女流絵師 家守
幼い頃から絵を描くのも見るのも大好きで、女だてらに絵師を目指し、修行に励んでいた。
私の実家は反物を商う商家だった。父はあまり商才が有るとは言えなかったが、他の店にはない趣味の良い色や、柄を仕入れてくると評判で、苦労しない程度には繁盛し、生活に余裕がある私は思うまま絵を描くことを許された。ただ最初から自由に描けたわけではなく、庭に侵入してくる猫や雀を題材に地面に小枝という画材を使い誰に見せるでもなく描いていた。父が地面に描かれた絵を偶然見つけ、目をむいて驚いたのを私は今でも覚えている。
それから私に筆と紙を与え、好きなものを好きなだけ書きなさいと言ってくれたし、高名な絵師の絵を見る機会もつくってくれた。その中に私が師事する事になる絵師の絵もあった。
私が十歳になると弟が生まれた。家中後継ぎが出来たと喜ぶ中、私は父に一幅の掛け軸を指さし、この絵師に弟子入りしたいとわがままを言った。長男となる弟も生まれ、私が婿をとらなくてもいいと考えたからだ。父は少し寂しそうにあと二年したら絵師に会せよう。それで認められたのなら良いと許してくれ、私はいっそう絵に励んだ。そして二年後、先生に住み込みの弟子入りを許され、弟子入り後は家の家事、絵の具練り、墨摩り、先生の手伝いをしながら、先生の描き方を必死に盗む。筆の運び、色置き、墨の濃淡、呼吸。
先生の弟子は私を含めて四人、もちろん私が一番下っ端。それに輪をかけ女だからと雑用を言い渡され、絵を描く時間が取れなかったが、それでも絵中心の生活は楽しかった。
兄弟子たちの絵は、先生に弟子入りを許されるだけあり、精細で、巧みだ。私の絵など及ばぬほどに。
先生は絵の指導をすることは無く、弟子たちが先生の描き方を見て盗んだ。先生は私を弟子というよりも実の娘の様に可愛がってくれた。先生に妻は居たが、絵が売れるようになってからの結婚だったらしく、子供は出来なかったという。それだから余計に私は大事にされた。
弟子入りから三年が経ち私は一五になった。絵も上達し兄弟子にも負けない、いや生き物の表現なんかは優っているほどになったが、作品を描くことはまだ許されていなかった。兄弟子たちは先生の紹介で何作か作品を描き、独立も目前だった。私は毎晩あたえられた部屋で日の目を見る事の無い絵を描き続けた。
そんなある日、先生の古いなじみだという僧侶が訪ねてきた。先生は嬉しそうに私達を紹介し、一番の兄弟子を自分の後継者だからよろしく頼むと言った。僧侶もとうとう後継者を決めたかと頷く。それから僧侶は先生の家に泊まり、先生や兄弟子たちの作業を眺めて過ごしていた。私が雑用で僧侶のそばに行くと僧侶が優しく声をかけてきた。
「君はここに来たばかりかい?」
「いえ、三年になります。なかなか作品を描く機会が頂けなくて……」
「ふむ、あいつが弟子入りを認めたのだ。才は有るのだろう。どれ習作を見せてごらん」
私は雑用を済ませ、僧侶を自室に招き、自分の描いた絵を見てもらうと、僧侶の目が、初めて私の絵を見た父と同じ形になった。
「あいつ、歳食って目が曇ったか?」
僧侶は小声で何やら一言呟くと、文机の前に座り小筆をとる。さらさらと流れるように一匹の動くのを我慢している生命力にあふれた様な家守を描く。そして、僧侶は家守を見て頷くと、夢中で手元を覗き込んでいた私に笑いかけ頑張れよと言って立ち上がり部屋から出て行った。私は僧侶を見送りもせず、兄弟子に夕餉の準備はまだかと怒られるまで家守をじっと見つめていた。僧侶は翌日家人に何も伝えず消えるように居なくなった。先生は、あいつは仙人なんだ初めて俺に絵をかいてくれた時から全く変わってないと言った。
それから私は家守の絵を模写し続けるうちに、作品を描けないせいで溜まっていた先生や兄弟子への不満がなくなり、無心に僧侶の家守に近付けられるように何枚も描いた。それから不思議なことが起き始めた。寝る前に描いたはずの家守の模写が朝には白紙になっているのだ。最初兄弟子か先生が部屋に入ったのかとも思ったが、朝餉を作るため一番早く起きる私より先にこの部屋に来るのは考えにくかった。それは毎日続き、七日もすると紙を補充しなくても良いからこれはこれで便利だなと気にしなくなった。
異変はまだ続く、寝る前に描いた家守の絵以外、過去の習作もどんどん消えていった。束ねて紙紐で閉じてある束まで全部白紙になった。ただ恐怖はなく、何者かが夜な夜な部屋に侵入し、習作を白紙と交換しているのを想像すると恐怖より、笑いが出る。妖怪白紙戻しが来ているのかも、そう考えると現場を見てみたいという好奇心が出てきた。そして好奇心を満たそうと家守の絵を模写したあと、灯りを消し、布団に入って寝たふりをしてみた。
草木も眠る丑三つ時、文机の方から何か気配を感じた。障子が開いた様子は無かった。私は枕元の行燈に火を入れる。部屋がほのかに明るくなるが人影はない、文机を見るが僧侶と私の家守の絵があるだけで他には何もない。筆や硯は箱にしまって整理してある。と思っていると家守の絵の変化に気が付いた。左側に僧侶の描いた家守、右には私の描いた家守、模写しているので同じ格好のはずの絵が左右で違う。左の絵は頭を私の方に向けているのに対し、右の私の家守は尾を向けている。極めつけに私の家守の胴体は齧られたかのように半円上に欠けていた。それを加味して二枚の絵を見ると、僧侶の家守が絵から抜け出して隣の私の家守に食いつき食事をはじめ、私が起きるのを感じ取って慌てて戻ってきたとわかった。
「そうかそうか、妖怪白紙戻しは君だね」
声をかけると僧侶の家守は観念し私の瞬きで動き、いつも通りの格好に戻っていた。私は僧侶の家守の背を軽くつつく。そうすると瞬きをするたびに嫌そうに指から逃げ家守は紙の上を走る。何度か繰り返すと、とうとう怒ったのか私の指に食いつく格好になる。これ以上やって私の元から逃げられても嫌なので謝ってから布団に入ってぐっすり眠った。
翌朝、私の家守は綺麗に食べられていた。私は小筆を取り出し、共食いは嫌だろうと思い、僧侶の家守の紙に蟋蟀を描いてやった。そして瞬きすると家守は実に嬉しそうに食いついた。それからというもの模写のほかに蟋蟀や蝶、蝿、蜘蛛を描き、家守に食べさせた。
家守は墨が好物のようで、色付けした絵は残してしまった。家守が生きていると私が理解した時から、遠慮は無くなり、時間関係なく目を離すと動いた。この部屋から出ることは無いがふすま、障子、紙の上をちょろちょろと歩き回り、気のすむまで散歩し、最初の紙に戻るのだ。あと困ったことに墨で描いた文字も食べてしまう事がわかった。絵よりも食いつきが良くないが父に書いた手紙を半分食べられてしまった。なので、この部屋で手紙を書くときは餌を大量に描いてからしたためないと瞬きするたびに家守が手紙にきて文字を食い散らかしてしまう。困ったやつだが憎めず、私達は楽しい日々を過ごしていた。
家守との生活を一年も続けると私の描く生き物の絵が以前よりも上達し、先生や兄弟子たちも私の事を認めてくれるようになった。絵の注文もぽつぽつ入り始め、さぁこれからという時に実家で事件が起きた。
その事件は、先生の絵をいたく気に入った男が、先生が大事に手元に置いてある絵をどうしても買いたいと迫ったのだ。あまりにも通い続ける男に先生は大店を丸ごと買い取れるほどの大金を吹っ掛けたがその男は悪い顔でその金額でなら売って頂けるんですねと、念書まで先生に書かせて嬉しそうに出て行った。
その嫌な男が来てから数日後、父から手紙が届いた。内容は店が人手に渡ることになりそうで、私にお金を渡すことが出来なくなるという内容だった。私はすぐに先生に手紙を見せ実家に戻った。実家では父と母が青い顔をして、六つの弟は幼いなりに状況を理解しているのか床の間で静かにしていた。
父から話を聞くと、数日前に老舗の呉服屋の主人が訪ねて、大口の契約をしたそうだ。契約は一か月の納期で反物を卸してくれという高額なだけで簡単な契約だったが、違反項目が事細かに何十個もびっしり書いてあったそうだ。
男が特に強くいったのは納期厳守で、破った場合の罰金の金額が絵を買いに来た嫌な男に先生が吹っ掛けた金額と同じだった。初めての取引なので相手方も慎重になっているのだと人の好い父は良いですよと契約を交わし、昨日その主人が証文をもって訪ねてきたと言う。墨を入れ、袂に何かを隠した男たちを引き連れ、証文を振りかざしながら店に入ってきた呉服屋の主人は父を見つけると笑いながら反物が来ないから心配になった。納期守れるのか? と聞いてきた。
驚いた父は、納期は一月後ではと言うと、呉服屋は証文に書かれた納期の所を指し、馬鹿なこと言ってんじゃねぇと大声で叫んだ。父が日付を見ると納期が契約を結んだ日から五日となっていた。そして署名と印を確かめると確かに自分の文字と店の印だったのだ。ようやく契約の時に署名をする寸前で入れ替えられたことに気付いた父は真っ青になって抗議したが、約束が守れん商人が何を言うかと怒鳴り、金か、この店の権利書用意しておけと笑いながら出て行ったという。
呉服屋の主人の特徴を聞くと先生の絵を欲しがっていたあの嫌な男とまったく同じだった。
父は絵を買うお金を捻出するためにはめられたのだ。私は急いで先生の家へ行き。嫌な男の住所を聞き出しその住所に走った。やはり、そこは父が契約を交わした呉服屋だった。
私はどうにかならないか考える。店に侵入して証文を盗み出せれば、火付をしようか、悪い考えしか浮かばない。証文さえなければ、そこでふと気が付いた。文字さえなくなればただの紙切れだと、家守が墨を食べてしまえば、人が見てなければすぐに動き出し胃の中へ納めてしまうはずだと、なんとか証文の入っている所へ紛れ込ませることが出来れば、そこまで考えて私は先生の家へ戻り、先生の文机からあの男と交わした念書の控えを取り出すと、自分の部屋でそっくりに模写をした。
この一年模写ばかり続けてきた。文字も割り印も本物と偽物を重ねて光にかざしてもずれが全く無いほど完璧に書き写す。
そして今まで家守の行動を見ていた中で思っていたことを試す。部屋から家守の絵を持ち出し文箱の中に適当な落書きと一緒に入れ蓋をしめる。
最初は完全に被せないで家守の絵が見えなくなる程度にする。そして開ける。予想通り落書きは食べられていない。そして今度は蓋を完全に被せ、すぐに開ける。そうすると家守は落書きの紙の上で落書きを食べている姿で固まっていた。やっぱり、この家守は密室でないと動けないのだ。障子が開いているときは動き出さないからそうだろうと思っていたが、これはうまくいくかもしれない、蓋を閉じて家守が元の紙に戻るまで待ち、戻ったら家守の絵で念書を包み、呉服屋へ向かった。先生の使いだと言うと主人は無警戒で私を店の奥へ上げ、家守の絵で包まれた偽の念書の控えを主人が受け取る。
「先生はあなたを信用すると。念書と一緒にその控えを預かってくれとのことです」
主人は家守の絵を嬉しそうに眺めてから中を確認する。
「確かに控えです。お預かりしましょう。それにしても素晴らしい家守。まるで生きているかのよう」
嬉しそうに番台奥にある金庫に家守をしまう主人、その肩越しに中身を覗くと小判の他に大量の書類が収まっていた。後はうちの契約書も一緒に入っていることを願うばかり。
それから、納期が過ぎたというのに実家には呉服屋の主人は現れず、呉服屋も人の手に渡ったと噂で聞いた。先生もあの男が金を用意できなかったから逃げ出したと笑った。家守が金庫の中でたらふく食事をしたのだ。それから父は慎重になり実家はさらに繁盛し、弟も成人して跡継ぎとして頑張っている。
私も先生の所から独立することが出来た。
先生は私に結婚して家庭を持ってもらいたかったと最後の晩に酒を飲みながらいった。
お前の絵を見たときに俺を本当の意味で継げるのはお前しかいないと思ったが、お前を自分の子のように思ってしまってな、俺のように寂しい思いはさせたくなかったと自分の気持ちを打ち明けてくれた。
私は先生の気持ちを知っていながら弟子をとり家庭を持つ暇なく絵を描いている。あの家守を描いた僧侶とは先生の所から出て行ったあとしばらくして再び会うことが出来、お礼も言えた。
私の描いた絵を見て、嬉しそうに成長したなとしみじみとしていた。
そして私の作業部屋で小筆をとり私の絵の動物にちょんちょんと目を描き足し「これで寂しくないな」と笑った。
そのおかげで今、私の作業場は瞬きのたび紙から紙へ鼠が走り、ふすまに雀が飛び、屏風には鷺が。本当に屏風に虎なんか書いていなくて助かった。
そして思う。我が家を救ってくれたあの家守は今どこにいるのだろうと、行燈の薄暗い灯りの中、文机に向かって思い出にある家守を描く、懐かしかった。眠い目をこすり行燈の灯を消そうと顔を向けると、行燈に貼られている紙に懐かしいあの姿が、目が涙でにじむ。涙を払い行燈を見るがもうそこには居ない、文机を見る。
するとそこには、ここは自分の場所だ出て行けと言わんばかりに私の描いた家守を食い散らかし戻ってきた僧侶の家守。うれしくて初めての時の様に背中に触れる。家守は嫌がり、記憶の通りに逃げ、私に噛みつく格好をする。最初の時の様な怒った雰囲気はなく、お互いに懐かしむように触れ合った。
先生私の大事な大事な家族ここにいます。