助けてください
いきなり玄関から大きな物音がした。
昼飯時にカップ麺を啜っていたユウジは、突然の出来事に思わず咳き込む。
口周りに飛び散ったカップ麺の汁を拭いつつ、慌てて玄関のほうに向かうと、鍵が掛けてある扉の向こうから人の声がした。
「あの……ど、どちら様ですか?」
自分でも情けないと思うほど謙ったような声。だが、いきなり扉を開けるのはやはり怖かった。
「お、お願いです! 助けてください!」
男の声だった。
「あの! な、何があったんですか!? ちょっと!?」
向こう側から聞こえてくる声は、かなり切羽詰った様子で助けを求めてきた。
今まで遭遇したこともない事態。それこそ、テレビドラマや漫画でしか見たことも無い出来事が自分に起こっている。
ユウジの胸は高鳴っていた。声はなおも聞こえ続けていて、余計に鼓動が激しくなる。
どうするべきだろうかと考える。
「お願いします! 助けてください! このとおりですから!」
聞こえるのは男の声と、扉に縋りついているような物音。
助けを求める彼以外に、誰かがいる気配はなかった。しかし、彼は今まさに何かに追われているように必死だった。
「大丈夫ですか!? 警察呼びましょうか!?」
すぐに鍵を開けてやればいいのにと、ユウジは自分を心底情けなく思った。同時に、誰一人として声を掛けてこない近隣住人にもがっかりした。
「本当に! ほ、本……当にぃ! 助けてくださいぃぃぃっ!」
男はついには泣き出してしまった。
「…………殺されちまうよぉ」
その言葉が引き金となったのか、いつまでも臆病な自分を殴ってやりたいという衝動に駆られながら、ユウジは勢いよく玄関を開けた。
「大丈夫ですか!? ねえ! しっかりしてください!」
外にいたのは、濃い紺色のジーンズと高価そうな革製ジャケットを合わせて着た若い男がうずくまっていた。スニーカーだって流行り物の有名なメーカーだ。
それに、ジーンズのポケットからはみ出ているブランド物の長財布に目がいった。やたらと厚いのが気になる。
このアパートの住人ではないことは間違いない。
うずくまったままの男に寄り添いながら、ユウジは周囲を見渡した。二階建ての、築二十二年になるアパートの周辺には、鎖に繋がれた大家さんの飼い犬以外、声を上げているものはいなかった。
「だ、大丈夫ですか? あの……誰かに追われてるとかですか? 今は誰もいないみたいだけど」
声を柔らかくして、ユウジはそっと言った。
しかし、男はただひたすらに「助けてくださいぃ」と呻き続けていた。
「と、とりあえずうちに入ってください。そんで警察を呼びましょう」
その提案の裏では、いろいろと想像を膨らませていた。
命の危険をも思わせる彼の言葉が、やたらと頭に残っていたせいだ。もしかしたらヤクザなどの類に追われているのかも知れない。
そんな男を家に上げても大丈夫だろうか。自分まで目をつけられたらどうしようと、ものすごく不安ではあった。
しかし、自分の部屋の玄関先で彼が殺されたりしても、それはそれで非常に嫌なものだ。もしそんなことになってしまったら、この部屋に住み続けたくないと思う。しかし、すぐに引っ越す金も無い。
更に、何もしないまま彼の身に何かあったら、自分は後ろ指を指されることだろう。そんな理不尽に耐えうる根性も無い。
そこまで考えた末、ユウジはこうすることを選んだ。
男はユウジの言うことに従い、這いずるように身を屈めながら部屋へと入っていった。続いてユウジも入り、扉の外を念のため見回してから、ゆっくりと玄関を閉める。
先に入った男は、部屋の片隅で膝を抱えながら座り込んでいた。まだ肩が震えている。
「あの、大丈夫ですか? 怪我とかはしていないんですか?」
見たところ、負傷している箇所はなさそうだ。
「あ、あの…………命を、狙われてるんですか?」
そう訊いた途端、男の体は跳ねるように反応した。
そして呟くのだ。小声で、膝に埋もれさせた顔から垂れ流すように同じ言葉を。
「助けて…………助けてくれぇ」
人間というのは、極限まで追い込まれるとこんな風になってしまうものなのか。そんなことを思ったユウジは、自分の背中に悪寒が走るのを感じた。
ただごとではない。ただの親切心で助けてやれる状況ではないと判断し、ユウジはすぐさま携帯電話から警察へ連絡した。
それほど間を置かずして、受話器の向こうからは女性の声が聞こえてきた。やんわりとした声で警察であることを名乗っている。
「あ、あの……ど、どっから説明したらいいか…………とにかく来て欲しいんですけど」
「事故ですか?」
「いえ、違いますね。えっとぉ……ええ」
ユウジは、たどたどしい喋りで事の顛末を話し始めた。
その間も、男の様子が気になってちらちらと見やる。しかし、男の様子は相変わらずだ。
電話の最中、警察は男との会話を試みたが、受話器を近づけると男はなぜか黙りこくってしまった。
しばらく試してみて駄目だと判断した警察は、ユウジの住所などを聞いた後で「すぐに向かいます」と言って電話を切った。
電話が切れると、男は再び肩を震えさせて「助けてくれ」と呟き始めるのだ。
警察が来てくれると分かった瞬間、ユウジは男に対して気味悪さを感じていた。
いくら話しかけても、助けを求めるだけで他には一切何も喋ろうとしない。同じ言葉をひたすら繰り返しているだけだ。
誰かに追われているにしても、今のところ誰かがここにやってくる気配は無い。
「あの、何故命を狙われているんですか?」
訊いたって無駄だった。男はユウジの質問に答えることなどしない。
食べかけのまま放っておいたカップ麺はすっかり伸びていて、ユウジはそれを台所の流し台に捨てた。一口しか食べていなかったので、空腹だった。
冷蔵庫を開けても、戸棚を覗き込んでも、もう食料は蓄えていなかった。間の悪さに思わず舌打ちをする。
何も無いと分かると、空腹感は増した。コップに水を注いで飲み干したが、味気なくて空しいだけだ。
出掛けようにも、男を残して出掛けるわけにもいかない。だからと言って一緒に出掛けてしまうわけにもいかなかった。
どうしようもない。
「なんか、お腹空きませんか?」
話しかけたところで、反応は一緒だ。自然とため息が漏れ出る。
「出前とるか」
一人暮らしだと滅多にとることもない出前だが、こういう時は便利なものだ。そう思いつつもメニュー表を探す。
しかし、ふと思い出して財布を開いてみた。途端に、何もかもが苛立ってきた。再び大きなため息が漏れてしまう。
そんな時だった。
ユウジは、玄関前でうずくまっていた男の財布を思い出した。
いざとなれば、払ってくれるだろうか。
他人の金を頼りにして出前をとるのはひどく気が引けた。
ユウジは、男にもう一度話しかけた。
「あの、何か食べません? きっとそうしたら少しは落ち着きますよ?」
しかし男の反応は。
ユウジは馬鹿馬鹿しさを痛感した。
「もうなんなんだよぉ!」
声を潜めることもなく、愚痴がこぼれる。
遠回しな言い方では伝わらないのか。今度は、声を張り上げて言った。それこそ、若干高圧的な声色で。
「すいません! 出前をとりたいんですけど、お金がなくて! 貸してもらえませんか?」
初めて男が違った反応を見せた。
男が取った素振りは、首を横に振る動作。
ふつふつと湧き上がってくるものを抑えることは出来なかった。
「あぁ……ああああああああああっ! ちくしょうっ!」
頭を掻き回しながら、怒りにまかせて叫び声を上げた。
しゃがみこみ、男の顔に自分の顔を近づけるユウジ。そして言った。
「お願いです! 貸してくれませんか!? たくさん持ってるでしょ!? ねえ!」
男は首を横に振った。
「持ってるでしょ!? 俺、あんたを助けましたよね! ちょっとぐらい俺のことも助けてくれませんか!? たくさん持ってますよね、お金!?」
男は首を横に振った。
「持ってんじゃねえかよっ! 金持ってんだろうが! 助けてやってんだから、ちったぁ誠意を見せろよ! おい! 見せてみろっつってんだよっ!」
男は首を横に振った。
ユウジは男の胸倉を掴んで、強引に立ち上がらせると、そのまま部屋の薄い壁に叩きつけた。そしてなおも叫ぶ。
「てめえいい加減にしろよっ!? 誰のおかげで助かったと思ってるんだよ!? そんなふざけた野郎のくせに大金ちらつかせてっから狙われたんじゃねえのか!? 違うのかよ! ああ!? おとなしく金を出してりゃいいのによぉ!」
いつしか、ユウジの手には相当力が込められていたようだった。
男は、狭まった喉をヒューヒュー鳴らしながら、小さく呟いた。
「こ、殺される……たす、けて…………!」
「だからお前はああああああっ!」
ユウジは締め上げを強くした。
そして自問する。
何故こいつを助けた。
何故こいつを助けてしまったのが俺だった
何故他の誰かじゃなくて自分だったのだ。
もはや、手は止まらなかった。
その時。
「すいませーん! 警察です! 何かありましたかぁ!?」
玄関を叩く音が聞こえた。
そしてベランダのある窓からは、身を乗り出して部屋を覗き込んでいる隣人の姿が見えた。
「通報を受けてきました! 叫び声が聞こえてきましたが、どうしたんですか!?」
ユウジは今更腕の力を緩めることも出来ないまま、男の最後の言葉を聞いた。
「たす、けて…………くだ」
<了>