東の道。
 一つは眞、靖と礎を結ぶ北の道。
 そして残りの一つは眞と礎を結ぶ北西の道である。
 しかし北西の道については、他の二つの道とは異なり、軍事的に用いられることはまずない。この道を通るには大きな山を越えねばならず、道幅も他の二つに比べれば相当に狭いためである。
 そして今、その険しい北西の道を、桓秀と藺相覇は越えていた。
「藺相覇よ、まだかかりそうか……?」
「ええ、そうですね。後、四つ刻≪八時間≫ほどはかかりそうです」
「そうか。随分とかかるのだな……」
 そわそわと落ち着かぬ様子の桓秀を見て、藺相覇は笑みをこぼした。
「焦るお気持ちはありましょうが、少し落ち着かれてはいかがですか? 先日、あれほどの智者ぶりをご披露された賢公にはとても見えませぬ」
「それは私が愚公だからだよ。それに策などいくら立てようとも、ならなければただの戯言と大差ない」
「そこまでお分かりになられているのであれば、やはり愚公とはいえませぬ」
「いや、私は愚公さ。結局のところ父上や兄上たちを救えなかったのだからな」
「それは桓秀様がいつも軍事の外に追いやられていたからに過ぎません」
「それを選んだのは他でもないこの私だ。肝心で誰も救えぬ愚か者さ」
「……桓秀様。もう、それ以上申されますな。現にこうして私はあなた様に救われております。命だけではなく、心さえも。そしてこれからも、あなた様は多くの者を救うでしょう。私はそう信じております」
「ん? 私はお主を助けた覚えなどないが……?」
「私は昔、扇揚せんようの街で奴隷でした」
「――まさか……。お主は扇揚の乱の生き残りか!?」
「左様にございます。桓秀様」
「そうか、無事な者がいたのか……。そうか……。よかった。本当によかった……」
 桓秀はそうつぶやいたきり黙ったまま、前方の曲がりくねった道を、ただじっと見つめていた。


*****

 扇揚の乱。
 それは桓秀が愚公と呼ばれる原因となった乱のことを指す。
 扇揚は礎の北西に存在していた中庸の街である。
 この街は特にこれといった産業がなく、農作物もほとんど育たない土地であった。
 加えて敵対関係にある北の眞国と南北に隣接していたため、小競り合いや戦のたえない場所でもあった。
 そんな状況であるのだから、この地での自立した生産などはほとんど望めない。兵糧、武器、兵馬の費用から、街で暮らす人々の食料にいたるまでのそのほとんどを、中央がまかなっていた、といっていいだろう。
 当然それは礎国にとっても軽くはない負担となっていた。
 ならばこの街自体を礎国からきり離してしまうのも、一つの手ではある。だが扇揚は、眞国との防衛線ともいえる重要拠点のひとつであり、安易にそれができなかった。
 かといってこのまま放置すれば、いずれ国庫に破綻をきたす危険性も十分に備えていたのだから、当時の礎王であった桓秦も、これには相当頭を悩ませていた。
 そこで、この扇揚の問題を解決すべくに白羽の矢が立ったのが、四年前の当時、一を知り、十を知る神童と噂されていた、桓秀その人であった。
 今まで彼は公の場で政≪まつりごと≫を行った経験は一度もなく、成人の年齢である十五をかなり下まわっていたのだから、この人事は相当に異例なものであった。
 むろん桓秀が並外れて有能である、との噂が、各所で流れていたことがその理由の最たるものではあるのだが、彼が選ばれたのにはもう少し複雑な事情があって、それも少なからず関係していたといってよかった。
 その事情というのが、王の夫人でる明生君、つまり桓秀の母にあった。
 礎王の夫人になれる者は、素性が確かで高貴な者か、裕福な家の者と相場は決まっている。そして明生君はどうか、と問われれば、その身分は平民で、しかも毎日の暮らしにさえこと欠くほどの、貧しい家の生まれであるといわざる終えない。
 にもかかわらず彼女は、礎王の夫人として、しかも妾ではなくあろうことか正夫人として、後宮へと迎え入れられた。
 それはすなわち、素性の知れぬ身でありながらも明生君は、次の礎王となるべき子を産む権利を手に入れてしまったことを意味する。
 王はなぜ、素性も知れぬような平民に、そこまで肩入れをするのか?
 そんな疑問の声が、我が子をすでに持つ他の夫人たちからでたことはいうまでもなく、当然、後宮入りした明生君の暮らしが平穏無事ですむはずもなかった。快く思わない夫人たちから、彼女は常に憎悪と嫉妬を向けられ続けたのである。
 それでも明生君は、結果として数年後に桓秀を生み、その六年後に病にて他界するまでの間、正夫人として後宮での生活を送ったのであるから、それなりに幸せであったのではなかろうか。
 少なくとも一部の者たちからすれば、彼女が死んでもなお、その子である桓秀が王太子に最も近い場所に居続けていた訳であるから、そう見えていたとしてもおかしくはないだろう。
 そしてそんな人間が例にもれずに思いいたること。それは桓秀が公の場で派手な失態を晒すよう、仕向けることである。そういうどろりとした醜い一面も、この人事には含まれていた。
 まあ、実情はともかくとしても、桓秀が大抜擢を受けたことにかわりはなく、彼は当時まだ無名であった春華を補佐役として迎え入れると、彼女と共に扇揚の地へとおもむいたのであった。
 そして扇揚の地に到着して、桓秀がまず最初に行ったこと。それは扇揚の街を、見聞きしながらまわることであった。それは次の日も、また次の日も。政には一切手を付けず、ただひたすらに彼は街を見てまわった。
 瞬く間に三日が過ぎて、四日目の朝。
 突然桓秀は、城に扇揚の主だった官職者たちを集めると、こう告げた。
「官とは民と国を守るのが役目であり、それが官の全てである。にもかかわらず、この地の民はみな貧困に喘いでいた。これはひとえに官としての役目が、正しく行われていないことのあらわれである」
 原因は官にあり。
 それが彼の結論であった。
 さらに桓秀はいう。
「よってみなにはひと月分の財だけを残し、他は全て徴収の対象とする。徴収の期限は今日の日没までとする。なお、命に背く者、不穏だと思われる者には武力を持って報いさせてもらう。みな、そのつもりでいてくれ」
 自らの代償は自らで支払え、と桓秀は彼らに告げたのである。
 これはこの街の有力者に対する事実上の宣戦布告といってよかった。
 一触即発さえ孕んだ言葉。
 が、意外にも有力者のほとんどは、日没と定められた期限の間にこれといった大きな抵抗もみせないまま、財を桓秀へと差しだしたのであった。
 もちろんそれは彼らが改心しての行動、のはずがなく、
 ――こんな孺子≪じゅし=こぞう≫などいくらでも騙せるし、渡した財もいつでも取り戻せる。
 と、暗に桓秀を舐めていたからに過ぎなかった。
 とはいえ、それは単に彼らの勝手な憶測であって、桓秀がそれを甘受する道理はどこにもない。結果として彼らのこの行為は、後日、完全に裏目にでることとなる。
 そして財をえた桓秀が行ったことは、次のようなものであった。
 まず桓秀は、徴収した金で街の人々を兵として登用した。やる気さえあれば貧しさや身分に関係なく、破格の給金で雇ったのである。そのあまりの破格ぶりに、中には高官の私兵さえ、彼の元へと集まる者があらわれるほどであった。
 次に彼はこの街の現状を憂う一部のまっとうな官職者たちに声をかけてまわった。誰が敵で、誰が味方であるか。それはこの時点で桓秀には当然察しがついていた。
 そう、彼がここにきて最初に行ったこと。
 政を一切行わずに街を見聞きしてまわったその三日間こそが、全てはこのときのためであった。
 彼が政務を行わないことに対して、恐れることなく讒言を呈してくれた者。
 この街の現状を切実に訴えてくれた者。
 そんな人物たちを味方につけるべく、彼は見聞きしてまわったのである。
 まさに神童というべきであろうか。
 こうして手に入れた私兵を彼はすぐに城外問わずの要所へと配し、警備を行わせた。そうすることで有力者たちに監視と牽制、それから重圧を送ったのである。
 このとき、警備の実際の指揮を取ったのが、桓秀の補佐役の春華であった。そして彼女のその指揮ぶりもまた、見事なものといえた。
 春華は時間、場所、場合、人心の状況にいたるまで、その全てを完璧なまでに把握し、適材適所に人員を配した。そのため、人どころかねずみ一匹でさえ、ろくにうろつくことができぬほど、警備は厳重なものとなっていた。
 桓秀と春華のこの行動は驚くほどに迅速で、財を手に入れてから警備にいたるまで、それは僅か三日のできごとであった。
 桓秀らのこの迅速な行動と徹底ぶりに、有力者たちは当然のようにして驚いた。
 だから彼らは、兵も財もろくに整わぬまま炙りだされるようにして、急遽反旗を翻さざる終えなかったのである。
 むろんそれは桓秀の予想の範囲内のことであったし、そもそも私服を肥やすことばかりを考えていたような連中に、警備を任された春華が遅れを取る訳もなく、反乱は瞬く間に鎮圧されていった。
 彼らの敗因の全ては、期限を日没、と定められたその日に反旗を翻さなかったことであり、振り返ってみればこの命令もまた、桓秀の妙手であったといえるだろう。
 ともあれ、こうして財源の確保と不穏分子の一掃をなした桓秀は、本格的な改革へとのりだしていった。
 まず彼が最初に手を付けた改革は、その金で扇揚の貧しい者たちを雇い入れ、彼らに道路の舗装と荒地の開墾を行わせることであった。
 貧しい人々に仕事を与えること。そして街を立て直すこと。この二つの問題を桓秀は、一挙に解決してしまったのである。
 むろん彼の改革はこれだけには留まらなかった。
 次に桓秀が行ったことは、人とものの流れをよくすることであった。
 彼は高過ぎる税の引き下げと、関所の通行料の廃止を行った。その上で行商人たちに声をかけ、扇揚への移住を条件に、無償で商売許可証の割符と土地の提供を約束することで、街に多くの人とものが流れる仕組みを作ったのである。
 この他にも彼は様々な改革を行っていき、一年が経過する頃には、街に住む人々の生活は徐々に安定をみせはじめ、人口もゆるやかに増加の一途を辿っていった。


*****

 気付けば藺相覇と桓秀は、道中の終わり近くまで馬を進めていた。
 まわりは木々に囲まれた細道である。
 ――当時は自分の身の上がどうなるかで精一杯であったが、今にして思えばあの頃からこの公子様は、その才をいかんなく発揮されていたのだな……。
 昔のできごとに思いをはせながら藺相覇は、そう心の中でつぶやいた。
 と、そのとき。
 あたりの木々がざわざわと揺れた。
 藺相覇は桓秀へと馬を寄せると、そっと耳打ちする。
「桓秀様。どうやらあたりに我らを狙う者が潜んでいるようでございます」
「狙う者? いったい誰であろうか?」
「流石にそれはわかりかねます。ですが殺気は間違いなくこちらを向いております」
「そうか、では逃げた方がよさそうだな」
「いえ、それには及びませぬ。そうですね……」
 藺相覇は、道の右にある木に視線を這わせた。
「桓秀様は私が合図したら、あちらの木の陰に身を隠していてください。あそこなら安全です」
「わかった」
 藺相覇は敵に悟られぬよう懐に手を忍ばせると、そっと短剣を抜き取った。
「今です、桓秀様!」
 藺相覇はそう声をあげるなり、道の左側の木と木の間めがけ、短剣を放った。
 間髪いれず藺相覇は敵のいる左へ、桓秀は右へと馬を走らせた。
 剣の交わうような金属の音が、数度あたりに鳴り響き、ついで幾人かの男の呻き声があがった。
 しばらくして。
「桓秀様、もうこちらへいらしても大丈夫です」
 藺相覇の声が聞こえた。
 桓秀は潜んでいた木陰から身をだすと、声のした方へと向かった。
 腰まである草を掻きわけていくと、そこには藺相覇が立っていて、そのまわりを囲むように六人の男たちが横たわっていた。
 桓秀はひとつの亡骸へと歩み寄ると、身をかがめた。
 遺体の身に付けているものはどこにでも売られているような、安い布でできた服であった。
「服装を見る限り、賊のようではあるが……。全員殺めたのか?」
「申し訳ありません……。予想を遥かに超えて手練でしたので、捕らえることが叶いませんでした」
 ほんの少しの間、桓秀は思考をめぐらせる様子をみせると、おもむろに立ちあがって藺相覇へと体を向けた。
「いや、藺相覇が無事だったのならそれでいい。それに大体敵の素性も知れたからな」
「え? もうわかったのでございますか?」
「大したことじゃない。。話はいたって単純だ。私が今ここにいるということを知っているのは、藺相覇、春岳の二人だけのはずだからな」
「――大変申しあげにくいことではございますが、常人と桓秀様のお考えになることが、一緒だとは思わないでいただけると、まあ、ありがたいのですが……」
「そうか……、いや、これはすまぬ。ではもう少し詳しくいおう。藺相覇、春岳しか知らないこの場所を、なぜこやつらが知っていたかということになる」
「それは彼らが賊の類で、そもそも我らを知っている必要はなく、出会ったこと自体がただの偶然ということではありませんか?」
「それはないだろうね」
「と、いいますと?」
「それは先ほど藺相覇が教えてくれたではないか」
「私が……、でございますか?」
「そうだ。先ほど自分で彼らは手練だといったじゃないか」
「はあ……?」
「では逆にこちらが尋ねるが、昨今の賊というのは、お主に実力を見誤まらせるほどの殺気を放ったり、加減できぬほどに強いやつらばかりなのか?」
「いえ、お言葉を返すようですが、私は賊などに遅れを取ることは決してありません。彼らは明らかに何かの訓練を受け、――なるほど……。そういうことですか」
「まあ、そういうことだ」
「しかし、まだ腑に落ちませぬ。桓秀様はなぜ、私と春岳様しか知らぬことが妙だ、と仰ったのでございましょうか? 桓秀様の用人の者ならば、桓秀様がお住まいにいないことくらい、すぐに知れましょう」
「ふむ、確かに用人に知れることはあるだろうな。だけどそれを知るにはいくらかのときが必要だし、それからことを起こすにしても、それにもときが必要だと思う。にしては、もう我らに追いついているのは、あまりにも不自然だとは思わないか?」
「……ああ、何となく私にもわかってまいりました。彼らは常に桓秀様を監視している手の者。そしてそれができるのは――」
「まあ、そういうことだ。それよりも先をいそごう、時間が惜しい」
「そうですね。そういたしましょう。それにしても今でさえ、礎が滅亡の危機にあるというのに。今回のこの件を考えると、怒りがこみあげてくるばかりでございます」
「いや、そうでもない。今回のこの件で、予測であった事柄を、確信にかえることができたのだから、むしろありがたいくらいだ」
「ありがたい……でございますか?」
「敵は我らの内にあり。何よりこうして私がこそこそと動いていること自体、非常に都合が悪いという人物が、あそこには存在しているということがわかったからな。いや、本当に生きているということは日々勉強だな、藺相覇」
「本当に……。そうでございますね……」
 と、藺相覇は複雑な表情を浮かべながらに答えた。
 確かに彼にとっても学ぶべきことはあった。が、それはどちらかといえば驚きと、感嘆の連続がほとんどだった、といった方がより正しかったからだ。
 ――やはりこのお方は疑いようもなく賢公だ。
 そして桓秀様が今もそう呼ばれていたならば、今頃このお方が全ての指示をおだしになられる立場で、もっと優位にもの事が運べられていたのではないだろうか。いや、桓秀様の智者ぶりを見る限り、そもそも礎がこんな危機的な状況に陥るようなことにすら、ならなかったのではないだろうか。
 そう考えれば、桓秀様が愚公と呼ばれるきっかけになった、二年前の扇揚でのあれが悔やまれて仕方ないな……。

 藺相覇が心に浮かべた、あれ、というのは、奴隷制度のことである。
 そして四年前に扇揚へ就任して以来。一年という月日を重ねて街の復興に努めてきた桓秀が、次に進めた改革こそ、その奴隷制度の廃止であった。


*****

 礎において奴隷は、国によって正式に認められた制度であり、昔も今もそれはかわらない。そのため財に余裕のある者は、ほとんどといっていいほど奴隷を囲っていた。
 公明正大で知られる春岳でさえ、娘に諌められるにいたった昨今までは、その例外ではなかったのだから、どれほどの浸透ぶりかはいうに及ばないだろう。
 まあもっとも、春岳の場合に限っていえば、それなりの賃金も暇も奴隷たちに与えていたのだから、奴隷というよりはむしろ使用人としての色合いの方が、濃かったのだが。
 いずれにせよ一般的な奴隷の扱いといえば、戦がはじまれば最前線に歩兵として立たされるのは当たり前で、戦争が終われば寝食もままならない不衛生な環境に住まわされ、ろくな休みも与えられないまま重労働を課せられるのが常であった。
 酷い者になれば余興で猟犬や虎の相手をさせられたり、心ない人間の享楽で生きたまま火あぶりにされたり、女性であれば士気を高めるためという名目で、多くの兵の慰みものになったり、幼子であれば異質な趣味の持ち主の玩具になったりと、目を覆いたくなるような扱いを受けていた。
 奴隷とは、特権階級や金持ちが不平や不満を持たぬようその緩和剤として、常識的に存在する者といってよかった。
 ゆえに桓秀の行為こそが、余ほど非常識なものといえた。
 なぜ彼が、それほどまでに奴隷制度を嫌ったのか?
 その理由は彼の心の奥底にのみ存在し、それを推しはかることは難しい。
 ただ、推測の域はでないものの、一つだけいえることはあった。
 それは彼の母である明生君が、身分がかわってもなお、その心根だけはいつまでもかわらぬまま美しかったことである。彼女は人々のよき暮らしをただ静かに願い、力なき者たちに人知れず力を貸し続けていた。そしてそんな彼女の姿が桓秀のこの行動に、少なからず影響を及ぼしているのではないか、ということである。
 いずれにせよ桓秀は、一年前と同じく主だった官職者たちを城に集めると、制度の廃止を彼らに伝えたのであった。
 それに伴う反発は当然のごとくに大きかった。
 異見を発するものは大半をしめたばかりか、彼の行う改革に今まで協力的だった者の中にさえ、不満を漏らす者がいたほどであった。
 そして桓秀にとって意外をとおり越して最も困惑したことは、彼の絶対的補佐役であるはずの春華が、反対の立場をとったことであった。彼女は父である春岳を諌めたほどであるのだから、桓秀のその困惑ぶりはなおさらであったといえる。
 しかし春華のいうその反論は、しごくまっとうなものであった。
「これまで桓秀様は多くの改革を行ってこられました。確かにそれにより街は見違えるほどによくなりました。それは桓秀様の智徳がすぐれているに他なりません。ですが、なされてきた改革により、多くの敵を作られたこともまた、確かでございます。多くの改革は多くの安定を生みますが、同時に多くの嫉妬をも生みだします。たとえそれにどれほどの正義があったとしても、でございます」
 幼少の頃より春岳の元で多くのことを学んできた彼女には、それが痛いほどにわかっていたのではないだろうか。
 彼女の言は続く。
「それだけではありません。礎王自らがお認めになられている制度を、扇揚だけが勝手にかえるというのですから、今後国からの助力を得ることは、まず難しくなりましょう。下手をすれば法を犯したなどと、罪に問われてしまう可能性すらあります。そのような状態でこれ以上に不満を持つ者を増やす行為は、得策とはいえません」
 数年間は街づくりに注力し、改めて序々に理解と協力を求めてまいりましょう、というのが春華の意見であった。
 むろん桓秀に彼女の道理が理解できないはずはなかっが、それでもなお、桓秀は改革を断行したのであった。それが若さゆえのことなのか、はたまた深き思慮あってのことなのか、それは彼にしかわからない。
 結果として二人の意見は平行線を辿り続け、ついに春華は全ての職を剥奪され、軟禁されてしまったのであった。
 代わりに、どういう経緯であったかは定かではないが、礎の首都である譚陽から、崔淤期が呼ばれることとなり、そして彼は桓秀の期待を裏切ることなく諸事をまっとうしたのであった。
 そうして一年が過ぎた頃には、街はさらに栄え、いつしか桓秀は街の人々から賢公と呼ばれるようになっていた。
 そして――。
 事件は唐突に起こった。
 突如として北の眞国が、一万の兵を引き連れ、扇揚へと攻め下ってきたのである。
 しかもその軍を指揮する者の名は蒙隗。眞が誇る二蒙の一人であった。
 桓秀は崔淤期に城の守りを任せると、城内にいるほぼ全ての兵を率いてすぐさま出陣した。その数およそ二万。
 扇揚から密林を抜けた先にある平地。
 距離にして約十里の場所にて桓秀は眞軍を迎え撃った。
 戦は両軍真正面からの激突であった。
 桓秀軍は敵の二倍の数である。その戦術は道理に大きく反したものとはいえない。どちらかといえば、数で劣る蒙隗軍こそ無謀といえた。
 だが実際はそうではなく、この場合、無謀だったのはむしろ桓秀軍の方であった。
 なぜなら桓秀軍の中に、彼の意に従わぬ者たちが、多数存在していたからである。
 そう、桓秀がこれまでに行ってきた数々の改革に、恨みの念を抱く者たちが、ここぞとばかりに反意を示したのである。
 だが普通に考えて、この戦で礎軍が破れるようなことにでもなれば、たちまち扇揚は陥落し、反意を示した者たちも当然ただではすまないはずである。にもかかわらず彼らは、こぞって桓秀に背を向けたのであるから、その怒りは尋常ならざるものがあったといわざる終えない。
 そしてさらに桓秀にとって不運だったことは、眞国でも指折りの猛将である蒙隗が、敵軍の指揮をとっていたことであろう。
 蒙隗が六尺≪一.三五メートル≫進むたび、槍を一振りするたびに、礎軍はその数を大きく減らしていった。彼はまるで無人の野を駆けるがごとくに礎軍を蹂躪する、まさに鬼人であった。
 そのため眞軍の勢いは凄まじく、対する礎軍の連動は乱れに乱れた。
 そして僅か半刻が後。情勢は大きく眞軍へと傾いていた。
 と、そんなおり。
 なんの前触れもなくにして、それはふいに起こった。
 なんと、礎軍の将である桓秀が、自軍を捨てて逃げだしたのである。
 兵たちに何の指示も与えないまま、突然の遁走。それは誰もが目を疑うような光景であった。
 桓秀のこの敗走は、驚きとそれ以上の恐怖と共に、瞬く間に味方の兵から兵へと伝染していった。気がついたときにはすでに礎軍は、雪崩をうつようにして潰走していた。
 礎軍は何の抵抗もみせないまま、ただひたすらに逃げ、眞軍はただひたすらにそれを追った。
 あたりには大量の砂煙と怒号、そして礎軍の悲痛な叫び声が激しく舞った。
 こうなってしまっては、最早戦というよりも単なる狩である。
 運悪く、地にけつまづいてしまった礎兵などは、たちまちにして眞軍になぶり殺しにされていた。だから礎軍の兵たちは、口から心臓が飛びださんばかりになりながらも、必死になって逃げたのであった。
 そうして。
 誰もが礎軍の敗北と、眞軍の勝利を悟ったであろう、その瞬間。
 事態はまたもやふいに急転する。
 逃げ惑う礎軍の後方で、一つの悲鳴があがった。突如として浮き足立つ眞軍。
 その悲鳴は徐々に増えていき、そしてそれが大半をしめていった。
 敵の追撃がぴたりと止む。
 礎兵たちとしても何が起きているのかさっぱりわからない。
 そうこうしているうちに今度は、あれだけ騒がしかったはずの眞軍が、水を打ったようにして急に静まり返ったのである。
 そして固唾を呑んで見守る礎兵たちの前で眞軍は、おもむろに中心から左右へとわかれはじめた。それはまるで、木がつぼみをつけて花開くかのように割れてゆき、やがて一本の道ができあがった。
 静まり返る両軍をよそに、その道をただ一騎。
 ぽかり、ぽかりと馬蹄を響かせながらに進む者の姿が。
 春華であった。
 彼女は右手の槍を肩にのせ、左手で蒙隗の首を抱いていた。
 頬と鎧には敵と思しき無数の返り血が付着していて、彼女のそのいで立ちは誰もが目を奪われるほどに、綺麗だった。
 春華は桓秀の元へ近づくと、馬から飛び降りた。それから彼女は片膝をついて蒙隗の首をその前においた。
「桓秀様、敵将蒙隗の首にございます」
 はからずもこの言葉は、礎軍の勝利を意味していた。

 半刻前、春華は五百騎を率いて眞軍の側面を突いた。
 すでに勝利を確信していた眞軍にとってそれは、振って沸いたような災難でしかなかった。
 しかも彼女は敵に突撃するや否や、前線で指揮を取る蒙隗へと一直線に駆け寄ると、一太刀の元に斬り伏せてしまったのである。
 蒙隗が鬼人であるならば、彼女はその上をいく、まさに鬼神であった。

 そんな彼女の報に桓秀はただ一言だけ、「そうか――」と、つぶやいた。


*****

 からくも眞との戦を勝利で終えた礎軍は、帰路を進んでいた。そんな彼らを待ち受けていたものは、さらなる凶事であった。
 それは扇揚にて内乱が起ったことを告げる報だった。
 桓秀らは急ぎ街に戻ってみると、そこには信じられない光景が広がっていた。
 実に街の四割もの建物が、瓦礫の山を築いていたのである。
 それなりに景観だったはずの街並みは荒れ果て、最早元のていをなしていない。いまだに煌々と燃え盛っている家屋さえも多くに見られ、道には数えきれないほどの死体が転がっていた。
 留守を任せていた崔淤期の言によるとその原因は、元奴隷であった者たちが一斉に蜂起したためだという。奴隷制度を廃した後の彼らに対する処遇が、著しく粗末であったというのだ。
 いくら制度を廃止したとはいえ彼らに対する差別の根は深く、その対応はあまりに冷徹だったという。彼らはまともな職につくことはおろか、日々の生活にさえこと欠く有様。奴隷の身分であった頃の方が粗末でも、寝食がつく分いくらかましだというのだ。
 崔淤期は直接的な言葉はさけてはいたものの、桓秀の行ったこの改革が、本質的には何もかわっていなかったのだと、暗に告げていた。

 後日桓秀は、烈火のごとくに怒った礎王より、奴隷たちの粛清を命じられた。
 礎王にしてみれば、奴隷制度の廃止など最初から認めてはおらず、ただ、賢公と名高い桓秀が扇揚をどのように建て直すかを見極めるため、目をつむっていたに過ぎない。だから礎王の怒りは当然いえた。
 ともあれ桓秀は、このまま己の信念を貫くか、それとも元の木阿弥に戻すかで多いに悩むこととなった。
 そして粛清の前日。
 桓秀が下した決断。それは奴隷たちを、金品と共に倉庫へと押し込めることであった。もちろん見張りは一切立てていない。
 桓秀は彼らに逃げろと告げたのだ。
 奴隷たちの反乱に、むろん彼が憤りを感じていなかった訳ではない。だが、そもそもの原因が命令を下した自分にある以上、やはり桓秀に彼らを殺すことはできなかったのである。
 桓秀の思惑どおりに奴隷たちは、夜分にまぎれ、その日のうちに全員姿を消した。
 その報告を受けて礎王は、先刻とは比べものにならないほどに激怒し、ついには桓秀を処刑せよとの命がくだされた。
 桓秀はすぐさま全ての地位を剥奪され、獄中へと幽閉されることとなる。ときを同じくして、今まで桓秀にへりくだっていた者たちは、みな一様に、力を失った彼へと背を向けた。
 そんな中にあってただ一人、桓秀の傳≪ふ=教育者≫を務めていた春岳が、王に命令の取り下げを懇願したのだった。
 彼は、今まで自身が築きあげてきた地位や名誉を引きかえにして、王を説いたのである。その甲斐あってか桓秀は、剥奪された地位はそのままに、急死に一生を得ることとなった。
 牢から開放された桓秀は、その事情の仔細を知らされると、悲壮な面持ちで春岳の元を訪れ、謝辞を示した。
 だが春岳は、
「全て承知しております。もう何も申されますな……」
 と答えたのみであった。
 以来、春岳の口からこの件に関して、一切語られることはなかった。
 そしてこのときから桓秀は、賢公から愚公と呼ばれるようになったのである。


*****

 ――あれから二年の月日が流れた。
 そして奴隷だった自分は今、その公子様と、国の命運を賭け共に行動している。
 そんな万が一の境遇に、藺相覇は不思議を覚えずにはいられなかった。
「……ところで藺相覇よ。お主が扇揚の生き残りだということ、……春華は知っているのか?」
「はい、もちろん存じております。……何か気になることでもおありですか?」
 僅かに苛立った様子で問いかける桓秀に、藺相覇はそう答えた。
「むう……では、お主たちの無事を私に知らせるな、といったのは春華であろう?」
「左様でございます。よくおわかりで」
「……やはりそうか! どうせ私に知らせると、父上たちに尾の根をすぐ掴まれてしまう、などといったのであろう!?」
「はい、本当によくおわかりで……」
「おのれ……春華め! いつまでも私を子供扱いしおって……!」
 そういうと桓秀は、年端もいかぬ子供のように口を尖らせてしまった。
 そんな公子に藺相覇は、
 ――暗に桓秀様が篤情の人だと、春華様は仰っていたのだが……、どうもこのお方はご自身の感情のことになると、途端に視野が狭くなられる、――いや、恐らくは、そうなれる相手を欲しておられる、といった方が正しいのかも知れないな……。
 これまでに歩んできたであろう桓秀の人生を考えると、藺相覇にはそう思えてならなかった。
 幼い頃に桓秀は母を亡くしている。それはいいかえれば、彼が幼い身のまま、たった一人で宮廷内に取り残されたことを意味している。
 宮廷とは、信頼や疑心、羨望や嫉妬、期待や憎悪といった様々な感情が、複雑に絡み合った場所といっていい。そしてその複雑な感情を狐狸のような人間共が、嬉々としてこね回し、より劣悪で、より不透明なものへと変化させ続けているのだ。
 そんな場所で桓秀は育ったのである。それはどんなにか不安で、恐ろしいことであろうか。心を許せる者などほとんどいない、といっても過言ではなかったはずである。
 そう考えれば彼のあの耳目のよさも、宮廷内で生きるため、否応なく身に付けたものなのではないだろうか。だからこそ、彼は自身の才知を認めず、情に素直であり続けようとしているのではないだろうか。
 ――まあいずれにしてもこのお方が、稀有な人であることだけは間違いがなさそうだ……。
 そう結論付けると藺相覇は、いまだにぶつぶつといい続けている桓秀に向かって口を開いた。
「春華様も、悪気があって申されたのではないと思われます。ですからそのあたりで、お許しになられてもよろしいのではありませんか?」
「ん……? ああ、ふむ……、そうだな……。春華には後で私が厳しくいい聞かせてやるとして……」
 ふるふると怒りに打ち震えていた桓秀であったが、自分を納得させるかのようにしてそういうと、今度は溢れんばかりの笑みを満面にたたえた。
「今はこうして再開できたことを、喜ぶべきであろうな!」
 そのあまりにも屈託のない笑みに触れ、藺相覇は涼風のようなものさえ感じていた。だから彼も改めて笑みを作ると、
「そうでございますな」
 と爽やかに返したのだった。
 それから二人はしばらくの間、互いの経緯を語りあいながらに馬を進めた。
 そして、「あと、もう少しです」と藺相覇がいい、桓秀もいよいよかと気を引きしめかけた、まさにそのとき。
 彼らのゆく手を遮るようにして、ふいに一本の矢が地面に突き刺さった。
 二人の間に緊張が走る。
 しかし、それはほんの束の間のことに過ぎず、
「……どうやら、目的の人物に出会えたようでございます」
 と、藺相覇が落ち着いた様子で吐露したため、見知りの者だとすぐにわかった。が、
「そこの二人。この道が私の縄張りだと知ったうえで、通ってるんだろうね?」
 大きくはないが、凜とした張りのある声だった。
 声の方へと桓秀が顔を向けると、丁度崖の上。そこに一人の女性が立っていた。
 髪はやや短めではあるものの夜露を浴びたかのように艶やかで、目鼻立もよく、思わずはっとさせらるほどの美人顔である。
 女性は細身の体に、縁取りが白く、波紋状になった革の鎧を身に付けていた。
「容姿に似合わず、ずいぶんと手荒い歓迎だな……。本当にお主の知り合いか?」
 桓秀はそういうと、藺相覇へ困惑の表情を向けた。
 むろんその間も、桓秀は彼女に対する警戒を怠ってはいない。
 藺相覇はそれをほぐすかのようにして、大きなため息を一つ吐きだす。
「……はい。一応あの者が私の知り合いでございます。いかんせん、あのとおりの無骨――!」
 藺相覇が語り終える間もなく、二本目の矢が飛来する。彼は左足を後ろに引いてそれをかわす。矢は彼を掠めて木に突き刺さった。
「……とまあ、知り合いとはいっても、この程度でございます」
「いやあの距離から、しかも正確に藺相覇だけを狙って矢を射っているのだ。憎愛に違いはあれど、さぞや深いものに違いない」
 ここにいたって桓秀も、警戒の色を解いており、口調も落ち着いたものへとかわっている。
「まあ、矢の腕と人望だけは奇跡的にある、にはあるのですが……、一番肝心の性根の方――!」
 またもや飛来する矢。藺相覇は慌てて身体を後ろへと反らし、何とかそれをやり過ごした。
「と、このように気が短く、私もほとほと手を焼いております」
「そうか……。人の私事をとやかくいうつもりはないのだが、朋輩≪ほうばい=仲間、同輩≫はもう少し考えてから選んだほうがよいぞ……」
「まあ、今世では多少遅過ぎますが、来世では大事に選ぼうと思います」
 と、二人は神妙な面持ちで語った。
「……ほんと、いつまでたっても軽口の減らない男だね」
 女性は藺相覇に一瞥をくれながらにそういうと、突然、目の前の崖へと身を投げだした。四十尺≪約四.五メートル≫はあろうかという場所からである。
 桓秀は「あ!」と、思わず驚きの声をあげたが、その甲斐空しくにして女性はふわりと着地する。
 それから何食わぬ顔で桓秀の元へと歩み寄ると、ゆっくりと頭を垂れた。それにつられて艶のある髪も下へと流れる。
「お初にお目にかかります。そこにおります愚弟の姉、藺相玉と申します」



*第二節

 桓秀、藺相覇、藺相玉の三人は、彼女の住まう家屋の一室で話をしていた。
 室内は広く、家具や調度品の類も数多く見られる。恐らく藺相玉の仲間の者たちが、共同で使用している場所なのであろう。しかし今はその仲間たちに、藺相玉が人払いをいい含めているため、三人以外に人はおらず、中は閑散としていた。
「――なるほどねえ。話はわかった。で、報酬は何をいただけるんだい?」
 桓秀から事情を聞き終えた藺相玉が、まず最初に告げた言葉がそれであった。
「姉上! 大恩ある春家の危機であるというのに、恥とは思わぬのですか!」
 当然のようにして、藺相覇が姉へと食ってかかった。
「恥? 何いってるんだい。私はあんたのように独り身でふらふらしている人間とは違って、大勢の命を預かっているんだよ。春華様の危機とはいえ、はいそうですか、などといって気安く、ただ働きなんてできないね」
「し、しかし、姉上!」
「何といわれようが、これはゆずれない条件だよ」
 頑とした態度で藺相玉はそういい張った。
 そんな姉になおも食ってかかろうとする藺相覇であったが、それを桓秀が手で制すと、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、藺相覇。お主の姉のいうこと、しごくもっともだ」
 そういうと桓秀は藺相玉へと顔を向け、一つ頷いた。
「わかった。ではこの戦が終わったならば、その成否に関係なく、お主に財を授けることを約束しよう」
「ふん。そんなことは当然じゃないか」
「では、官も授けることを約束する」
「官? 私は公僕になんか興味はないね。考えただけでも忌々しい……。それは覇よ、お前もよく知っていることのはずであろうに!」
 藺相玉のこの言葉は、扇揚で彼女たちが奴隷をしていた頃のことを指している。
 もう少し付け加えるならば、この姉弟は生まれながらの奴隷ではなく、被征服民族である。
 彼女らは元々、伎≪き≫という国の民であったのだが、十数年前、苓≪れい≫という国によって攻め滅ぼされ、奴隷の身となった。その苓国も、数年後には礎によって攻め滅ぼされたため、彼女らはそのまま礎国の奴隷となったのである。
 ゆえに突然にして貶められた奴隷の身分ほど、彼女にとって吐き気を催すものはなく、当然それをなした官人たちによい感情を抱けるはずもなかった。それは藺相覇にしてみても同様である。
 だから藺相玉に鋭い眼差しを向けられたとき、藺相覇は黙ったまま視線をそらさざる終えなかった。
 そんな姉弟の様子を見て桓秀は、真剣な表情のまま深く頷くと、それから静かに口を開いた。
「では、他に何が望みであろうか?」
「そうだねぇ……。じゃあ、この戦が終わった暁には、桓秀様が私の奴隷になるっていうのはどうだい?」
「あ、姉上! 戯言もいいかげんにされよ!」
「戯言……? 何いってるんだろうね、この愚弟は……」
 藺相玉は避難がましい弟に一瞥をくれると、それから言葉を続けた。
「私の手勢はどんなにかき集めてみたところで、たかだか三千。対する敵の数はその十倍の三万。ましてや相手は智勇を兼ね備えたあの蒙京っていうじゃないか。だから春華様をお助けしようとすること自体、すでに正気じゃなくなっているんだよ。私たちはそんな戦いに刈りだされるんだ。公子様を奴隷にする程度のこと、いっても罰は当たらないと思うんだがね」
 そういうと藺相玉は、口端を僅かにあげた。しゃべり口は冗談に聞こえなくもないが、しかし桓秀へと向けた彼女の目は、一切笑っていない。
 まるで相手の全てを見定めるかのような、そんな強い眼差しであった。
 が。
「……何をいわれるかと思えば、そんなことでいいのか」
 桓秀はそうつぶやくと、ほっとため息を漏らした。
「であれば、容易い。喜んで約束させてもらおう」
「か、桓秀様!」
 慌てて藺相覇が止めに入る。
「愚公の私と国の宝である春華。どちらが大切か、少し考えればすぐにわかることではないか」
 桓秀は当り前のようにそういうと、今度は一転して無邪気な笑みを満面に浮かべた。
「そんなことよりも、あれだな。流石、藺相覇の姉というべきか、このような僻地に住まいながら、よく大局を見ている!」
 むろん桓秀としては彼女を褒めるつもりでいったのだが、当の本人はそれが相当に気に入らなかったらしく、
「流石、藺相覇の姉? 流石、藺相玉の弟の間違いだね。私を麾下に加えたいのなら、姉あっての弟だということ、桓秀様にはよく理解しておいてもらわないと困るんだがね」
 と、眉根を吊りあげていった。
 但し、このときにはもう藺相玉の顔からは険が抜けており、口調も穏やかなものにかわっていた。
「藺相玉の弟か……。 はは、わかった。よく覚えておくよ」
 仏頂面の藺相覇をよそに桓秀は笑顔を保ったまま答えた。
 それから桓秀はおもむろに表情を改め立ちあがると、藺相玉に近づき、彼女の両手を握った。
「改めてお願いする。ぜひ、お主の力を貸して欲しい!」
 藺相玉は握られた自分の手を見やると、ため息を一つ吐きだした。
「まあ、春岳様のご息女が宝だという言には私も賛同しなくもないが……、自らを貶めるような人間は、どうにも好きになれそうもないね……。けど……」
 そこまで語ると藺相玉は、颯≪さっ≫と立ち上がり、桓秀の前で片膝をついた。
「けど、その潔いお姿、私は大好きでございます。ぜひ、我らの力、存分にお使いください、桓秀様」
 彼女のその振る舞いに桓秀は、
「藺相玉よ、感謝する」
 といって、改めて笑みを浮かべた。



*第三節

 山中、焚き火に集まり、馬鹿騒ぎをする集団がいた。
 明らかに戦のそれをまとっているのだが、その騒ぎぶりはまるで宴にしか見えない。
 そしてそんな集団を呆れ顔で眺める人物が二人。
「……何だ、あの兵たちの体たらくぶりは?」
 男はとなりにいるもう一人の男に向かって、ため息混じりにつぶやいた。
「ああ、まるで野盗の群れだな……」
「蒙京様からこの道を通る者を、監視させられていたはいいが、まさかこんな常道すら知らぬ連中にいき当たるとは……」
 そう語った男の視線の先では、酒盃を手にした男たちがだらだらと談笑していて、ときに馬鹿笑いさえ混じって聞こえる。
「我らのような者がいないか、探るのが奇襲する上での常道ではないか。しかるにやつらときたらまるでそれをしない。無警戒にも度が過ぎている。これでは真面目に仕事をしている俺たちが、まるで馬鹿みたいではないか!」
「そういきり立つな、別にいいではないか。そのおかげで俺たちは、こうして堂々と監視できているのだから」
「……確かに。いわれてみればそのとおりだ。まあいずれにせよ、こいつらが到着する頃には、間違いなく紫苑の城は落ちているだろうし、この分だと報告の必要すらなさそうだ」
「いや、これも仕事のうちだ。一応報告だけはしておこう。何より仕事をおろそかにすると蒙京様のご不興を買う」
「ああ、違いない。じゃあ報告は俺が向かおう」
「いや、待て。俺もいく」
「それではここの見張りがいなくなってしまうではないか」
「この調子じゃ見張りの必要もないだろう。こんなやつらを真面目に相手するのは時間の無駄だ。俺もさっさっと戻って一杯やりたい」
「ああ、なるほど。それは名案だ」
 男がそう答えると、二人は暗闇に体をすうっと溶かし、消えた。


*****

「本当にあれでよかったのかい? 桓秀様」
 藺相玉は先ほどまで二人の間者がいた、木の上を見つめながらそういった。
「ああ、あれでいい」
「しかし、それではこの北西の道を通る意味があまりない気がするんだけどね」
「意味はあるさ。私たちはそのためにゆっくりと行軍していたのだから。心配しなくても彼らは私たちのこの有様を、私見たっぷりに報告してくれるはずさ」
「なるほど。敵を油断させるための罠という訳ですね」
 二人の会話を聞いていた藺相覇はそういうと、得心した様子で頷いた。が、
「いや、私はそうは思わないけどね。蒙京ほどの男だ。この程度で油断してくれるなんてこと、ありはしないと思うね」
 と、藺相玉は異論を唱えた。
「もちろん、蒙京は眞の名将だ。油断なんて絶対にしてくれないだろうね。あの間者たちは戻ったら、おそらく彼にこっぴどく叱られる」
 一向に要領を得られない桓秀の言葉に、藺相覇は困り果てた顔を彼に向けた。
「ひょっとして……。桓秀様は、我らをからかっておられるのですか?」
「いや、私はいたって大真面目さ」
 そういうと桓秀は屈託のない笑みを二人の姉弟に向けた。


*****

 一方、報告を届けに戻った二人の間者は、桓秀が予測したとおり、蒙京に罵声を浴びせられていた。
「……し、しかし蒙京様。敵は行軍がゆるく、我らの存在にも気づかぬ有様。何の心配もいらぬではありませぬか」
「敵の行軍がゆるいから心配いらぬだと……?」
 蒙京はぎろりと二人の間者をねめつけた。
「では、もし敵が貴様らに気づきつつも、あえてそのような態度を示していたとしたら、貴様は一体どうするつもりなのだ」
「そ、それは……」
「――この愚か者共が!」
「ひ、ひっ! す、すぐに引き返します」
 間者たちは、ほうほうのていで駆けだしていった。
 そんな彼らに哀れみの眼を向けながら、蒙京のとなりにいた佐官が口を開いた。
「なぜ、お止めにならなかったのでございますか? もし、礎軍の動きが本当に擬態であるならば、次に彼らが礎軍と出会ったとき、必ずや斬られましょうに……」
「ふん、別にわしは戻れなどとは一言もいってはおらん。やつらが勝手に勘違いしたに過ぎん」
「……もっともなご意見でございますな。まあいずれにせよ我が軍は、蒙京様のご指示どおり不測の事態に備え、すでに兵を三軍にわけております。今さら間者の情報を得たからといって、何もかわりはありませぬ」
「貴様はそう思うか?」
「はい」
 と、佐官は頷きをみせた。
 が、そんな彼に対する蒙京の返答は、またもや腹に響くほどの大喝であった。
「この愚か者が!」
「ひっ!」
 佐官は腰砕けるようにして、その場にへたり込んだ。
「確かに兵を三軍にわけたのは、不測の事態に備えてだ。だが、なぜ敵が奇襲を仕掛けてくるとわかっていて、このままじっとしておらねばならぬのだ! 敵は寡兵といえど両方向から攻められれば、こちらの被害も軽くはなかろうが! 情報を甘く見るなといつもいっておるのに、貴様にはそれがわからぬのか!」
「も、申し訳ございませぬ……」
 その答えに蒙京は侮蔑を込めて鼻を一つ鳴らすと、改めて令を発する。
「敵が急いでくると考えて、早ければ五日後にはここへ到着するだろう。我が軍はこれより、一日休息に入る。しかるのち明朝兵を二軍に再編し、三日以内にあの城を落とす。そしてその後にのこのことあらわれるであろう援軍を、余裕を持って叩く。全軍にすぐそう伝えろ!」
「は、はっ!」
 跳ねるようにして佐官は立ちあがると、すぐさま駆けだしていった。
「ふん、無能どもめが……」
 蒙京は言葉を吐き捨てると、城の方へと目を向けた。
「……まあいい。いずれにしてもやつらの小賢しい策など、この蒙京には通用しないということを、その身に教えてやるだけのことだ」
 眞が誇る二蒙の一人蒙京。
 巨躯に秘めた深淵なる智を胸に、彼は不敵に笑った。


*第四節

 蒙京が三日で紫苑城を落とすと宣言してから、二日目の夜を迎えており、眞軍の猛攻はさらに苛烈を極めていた。
 すでに眞兵の損失も二割を超えていたが、蒙京は一向に怯む気配をみせなかった。まるで城壁に土嚢やはしごが使えぬのならば、死人で埋めてしまえばいい。
 そういわんばかりの勢いで、兵をどんどんと投入してきていた。
 その結果、蜜にたかる蟻のようにして眞兵が城壁に群がっていて、そしてそれが礎にとっては致命的なものになりつつあった。
「春華様……、これはまずうございますな……。ここ数日を見る限り、どうやら敵はこの城を一挙に攻め落とす腹でございますぞ……」
 春華のそばにいた男が、辟易した様子でそういった。
「ああ、確かに非常にまずい展開だな……。だが、裏をかえせばこれは吉兆かも知れないな」
「こ、このような状況が吉兆……、でございますか?」
「ああ、そうだ。今まで、兵の損失をことさらに惜しんできた敵が、急にそれを無視してまでこの城を落とそうとしているのか……」
「それは……。――まさか、援軍が!」
「そうだ。むろん私の単なる願望に過ぎないのかも知れないが……。まあいずれにせよ、今はこの攻めに対し、いつまで凌いでいられるかが一番の問題にはなろうがな」
「根競べ、でございますな……」
「ああ、しかもかなり分の悪いな……」
 そういうと春華はあたりへと視線を移した。
 そこには矢刀傷を全身に帯び、鎧も武器もぼろぼろで、五体満足の礎兵など一人もいない。疲れ果て、地面に座り込んでいる者さえいる有様だった。

 しかしそんな礎軍に対して、ときは無常にも流れてゆき。
 日付はかわり、間もなく早朝を迎えようとしていた。
 そして眞軍の絶え間ない猛攻の前に、礎兵たちは精も根も尽き果て、ほとんどの者が抵抗できなくなっていた。
 それでも最初のうちは春華が鬼神の働きをみせ、敵を城外へと追いやる場面も幾度か見られたが、やはりそれも長くは続かなかった。
 いくら彼女一人が獅子奮迅の働きをしようとも、圧倒的な兵力差の前にはどうしようもない。気づけば城壁の上は眞兵で一面埋まっていた。
「ここまでか……」
 春華は天を仰ぎ見ると、薄暗い空に向かって力なくつぶいた、――そのとき。
「しゅ、春華様! 敵が……、敵が退いていきます!」
 一人の礎兵が大声で叫んだ。
 春華は目の前の敵をすばやく斬り伏せると、その兵が指差す城外へと目を向けた。
「これは……」
 見るとそこには明らかに混乱する眞軍の姿があった。所々では黒い煙がもうもうと立ちあがっている。
「……見事だな」
 春華はそう感嘆せずにはいられなかった。
 敵を翻弄している集団は寡兵であった。ここからだとそれがよく見て取れる。
 通常、寡兵での奇襲は、敵が余ほどの無能でもない限り、敵の混乱もすぐに収まるものである。だが奇襲をかけている集団は、眞軍へと突撃するとそのまま止まることなく横断し、横断しきると角度をかえ、また突入する。それを繰り返していた。
 そしてそのたびに、強固な一枚岩であったはずの眞軍が、布切れのように裁断されているのである。
 ――奇襲をしかけた者は、眞兵との交戦を殆ど行っていない。
 おかげで敵は相手の戦力を十分に把握することもできないまま、悪戯に混乱だけを広めている。しかもご丁寧にも奇襲部隊は、兵糧、武器、天幕≪=兵舎のテント≫と、燃えるものにはみな火を放っている様子だった。
「ここまで見事に眞軍を翻弄する将は、我が国にもう残ってはいないと思っていたのだが……。もしや、父上! ……いや、こんな戦局に関係のない場所へ、父上が姿をあらわすことなど絶対にないだろう……。――ああ……、そうか。もう一人いらっしゃったな……」
 春春はある人物へと思いいたると、ふいに微笑を浮かべた。そして彼女は礎兵たちへと振り返り、
「皆の者! 援軍だ! 我らの勝利は近い! この城はもう捨てても構わぬ、戦える者は全員私に続け!」
 春華のその声に触れ、礎兵たちは再び目に生気を宿すと、激しく呼応した。
 絶対にこないと思っていた援軍が、すぐ目の前にいるのだ。これが戦わずにいられようか!
 それは今までたえにたえた礎兵たちの、心からの雄たけびであった。



*第五節

「燃やせ! 燃やせ! 燃えるものを見つけたら何でもいい、手当たり次第に燃やしてしまえ!」
「やれやれ、覇のやつめ……。あんなに楽しそうにあちこちと駆けまわりおってからに。まるで餌を前にした犬のようだな……」
 藺相玉は、彼の身内であることが恥ずかしいとでもいわんばかりの呆れ顔で、そうつぶやいた。
「いや、あれでいい。彼のおかげで敵が混乱し、戦局が大分楽になっている」
「へぇ、そうかい。桓秀様のその言葉を聞いたら、うちの愚弟もさぞかし喜ぶだろうね……。――まあ、それはそれとして、あの蒙京相手にこれほど上手くことが運んだんだ。流石は賢公、といったところかね?」
「いや、それは違う。これは単に藺相玉たち伎国の者が、騎臥騎食≪きしんきしょく≫の民であったからに他ならない」
 桓秀がいった騎臥騎食の民とは、読んで字のごとく馬の上で寝食をする民、という意味である。
 むろん言葉どおりに彼女たちが騎臥騎食を行う訳ではない。食事は馬を止めてから行うし、当然睡眠も地面の上である。
 それでもなお、休息も取らずに馬を走らせ続けているのではないか? と、相手に思わせてしまうほどに進軍が速いため、そう呼ばれているのである。
 実際に藺相玉たちは下馬して進まねばならないような難所であっても、騎乗したまま平然と進んだし、普通なら馬がへばってしまうであろう距離を走らせても、なお悠々と進軍し続けるだけの馬上技術を持っていた。
 そうして本来ならば早くとも五日はかかるであろう道程を、その僅か半分の日数で、彼女たちは走破してしまったのであった。
「まあ、私たちが騎乗に長けた民であることはいうまでもないが、それを差し引いたとしても解せないのは、蒙京の振る舞いだね。我らが近いうちにこちらにくることは最初からわかっていたはず。にもかかわらず彼はなぜ、我らが排除できる程度にしか物見をおかず、全軍を持ってあの城を攻めるなどという危険を犯したのか……」
 桓秀はその問いに一つ頷くと、口を開いた。
「戦争において智将、名将が必ず考えること。それは相手の動きを予測することだ。その方が敵よりも安全で有利な立場に身をおきやすいからね。だから蒙京は、私たちの怠惰の進軍を聞いてこう思ったはず。礎軍はいつあらわれるか? そしてその間に自分たちには何ができるか? と。そして彼は恐らくこう結論付けたはずだ。敵は擬態である。遅くとも五日後にはここにたどり着くだろう、と」
「擬態であることを見抜くのはわからないでもないけど、何で五日と決め付ける必要があったんだい? 下手をすれば六日、いや、七日かかってもおかしくはない道程だったじゃないか」
「遅い分には何日かかっても別にかまわない。その間に城が落ちていれば、後は退くなり待ち構えるなり、好きにできるからね。ここで重要なのは、最短と決めた日数の中で何ができるか、ということなんだ」
「――ああ、なるほどね……。何となくわかってきたよ。蒙京が最も恐れていたのは、前後から挟撃に合うことだね」
「そう、そのとおり。だから彼は兵を分散させず、城攻めに全軍を投入できる日数を決めたかった。そして結果はいわずもがなという具合さ」
「なるほどねえ……。蒙京は智将と噂される人物だったけど、桓秀様にとっては石ころ同然だった、という訳だね」
「いや、それはまったく違う。実際にここまで予測し、それをそのまま行動に移したのだから、蒙京は真の名将だといっていい。敵の弱い部分を突くこと、大兵を持って寡兵を攻めること、機を見て敏に動くこと、その全てを彼は行ったんだからね。もし仮に相手が蒙京でなければ、こう上手くことは運んでいなかったはず。凡人であれば必ず迷いや油断が生じるからね。それにこちらの行軍が五日、いや四日かかっていたならば、間違いなく紫苑城は落ちていただろうから、そう考えると本当に恐ろしい敵だと思う」
「ふーん。ものはいいようだね。彼≪か≫を知りて己を知れば何とやらで、私には桓秀様の方がよほど戦上手に見えるんだけどね」
「ははっ、確かにものはいいようだ」
 そういって桓秀はくつくつと笑ったのだが、藺相玉はその意図をはかりかねた様子で首を傾げた。それに気付いたのか桓秀は、気遣うようにして笑みを消した。
「まあ、いずれにしてもまだ戦に勝った訳じゃない。ただ相手を一時的に混乱させているに過ぎない。相手は智勇を兼ね備えた蒙京だからね。これからが本当の戦いになる。藺相玉、お主は西南より攻めてくれ。私は東より攻め入る。そうすれば敵をさらに混乱させられるはずだ」
 そう明快に語る桓秀を見て、藺相玉は思う。
 ――初見では無邪気で愛らしいお方だと思ったが、いやはやこれはどうして。今は頼もしいとさえ思えてくる。何とも不思議なお方だ……。同じ人を二度好きになるとは、こういう感覚のことをいうのだろうか……。
 そしてそう思った藺相玉の言動も、実に明快であった。彼女は綺麗な顔に悪戯な笑みを浮かべると、「嫌だね」と答えた。
 にべもない即答である。
 当然、桓秀は戸惑いの表情を浮かべ、
「……こ、このようなときに冗談はよさぬか!」
「冗談? そんな訳ないじゃないか」
 藺相玉はそういうと、桓秀の小さな体に視線を這わせた。
「桓秀様のお体を拝見するに、とてもじゃないが武人の体つきには見えないね。失礼ながら桓秀様に比べれば、私の部下の方がよほど手練さ」
 桓秀は少しだけむっとした表情を覗かせたが、すぐにそれを霧散させた。
「わかった。では適当に私の軍に将を立ててくれ。私はそれに従う」
「何いってるんだい。手練といってもうちの部下はまだまだ未熟だよ。蒙京率いる眞の強兵相手に、桓秀様をお守りしながら戦う器用な人間なんて、どこにもいやしないさ」
「別に私の護衛は不要だ。こうしている間にも戦局は刻々とかわっている。とにかく今はときが惜しい。奇襲は総大将が先頭に立ってこそ威力を発揮するもの。だから私はいかねばならん」
「もちろん桓秀様には先頭に立っていただくよ」
「お、お主のいっていることは理解できん。私にどうしろというのだ!」
 先ほどとは違い、今度は苛立ちを隠そうともせずに桓秀は言葉を吐きだした。
 それに対して藺相玉はなおも平然としていて、
 ――ああ、このお方はご自身の感情のことになると、途端に子供っぽくなられるのだな……。
 などと新たなる発見をする余裕さえあった。
 藺相玉は笑みを保ったまま、
「なあに簡単なことさ。桓秀様の指揮する場所は、ここだっていってるんだよ」
 といって、馬上にある自分の股座を指差した。
 むろん彼女は二人乗りを示唆した訳であるが、桓秀にとってもそれはじめての経験ではなかったため、驚いた様子はみせなかった。それもそのはずで、騎臥騎食の民ではない彼は、ここにくるまでの間中、ずっとその場所にいたのだから。
 だから彼はこれといって抵抗を示すこともなく、
「またか……」
 と、諦めるようにしてつぶやいたのだった。


*****

 背中にやわい膨らみを感じつつ、桓秀は藺相玉に顔を向けた。いまだにこの状況に慣れないのか、そわそわと落ち着かない様子である。そのため、額にある眉根も真ん中に寄っていた。
「……な、なあ藺相玉よ。なぜお主は鎧をまとわぬのだ……? おかげで、先ほどから居心地が、何ともいえないことになっているのだが……」
「ふふ、桓秀様にしては愚問だね。私に矢剣が当たるということは、すなわち桓秀様にも当たるということじゃないか。つまりあってもあまり意味はないってことさ。なあに心配はいらないよ。私にとっちゃこの格好の方が、よっぽど動きやすいってもんだからね」
 そういうと藺相玉は、離れようとする桓秀の肩を捕まえて、さらに自分の元へと引き寄せた。
 桓秀の背によりいっそうの柔らかさと温もりが伝わる。それに付随して、そこはかとなく草原のようないい香りが、彼の鼻腔をくすぐった。
「い、いや、問題はそれではないのだが……」
「もうおしゃべりはこのへんにしとこうじゃないか。でないと、――舌を噛んでしまうからね!」
 藺相玉はそういうが早いか、馬の腹を蹴って加速させた。その勢いを利用して、彼女はすれ違う敵を瞬く間に斬り伏せていった。

 棍の使い手藺相覇。短弓と細剣の使い手藺相玉。藺相姉弟の働きは見事といえた。
 藺相覇の棍は七尺六寸≪約一七一センチ≫と通常の棍の長さよりやや短い。かわりに太さは従来のものよりも、ふたまわりほど幅がある。
 彼は短い武器に対しては、棍の利を生かして懐を突き、同類の武器に対しては、その太さを利用して相手の武器を弾き飛ばしていた。彼独特の棍術といっていいだろう。
 一方の藺相玉の弓は従来よりも短く、そして軽い。そのため、遠くの敵をしとめるには不向きな武器である。しかし彼女の矢を放つ動作は驚くほどに速く、さらに正確である。少しでも敵との距離が開いたならば、彼女は確実に弓でしとめてしまう。敵が慌てて弓に矢をあてがう頃にはもう、弓は眉間に突き刺さっているのだ。
 同様に彼女の扱う剣も細くて軽い。剣は重く丈夫な方が折れ難く、打ち合いに強いのが常である。だが彼女の場合、殆ど敵と打ち合うことがないため、それが不要であった。彼女は素早くかわし、素早く斬る。しごく単純な動作しかしない。が、実践するのは恐ろしく難しい。それを藺相玉はけろりとした顔でやってのけるのだから、彼女の弓術、剣術の腕は凄まじいものがあった。

 この二人が先陣となって戦場を駆け抜けるのであるから、敵はなすすべもなく、ただ死体と混乱を山のように築くしかなかった。
「……そ、礎軍だ!」
「大……軍……。……そ、礎の大軍だ!」
 そんな言葉を口々に漏らしながら、動揺をあらわにする眞兵たち。
 あたりは砂と煙が蔓延していて、彼らの視界には礎の正確な数は見えていない。
 中には武器を捨てて逃げ惑う兵さえあらわれる始末であった。
 彼らの脳裏に撤退の二字が浮かびあがろうかというその刹那。
 剛剣を振るってそれを吹き飛ばす者がいた。
 蒙京だった。
 彼は鞘から剣を抜いたかと思うと、半狂乱に大軍と叫んでいた眞兵の一人を、何のためらいもなくに斬り捨ててしまった。
「静まれ! この愚か者どもが! 今の礎に我が軍と同等の兵を向けるなど、できるはずがなかろうが! 敵は寡兵である。やつらは北西の険道をとおり、我が軍の背後を襲ったに過ぎない。我らが落ち着いて行動さえしていれば、礎の奇襲などはすぐに終わる。それでもなお、下らぬことをほざきたいやつはわしの前にでてくるがいい。二度と無駄な口が利けぬようにしてくれるわ!」
 剣から味方の血を滴らせ、悪鬼のごとき形相で大喝する蒙京を見て、浮き足立っていた眞兵たちは嘘のように静まり返った。
 それを見届けた蒙京は、続けて大声を張りあげる。
「おい伝令! 先ほどのわしの言葉を一言一句たがえず、すぐに全軍へ伝えろ!」
「……は、は! 直ちに!」
 そう叫ぶと伝令は駆けだした。が、彼は数十歩進んだところで唐突に崩れさった。そして崩れ落ちた伝令のかたわらには、一頭の馬が。
 その上で不敵に笑う長髪の男に対し、蒙京は怒気を孕んだ鋭い視線をぶつけた。
「貴様がこの軍を束ねる将か?」
「そうだ。と、いいたいところだが外れだね。まあもっとも、未来の、という言葉を頭に付けてもらえるなら、そうだといってやれないこともないがね」
 藺相覇はそういうと、喜劇めいた調子で大げさに肩をすくめてみせた。
 彼は眞軍のほぼ全てが混乱にある中、その一角だけが整然としていることに不振を覚え、駆けつけてきたのである。
 そう、ここが敵の本陣と見抜いて。
「では、貴様のような雑魚に用はない。早々に引き返し、総大将を連れてこい」
 蒙京がそう吐き捨てると同時に、彼のまわりにいた十数人の眞兵が、藺相覇めがけて一斉に襲いかかった。
 が、藺相覇としてもその程度の数に敗れるようならば、そもそもこんな危険な場所へと出向くはずもなく。
 彼は棍を旋回させ、襲いくる敵を泥人形のごとくに次々と地に沈めていった。
 そして最後の一人を叩き伏せたところで藺相覇は、陽気な笑顔を蒙京へと向けた。
「申し訳ないが、あんたに用がなくとも俺にはあるのでね。これも何かの縁と思って、少しばかり俺の相手をしてくれないだろうか?」
「……ほう、手練であるわしの側近たちをこうも容易く葬るとは。そのふざけた口ぶりとは違い、腕の方は軽々しくはなさそうだな」
「これはこれは。天下に名高き将であらせられる蒙京殿に、お褒めいただけるとは。光栄のいたりでございます」
 藺相覇は胸に手をあてると、客人に対するがごとくに礼をとった。
「ふん、どこまでもふざけたやつだ。だがまあ、いいだろう。今のうちに戯言は存分にいっておくがいい。もうこの世でそれを語ることはできなくなるのだからな」
 蒙京は一つ鼻を鳴らすと、手に持っていた剛剣を鞘に収めた。
 それから馬腹の左右にぶら下げていた二本の黒い棒を手に取ると、その棒の端と端とをつなぎ合わせた。
 かちりと鳴ったその棒の中心には、真っ赤な竜が浮かびあがっていた。
 蒙京を蒙京といわしめている武器、黒赤戟である。
「おい、おい。いいのか? そんな太くて長ったらしい戟なんか持ちだして。棒は長くて太けりゃいいってもんじゃないんだぜ!」
 そう叫ぶや否や、藺相覇の乗る馬は、蒙京に向かい猛然と駆けだした。
 二人の距離は一気に縮まる。
 藺相覇は機を見て、棍を振り下ろした。
 それを蒙京は戟を横にして無造作に受け止める。
 しかし藺相覇も矢継ぎ早に蒙京の腹、腰めがけ二の手、三の手と棍で凪ぎ、そして突いた。
 棍と戟が重なり合うたび、鈍い音があたりに響く。
 そして十合目。
 ここまで藺相覇の一方的な展開のように見えていた打ち合いだったが、瞬間、漆黒の戟が藺相覇めがけ、一気に振り下ろされた。
 藺相覇はそれを咄嗟に根の腹で受け止めると、すぐに押し返し、それと同時に馬の腹を蹴って、蒙京との距離を取った。
「流石に音に聞こえた蒙将軍。俺の棍をここまで受けきった者は春華様以来だ」
 と、表面上は軽口を叩いたが、実のところ藺相覇にとって蒙京の先ほどの一撃は、相当に肝の冷えるものであったといってよかった。
 藺相覇の背に嫌な汗がつうと流れる。
 ――あの怪力には正直、驚いた。あんなのとまともに打ち合っていたら、俺の身が持ちそうもない……。
 相手に悟られぬようにして、腕の痺れの回復を待ちながら、藺相覇はなおも思考を重ねる。
 ――だが、勝機はある。俺の棍の方が僅かばかり速い。
 やつの振り下ろした戟を受け止め、それを弾き、全力で喉元を突いてやる。
 敵の剛気に当てられて、荒ぶる馬を藺相覇は手綱を引いて落ち着かせた。
「だがまあ、残念だったな。どうやら少しばかり俺の方が速そうだ。これで終わりというこか!」
 藺相覇はそういうと、再び蒙京目指して駆けだした。
 迫りくる敵を見据えながら蒙京は「ふん」と鼻を一つ鳴らすと、黒赤戟を上空へと振りあげた。それはまるで赤竜が天空へと昇っていくかのようであった。
「この愚か者が!」
 大喝と共に黒赤戟がうなりをあげて藺相覇へと襲いかかった。それは一撃目とは比べものにならない速さ。
 藺相覇の顔色が一瞬で変る。が、すでに遅い。
 棍は真っ二つに折れ、戟は勢いを保ったまま藺相覇の胸を斬り、そのまま馬の頭部をも斬った。
 藺相覇は無言のまま馬上から転落し、どさりと音がした。
「ん? 浅いか……」
 ぼそりとつぶやく蒙京。
 藺相覇はよろめきながら立ちあがると、腰の剣をすらりと抜いた。
「ほう、よくわしの戟をかわしたものだな。だが浅いとはいえ、それなりの手ごたえもあった」
 蒙京の言は正しい。
 藺相覇の胸は縦に大きな傷跡を残している。そこから血がしたたり落ち、彼のひざは振るえ、口から漏れる呼気も不規則であった。
「おいおい……、最初の一撃。あれは何だったんだ? 演技か……? 名の通った将のわりに、ずいぶんとずる賢いことをしてくれるじゃないか……。しかしまあ気持ちはわからんでもないな……。俺ほどの使い手を葬るには、その手しかなかったのだろうから」
「ふん、まだそのような減らず口を叩けるとは大したものだな。貴様ごときに演じる必要などないが、久しぶりに戟を振るったもので遊んでみただけのことよ。もっとも、それもここまでだがな。――死ね!」
 天へと昇った黒赤戟が、またもや藺相覇へと襲いかかる。
 瞬間、それはなんの前触れもなくに起きた。
 突然蒙京の乗る馬が崩れ、彼は地上へと投げだされたのである。
 蒙京はゆるりと立ち上がると、不快な眼差しを馬の首へと向けた。そこには小さな矢が突き刺さっていて、馬の動脈を正確に貫いていた。
「藺相覇、大丈夫か!」
 桓秀の声が聞こえた。
「まったく、我が弟ながら情けない……」
 次いで藺相玉の場違いな呆れ声。
「……か、桓秀様、それに……姉上」
 薄れゆく意識の中、藺相覇は、
「面目ない……」
 と一言つぶやくと、そのまま意識を失った。


*****

「弟が世話になったようだね」
「次は貴様が相手か、――ん?」
 そういって藺相玉へと振り返った蒙京であったが、そのいで立ちを見て、おもむろに顎へと手をあてた。
「女、貴様が春華か?」
「ほう、それは光栄だね。春華様に間違われるなんて。まあ、私のこの美貌からすれば、そう思われても仕方ないがね」
「ふん、よくいうわ……。――それにしても礎の男共は不甲斐ない者ばかりだな。女ばかりに頼りおって。なあ、そこの孺子≪じゅし=こぞう≫もそうは思わぬか?」
「いや、それは違う! 礎は他国と違って男女共に精強ぞろいだ!」
「はっはっはっ! これは面白い。よくそのような無様な格好でほざくものだな」
 蒙京がいっているのは当然、藺相玉に身も馬も委ねている彼のその格好にである。
 桓秀は悔しそうな顔でいい返す素振りをみせたが、それはすぐに藺相玉によって止められた。
「……桓秀様」
 侮蔑の表情をみせる蒙京をよそに、藺相玉は桓秀の耳元でささやいた。
「私がやつに斬りかかる隙に、あの馬鹿者を拾って逃げるんだよ」
「逃げる? なぜだ!?」
「今はまだ敵が混乱していて、我が軍の方が優勢かも知れない。だけどそれもあの蒙京がこの地にいる以上、そう長くは続かないのは明白。これを打ち破るにはやつを倒すしかないけど、それは私の腕をもってしても正直難しいところだね……。油断してたとはいえ、うちの愚弟がこうもあっさり敗れているんだ。やつは間違いなく強い」
「では、なおさら逃げることなどできぬではないか!」
「し、声が大きいよ。いいかい、冷静になってよく聞きな。はっきりいってこの戦、我らの負けさ。残念だけど、春華様のことは諦めるしかないね」
「嫌だ!」
「それほど、あのお方が大切なのかい?」
「むろん春華は大切だ。だが、それだけではない。私のために戦ってくれた仲間を見捨てて、逃げることの方がもっと辛い。もちろん藺相玉、お主も同様だ!」
「死ぬよ?」
「構わん。私も共に戦おう。そして敵わぬまでも仲間と共に喜んで死のう」
 桓秀は帯びている剣を勢いよく抜いた。しかし柄を握る手は、小刻みに震えている。
「桓秀様は本当に可愛い子だね」
 藺相玉は桓秀を背後からぎゅっと抱きしめると、そのままそっと地上に降ろした。
「な、何をする! 私も戦うといっておろうが!」
「少し落ち着きな。私はもう逃げろなどというつもりはないよ。これも作戦さ。矢のない私が、桓秀様をかばいながら、蒙京相手に勝つことは万に一つもないけど、一人で戦えば万に一つくらいは、勝ち目も生まれるてくるっていうね。だから桓秀様にはあの愚弟のことを頼みたいんだよ。私が敗れれば、後は好きにしてくれてかまわないからさ」
 藺相玉はそう語り、それをじっと見つめていた桓秀は、真剣な眼差しのまま、しっかりと頷いた。
「話は終わったのか?」
 ふいに蒙京の声が入った。
「待たせたね。でははじめるとしようか」
「ほう、まさかわしが馬上におらぬゆえ、勝てるとでも思うておるのか。見たところ少しばかり腕に覚えはありそうだが、勘違いも甚だしいというもの。己の愚かさを身を持って悔いるがよかろう」
 そういうと蒙京は、赤龍の描かれた漆黒の戟を手に、悠然と身構えた。
「面白くもなんともない冷やかしなんてもの、愚弟だけで十分だね。今さら勘違いするはずがないし、負ける気もまったくないね」
 と答えたものの、藺相玉は嘘をついていた。
 生きて蒙京に勝つ気など微塵もない。
 彼女は命を捨てての相打ちしか考えていなかった。
 その間も蒙京はじりじりと、藺相玉へと歩み寄っている。
 そして藺相覇と、蒙京の間に開きができた、その瞬間。
「桓秀様、今だよ!」
 藺相玉はそう叫ぶと同時に蒙京へと向かい、桓秀も駆けだした。
「小賢しいわ!」
 蒙京はあっという間に相手の意図を読み取ると、藺相玉には目もくれず桓秀へと翻す。桓秀を斬り捨ててもなお、藺相玉との打ち合いは十分間に合うと、彼は判断したのだ。
 迫りくる恐怖に、思わずその場に固まる桓秀。
 藺相玉の悲痛な叫び。
 赤き竜が牙を剥き、桓秀の頭上へと襲いかかる。
 刹那。
 蒙京の動きがぴたりと止まり、直後、彼の前を短剣がかすめた。
「桓秀様!」
 まさしく天の助けともいえる声。
 春華であった。
 彼女は馬を駆ってこちらへと近づくと、勢いそのままに飛び降りた。彼女の乗っていた馬はそのまま蒙京へと突進する。
 それを見て蒙京は、戟を納め後ろへと飛び退いた。体躯のわりにその動きは驚くほどに軽い。
 春華はその隙に藺相覇を抱きかかえると、桓秀の前へと立った。僅かに遅れて藺相玉も駆け寄る。
「春華!」
「春華様!」
 自分の名を呼ぶ二人に、彼女は微笑を浮かべた。
「桓秀様、ご無事で何よりでございます。それに藺相玉、迷惑をかけたな。藺相覇も息はある。気を失っているだけのようだ。心配はいらぬであろう」
 敵が控えているため、彼女はそういうとすぐに微笑を消し、
「藺相玉、すまぬが桓秀様をつれて下がっていてくれぬか。あの男の相手は私が引き受けよう」
「春華様、くれぐれも油断だけはなされませぬように」
「心配するな。藺相玉。私は油断できるほど器用な人間でも強者でもない。相手を全力で倒す。ただそれだけの無骨ものだ」
「それだと、今まであなた様によって敗れた者たちが、浮かばれませんがね……」
「そうか……。それは失言だったな」
 春華は苦笑すると、桓秀の目をみやり小さく頷いた。
 桓秀もそれに呼応して頷く。
 蒙京へと振り返る春華。彼女は怒りを込めた静かな声で、
「またせたな」
 といった。

*第六節

「わしは別に構わんがな。貴様らがそうしている間にも、兵は混乱を沈めつつある。できればあと、四半刻≪三十分≫ほどそうしてくれると、こちらとしてはさらに都合がよいのだがな」
「そうか。では、早々にけりをつけることにしよう」
 春華はゆらりと体を前に傾けたかと思うと、おもむろに駆けだした。
 そして蒙京との距離を見定めると、一切の迷いなく剣で突いた。
 蒙京はそれを戟の腹で横へと払う。
 さらに春華は蒙京の顔めがけて突いた。
 目にも留まらぬ速さで二度、三度。
 しかし、蒙京はその全てを軽々と受け止めている。
 金属の混じり合う甲高い音が何度も響いた。
「蒙京のやつめ、覇で試したように、春華様にも同じことをするなんて。憎たらしいったらありゃしないね……」
 藺相玉は忌々しげに言葉を吐き捨てると、春華へと声を送る。
「春華様、やつは十合目に反撃してきます!」
 春華、蒙京共に相手しかみておらず、彼女の声が届いたかどうか、それは藺相玉にも桓秀にもわからなかった。
 八、九合、そして十合目。
 藺相玉の言葉どおり蒙京の黒赤戟が天へと登る。そして間をおかず、春華めがけて一気にそれは振り下ろされる。
 ――が、受けにまわっていたのは、蒙京の方であった。
 春華の突きのあまりの速さに蒙京は、振りあげた戟で自らを防がざる終えなかったのである。もし、蒙京のこの咄嗟の判断がなければ、間違いなく彼は刺され、絶命していたといっていい。
 蒙京は目の前の女性に視線を定めると、思わずうなった。
 春華は普通の成人女性よりもやや身長は高いものの、体は華奢に見える。蒙京のように怪力がある訳でもなく、藺相覇のような器用さもない。ましてや藺相玉のように、神業ともいえるほどの速さも、彼女は持ち合わせていなかった。常人よりほんの少しずつ優れている、といった程度でしかない。
 にもかかわらず、蒙京にまったくひけをとっていないのはなぜか?
 それは虚実の妙と間。
 そしてそれを支えるずば抜けた胆力こそが、彼女の強さの秘密である。
 敵の虚を見抜く目。虚とみせかけて実をなす胆力。距離の間、利の間、機の間。それら全てが彼女の武器であった。
 驚きの色を隠さないまま蒙京は、一旦後ろへと飛び下がると、僅かに遅れて不敵な笑みをこぼした。
「やりおる。わしの弟を討ち取ったのは、どうやらまぐれではなさそうだな」
 春華はそれには答えず、代わりにふーと一つ息を吐きだし、呼吸を整えると、剣を握りなおした。
「では、ここからはわしも本気で参るとしよう。春華とやら、失望させるなよ」
 蒙京は黒赤戟を頭上でひとまわりさせると、右脇に抱えた。それから息を吸い、呼気を溜めると、一気に春華の顔面めがけてついた。
 闇夜に染まる赤き竜は、咆哮を放って春華へと襲いかかった。
 恐るべき速さと、力の篭った突きである。
 しかし春華も負けてはいない。彼女は戟の向きを見定めると、それをすぐさま剣でいなした。剣響が鳴り、彼女の腕に凄まじい衝撃が走る。
 間髪入れずに振りおろされた蒙京の戟が、春華の肢体へと迫る。
 春華は右足を開き体を斜めへと向ける。戟は彼女の鼻先すれすれを通り空を斬った。
 蒙京の轟撃は幾度も続いた。
 春華は攻撃の中心を巧みにずらしながらその全てを受け流し、さらには隙を見つけるや反撃さえしてみせた。
 そんな春華の華麗なさばきに、藺相玉は三嘆した。
「流石、春華様だね」
 そう語りかける彼女の声に、しかし桓秀の顔は冴えない
「どうしたんだい?」
 不振に思った藺相玉が尋ねると、
「おかしい……。いつもの春華に比べて明らかに動きが鈍い。体力を相当に消耗しているみたいだ。恐らく城囲戦で、自分の体に鞭を打ち続けていたに違いない」
「あれほどの大たちまわりをしているのに、動きが鈍いだって? それはいくらなんでも杞憂ってもんじゃないのかい?」
「いや、絶対におかしい……。なあ、藺相玉、なんとかならぬか?」
「残念だけど、もう私には矢が残ってないからね。今さら剣であの場に斬りかかったとしても、春華様の邪魔にしかならないだろうし……」
「そうか、わかった。では私がなんとか……!? ――こ、こら、何をする!」
 藺相玉は桓秀の両脇を抱えると、小さな体をひょいと持ちあげた。
「何で私がいっても邪魔になるところへ、私よりも武の劣るあなた様がいって役に立つというんだい」
「心配いらん。何とかしてみせる!」
「少し落ち着きな。桓秀様の大切なお方は、十分にお強い人だよ。ここは静かに見守るだけさ」
「離せ! この不忠者が!」
「随分と酷いいい草をするもんだねぇ……」
 藺相玉は、手の中で暴れる小さき公子を眺めながらに思う。
 ――これではまるでただの孺子ではないか……。
 私に男をみせ、この大胆な奇襲を考えだした人物とは到底思えない。ひょっとすると自分は今、何か悪い夢でも見ているのではないか、と。
 聞くにたえない罵声を浴びながら彼女は、ただただ呆れるばかりであった。


*****

 一方、春華と蒙京の打ち合いは続いていた。
 三十、四十と打ち合っても二人の決着はついていない。
 まったくの互角。
 そうまわりからは見えたかも知れない。事実、彼らの攻防は一進一退で、決定的な差はどこにも見当たらない。
 だが、戦っている二人の脳裏には、勝者と敗者の図が徐々に浮かびつつあった。
 それはほんの僅かの差。
 蒙京が春華を押していた。
 そしてその事実は、蒙京よりも春華の方がはっきりと体で感じていた。
 ――体が、重い……。
 腕も足もまるで石のようで、彼女は気力だけで剣を振るっている。
 ここまでの昼夜問わずの連戦で、彼女にはもう体力が残されていなかった。
 何度も途切れかかる意識の中で、彼女はある一つのことを考えていた。
 それは――。
 ――自分を殺すと同時に相手を殺す。
 つい先ほど藺相玉が、桓秀を守るために決意していたことと、まったく同じ内容であった。
 五十四合目。
 春華の意識がまた遠ざかる。
 ――次の一撃で……。――桓秀様、先に逝くことをお許しください!
 彼女は覚悟を決めると、手に持つ剣に意識を集中させ、かっと目を見開いた。
 と、ふいの声が春華の耳へと飛び込む。
「春華あぁぁぁ~! そんなやつに負けるなあぁぁぁ~!」
 あまりの間の抜けた大声に、二人の剣戟がぴたりとやんだ。
 二人ははっと我に帰ると、互いに飛びのき距離を空けた。
「……何だ、あの愚かな孺子は? 興がそがれたではないか」
「ああ、まったくだ……」
 ――あのお方はいつも私のような愚か者に、過度の信頼をお寄せくださる。いつも、いつも、いつもいつも。まったく……、本当にいい迷惑だ……。
 春華はふーと一つ息を吐きだすと、無表情を蒙京に向けた。
 いや、正確には彼女の口元だけは薄っすらと笑っている。

 桃華の微笑。

 彼女はここぞというとき、無意識に口元だけが笑う。それを見たものはこの世のものではない、妖美を感じるという。
 美しくて魅惑の微笑。
「だが……」
 そうつぶやくと春華は剣先で蒙京を突いた。
 蒙京は眼光鋭く、それを戟で叩き折る。
「これで、終わりだ!」
 振り下ろした軌道を辿り、蒙京の戟はそのまま上へと向きをかえ、春華を襲う。
 彼は勝利を確信した、はずであった。
 が、その戟が春華に届く寸前。彼女の折れた剣先が蒙京の首に突き刺さっていた。
「すまぬな……。あのような未熟な主を残したままでは、心残りが多過ぎて先にあの世へ行けそうもない」
 蒙京は何が起こったかもわからぬまま、喉から空気の音だけを鳴らし、ゆっくりと地面に沈んでいった。


*****

 ときを同じくにして、礎の北にある綱紀城では。
 城内にある一室で、崔淤期が椅子に腰をかけたまま、一人具足をはめていた。
 そばにある机の上には、酒盃が一杯おかれている。
「恐らく春岳は、俺の動きを読み、使いにだした凌菲が戻るのを契機と見ているだろう。ゆえにここ数日は警戒しながらも、心のどこかではまだ大丈夫、などと高をくくっているはず。……ふふ、むろん、俺はその逆手を取る。決起は明日でも明後日でもない、今すぐだ!」
 具足をはめ終えた崔淤期はすっと立ちあがった。
「とうとうこのときがきたのだ! 礎の滅びるときが!」
 崔淤期は、机の上においてあった酒盃を手に取ると、口にあて一気に飲み干す。
「今、礎軍は自らの援軍を期待して、指揮は高かくはあろう。だが、到着早々にまさか裏切りに合うとは夢にも思っていないはず。あの老人に恨みはないが、せいぜい俺の今後の肥やしとして、存分に働いてもらうとしようか!」
 崔淤期はそういって高らかに笑うと、酒盃を床へと力任せに叩きつけた。
 陶器が音を立てて砕け散る。
 それを聞いた途端、崔淤期の顔に赤みを帯びた高揚の色がぱっと広がっていった。
 それが酒によるものなのか、はたまた狂気を帯びての陶酔なのか、それは彼にしかわからない。


■第四章

*第一節

 紫苑城へと入った桓秀たちは、謁見の間に集まっていた。
 そこには桓秀、春華、それに藺相姉弟の姿があった。藺相覇は蒙京との戦いで、気を失ってはいたものの、傷口はそれほど深くはなかったため、簡単な処置を受けてこの場に参席していた。
 そして、
「なぜこのような危険な行動にでられたのですか!」
 桓秀が謁見の間に入るや否やの春華の第一声がこれであった。
「なぜ……、といわれても……。お主を助けるためにきただけではないか……」
「ここはまったく戦局に関係のない地。そのようなところにあの寡兵で、しかも公子様自らがのこのこと……。そのあたりのこと、わかっていらっしゃるのですか、桓秀様!」
 彼女の目の前にあった机が、これでもかというほどに大きな悲鳴をあげた。
「う、うむ……。し、しかしだな……」
「いい訳は聞きません。あなた様は公子様なのでございますよ! 王がお亡くなりになり、公子様たちも多く失いました。その上、あなた様までいなくなれば、この国は一体どうなるとお思いですか!」
「か、桓昌がいるではないか……」
 しかられた子供のように俯きながら、か細い声でつぶやく桓秀。
「いい訳は聞かないといったはずです!」
 理不尽とも取れるその言葉に、桓秀は反論することもなく、ただただおびえるばかりである。
 そんなやり取りを見兼ねたのか藺相覇は、二人の間へと割って入った。
「……まあまあ、春華様。結果的に誰も命を落とさなかったのですから、もうそのあたりでお許しになられてもよろしいのではありませんか? それに、まだ戦いが終わった訳でもありませんし、今日はもうみな疲れてもおりましょう。今後についてはまた明日、話すことにいたしませんか? さ、桓秀様もお疲れでございましょう。今宵はゆっくりとお休みくだされ」
 藺相覇はそういうと、桓秀の背をそっと押し、部屋の外へと追いやった。それから彼は春華へと向き直ると、再び口を開いた。
「春華様、少しいい過ぎではございませぬか? 桓秀様はあなた様を救うべく命がけでここまできたのです。しかも我々のような素性の知れぬ者に頭を下げてまで。それなのにあのようなお言葉をおかけなさるとは、少々厳し過ぎるのではございませんか?」
 藺相玉も弟に同意するようにして無言で頷く。
「だからこそ、叱らねばならんのだ……」
 そうつぶやいた春華の表情は、どこか寂しげであった。
「桓秀様はいつもお優しい……。自らが不遇な扱いを受けているにもかかわらずにな。あのお方は、自分が仲間だとお認めになられた者には、ご自身の命を引きかえにしてでも全力でお救いくださる。そんなお方だからこそ、私は厳しく当たらねばならぬのだ。それなのに今回のことについてもそうだ。少しでも本国や桓秀様のご負担をなくそうと、この城を死守していたというのに! あのお方ときたら、そんな私の行為をわざわざ否定なさるかのよう――な……」
 堰をきったように語りだした春華であったが、すぐにはっとした表情を浮かべると、少しだけ頬を赤らめた。
「すまん……。私らしくもなく訳のわからないことをいってしまった。今の言葉は忘れてくれ……」
「いや、別に春華様のお話なら、私は大歓迎さ」
 藺相玉はいつの間にか椅子に座っていて、机に肘をつきその上に顎を乗せていた。
 聞く気満々といった様子である。
 そんな姉と一緒になって話を聞いていた藺相覇も、「あ、では私は漿≪ショウ=重湯・米湯=昔の喫茶のようなもの≫でもお持ちいたしましょう」といって、準備のためさっさと部屋をでていってしまった。
 しばらくして。
 盆に椀を三つ載せて戻ってきた藺相覇も混じり、三人は机を囲むようにしていつの間にか座っていた。
 藺相覇と藺相玉のこの行動は、まるで水が流れるように自然で、春華は断りをついに入れ損ねてしまった。
 彼女はそんな二人の姉弟を眺めながら。
 ――こういう変なところで息がぴたりと合うあたり、やはりこの二人は血のつながった姉弟であるな。……まあ、もっとも。それをいうと二人はいい顔はしないだろうが。
 などと、謹厳が服を着て歩いているような、そんな彼女らしくもなく、春華は含み笑いを漏らしてしまった。
 それが死地をきり抜けたばかりで、気が抜けてしまっていたためなのか、それとも桓秀のあまりに軽率ともいえる行動に、余ほど腹が立っていたのか。
 いずれにせよ彼女は、普段ならば絶対に口にしないであろうはずの自分の過去を、この夜だけは二人に語ってしまったのであった。


*****

 春華は戦争孤児の一人である。
 当時の礎といえば今とは異なり、吹けば飛ぶような南の小国群の一つに過ぎなかった。そのため近隣諸国との小競り合いが多く、領土を奪ったり奪われたりを繰り返す、争いのたえない国でもあった。そしてその争いは過去五十年にも及んでいたのだから、人々の暮らしは押して知るべしであろう。
 そんなどうしようもない小国に忽然とあらわれたのが、今は亡き礎王桓秦であった。
 彼は王に即位するや否や僅か数年で、十数もあった近隣諸国を瞬く間に平らげてしまったのである。
 そしてそれがなし遂げられたのが、丁度十年前のできごとであり、そのときに彼の指図によって大々的に行われたのが、孤児を迎え入れることであった。
 それは桓秦の徳が優れている証ではもちろんあるのだが、急激に膨れあがった国の不平や不満を、取り除くためだけに作られた制度、というのが正しい見方であろう。
 まあそれはともかくとしても、その制度により、春華や崔淤期の元にいる凌菲など、多くの孤児たちが養子となった訳である。
 十年前の春華はその頃より根が実直で、拾ってくれた春岳に強く恩を抱いていた。
 そしてそんな彼女が選んだ人生の道は、武芸を修めて父と同じ将になることであった。だが男尊女卑のこの時代においてその選択は、非常識かつ無謀なものといっても過言ではなく、そのため彼女のまわりの者たちはこぞって難色を示した。
 奇異の目を向けられることもしばしばで、親しく接してくれていた者もどんどんと彼女から遠ざかっていった。
 しかしまわりからいくらいわれようとも、彼女の意志はかわることがなく、頑としてその道を譲ることはしなかった。そのため春岳も、はじめは娘の身を案じ反対していたのだが、彼女のその意志の強さに触れ、すぐに応援する立場へと位置をかえた。
 そしてそんな父がいたからこそ、春華もまた、自分の意思を最後まで貫くことができた、といってもいいのではないだろうか。
 ともあれ春華は不条理ともいえるいくつもの弊害を乗り越えながら、武芸に励んでいったのである。
 彼女は女性にしては背が高く、普通の男と比べても見劣りしない程度に膂力があった。技の飲み込みも早い方で、何より彼女自身のその実直さと意思の強さも相まってか、春華はめきめきとその頭角をあらわしていった。
 そして春華が二十歳を迎える頃には、将の位にある者を除いて、彼女に武芸で勝てる人物は誰もいなくなっていた。
 まあもっとも、将を除くという表現自体も本当は確かではなく、「将を務めるほどの人間が、女性を相手に本気になるなど大人げがない」といった理由から、手合わせをしてもらえなかったに過ぎず、たとえ将を含んだとしても彼女が見劣りすることは、まずないといっていいだろう。
 女性はやはりどこまでいっても所詮女性でしかなく、もちろんそれはただの偏見でしかなかったが、この時代においては残念ながら、それが当たり前であった。
 そのためいくら春華が将としての器や実力を示そうとも、官位がかわることはほとんどなく、代わりとして彼女に与えられたものは、侮蔑、奇異、淫靡といった態度と、視線ばかりであった。
 当然、春華にとってそれは屈辱以外の何者でもなかったが、それでも彼女はその壁を乗り越えるべく、懸命に努力を続けた。
 そしていつしか、それを乗り越えることこそが、最大の目的であるかのように、彼女の視野と思考は狭いものへとかわっていった。
 それはまさに今まで春華が嫌っていた、偏見や差別といった負の感情そのものであったが、彼女自身、盲目のためかそれにはまったく気付いていなかった。
 そんな中、春華にある一つの任務が与えられることとなった。それは当時神童と噂されていた、ある人物の補佐であった。礎の第一公子にして礎王が認めるほどの智恵を持ち、父である春岳がその傳を努める人物。桓秀その人であった。
 そう、この任務は、あの扇揚の街を正すことが目的だったのである。
 このまたとない好機に春華は、頬を染め、喜色を満面に浮かべた。
 むろん彼女のその喜びは、純粋と呼ぶにはほど遠く、どちらかといえば歪なものに近かった。穿ったものの見方しかできなくなっていたこの頃の春華にとって桓秀は、出世のためのただの踏み台にしか映っていなかったのである。
 いずれにせよ春華は、任務を与えられた同じ日に、桓秀と対面することとなった。
 そしてはじめて出会った公子の印象は、彼女にとって最悪なものであった。
 春華がまず最も驚いたこと。それは神童と呼ばれている桓秀が、軽率ともとれるほどに己のことを、何でもべらべらとしゃべってしまう人物だったことである。
 そのためか、彼の態度は年齢よりもさらに低く見え、まるで餌付けされた子犬のようで、礎の第一公子の風格、などいう大層なものはどこにも見当たらなかった。
 そんな公子を見て春華は、憤りと侮蔑を胸中に抱きながらに思った。
 自分は苦しんで苦しんで、ようやくここまで這いあがってきたというのに。この公子は何の苦労もせぬまま今の地位についたばかりか、あまつさえ本当かどうかもわからぬ神童などと呼ばれて慢心している。しかも阿呆といっていいくらいのお人よし。さぞや今まで甘やかされ、不自由なく生きてきたことだろう。
 そして彼女は冷笑を浮かべてこう結論付けた。
 ――こんな孺子、いくらでも騙せる、と。
 しかし当の桓秀は、そんな春華の心中などどこ吹く風といった面持ちで、ことあるごとに彼女へと接してきたのだった。
 自分が今までどう生きてきたか、どんなものが好きで、どんなことを毎日しているのか。そのたびあるごとに彼は自身のことをべらべらと、彼女にしゃべりかけてきたのであった。
 中でも特に多かったのが、彼が数年前に亡くしてしまっている母、明生君のことで、それは繰り返し繰り返し何度も聞かされた。
 当然そんな彼のしゃべりを春華は辟易とした気持ちで聞いていたのだが、そこからなんとなくわかったこともあって、それはどうやらこの公子が自分のことを母と重ね合わせているということであった。
 そしてそれに気付いた頃から春華は、自分の今までの行いが、とかく恥ずかしいものではなかったか、などと思うようになっていて、桓秀の話にも自然と耳を傾けるようになっていた。
 どういう心境の変化があって春華がそうなったのか。単なる彼女の昔からの律儀な性格によるものなのか。はたまた彼女の中に眠る母性によるものなのか。それは彼女自身ですら定かではなかったが、いずれにせよ桓秀を見つめる彼女の目は、次第に好意的なものへとかわっていったのであった。
 そんなある日のこと。
 春華が自分の部屋で寝ていると、戸を叩く音が聞こえたので、彼女が扉を開けてみると、そこには寝具をまとった眠気まなこの桓秀が立っていた。そして彼は「母上……」とつぶやいたかと思うと、春華の手を握りしめ、そのまま布団の中へと一緒にもぐりこんでしまったのである。
 男を知らない春華にとってそれは叫びだしたくなるほどの珍事であったが、流石に頼ってきた少年を無下にはできず、彼女はそのまま布団の中で一夜を共にすることにしたのだった。
 すやすやと寝息を立てて眠るそのあまりにも無警戒な姿を見たとき、彼女はいたたまれなくなるほどの愛おしさを感じた。
 何をどう勘違いして、自分のことをこの少年は信頼してくれているのだろうか? などと思う余裕さえではじめていて、そう考えると何だかこの少年の寝顔が自分の今までの人生を心の底から認めてくれているかのようで、とても嬉しくもあった。
 そしてそんな彼のことを受け入れている今の自分に小さく首を振って否定してみたり、しかしそれが悪い気分ではなく、何だか凍てついていた自分の心が溶けていくような居心地のよさを彼女は感じていた。小さくて暖かな彼の手をそっと握り返して、春華はこの夜その公子と共に眠った。
 その日を境にして春華は、王となることを義務付けられたこの公子のため、全力を尽くそうと、決意を固めたのであった。
 しかし、ここで残念なことが一つ露顕する。
 それは桓秀の本質が、争いを好むものではない、ということであった。
 彼は王になりたいなどという野望は微塵も抱いてはおらず、ただ日常を楽しく過ごしたい、という平凡な考えの持ち主だったのである。
 決意を固めたばかりの春華にしてみれば、寝耳に水な上に出鼻を挫かれるという、別の意味で彼女を悩ませる原因となってしまった訳である。
 そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか桓秀は、あるときこう語った。
「お主は礎でも五本の指に入るほどの武人だ。人がそれを知らずとも、天と地がそれを知っている。だから安心して欲しい。近いうちに必ずやお主は名のある将として、華咲くことになろう――」
 このときの桓秀のこの言葉は、春華にとってまったくといっていいほど理解に苦しむ内容だった。
 だが、彼がそう語って間もなくに起きた眞との戦争で、春華の有名は瞬く間に広がりをみせることとなり、彼女は今の地位を与えられる結果となった。
 そう、二年前の扇揚での敗走は、全て桓秀の策であったと彼女はいうのである。
 もっともそれを当の桓秀にいくら尋ねてみたところで、
「あれは全て春華の機知によるもので、自分はただの愚か者である」
 といって、いまだに認めてもらってはいないのだが。


*****

「だから私はあのお方のために厳しくあらねばならないのだ……」
 春華はそう話しをしめくくった。
 藺相玉は表情を引き締め姿勢を正すと、こう答えた。
「春華様のお気持ちは痛いほどわかります。私も桓秀様が大好きですから」
「べ、別に私は桓秀様のことが好きな訳ではない! ただこの国の将来を考えて、あのお方の人のよすぎる性格に、不安を抱いているに過ぎないのだ!」
 熟れた林檎のように顔を真っ赤にかえて春華は答えたが、藺相玉も藺相覇もそれにはまったく応じない。黙ったまま目を細くして、ただ彼女をじっと見つめるばかり。
「も、もうよい! この話はこれで終わりだ!」
 慌てた様子で春華はそう告げると、すぐに立ちあがる。
 椅子ががたりと鳴った。
 一刻でも早くにこの場を去りたいのか春華は、藺相姉弟に背を向けると入り口に向かってさっさと歩きだしてしまった。
 が、数歩進んだところですぐに彼女は立ち止まると、そのまま下を向いた。
 何か思案している様子である。
 それはしばらく続いたが、春華はおもむろに頭をあげると、二人へと振り返った。
「すまぬが桓秀様の様子を見てきてはくれぬだろうか……? お前たちのいうとおり私も少し叱り過ぎたかも知れぬ……。いつもは父上がそれをしてくれるのだが、今はここにいないので代わりを頼みたいのだが……」
 伏し目がちにそう語った春華に対して二人は、示し合わせたかのように笑顔を浮かべると、「喜んで」といって快諾したのだった。

 部屋を後にした藺相玉と藺相覇は、石畳の上を歩いていた。
 もちろん目的は桓秀の部屋である。
「姉上はどのようにお考えで?」
「何がだい?」
「それはもちろん。あの、指揮を取っては誤まらず、剣を振るわば天下無双、肌は珠玉のようにして、微笑む姿は桃華の美人。とまで歌われる春華様についてです。俺は今日のあの話で春華様の強さの秘密が少しだけわかったような気がしているのですが、姉上はどのようにお考えなのか知りたいと思いまして」
 藺相覇にそういわれて藺相玉は、顔をほころばせた。
「ほう、姉に教えを請うか。我が愚弟にしては中々殊勝な心がけだね」
 姉のそういう態度に慣れている藺相覇は別段怒ったふうでもなく、「ええ、ぜひとも」と言葉を返した。
 藺相玉は満足したように頷いた。
「よかろう。とまあ、そうはいったものの、私もお前と同じ意見さ。春華様は本当に純粋なお方だ。恋にも生きることにもな。だからこそ、みな心から彼女を慕うのだろうな」
「そうですね。しかしまあ、俺には一生縁のない話ではありますが」
「当たり前だ。邪気の塊であるお前には、なろうと思っても土台無理な話だからな」
「実の可愛い弟に向かってよくもまあそうすらすらと、酷いことを仰ることができますな……」
「何いっているんだい。実の弟だからこそ、姉であるこの私が、分相応というものを直々に教えてやっているんだ。こんな弟思いの素敵な姉に、お前はもっと素直に感謝すべきだと私は思うがね」
「左様ございますか……。それはそれは真に恐縮でございます、姉上様」
 気だるげにそう答えた藺相覇であったが、何かに思い当たったような表情をみせると、ふいに笑った。
「ところで姉上。先ほど、桓秀様のことを私も好きだと仰られておりましたが、あのように一途な春華様が恋敵だと、さぞ大変でございましょうな」
 と、仕返しとばかりに悪戯の笑みでいった。
 しかし藺相玉は落ち着いたもので、不遜の笑みを弟に返してみせる。
「いや、そうでもないさ」
「桓秀様と奴隷の契約を結んでいるからですか?」
「あれはただの戯言だよ」
「でしょうね……」
「ほう、わかっていたのか」
「まあ、一応まがりなりにも血は繋がっていますからね」
「ほんと、気分の悪いことだな……。とまあ、それはそれとして。今は、その噂の桓秀様をお慰めすることの方が、先になりそうだね」
 目的の部屋が見えたので、藺相玉は話をかえた。
「本当にお慰めは必要でしょうか……? 桓秀様は聡いお方でございますから。我々がわざわざ出向かずともすでに察しはつけていて、いつもの賢公に戻られていると、俺は思いますがね」
「さあ、それはどうだろうね」
 そう小さな声で答えると藺相玉は、桓秀のいる部屋の戸を叩いた。
 すぐに中から返事が返ってきたので、二人は部屋へと入った。。
 中は椅子と兼用になっている寝台が一つ。あとはいくつかの壁掛けの絵飾りと、青銅でできたひざ下くらいの壷が二つ、部屋の右隅におかれいた。
「おお、丁度二人を呼ぼうと思っていたところだ!」
 桓秀は足早に歩み寄ると、藺相覇の右手を両手で握りしめ、そのまま上下にぶんぶんと振った。
 公子の元気そうな顔を見て藺相覇は、「やはり、心配無用でしたな」とでもいわんばかりの表情を姉へと向ける。
 藺相玉は口端を僅かにあげてそれに応じると、桓秀へと声をかけた。
「何か御用でございますか? 桓秀様」
「うむ、用というのは他でもない、先刻のことだ」
 桓秀はくるりと背を向けると、腰の後ろで手を組んだ。
「あの時の、あの春華の態度。私はどうしでも許せぬのだ。わざわざ助けにきてやったというのに、感謝の一つくらいあってもいいと思うのだ。お主たちもそうは思わぬか?」
 そう語る桓秀の後ろ手は、もそもそとしていて落ち着きがない。
「はあ……?」
 藺相姉弟はきょとんとした顔で、気の抜けた声を同時に返した。
「恐らくあやつは、馴染みということもあってか私に甘えているのだ!」
 桓秀はそういうと、今度は部屋の左右をいったりきたりしはめじた。
「この前のことにしてもそうだ。私が場を和ませようと戯言をいったら、本気で怒ってきたのだ。公子様とあろう者がそのお言葉、聞き捨てなりません。即刻改めるべきです! とこうだ!」
「は、はあ……?」
 それに対してまたもや気の抜けた返事を返す二人。
 その後も桓秀の本気でどうでもいいような愚痴は、延々と続いた。
 途中、退屈過ぎて藺相覇が欠伸をし、それを姉が肘でつついて注意するというような場面もあったのだが、それにはまったく気付かないまま、なおも桓秀はしゃべり続けた。
 ときがたち。
 ようやく桓秀は藺相姉弟の前で足を止めた。
「私は春華には少々お灸をすえてやらねばならぬと考えている」
 それから二人の方へと向き直ると、右手の人差し指をびしりと立てた。
「そこでだ! 今後の戦について、春華には一切事情を伝えないでもらいたいのだ。――もちろんこの意味するところ、二人にはわかってもらえていると思っているが、どうであろうか?」
「ええ、もちろん承知してございます、桓秀様」
 そう答えた藺相覇の顔は明らかに笑っているのだが、盲目となっている今の桓秀にはそれが見えていない。
 桓秀はおもむろに体を右に向けると、壁の上あたりを見つめた。
「少々厳しくはあるが、これも春華のためであると思ってもらいたい……」
 桓秀の見つめる視線の先には、天井と壁の交わっている部分に蜘蛛の巣があった。彼はそのさらに先を見つめているかのようである。まるでその先にこそ、真実があるかのように。
 藺相覇は噴出しそうになる気持ちをぐっとこらえつつ、「了解いたしました」と返答し、藺相玉は、そんな弟をただただ呆れ顔で眺めていた。


*****

 二日が経過した頃。
 礎の綱紀城を目指し、桓秀軍は南へと進路を取っていた。
 前をいく春華と桓秀を見やりながら、藺相玉は弟につぶやいた。
「まったく、貴様というやつは……。つくづく悪趣味だな」
「何がでございますか姉上? 私のように天を愛し、大地に遊び、誰からも好かれる人間は、どこを探してもそういないと思いますがね」
「嫌われる、の間違いではないか? いや、そんなことはどうでもいい。いっているのは前をいかれるお二方のことに決まっている」
「先日の桓秀様と春華様のことですか?」
「そうだ」
「であるならば、なおさら失敬ですな姉上。よく考えても見てくだされ。大胆な奇策を練る人物かと思いきや、このような子供じみ――、いや……、純粋なお考えをもったお方です。いらぬことは申さず、このまますくすくと大きくなっていただけるよう、我らは暖かく見守ろうではありませぬか。それこそが真の忠臣というものでしょう」
「これが我が弟かと思うと……、本当に情けないことだ」
「そんなに仰るなら姉上こそ、ご自分で桓秀様をお止めすればよかったのでは?」
「何を馬鹿なことを。そんなことをすればお二人が、上手くいってしまうかも知れぬではないか。お二方の邪魔をするつもりは毛頭ないが、恋敵の手助けをするつもりも当然私にはないね」
「恋敵? あのような子供じみ、いや、公子様を? 本気ですか?」
「もちろん本気に決まっている。英才にして未熟。そこが桓秀様の魅力なのだから」
「どっちが、悪趣味だか……」
「何かいったか? 愚弟よ」
「いえ……。よき臣下に囲まれて、桓秀様も幸せなお方だなと申したまでです」
「ほう、それはお前にしては珍しく、まともなことをいうではないか」
「ああ、それはどうも……」
 姉の皮肉に藺相覇は気だるげな顔で応じていると。
 一人の兵が馬を駆ってあらわれた。彼は慌てた様子で下馬すると、そのまま桓秀の元へと走り寄る。
「た、大変でございます、桓秀様! さ、崔淤期様が……、崔淤期様が礎を裏切りました!」
「何だと!」
 馬上から飛び降りた春華がいち早くそれに答えた。桓秀もそれに続いて下馬する。
「それで……、父上はご無事か!」
「突然のできごとに城内も混乱しておりましたので仔細までは……」
「……そうか」
 流石の春華も、このときばかりは不安を覗かせずにはいられなかった。
 だがそんな自身よりも、さらに不安げな顔を浮かべている桓秀を目にした途端、彼女はすぐに表情を改めた。
「桓秀様、大丈夫でございます。まだ我が軍が負けたと決まった訳ではございませぬ」
「だが、春華よ……。この策は私が考えたものだ。だからその策のせいで春岳を巻き込んでしまったのはこの私だ……。春岳にもしものことがあったら……、私はどうしていいか……わからぬのだ……」
 だんだんとか細くなっていく声。目にはいっぱいの涙が溜まっている。
 そのあまりにも頼りなく、縮こまってしまった桓秀の肩を見て、春華はぐっと下唇をかみしめた。そして「どうしよう、どうしよう」と繰り返し小さくつぶやく彼の肩を、春華はおもむろにぎゅっと抱いた。
「心配いりませぬ桓秀様。我が父は老いたりとはいえ、礎の誰もが認める名将でございます。私などよりも余ほど上手くにことをなしましょう」
 そういって優しく抱きしめる春華の中で桓秀は、人目も憚らずにいっそう大きな声をあげて泣いた。
 それに合わせるようにして春華もさらに強く桓秀を抱きしめる。
 まわりにいる兵士たちは、その二人の姿を我がごとのように見つめていて、中にはもらい泣きをする者もいた。
「やれ、やれ……、我が軍は孺子のあつまりだな……」
 冷めた表情で藺相覇はつぶやいた。
 それに藺相玉はたしなめるようにして応じる。
「臣のために主が泣き、主のために臣が泣く。よきことではないか」
「よきこと……? では一緒にお泣きになられればよろしいではないですか、姉上」
「何を馬鹿なことをいってるんだい。そんなことよりも、そろそろお二人をお止めしてくるんだよ。よき光景を見るのも悪くはないが、今の我が軍にはそれを許してくれる時間はないんだからね」
「えっ! 俺がですか……? そんなことをすれば俺がみなに悪役として見られそうで、正直嫌なのですが……」
「大丈夫だ。それについては案ずる必要はない。悪役とは善人が演じるものだからな。悪人のお前が演じたところで何もかわりゃしないよ」
「へぇ、へぇ、左様でございますか……」
 藺相覇は肩を一つすくめると、悲壮にくれる桓秀たちの元へと歩きだした。


*第二節

 靖軍は礎の綱紀城を落とした後、南方へと攻めくだってさらに二城を抜いていた。
「この先には礎の滅亡がまっておる! わしは太っ腹だ! 一番乗りした者には多大な富と、婦女の花を好きなだけくれてやるぞ!」
 呂券の言葉に兵たちも、勢いよく呼応する。
 兵の指揮は今までにないほど大いに高まっており、恍惚とした雰囲気さえ漂いはじめていた。と、そんな中。
 たった一人だけその勢いに、水を差す者がいた。
 靖の智将、泉超であった。
「呂券様、少々様子がおかしくはありませぬか?」
「様子がおかしい? 何か理由でもあるのか?」
 呂券はそう答えたものの、顔には明らかに不満の色が見て取れる。
「はい。老いたりといえども春岳は、守りに関しては名手でございます。崔淤期が綱紀の城門を開け放ち、我らを迎え入れたため、あの城から撤退したのは理解できます。ですがやつらはその後の二城さえも、我らに易々と明け渡しております。崔淤期の言によれば、礎軍に残された兵はほとんど残ってはいないず。にもかかわらずにこの逃げっぷり。少し妙だとは思いませぬか?」
 その言葉を聞いた靖のもう一人の将、単度が、臆病者でも見るかのような目を泉超へと向けた。
「何を抜かすとかと思えば……。いつもいつも訳のわからぬ絵空事ばかりぬかしおって。やつの逃げっぷりが妙だと? ふん、馬鹿馬鹿しい……。やつらが城を守らず逃げておるのは、それをなすための猶予を我らが与えておらぬからに決まっておろうが。そんな下らぬことで迷っておっては、眞や崔淤期に先を越され、笑い話にすらならぬことに陥るわ。今考えねばならぬこと。それは我らが一番に礎の首都を落とすことだ。それ以外に何があるというのか」
 賢しら顔でいう単度に、泉超の顔は見る見るうちに真っ赤に染まっていった。
「……こ、この猪武者めが! 理屈にもならぬ論を抜かしおって! 勝利に近づきつつある今だからこそ、自重せねばならぬということが、貴様にはわからぬのか!」
「二人とももうよさぬか……。味方同士で争うなど敵に理するだけであろう。それにわしの腹はもう決まっておる。――単度の言やよし! ここで手をこまねいて眞や崔淤期に先を越されるなど、敗北よりも後悔しそうだからな」
「で、ですが!」
「泉超よ、もうそれ以上指揮をそぐようなことはいうな」
 靖で最高の力を持つ呂券の声である。不安と不満を多大に抱えつつも泉超は、
「……かしこまりました」
 といって従わざる終えなかった。


*****

 一方、ときを同じくして。靖の後方を進む崔淤期は、泉超と同じ懸念を抱いていた。
「扶佐様、少し妙でございます……。これほど春岳めを追っているのに、いまだその本隊を捕らえられませぬ。これは礎軍が各城を捨て、ひたすら南へと逃げている証拠でございます。まるで我らを誘い込むための餌のような……」
 その進言に、扶佐は僅かに右の眉根をあげた。
「それは、敵に伏兵がいるということをいっているのか?」
「いえ、そこまではわかりかねます」
「崔淤期殿、それは少し考え過ぎではなかろうか? 貴殿の言を借りれば、礎の別軍は伍軍が引き受けていて、彼らに兵の余裕はないはず。であるならば、今の春岳軍に伏兵を操る力が残っているとは、到底思えぬが……」
「はい、確かに仰るとおりでございます。ですが、私はどうしても腑に落ちないのでございます。春岳は礎国の誰もが認める稀有の名将。その彼がろくに抵抗もせぬまま逃げ続けているのです。しかも今我らがいるこの場所は、崖に囲まれた細道でございます。今さら急いだところで、靖が礎への一番のりであることにかわりはありません。ならば我らが最悪の事態に備えておいたとしても、何も困ることはないと思われますが」
 今は誰もが勢いに乗る勝ちどきである。
 なぜそのようなときにこの男は、臆病者とも取れる慎重論をいいだすのか。
 扶佐は一瞬鼻で笑いたい衝動に駆られたが、しかしその考えをすぐに改めた。
「確かに崔淤期殿の仰るとおりだ。例えそれが杞憂であったとしても、ただの笑い話で損にはならぬだろう。それよりもしくじる方が余ほど恐ろしい。了解した。部下たちには最悪の事態に備えて、用心しておくよう伝えておこう」
 そう答えた扶佐は、すぐさま伝令を全軍へと送った。
 見事なまでの即断即決である。ここが呂券とは決定的に違う彼の美点であり、そしてこの一瞬の判断が、結果として彼を救ったといえよう。

 扶佐と崔淤期は警戒しながら進んでいた。そのため眞軍と靖軍との距離は離れる一方であったのだが。
 その距離は唐突に縮まることとなった。
「靖軍が礎軍に追いついたのでございましょうか……?」
 かたわらにいた凌菲が、崔淤期へと尋ねた。
 遠くから兵が争うようなが音が聞こえてきたためである。
「分からん……。とりあえず、警戒だけはおこたるな」
「はっ」
 凌菲に注意を促すと崔淤期は、少し前をいく扶佐の元へと馬を走らせた。
 それを察して扶佐が、崔淤期よりも先に笑みと共に口を開いた。
「これは崔淤期殿の予感が無駄に終わったかも知れませぬな」
「そうであってくれればよいのですが……」
 崔淤期はいまだに晴れぬ不安を胸に、曖昧な返事を返した。
 そして彼は、はっとした。
 細道の左右にある崖の上。そこに人影を目にしたのである。
「扶佐様、この騒ぎは伏兵によるものです!」
「……崔淤期殿。もう少し詳しく説明してはくれないだろうか? 一体何がどうなっているのか」
「はい。崖の上に兵と思われる人影が複数見られました。当の春岳軍は逃げているのにでございます。これは敵の伏兵だと考えるのが自然でしょう。どこから沸いたてでた兵かは説明できかねますが、今はここで憶測を重ねるよりも、目の前の事実をまずは受け入れた方がよいと思われます」
 その言葉に納得しかけた扶佐であったが、ある疑問が頭を過ぎったため、彼はそれを口にする。
「崔淤期殿、よもやとは思うが……、まさか我らのことを裏切ってはおるまいな?」
 そう語った扶佐の目は、どんな小さな嘘をも絶対に見逃さないというような、鋭い視線であった。
「扶佐様。私はあなた様の軍の真っ只中にいるのでございます。虚偽かどうかはそれで察してはいただけないでしょうか?」
 崔淤期はそれに動揺するでもなく落ち着いていた。扶佐の言葉が一時の感情によるもので、本心ではないことを、彼は十分に承知していたからだ。
 と、ふいに。
 空をきる音がなり、一本の矢が地面に突き刺さった。
 次いでもう一本。さらにもう一本。
 そしてその数は、瞬く間に十、百と増えていき、気付けば数えきれぬほどの矢が眞軍に降り注いでいた。
 崔淤期と凌菲はすぐさま剣を抜き、矢を弾き返した。しかしそれは彼らだからできる芸当であり、一般の兵たちは抵抗する間もなく次々と倒れていく。
 それは扶佐にも同じことがいえた。
 突然にして、扶佐の乗る馬が大きな音を立てて倒れたのである。引きづられるようにして彼は地面へと崩れ落ちた。
「扶佐様!」
 慌てて馬を寄せる崔淤期。
「……心配はいらぬ。馬を射られただけだ」
 崔淤期は、すぐさま扶佐を自分の馬へと拾いあげた。
「手間をかけるな……崔淤期殿。先ほどは詮ないことをいってしまった。許されい」
「いえ。そのようなこと、気にしてはおりませぬ。それよりも今はこの危機をどうやって乗りきるかを、考えるのが先決かと。このまま進むか、それとも退くべきか……」
 この間も矢は激しさを増していた。まわりの兵たちの被害も増えつつある
「崔淤期様! あれを!」
 凌菲の突然の声に自分の思考を中断させられた崔淤期は、一瞬不快を示したものの、彼女の指差す方へと視線を移した。
 そしてそれを目にした途端、彼は憤怒の表情をあらわにする。
「……き、貴様あぁぁ!」
 いるはずのない人間。それが崔淤期の視線の先に立っていたのだった。


*第三節

 李朱は、伍国への帰路を進んでいた。
 王である彼女の顔には悔しさがありありと浮かんでいる。
「まんまとしてやられたな士庶よ……」
「悔しいのでございますか? 李朱様」
「ああ、悔しいさ。あれほどの大軍を自ら送り込んでおいて、まさか講和を持ちかけてこようとは……。しかもやつら、それが成立するや否や、北へと反転していきおった。まるで我が軍の裏切りなど、絶対にありえないとでもいわんばかりにだ!」
 李朱はやり場のない憤りをぶつけるかのように、自分の左の手のひらを右の拳で勢いよく突いた。
 そんな李朱を見て士庶は彼女に聞こえぬよう、一つため息を吐きだすと静かに口を開いた。
「では、今から軍を戻して礎を攻めますか?」
 その言葉を聞いた李朱は途端に目の色をかえると、士庶を睨みすえた。
「士庶よ、お前は私を不義の王にでもするつもりか!」
 士庶は自分が予想したとおりの答えに頷くと、すぐに頭を垂れようとした。
 が、彼の意図を察した李朱は、慌ててそれを手で制した。
「……いや、こちらこそ許せ。最初から士庶に悪気はなかったのだろう? 私が未練たらしく悔しそうな顔を続けていたから、そのようなことをいったのだな?」
 自分へと怒りの視線を向けたかと思うと、すぐにこの行動である。
 この若き王の資質に、士庶は喜びを感じずにはいられなかった。
「恐れ多いことでございます、李朱様。……確かに、我らは礎の策に踊らさたのは事実でございます。ですが、我が軍は一兵たりとも損なうことなく、多くの戦果を手に入れたのもまた、事実でございます。そう考えれば今回は引きわけといっても、いいのではございませんか?」
「引きわけか……」
 そうつぶやくと李朱は雲の隙間から覗く青空へと顔を向けた。その仕草はまるでさえずる小鳥を、嬉しそうに眺める少女のようである。彼女はしばらくの間、両の瞳を虚空へと向けていたが、おもむろに士庶へと視線を戻した。
「いや、士庶よ。やはり我らの負けだな」
 宝石のような赤い唇で、彼女はそういった。
「なぜでございますか?」
「ふむ、そうだな……。それはこの多過ぎる戦果にある。もし仮に講和の条件がこの贈物の半分であったとしても、我らは礎との講和を喜んで結んだであろう。十分ではないにせよ、それでも礎を滅ぼして、眞や靖から得られる報酬に比べれば破格であるからな。そして我が国の事情をあれほど正確に読み抜いていた礎のことだ。当然そのあたりの事情も承知していたはずだろう。にもかかわらず、やつらはその倍の贈物を、何のためらいもなく我らに差しだしてきている。そうでなければ我が国を立て直すことができないと、いわんばかりにな」
「……流石にそれは買いかぶりではございませぬか?」
「いや、士庶よ。お主も本当はわかっているはずだ。礎には確かに智者がいる。しかもとても気持ちのよい智者が……。正直、この大陸に巣食う王族や、それに連なる者共は、みな私利私欲のために、国を奪うことしか知らぬと思っていた。それがこのような形で裏切られようとはな……」
「……確かに、そうでございますな。それにしても、これほどの智を練る者とは一体、どのような人物なのでございましょう」
「今回礎は、自国の存亡をかけて戦を行った。その中で思いもかけえぬような人物が、名将、名君として誕生したのやも知れぬな。例えば……何といったか……、――そう愚公と呼ばれておった人物とか」
「まさか……」
「――まあいずれにせよ、礎に大きな借りができたことは確かだ。今すぐにとは流石にいかぬが、このお礼は必ず返すとしよう」
「そうでございますな。それにはまず、伍国の復興が何よりですね。それが済めば、後は煮るなり焼くなり李朱様のお好きなように」
「ああ、もちろんだとも。もういらぬと、やつらが泣き顔を揃えて懇願するくらいに、たっぷりと返してやるさ」
 そういって李朱は微笑を浮かべた。
「私はあなた様のお考えであるならば、どんなことでも従いますゆえ、なんなりとお申し付けくだされ」
 と、士庶は敬愛の眼差しを込めていったのだが。
「何? ……ふふ、いったな士庶よ。よもやその言、二言はあるまいな?」
 いつの間にか李朱の顔は、微笑から悪戯な笑みへと変化している。彼女が最も得意とする笑みの一つである。ちなみに士庶が彼女からこの笑みを向けられて、今までろくな目にあったためしはない。
 だから流石の腹心も、
「いや、これは失言でした……。今から少々、言葉を改めてさせていただいてもよろしいでしょうか……?」
 と、苦笑を浮かべざる終えない。
 しかし李朱は当然のようにして、その可憐な首を左右へと振った。
「いいや、駄目だ。私はお前の先ほどの言葉、しかと心にきざんだからな!」
「そ、そうでございすか……。なるべくなら、お手柔らかに願いたいものです……」
「うむ。善処しよう!」
 伍国の王は力強く答えた。むろん彼女にその意志はない。
 士庶もそれがわかるだけに不安を隠しきれないのだが、口から白い歯をこぼし涼やかに笑う彼女を見て、「まあ……いたし方あるまいな……」と、小声で吐露したのだった。


*****

「――これは、これは……。崔淤期殿ではございませぬか」
 伯費は何食わぬ顔でそういった。
「よくも抜けぬけと……。貴様、俺を騙したな!」
 崖の上を睨みつけると崔淤期は、ありったけの憎悪をぶつけた。伯費のとなりには礎の公子、桓昌が立っている。
「崔淤期殿。何か誤解されているのではありますまいか。私は貴殿との約束どおり、伍軍とは一切争ってはおりませぬぞ」
 惚けた様子で語る老将に、崔淤期の怒りが収まるはずもなく。
「では伍をどうしたというのだ! よもややつらに譚陽を明け渡した、などとは抜かすまいな!」
「ほう……、礎国を裏切った貴殿が、礎のことを気にかけてくださるのか? いやはやこれはまた何とも、痛み入りますなあ……。しかしご心配めされるな。伍には丁重にお帰――」
「扶佐様!」
 崔淤期は伯費の言葉を待たずして、眞王の名を叫んだ。それを聞いた扶佐はかたわらにいた兵に、すぐさま目で合図を送った。
 間をおかずして崔淤期は馬首を翻すと、馬の尻を素早く手で叩いた。馬はいななきをひとつあげると、崔淤期と扶佐を乗せたまま弾けるようにして駆けだした。
 先ほど合図を送られた兵は、手に持った大きな赤色の旗を振りはじめていて、それを見た他の眞兵たちは戦を途端に放棄すると、そのまま逃げだしたのであった。
 それを見て伯費は舌打ちする。
「崔淤期のやつめ……! 自分の策が敗れたと悟った瞬間、何の躊躇もなく逃げだしおった。しかもこの逃げっぷり、こちらの動きを知らぬまでも余ほど警戒していたと見える。流石は八駿の一人。と、いいたいところではあるが、そうもいってはおれぬわな……」
 そういうと伯費は、となりに控える兵へと目を向けた。
「おい、靖軍の様子はどうか?」
「は、先ほどの伝令によりますと、単度と靖王呂券は春岳様が、泉超は他の者が討ち取ったそうにございます。また、靖の軍勢も当初の勢いはすでになく、我が軍が優勢であるとのこと。最早、敵に我が軍を押し返す力は残っていないと思われます」
「首尾は上々というわけか……」
 後顧の憂いがたたれたことを知り、伯費は一つ頷いた。それから桓昌の方へと振り向くと、右膝を地においた。
「桓昌様、体勢はほぼ決しました。ですが靖軍と交戦中の春岳殿を、眞の追撃に向かわせるには今しばらくのときが必要となりましょう。ゆえに眞の追撃は私の麾下の者を差し向けたいと考えておりますが、ご許可いただけますでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。全てお主に任せる」
 伯費は左手で右拳を握ぎり、胸の前へとかざすと、鋭く「はっ!」と答えた。それからすぐに立ちあがると、後ろに控えていた兵たちに向かって声を張りあげる。
「我が軍はこれより、掃討戦に移る。――全軍、突撃!」
 礎兵はその命に怒号で答えると、雪崩を打って崖を下りはじめた。その勢いはすさまじく、中には崖から転落する者さえもいた。
 そんな自軍の無様な姿に、伯費は苦笑を浮かべた。
「礎兵ともあろう者が、愚かにも焦りおってからに……」
「それはいたし方あるまいて。我らは尊き多くの人材と、偉大な王を同時に失ったばかりか、眞、靖、伍の三国から領土を侵されたのだ。その重圧や不安は、押して知るべしではあるまいか?」
 重圧や不安を感じていたのは兵たちだけではなく、我々も同様ではなかっただろうか、と、暗に桓昌はいったのである。
 どこか達観したような桓昌のそのものいいに、伯費は大きな頷きをもって返した。
「確かに桓昌様の仰るとおりでございます。正直を申せば私自身、先見を見だせなかったこの戦で、まさかこうも見事な勝利を得られようとは、夢にも思いませなんだ。これはまるで……、そう――」
「――幻を見ているような、といったところか……」
「はい……。まさにそのとおりでございます」
 伯費は思う。
 ――たとえ礎の歴史を全て紐解いたとしても、この規模で、これほどの逆転劇はまずどこにも載ってはいまい。これぞまさに神算鬼謀というものであろう。
 そして伯費はこうも思った。
 ――なればこそ、やはりあの公子は危険なのだ……。決して一国に、二王は並び立たぬのだから……、と。
 そんな伯費の気持ちを察してか知らずか桓昌は、
「のう、伯費よ。桓秀と私、王としての器はどちらが上であろうか?」
 と、問うた。
「そ、それは……むろん、桓昌様でございます」
 ふいの問いに伯費は対面を保てないまま、そういった。
「伯費よ。正直に申してはくれぬか? 私はこれほどのことは決してなせん……。だから私はお主の本当の言葉が聴きたいのだ……」
 正すようにして、問いを繰り返す桓昌。そんな彼を見て伯費は、これ以上の虚偽は無意味だと悟り、心の内を吐露しはじめた。
「桓秀様は戦において、稀代の英雄となられる素質をもったお方だと、私は思います。むろんそれは、今や礎の誰もが認めるところでございましょう。――ですが、大国であるこの礎におきましては、それだけでは絶対に治めきれぬのもまた、事実でございます。必要以上に自らは前にでず、部下に全てをお任せになる桓昌様のようなお方こそ、王たるに相応しいと私は思います。桓昌様が幼少の頃よりお仕えさせていただいている私がいうのですから、その点につきまして何の間違いがありましょうか」
 そう力強く語った伯費の言葉に桓昌は、「そうか……」と、短くいった。


*第四節

 礎軍の追撃を振りきった崔淤期と扶佐は、馬の速度を緩め、帰路に向かっていた。
 散り散りになってしまった眞兵たちが、集まってくるのを待つためである。
 そして彼らの意図どおり、ときが経つにつれ、軍は徐々に整いはじめていた。
「くそっ、それにしても忌々しい……。伯費ごときにここまでしてやられるとは……」
 憤りの塊を口からこぼした崔淤期であったが、己の頭に血がのぼっていることに気が付くと、ふいに苦笑した。
 ――いや、本当の敵は桓秀か……。
 振り返ってみれば最初から最後まで、崔淤期は彼の手のひらで踊らされていたことになる。
 ――愚公に踊らされた稀代の無能者。なとんと無様なことか……。
 そう考えると崔淤期には、自嘲を込めて最早笑うしかなかった。
 一方、代わりの馬へと乗り換えた扶佐も、崔淤期のとなりを進みながら、もの思いにふけっていた。
 そしてふとあることに思いいたり、崔淤期へと語りかけたのだった。
「崔淤期殿」
「何でございましょうか?」
「どうだ。その方、我が国にこぬか?」
「私が……、でございますか? ひょっとしてこのような恥晒らしを、眞国にて使ってくださるということでございましょうか?」
「ああ、そうだ」
「それは大変にありがたきお言葉……。ですが、そのようなことをなされては、無能者を招きいれた王として、扶佐様の名に傷が付くことになりましょう」
「いや、その心配はなかろう。確かに礎には驚くべき智者がいた。そしてその者のせいで我が軍は大いに窮地に立たされた。だが、その驚くべき策略を、崔淤期殿は事前に進言してくれた。だからこそ、我が軍はこの程度で済んだといっていい。だからあなたも智者と呼ぶに相応しい人だと、俺は思っている」
「いや、これはなんとも……。扶佐様は私が思っていた以上に懐の深いお方でございますな……。ひょっとすると私は、後の名君と呼ばれるであろうお方と話をしているのかも知れませぬ」
「むろんだ。この先俺は名君と必ず呼ばれる。そして淤期殿は名宰相という訳だ」
「名君に名宰相ですか……。それはまた、夢のような組み合わせでございますな」
「では、この話受けてくれるな?」
「……いえ、それはやはりできかねます。私は自国を裏切り、眞と靖を戦に巻き込み、多くの兵を死なせてしまった身。例え扶佐様がお許しになられましても、眞の民が決して許しはしますまい」
「なあに、この俺が許せば何の問題もない。蒙京には悪いが、やつがこちらにこぬせいで、俺たちは今このような目にあっているのだ。この責を問えば必ずや、やつの力は地に落ちよう。そうなってしまえば、他の者などいくらでもいい含められるというものだ」
 どこか吹っきれたように快活にしゃべる扶佐。
 となりで黙って聞いていた凌菲も嬉しそうな顔を浮かべている。
 彼らの気持ちに崔淤期の心も思わず揺れた。
 ――が。
 それはすぐに収まり、彼の表情は見る見るうちに警戒の色へとかわっていった。
「残念ながら……、扶佐様がお許しくだされても、神算鬼謀の者は許してはくれないらしい……」
 彼らの眼前にあらわれたのは紛れもなく礎軍であった。
「ふふ……、あれほど先を見通していたやつなのだから、あの程度の死地はやはり生きて戻るか……」
 やはり崔淤期には笑うしか道はなかった。


*****

「……桓秀様。私はこの状況がいまだに理解できかねております。できますれば桓秀様自身のお口から、この状況が一体どのようなものであるかを、ご説明願いたいと思っているのですが」
「な、何のことだ……?」
「むろん敵を追っていたはずの我々が、なぜ敵を待ち伏せする形になってしまっているのか、ということをでございます」
 表情を一切崩すことなく、穏やかにそう語る春華であったが、明らかにその目は不振の色で満ちていた。
「う、うむ。それは……だな……。私にも正直わからぬ……な。だがまあ、そうだな。一つ言えることは、春岳が名将だということくらいであろうか……」
 桓秀には彼女の心の内が手に取るようにわかるため、たじろがざる終えない。
「ほう、左様でございますか。ではなぜ桓秀様は、生死も分からぬはずの父が、この状況をお作りになったと、お思いなのでございましょう?」
 彼女の口調は問い、というよりも最早脅しに近い。
「うっ……、うむ。それはだな……。しゅ、春岳が名将だということだな!」
 桓秀の語尾は完全に裏返っている。
「……お二方とも、お話のところ大変申し訳ないのですが、今は目の前の敵をどうするか考えませぬか?」
「う、うむ、そうだな! まずは目の前の敵を倒さねばならぬ。春華よ、あれこれいっている前に、敵を打ち破る算段をまずは考えよ!」
 藺相覇の助け舟に、桓秀はにべもなく飛びついた。
「わかりました。では仔細につきましては後でゆっくりと、父を交えてお話したいと思います」
 が、謹厳実直で知られる春華が、その程度で許すはずもなく、彼女は一語一語はっきっりと口にした。
 そんな彼らのやり取りを、終始楽しげに眺めていた藺相玉であったが、敵がどんどんと近づいてくるのを見て、流石に表情を改めた。
「桓秀様、時間がありません。殲滅なさいますか?」
「……ん? あ、いや、それには及ばぬ。敗残の者をしとめるのは私の性に合わない」
「では、崔淤期めはいかがいたしましょう?」
「ふむ。そうだな……。これ以上抵抗せぬのであれば無理には――」
「桓秀様!」
 桓秀がいい終わるのを待たずして、春華の厳しい声が飛ぶ。それから彼女は諭すように言葉を続けた。
「彼は礎の者を多くに殺め過ぎました。確かに桓秀様のその優しさは、我が国にとっては貴重な良薬にございます。ですが、それは度を超して寛大に与え過ぎると、必ずや毒へとかわりましょう。桓秀様が本当に礎国の民のことを思うならば、何とぞ判断を誤りませぬように」
 そういってまっすぐに見つめる春華の眼差しに、桓秀は言葉を発する代わりに頷くと、兵に向き直りこういい放った。
「みな聞いてくれ! 恐らく敵に戦う意思はもう殆ど残っていないはずだ。だからこちらも無理には戦おうとはせず、抵抗する者のみを相手し、逃げる者には道を作っておいてやってくれ。そうすれば自ずと敵は崩れていくはずである。――但し、崔淤期だけは絶対に逃がしてはならん! もちろん、生死のほどは一切問わぬ!」
 そういい放つと桓秀は、藺相姉弟へと体を向けた。
「では、指揮は私が取りましょう」
 と、藺相覇が進みでたが、藺相玉がさらにその前へと進みでた。
「何いってるんだい。お前みたいな怪我人は、はっきりいって戦地では邪魔なだけだ。お前はその足らない頭で自身の不甲斐なさを十分反省しながら、桓秀様を護衛してな。指揮は私が取るよ」
 しかしそんな彼女に桓秀は首を振った。
「いや、藺相玉には一つ頼みたいことがある。もちろん、譚陽にいた藺相覇にはできぬことを頼みたいのだ」
「ほう、愚弟にはできないことを? それは面白そうだね。桓秀様の頼み承知した」
 桓秀はそれに頷きを返すと、それからかたわらにいる春華へと小さいがはっきりとした口調で語りかけた。
「春華よ、悪いが指揮を頼まれてはくれぬだろうか?」
「もちろんでございます。桓秀様」
「お主にはいつもつらい役ばかりを与えてしまうな。……許せよ春華」
 春華は微笑を浮かべると、無言で小さく頷いた。
「――全軍突撃!」
 春華の声で礎軍は一斉に動きだした。

 春華の指揮の元、両軍は入り乱れて剣戟を振るった。
 最早この戦いは、敗者と勝者の決まった戦である。そのため礎軍は桓秀の指示どおり、敵兵に対して必要以上の攻撃は加えず、あえて退路を作ってやった。そうすることで、敵の戦意を挫こうとしたのである。
 そのもくろみは見事に功を奏し、敵は砂城がごとくに崩れはじめた。
 そんな中、指揮を取っていた春華は、扶佐とその後ろをいく崔淤期を目にする。途端、彼女はそちらへ向きをかえると、すぐさま馬を駆った。
 途中、扶佐とすれ違うが、それに彼女は見向きもせず、崔淤期のみを目指した。
「……お、おのれ小娘が! 俺を無視したこと、いつか必ず後悔させてやる!」
 春華は扶佐の憎悪の声を背にしたまま鞘から剣を抜くと、崔淤期へと斬りかかった。
 しかしその剣が、崔淤期に届くことはなく、横から入った一本の剣によって阻まれてしまった。
 凌菲だった。
 彼女は崔淤期を庇うようにして、春華の前へと割って入ったのである。
「崔淤期様に手だしはさせない!」
 その隙に崔淤期は方向をずらし馬を走らせる。
 すぐに追おうとした春華であったが、凌菲に邪魔をされ、それが叶わない。
 春華は強い眼差しを凌菲へと向けた。
「凌菲よ。なぜお前はあのようなものを庇う。私事であるがゆえに今まで口だしすることは控えていたが、私はお前が崔淤期にされていた仕打ちは知っているつもりだ」
「それがどうした……? あのお方は孤児である私を拾い育ててくださったのだ。そのご恩に報いるためならば、私はどんな仕打ちだってたえられる!」
「……孤児であった頃に救われたというのであれば、私も同じだ。だからお主の気持ち痛いほどよくわかる。だが我が義父と、あの男とではそれがあまりにも違い過ぎる」
「何が違うというのだ! いいや決して何も違うものか! あのお方は純粋過ぎるほどに純粋なだけだ!」
「純粋……? あの男が……か?」
「うるさい! もうこれ以上のやりとりはたくさんだ……。いいから立ち会え!」
「いや、それは御免こうむりたい。それよりもどうだ? 今からでも遅くはない、桓秀様の下で働かぬか? お主は忠義に熱く、腕も確かな人物。桓秀様も喜んで迎え入れてくれよう」
「仮に……、仮に私の立場に春華様がおいでになられたとして、あなた様は主をおいて敵におくだりになられますか?」
「そうか……。それほどまでにお主は崔淤期のことを……。――わかった。もうこれ以上は何もいうまい。私も全力をもってお主と立ち会うことにしよう」
「お相手、感謝する!」


*****

 難を逃れた崔淤期は、両軍から離れたところにある林の間道を、馬で抜けていた。
「……確かに、桓秀は天才だ。窮地の臣を救い、伍と手を組み、靖と眞を敗走させた。――だが、それでもまだまだ甘い。肝心の首謀者一人、捕まえることができなかったのだからな。智者としてのやつの思慮もこのあたりが限界のようだ。……ふふ、この程度であれば眞にて俺の再起も十分に可能だろう。礎よ、今は一時の勝利に酔いしれているがいい! この礼は必ず倍にして返してくれる!」
 そうしゃべり終えると崔淤期は、弾けたように笑った。
 ――が。
「残念だけど、そんな機会は永遠にこないね」
 そういうが早いか、飛来した矢が崔淤期の前で、深々と地面に突き刺さった。
 その矢を見て彼は咄嗟に馬を止める。
「……誰だ?」
「誰? そうだねぇ……。桓秀様と昨今に主従の誓いを交わした者、とでもいっておこうかね」
 そう答えると声の主は、崔淤期の前へと姿をみせた。
 やや短めではあるものの、夜露を浴びたかのように艶やかな黒髪と、目鼻立のいい顔。肢体は雌鹿のように引きしまっており、その身には、縁取りが白く、波紋状になった皮の鎧をまとっていた。
 藺相玉である。
 彼女は小振りの弓を左手の人差し指で、くるくるとまわしていて、ふと、何かを思いついたらしく、不敵ににこりと笑った。
「――ああ、もっとも、主従というのは、私が主で、従が桓秀様だけどね」
 自分でいったその言葉が、彼女は相当に気に入ったのか、「ふむ……。これからの挨拶は全てこれにするか……」などといいながら、肩を揺らせて飽きずにくつくつと笑っている。そのため背に取り付けている矢筒までもが揺れており、まるで一緒に笑っているかのようであった。
「ふざけた女だ……。だが、まあいいだろう。その余裕がいつまで持つか……、――この俺が試してやるわ!」
 そう叫ぶなり崔淤期は勢いよく馬腹を蹴った。
 馬は一つ嘶きをあげると、藺相玉めがけて突進した。
 それはまさに疾風で、相手に一切の猶予を与えないほどに速かった。
 非凡な者だけがなせる即断即決の動きである。
 勢い駆って迫る崔淤期。
 だがそれに慌てることなく藺相玉は、背にした矢の一本を素早く右手で掴んだ。
「遅い! 今さら弓など射らせるものか!」
 と、崔淤期がしゃべり終えたときにはもう、藺相玉の放った矢は、彼の額を深々と貫いていた。彼が非凡であるならば、藺相玉もまた非凡な才を持つ者であった。
 女性と舐めて掛かっていた崔淤期は、驚きの表情のみを残して、馬上から地面へと崩れ落ちた。
「確かにお前がいうとおり、剣を合わせていれば私の負けだったろうね。何たってお前は礎が誇る八駿の一人。……けどまあそれはあくまで剣で勝負したらの話さ。弓なら私も負けるつもりはないからね。油断大敵。うちの阿呆も最近それを学んだところだよ。せいぜいお前も次はからは気をつけることだね――って、もう聞こえてないか……」
 そう軽口を叩いてはみたものの、死地をきり抜けたばかりの藺相玉の表情は、まだぎこちなく強張ったままである。
「……さてと、そろそろ春華様も決着を付けたころかね」
 自分の頬を藺相玉はさすりながら、視線を遠く主戦場のある方へと向けた。


*****

 凌菲は春華の剣技に圧倒されていた。
 ――あの華奢な体つきの一体どこに、これほどの膂力があるというのか……。
 剣撃を重ねるたび、彼女は春華との力の差を、嫌というほどに痛感させられていた。
 と、ふいに凌菲は剣を下へとおろした。
 間をおかずして、彼女の鼻腔を桃の香りがくすぐる。
「……春華様、私を愚弄するおつもりですか?」
 凌菲はしぼりだすようにして、そう言葉を吐き出した。
 彼女も幼少の頃より剣を学んできた身である。真剣な場において、これほどの力量差があり、なおも自分は生きている。その不自然さに凌菲が気付くのは当然であった。
「いや……、やはりあなた様はお優しい人だ。しかし……、なればこそ、命をかけた武人にとって、それはあまりに非礼というもの!」
「そうだな……。お前のいうとおりだ。私が人にされて屈辱と思うことを、この私自身が行っているな……。凌菲よ、何度も無礼、すまぬな……」
 春華はそうつぶやくと、意を決したかのように表情を改めた。
 凌菲もそれにならって剣を構えなおす。
 ときをおかずして、二人は互いの距離を詰めるべく駆けだした。
 凌菲の見る春華の顔はほとんどが無表情で、微かに口元だけが笑っていた。

 ――桃華の微笑。

 ただただ綺麗だと凌菲は思った。
 ――ああ……、あのときのあのお方の顔もこんなふうだったな……。
 雪降る夜に微笑を浮かべ、そっと差しだされた手。それを握りしめたとき、凌菲は信じられない温かみを覚えた。それは今でも彼女の心に残っている。
「崔淤期様……」
 彼女がそうつぶやいた瞬間、二人の剣が交錯する。
 そして。
 相手を背にしたところで凌菲は、静かに地へと伏した。
 彼女のその死顔は、あまりにも幸せそうだった。


*第五節

 戦を終えた翌日。
 礎では桓昌が王となるための戴冠≪たいかん≫の式が行われようとしていた。この式の中では、今回の戦の褒章についても行われる予定である。
 そしてその式典へと向かう途中の桓秀の前に、いきなり姿をみせた男がいた。老齢にして強靭な肉体を誇る伯費であった。
 彼は玄端≪げんたん=礼服。冠、衣、裳共に黒く、布は裾を絞らずに一杯に使ったもの≫に身を包み、胸の前では両手を組んで、頭を深く垂れていた。
「桓秀様、城外に馬を用意しております。すぐにお逃げくだされ」
 と、伯費はいった。
「そうか……。私はこの式典で殺されるのだな」
 そう答えた桓秀も、伯費同様、玄端に身を包んでいる。
「左様でございます。式の最中、私が手をあげるのを合図に、兵が一斉に雪崩込みます。罪は桓昌様の命に背き、独断で春華殿の救出に向かったことでございます」
「なるほどな……。しかしなぜそのようなことを、わざわざ私に告げるのか? 黙っていた方が余ほどにことが運びやすいであろうに」
「しごく最もなご意見でございます。が、それですと、我がよき友である春岳が、絶対に許してはくれませぬ」
「なるほど……。であるならば、春岳もこのこと、知っているのだな?」
「恐らく春華殿も」
「そうか。ならばなおさら私が逃げる必要もなくなったな……」
「なっ!? 何ゆえでございますか?」
 ここまで淡々と話していた伯費であったが、桓秀のそのあまりにも予想外の言葉には、流石に驚かずにはいられなかった。
 しかし桓秀は別段かわったそぶりもみせず、
「もう……親しきものや、肉親の争いは見たくない……。だから私はそれでいい。……なあ、伯費よ。私が死んだ後、どうかもうこれ以上の争いが起きぬよう、心を配ってはくれぬだろうか? 問題も多いが、兄上にはそれができるはずだから……」
「あなた様がそれをお望みになるのであれば、この伯費、微才なれど全力を持ってそれに尽くしましょう」
「……そうか。礼をいう。ああ、それともう一つ。春岳たちには何があっても動じるな、と伝えておいてくれないか? 私がいっても構わぬのだが、ここまでしてくれたお主にいらぬ懸念を抱かせるのも、悪いのでな」
「承知いたしました。桓秀様の仰せのとおりに」
 伯費はそう答えると再び、恭≪うやうや≫しく頭を垂れた。


*****

 戴冠の式は粛々と行われていた。
 大広間には武官、文官がずらりと立ち並んでいて、その視線の先では冠を受ける桓昌の姿があった。新たなる礎王の誕生に、みな万感の思いを胸に抱いていた。
 そして式は滞りなく終わり、次に戦の褒章が行われることとなった。
 まず、第一功労者である桓秀の名が呼ばれた。
 それを耳にした途端、藺相覇は表情を改めた。そして右どなりにいる春華へとささやきかけた。
「春華様、俺はやりますよ……。桓秀様のいないこの世など、あってなきようなものですからね……」
 藺相覇を挟むようにして立っていた藺相玉も、それに頷く。
「こればっかりは、私も覇と同意見だね」
 藺相姉弟のただならぬ雰囲気に、春華は慌てた様子で二人の方へと顔を向けた。
「待て、お前たち。それは絶対に駄目だ。これ以上、礎にとって貴重な人材を失う訳にはいかない。――もし、それでもゆくというのならば……、私がお前たちを止めねばなるまい。それが桓秀様のご命令なのだから」
 春華の目には、殺気が宿っていた。
 だが、藺相覇はそれにまったく動じる様子はない。
「申し訳ありませぬが、そんな命令、聞けませんな」
 藺相玉もそれは同じで、ただ黙って春華を見つめていた。
 春華と藺相姉弟との間に流れる不穏な空気。
 が、それは春華の次の一言で、途端にかわることとなった。
「……なあ、二人とも。これは桓秀様が礎での内乱を鎮めるため、命をとしてなされようとされていることなのだ。確かに不条理ではある……。が、それでもお前たちにわからぬ理屈ではないと思うのだ。不条理な汚名を受ける人間は一人だけでいい……。そのこと、わかってはくれぬだろうか……?」
 そう語った春華の顔は、酷く悲しげである。
「し、しかし、春華様!」
 藺相覇としても彼女にそんな顔をされてしまうと、これ以上の強気にはでられず、そういい返すのが精一杯であった。
 そしてそんな二人のやり取りを静かに見つめていた藺相玉は、ふーと、大きなため息を一つ吐きだした。
「覇よ、もうやめよう。いくら春華様を責めてみたところで、それは筋違いの何ものでもない。――それに、本当に今一番おつらいのは、他ならぬ春華様なのだから……」
 戸惑いの表情を浮かべる弟を、藺相玉はそう諭したのであった。
 その間にも、桓秀の勲功が粛々と読みあげられていた。そしてそれが終わり、いよいよ桓秀の罪状が読みあげらることとなった。
 と、そのとき。
 藺相姉弟の目の前で、信じられないできごとが起こった。
 突然にして春華が、桓昌に向かって走りだしたのである。
 春華の急な行動に、誰もが動けない。
 その中を彼女は颯爽と駆け抜け、桓昌目指し石段をあがっていく。
 王に危機が迫っている。
 ここにきてようやく悟った幾人かの者たちは、慌てて桓昌を庇うべく、階段をあがる春華の前へと躍りでた。
 彼女の前に立ちふさがった者たちは、武芸にすぐれた王直属の兵である。
 が、それらを春華は腹、首、腕、足と瞬時に隙を見極めると、右手に持っている剣の鞘で素早く突いた。彼女の左手には抜き身の剣が握られたままである。
 兵たちは次々と、なすすべもなくにその場へと沈んでいく。
 彼女は草一つない野を駆けるがごとくに進んでいて、その足はまったく止まらない。
 そんな春華をただ呆然と見つめていた藺相覇は、ふいに我に返ると破顔した。
「おいおい……、春華様の頭と手足には、別の生きものが住み着いているのか?」
「まったく、桓秀様は可愛いお方だが、春華様も相当に可愛いお方だね」
「これは姉上、恋敵として争うには少々手強い相手ですな」
「何いってるんだい。あのくらいのことを仕出かす娘じゃなきゃ、私の相手は務まらないよ」
「それは負け惜しみですか、姉上?」
「度量が広いといっておくれ。こうなったら仕方ない。私たちもいくよ!」
 藺相玉がいうが早いか、二人は駆けだしていた。

 春華は階段をあがりきり、桓昌まで後もう少しというところまで近づいていた。
 その目はまっすぐに桓昌だけを見据えている。
 桓昌のかたわらでは伯費が王を庇うようにして身構えている。
 ――あと二人。
 彼女にとって桓昌への私怨などは一切ない。恐らく桓昌にしてみてもそれは同様であろう。
 走る春華の脳裏にそんな思いが一瞬浮かんだが、すぐに彼女はそれを霧散させる。
 ――それがこの世の常であるのだから。
 春華はぐっと奥歯をかみしめると、さらに足に力を込め、地面を蹴った。
 王が弑される。そう誰もが思った。
 春華の手にも力が入る。
 が、それはふいに終わりを告げた。
 彼女の目の前に、春岳が立ち塞がったためであった。
 彼は自分の娘を睨みすえると、
「この親不孝者めが!」
 と、大喝した。
 流石の春華もこれには止まらざる終えない。
「ち、父上……」
 だが彼女には、最早退くことはままならない。だから、
「どうか……、不肖の娘をお許しください!」
 そういうと春華は、春岳の腹部を鞘で突いた。
 しかし春岳はそれを抜き身の刀身で無造作に受けると、そのまま絡めとり右へと素早く払った。鞘は弾き飛ばされ、からころと音をたてて床に転がった。
「この愚か者が! 殺意もないそんな鈍らな技で、わしを仕留めることなどできる訳がなかろうが! 貴様も春家の名を持つ者ならば、どんな敵に対しても全力を持ってかからぬか!」
 老いたりといえど元、八駿が筆頭、春岳。
 齢六十を過ぎてもなお、気迫は衰えるどころか益々盛んであった。
「父上……」
 それに押されるようにして、春華は足を一歩退いた。それでも彼女はそこで踏み止まると、左手に持っていた剣を右手に持ち直し身構えた。
「春華様!」
 藺相玉、藺相覇も駆けつけ春華に並ぶ。
 三対一。
 春岳、そして春華らの間に緊張が走る。
「三人ともいい加減にしろ!」
 それは決して大きな声ではなかったが、よく通る声だった。つられて宮内がしんと静まり返る。
 声の主は他ならぬ、桓秀であった。
「王の前だぞ! しかもこのような祝いの席で肉親が争うなど、言語道断! みな即刻、剣を収めよ!」
「……し、しかし、桓秀様」
「くどいぞ、春華!」
 桓秀のその態度は、いつもの弱々しい少年のものではなく、凛とした偉丈夫のそれであった。
 対称的に春華は、いつもの覇気が影を潜めており、その姿は、易々と手折れてしまうのではないかと思えるほどに儚く、そして弱々しかった。
 彼女は剣を真っ先にその場に捨てると、重い足取りで桓秀の元へと歩み寄った。
 それから彼に寄り添うようにして並ぶと、王である桓昌へと顔を向け、膝をついた。
「私は大逆を犯しました……。どうか、私にも桓秀様と同じ罰を……」
 それを聞いた桓秀は、「……この、愚か者が」と、春華にだけ聞こえる小声でつぶやいた。
 春岳は剣に鞘を収めると、列席へと戻るべく静かに歩き出した。
 藺相玉、藺相覇は、桓秀たちの元へと動こうとするが、
「こちらへこい。我らが王は英邁だ」
 と、すれ違いざま春岳に、小声で釘を刺されてしまった。
 春岳の有無をいわせぬ迫力に、藺相姉弟は困惑しながらも、彼のとなりへと並んだ。
 騒ぎが収まったことを確認した伯費は、無言のまま一つ頷くと、待機させていた兵を招き入れるべく、手をあげる素振りをみせた。
 が、
「伯費よ、その必要はない」
 と、急の声がかかった。
 伯費は一瞬、王が何をいわれたのかがわからなかった。だから彼は戸惑いの表情を浮かべたまま、桓昌を見やった。
「王よ、今何と……?」
「伯費よ、その必要はないといったのだ」
 桓昌は言葉を繰り返した。
「で、ですが!」
 むろん、それで伯費が納得できるはずもない。
 そんな彼を諭すようにして、桓昌は語りはじめた。
「私は今回の戦の中で、つくづく思ったのだ。今の世を正せるのは桓秀こそ相応しいと。だから私はこう決めていた。自分が王になったならば必ず、私自らの手で桓秀に王位を譲ろうとな」
「な、何を仰っておいでですか! ……おお、そうか。王は少しお疲れになられているのだ。だからそのようなことを!」
「伯費よ。お主は私の愚かな我がままを、我慢して今までよく聞いてくれた。これが最後の我がままだと思って、受け入れてはくれぬだろうか?」
 桓昌は目をそらすことなく伯費を見つめている。
 そしてそんな王の目に触れた伯費は、全てを察したかのように表情を改めると、こう問い返した。
「桓昌様、本当に悔いはございませぬか?」
 その言葉に深く、そしてゆっくりと桓昌は頷いた。
 伯費は何かをこらえるようにして上を向いた。それから両の拳をぐっと握りしめると、おもむろに王へと顔を向けた。最早その目に迷いはなかった。
「桓昌様の我がままの中では……、一番厳しきご注文でございますな……。ですが、このことで私は再度確信いたしました。あなた様はやはり、名だたる王に勝るとも劣らぬ名君であらせられるということを」
「伯費よ、今までのこと、心より感謝する」
 桓昌はそういうと、長年連れ添ってくれた臣へ、深々と頭を下げた。
 それから彼は静かに身を起こすと、桓秀へと向き直った。
「桓秀、並びに春華よ。お主たちの罪は相当に重い。よって私はお主たちに以下の刑を課す。桓秀は王となり、生涯をかけてこの国のために尽くし、その罪をはらせ。春華はそれをたがうことなく補佐することを命ずる」
「……ですが、兄上!」
「馴れ馴れしいぞ桓秀! これは王の命令である。貴様が最後まで王に従うというのならば、この命に従えぬ道理はないはずだ!」
 じっと兄の顔を見つめていた桓秀であったが、僅かに目を潤ませると、
「御意に」
 と、確かな声で答えた。

 天下に名を轟かせることになる考武王桓秀が、今ここに誕生した瞬間であった。
 そして、たった一日の王であった賢隆王桓昌もまた、名君を見いだした名君として、後世まで語り継がれることになるのである。



*第六節

 式が終わり。
 平穏が訪れたはずの春家の邸内に、王の名を幾度も呼ぶ、春華の怒なり声が鳴り響いていた。それはどんどんと近づき、やがて春岳、藺相玉、藺相覇の三人の居る部屋へと辿り着いた。
「父上! 桓秀様はどこにおられるのですか!」
 春華が入ってきて、まず最初に口にした言葉がそれであった。
「桓秀様ならいつものように、桃花園におられるのではないか。それよりも春華よ、そんなに血相をかえてどうしたというのか?」
「わ、わざわざ問い返すまでもなく、父上にはお察しのことでございましょうに!」
 むろん春華がいっているのは、綱紀城が陥落したときに桓秀が打った、芝居のことである。
 そして春岳は、愛娘のそのものいいがよほどにおかしかったのか、彼にしてはめずらしく相好を崩し、大声で笑った。
「ち、父上!」
「ああ、……いや、これはすまなんだ。つい、な。……だがまあ、春華よ。そろそろ許してやってはどうであろうか。眞との最後の戦からもう幾日も経っておるというのに、少々しつこ過ぎるのではないのか?」
「いや、それはなりませぬ。私は桓秀様のご負担にならぬよう、今までは何も申さずにいましたが、全てが終わった今となっては、はっきりと申すべきことははっきりと申しておかねば、今後の桓秀様のためになりません!」
「だからそれを許してやれと、いっておるのだが……」
「春岳様の仰るとおりだよ。あの程度の戯言、お許しになられてはいかがですか? そもそも当事者である春岳様が、それをお許しになられているというのに。いささか度が過ぎると、私も思いますがね」
「それができぬのだ、藺相玉。臣を騙すなどという愚劣な行為を許容していては、今後の桓秀様の王としての成長に、悪影響を及ぼすこと、はかり知れん!」
「――はて? 私は春華様が桓秀様をお認めになられたからこそ、あのような行為に及んだのだとばかり思っていたのですが」
「……藺相玉よ、何がいいたい?」
「あのとき、春華様は危急を告げる使者の報告を本当に信じておられましたか? 陥落しそうな地にわざわざ自国の危急を告げる使者など、普通送るものでしょうか? 私には春華様がそのことに気づかぬとは到底思えないのですが」
「あ、あのときはあまりのことに、気が動転していたのだ……」
「何? それは本当なのか? お主が戦のおりに気が動転したなどとは、珍しいこともあるものだ。父としてそのときの気持ちがどのようなものであったのか、ぜひとも聞いておきたいのだが、よいか?」
「ば……、馬鹿馬鹿しい! そのような戯言に付き合っている暇など、今の私にはありませぬ! もう私は桓秀様を探しにいきます!」
 春華は足早にして、その場を去っていってしまった。こんなところに僅かでもいられるものか! とでもいわんばかりに肩を怒らせながらにであった。
 そんな春華を楽しげに眺めていた藺相玉であったが、彼女が去るとその視線を春岳へと移したのだった。
「春岳様も相当にお人が悪い。純粋な娘をからかうようなご発言をして。春華様をおからかいになるなど、本意ではございませんでしょうに」
「いや。わしはわりと本気でいったのだがな。普段はそつがなく万事をこなす娘が、ああも動転している姿など、滅多に見られるものではないからな」
「私は、普段は厳格であらせられるあなた様の、そのお心こそがもっと興味深いのでございますが……」
 藺相玉はそう答えると、となりで黙ったままの藺相覇へと顔を向けた。
「ところで覇よ。普段は止めても戯言には必ず首を突っ込むお前が、なぜ今回は何もいわずに黙っていたんだ?」
「いやあ、俺は春華さまのお怒りも、少しはわからぬでもないかな、と思ってしまったもので。つい話しに入りそびれてしまいました」
「ほう、それは一体どういう了見だ、我が愚弟よ?」
「確かにあのときの桓秀様の振る舞いは、全て演技でございました。ですが、それは中々に真に迫るものがありました。仔細を知らねば私も騙されていたかも知れぬほどです。だからこそ、春華様も心打たれて桓秀様をお抱きになったのだと思いますし、そう考えれば春華様のあのお怒りも、もっともではございませぬか?」
「覇よ……、お前はまだまだ見る目がないな……」
「と、いいますと……?」
「桓秀様は心が通じ合わなかったまでも、肉親を多くに失われたのだ。そして春華様もまた、その姿がたまらなく愛おしかったんだよ」
「だからあのようなことを? では何ゆえ怒る必要があったのでございましょうか?」
「傑物とはいえ、春華様もまだまだそのお心は少女っていうことだね」
「やれやれ……。俺の知らなかったことが今日は次々と明らかになっていく。大変勉強になる一日だな……」
「それについては私も同感だね。名君、名将の類とは、得てして変人が多いということ。それが今回のことでよくわかったからね」
「おお、確かに! まったくもって。姉上の仰るとおりですな!」
 と、二人は声をあげて笑った。
 そしてそれをとなりで聞いていた元、八駿の春岳は、複雑な表情を浮かべていたのだった。

 後にこの姉弟は、新たなる八駿として、多くの活躍をし、礎国の歴史に名将の名を残すこととなる。先刻、藺相玉がいったとおり、名君、名将の類とは、得てして変人が多いということを、この姉弟自らが証明してみせるのである。


*第七節

 春華が桃花園に辿りつくと、そこには桃の花が視界一杯に咲いていた。あたりは甘い香りに満ちている。
 彼女が桃の木の下へと目をやると、そこでは桓秀がごそごそとしていて、よく見るとそれは何かを埋めている様子だった。
「桓秀様!」
 その声に桓秀の肩がびくりと跳ねあがる。慌てて彼は春華へと振り向いた。
「な、何だ春華か……。そんな大声をだしては驚くではないか……」
 春華の顔を見た途端、笑顔を浮かべる桓秀。
 そのあまりにも安心しきった無垢の目に、春華は自身の行動が、何だか馬鹿馬鹿しく思えてしまった。
 彼女はふぅ、とため息を一つ吐きだすと、桓秀のかたわらへと歩み寄った。
「何をなさっておられるのですか?」
「うむ、父上と兄上、それと崔淤期と凌菲の遺品を埋めているのだ」
「桃の木の下にでございますか?」
「そうだ。ここは母が眠る場所だからな」
 ――ああ、そうか。ここには明生君様の遺品も埋められているのだな。だからこのお方はいつもここへ足をお運びになられていたのか。
「それにしても桓秀様、なぜ崔淤期や凌菲のものまでも、一緒に埋められるのですか? 彼らは礎を裏切り、王や公子様たちを殺められた大罪人です。悔しくはないのでございますか?」
「もちろん、悔しいさ……」
「ではなぜ?」
「うむ、そうだな……。そうでもしなければ、彼らを許してやる者が、ここには誰もいなくってしまう、からだな……。それに……」
「それに……?」
 その問いに桓秀は手を止めると、桃の花に目をやった。
「聞くところによると崔淤期は、母のことを好いていたらしい。いや、正確には好いていた者同士であったというべきであろうか……。そしてそれを邪魔したのがときの王であった父ということになる。もしそれが事実ならば、崔淤期を憎むのは筋違いではないだろうか、と私は思ってしまったのだ。そう考えたら、私には彼らを憎むことなど、到底できない。もしそんなことをしてしまえば、この国はまたどこかで、流さなくてもいいはずの血や涙を、多く流してしまうような気がしてならないのだ……。すまぬな、しごく単純な理由で……」
「単純……、でございますか……」
 幼い頃から多くの不条理に晒されてきた春華は、人を許すことの難しさをよく知っている。なればこそ、それを容易く単純といいきってしまう若き王に、彼女は改めて驚きを覚えずにはいられなかった。
 遺品を埋め終えた桓秀は振り向くと、彼女へと語りかけてきた。
「……なあ、春華よ」
「何でございましょうか?」
「我が国の者たちは、このたびの戦で私のような愚公を必死になって庇い、そして助けてくれた。それに比べ、眞の兵も、靖の兵も、自分たちの王になどは目もくれず、我先にと逃げだしていた。私は随分とよき部下を持ったものだな」
「はい。本当によき部下たちばかりでございます」
 春華は頷きながら、よき主に恵まれているからこそにございます桓秀様。と、心の中で付け加えた。
 これは奇しくも彼女の父、春岳が、紫苑城へと向かう桓秀の姿を見て、思わずこぼした言葉と同じであった。人の思いの血脈とは、血筋ではなく、ひたむきな思いの中にこそ、宿るものなのかも知れない。
「私はこの戦いで、強く思ったことが一つあるのだが、春華よ聞いてはくれないだろうか?」
「はい、構いませんが」
「う、うむ……。それは大いに不遜な考えなのだが……。それでもよい……か?」
「はい、構いません。それはどのようなことでございましょう?」
「うむ……、それはだな……」
 よそよそしく戸惑いの表情を浮かべる桓秀。
 そんな煮えきれない彼の姿を見ても春華は、揶揄や嘲弄をしようとは思わなかった。なぜならこの若き王が、何か途方もないことをこれから語ろうとしているのだと、暗に彼女は直感していたからである。だから春華はこの王が語りだすまで、いくらでも待とうと思った。
 静寂の中で、小鳥だけがさえずりを奏でている。
 意を決したように桓秀は口を開いた。
「私はこんな下らぬ戦乱の時代など、早く終わってしまえばいい、とそう思っている。子が親を裏切り、人と人とが奪い合い、略奪と差別がたえず行われるこの時代にだ。それを当たり前のように見つめ続けるだけの王たちに、私は憤りさえ覚える。だから私はこう考えたのだ。どこの国の王もそれをしないのならば、私がしてしまおうと……」
 そこで一旦言葉を区切ると桓秀は、春華の瞳の奥を覗き込むかのようにして彼女を見つめ、それからゆっくりと言葉を続けた。
「……なあ春華よ、私にそんな大それたことが果たしてできるだろうか? いや、もちろん私一人でどうこうできるものでないことは、よくわかっているつもりだし、みなの力が必要だと思っている。もちろん、お主の力も絶対に必要だ! 春華の意見を聞いた上で、ことは慎重に当たらねばならず……、いや、そもそも春華が……こんな夢のような話に付き合ってくれるかどうか……」
 ふいに、静かでやさしい風が春華の背をとおり、桓秀へと吹き抜けていった。後にはほんのりと香る桃の花のにおいだけが残った。
 春華はにっこりと微笑むと、静かに口を開いた。
「桓秀様、いえ、王がそう思われるのならば、この世はきっとかわりましょう。むろん、私も王が歩む道ならば、それがどんなに険しくとも、喜んでお供いたします」
 そのあまりにも淀みのない彼女の答えに桓秀は、恥ずかしそうな顔で視線を逸らすとすぐに背を向けた。そして、
「そうか――」
 と、たった一言だけ彼は、つぶやいたのだった。


 遠く古い書物の中に『桃源郷』と呼ばれる世界がある。その世界では一切の争いごとがなく、季節はいつも暖かな春であり、そこに住まう人々はもちろんのこと、草花や木、虫や動物たちといった類までもが、みな永遠に幸せであるという。

 『桃の花』は、桃始華と呼ばれ春をあらわす言葉となっており、春華はその名を抱く人である。一方の桓秀も、永久に枯れることのない智恵を持つ者の意として、後に『源智』と呼ばれることになる人である。
 もちろん現時点では、この二人が持つ『桃源郷』の名のように、よき時代がくるなどと断言することは、難しいだろう。だが、それを二人が信じ続けている限り、よき時代がこないと断言してしまうこともまた、難しいのではないだろうか。
 なぜならば、二人はいつもでも、一緒なのだから――。

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