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わたしはごみ袋

作者:ヒロロ
よろしくお願いします。
 『わたし』はごみ袋だ。
 『私』が抱えきれなくなった傷を入れておくためのごみ袋。だから、いっぱいになったら捨てられるのが『わたし』の運命だ。
 短い一生。
 『わたし』はそれを理解して生まれてきた。

 『わたし』が生まれたのは、『私』が屋上のフェンスの外側から空に向かって一歩踏みだそうとしていたときだった。吸い込まれそうな青空に、雄叫びのような嗚咽の入り交じった泣き声が響く。それが『わたし』の産声だった。
 その日はとても天気がいい日で、照りつける太陽は肌を焦がし、雲一つない青が生まれてきたばかりの『わたし』を見下ろしていたのを、今でも鮮明に覚えている。入道雲は遠くで持ち上がり、夏特有の湿り気のある暑苦しい空気がじっとりと肌にまとわりつく、そんな日だった。
「雨が降ってる……」
 入道雲の下にある風景を思いながら『わたし』はそう呟いた。それが呼吸の合図だった。肺いっぱいに吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出して、『わたし』は頬を伝う涙を拭う。
 今思えば『わたし』はいつ生まれてもおかしくなかった。中学生から続く執拗ないじめは『私』の心をガリガリと削っていたし、両親の不仲により家にも『私』の居場所は無かったからだ。
 誰にも必要とされていないのなら、いっそのこと消えてしまおう。
 そう思った矢先に『わたし』は生まれた。すべての傷を背負うごみ袋として、『私』の心の中に『わたし』は芽吹いた。

 そして『私』は『わたし』に『ほのか』と名前を付けて、深い眠りについたのだった。

 わたしが生まれて何か変わったことがあったのか? と問われれば、答えはNOだ。机の上の落書きも、毎回無くなる体操着も、浴びせかけられる冷たい水も、何一つ変わらなかった。教室に広がる重苦しい空気も、クラスメイトからの嘲笑も、存在が消されたような休憩時間も、何一つ、何一つ変わることはなかった。
 ただ、わたしは泣かなかった。
 じっと息を殺して耐える。それがわたしに与えられた役割だったからだ。
 学校が終わってもわたしの一日は終わらない。毎日怒声が響く家に帰りたくなくて、わたしは毎日近くの図書館に寄った。そこで現実から逃げるように、物語の海に深く潜るのだ。
 本の中でわたしは何者にでもなれた。難事件をいとも簡単に紐解く探偵にだって、誰にでも愛されるお姫様にだって、何も起こらない日常をつまらないと言ってしまえる贅沢者にだって、何者にでもなれたのだ。

 そんな日常を過ごしはじめてから一ヶ月、わたしは彼に出会った。
「君、毎日来てるよね? 本が好きなんだ?」
 いつものように図書館の大きな机に本を数冊積み上げて、物語に没頭している時だった。頭上から落ちてきた声にわたしは身を震わせる。恐る恐る顔を上げると、幸が薄そうな、それでいて優しげな笑みを浮かべた青年が立っていた。年齢は二十前半ぐらいだろうか。高校生のわたしからすれば、その彼はとても大人に見えた。
「いえ……」
 その日初めて声を出したからか、喉からは掠れた音しかでない。わたしは小さく首を振ると、その男性から視線を逸らした。
「本、好きじゃないの? 図書館には本を読みに来ているんでしょう?」
 伺うような、それでいて安心させるような低音が内蔵に響く。わたしは汗ばむ手のひらで本の表紙を握りしめながらゆっくりと顔を上げた。
「……呼吸をしに来てます」
「呼吸?」
「生きるためには呼吸が必要なので……」
 自分でも馬鹿げた答えだと思った。変人に思われただろう。わたしは突き刺さる軽蔑の視線を見たくなくて、視線を本に戻した。
「生きるため、ね」
 ため息のようなその声はどこか憂いを帯びていて、わたしは目線を本に落としたまま眉を寄せる。すると彼は、目の前に座りにっこりとわたしに微笑みかけた。
「君はすごいな。僕にはできない」
 それが、彼と交わした最初の会話だった。

 彼は自分を『たける』と名乗った。わたしもはじめて自分を『ほのか』だと名乗った。彼はこの付近に住んでいる大学生で、今は訳あって休学しているのだという。この図書館には毎日来ていて、同じように毎日来ているわたしの存在を不思議がって声をかけてきたらしい。
 彼は独特な存在感を持つ青年だった。溌剌や生き生きといった言葉とは真逆の、落ち着いた雰囲気をもっていた。一言で表すなら、静謐とでも言うのだろうか。見たことはないが、深海の暗闇に彼は似ている気がした。
 わたしは初めて出会ったはずの彼のその雰囲気に、なぜか居心地の良さを感じたのだ。
 軒先から地面に落ちる雨のように淡々と話す彼の声は、とても心地よかった。足の先から指先に至るまでの仕草全てが洗練されていて、まるで作り物のようだと思うのに、それでいて微笑むときの優しげな表情はとても自然で綿毛のよう。
「じゃ、また明日」
「はい」
 少しだけ浮ついた唇でそう返事をした。赤く染まっていたはずの空にはもう藍が差している。わたしは図書館の鍵が閉まる音を背中で聞きながら、彼の後ろ姿を見送った。

 頬は赤く染まっていたかもしれない。

 その日からわたしの一日は一変した。一変したと言っても、いじめられている状況が変わるはずもなく、わたしは以前と変わらぬように呼吸を止めてじっと放課後を待つ。そして、学校が終わると藻掻くような心持ちで図書館に駆け込み、一目散に彼を探すのだ。
「今日は早いね」
「そうですか? いつもと一緒ですよ」
 そこでやっと呼吸ができる。
 一日の中で心躍る時間がある。その事実はわたしの中で革命的だった。
 二人で図書館にいても特別何かするわけではない。決まって隣の席に座り、本を読む。それだけだ。
 たまに本の感想を伝えあう程度の会話と、折り曲げた肘の先に当たる彼の肘。黒いさらさらとした髪の毛から覗く優しげな目はわたしを侮蔑することはない。それがたまらなく嬉しかった。

「最近、ちゃんと呼吸できてる?」
 そう彼が聞いてきたのは出会って二週間間が経った頃だった。
「最初にさ、呼吸するためにここに来てるって言ってたじゃない? 最近、ずっと僕と一緒だからちゃんと呼吸できてるのか心配になって……。僕は君が生きることを邪魔してない?」
 少しだけ困ったようにそう言う彼にわたしは首を振った。
「大丈夫です」
「そっか。よかった」
 そう笑った彼にわたしはありったけの勇気を振り絞る。
「たけるさんといると楽しいです。だから大丈夫です」
「……うん。僕もほのかちゃんといると楽しいし、元気になるよ」
 その言葉に胸が詰まった。『君といると楽しい』なんて久しく聞いてなかった言葉だ。学校では要らないもの、存在しないものとして扱われて、家でも怒鳴り合う両親に隠れて縮こまる毎日だ。
「あり、がとう、ございます」
 熱くなった涙腺を隠すようにうつむいて、わたしはそう呟いた。

 その日の晩、変化が起こった。
 『私』が目覚めたのだ。『私』は微睡みの中で少しだけ目を開けているような状態で、じっと『わたし』を見上げていた。そして、また瞳を閉じて眠りについたのだ。時間にしてわずか数秒。けれど、それがわたしにはたまらなく恐ろしく感じられた。
 『私』が完全に目覚めてしまえば『わたし』は消えてしまう。わたしは身震いをしながら自分の役目を思い出していた。
「わたしはごみ袋……」
 その言葉を胸に刻みつける。『わたし』という袋に入れるのは傷なのだ。決して幸福ではない。わたしはそのために生まれてきて、存在しているのだ。その考えにわたしは生唾を飲む。
 もしも、感じる傷の痛みより幸福の暖かみが勝ったら、わたしはきっと消えてしまう。
「幸せにはなれない、か……」
 それが答えだった。幸せだと感じた瞬間、生きていてよかったと感じた瞬間に『私』が目覚めて『わたし』は消える。わたしは傷の痛みを抱えたまま死体も残らぬ完全な“無”になってしまうだろう。
「嫌だな……、怖いな……」
 身体が震えた。消えることの恐怖はもちろんあるが、それよりも胸を締め付けたのは途方もない寂しさだった。
「わたしも、幸せになってみたい……」
 それが叶わぬ夢だということは、自分が一番よく知っていた。

 その日を境に『私』は度々起きるようになった。
 ただまだ起きあがるだけの気力はないようで、わたしを数秒ながめるとまた長い眠りにつく。それは決まって彼といるときに起こった。それが私の心の有り様を表しているようで、少しだけ恥ずかしくはあったが、それ以上に恐怖が胸を締め付けた。
 図書館に通う度、彼に会う度、『私』が起きる頻度は上がっていく。
 それでもこの暖かい時間を捨てられる筈はなく、わたしは毎日、それこそ学校がない土日さえも、図書館に通った。

「ねぇ、ちょっとコンビニ寄らない?」
 図書館の施錠する音をかき消すように彼はそう言った。私は緊張した面もちで一つ頷く。すると、彼は安心したかのようにゆっくりと微笑んで、わたしを近くのコンビニへと誘った。
 近くのコンビニでアイスを買って、二人で公園のベンチに腰掛ける。「誘ったのは僕だから」そう言って奢ってくれたアイスを眺めながら、わたしの背には緊張で冷や汗が流れた。夏の終わりを感じさせるように(ひぐらし)が近くで鳴いていたけれど、わたしはそんなものより自分の心臓の音の方がはるかにうるさく感じられた。
「入道雲が出てるね」
 暗くなりはじめた空を見上げなから彼はそう言った。暗い空に浮かぶ入道雲は夕日を浴びて真っ赤に染まっている。
「あの下では雨が降ってるんですね」
 思わずそう零すと、彼は驚いたように目を剥いた。そして「そんな風に言う人は初めてだ」と可笑しそうに笑ってくれた。
「みんな入道雲を見ると『夏の空』だったり、『突き抜ける青空』だったり、なんていうかプラスのことしか思い浮かべないんだよね。だから新鮮だった」
 棒アイスをかじりながら彼は笑う。わたしは一つ頷いただけだった。
「きれいな風景のその下で雨が降っていることを知ってるのは、君が雨に当たっている人間だからかな?」
 出会って初めて腹を探られた気がした。その言葉に少しだけ息が詰る。そして、わたしはゆっくりと言葉を紡いだ。
「たけるさんは違うんですか?」
「……どう思う?」
「雨は、冷たいと思います」
「そうだね、冷たいね。……ほんと、嫌になる」
 その言葉が全てだった。出会った時から感じていた。彼も何かしら“訳あり”なのだと。しかし、互いにそれ以上は何も探らなかった。探ってはダメな気がしたからだ。
「今日はありがと。また明日」
「はい。また明日」
 公園の片隅で彼はいつものようにそう言った。彼の頬が少しだけ赤いような気がするのは、恐らく夕日が当たっているからだろう。
「たけるさん?」
 いつもの挨拶をしても去る気配がない彼にわたしは首を傾げる。
 すると、少しだけ眉を寄せた彼が夕日を背負ってわたしに向き合った。
「今から変なこと言うけど、いいかな?」
「どうぞ」
「キスしていい?」
 その言葉に全身が粟立った。無意識にわなわなと震える唇からは何の音もでない。上昇した体温は血を沸騰させて、内蔵を焦がしているようだった。
「ごめん。気持ち悪かったよね」
 何も発しないわたしに彼はそう謝った。わたしは首を振ると、彼の袖を引っ張る。そして、勢いに任せて踵をあげた。
 リップ音と共に身体を離す。そして、やっとのことで声を発した。
「どうぞ」
「どうぞって、もうしちゃったけど……」
「……ごめんなさい」
「じゃ、もう一回してもいい?」
 そう笑う彼にわたしは頷く。
 次の瞬間、わたしは人生で二度目のキスをした。

「ありがとう。勇気もらえた」
「……勇気?」
「僕は君に出会えてよかったよ」

 そして、その言葉を最後に彼は図書館に来なくなった。

 それからもわたしは彼の影を探すように図書館に通う。彼に会わなくなると『私』はすっかりなりを潜めてしまっていた。キスをした日なんて何十分と微睡む目をこっちに向けてきたのに……
 彼とは会わなくなったが、彼に貰った言葉と勇気はわたしの心の中で確実に大きくなりはじめていた。誰かに存在を認めてもらえたということが、笑いあえたという事実が、わたしの小さな自信となっていた。

「いい加減にしてっ!」
 それが自分の口から出た言葉だとは正直信じられなかった。いつものように嫌がらせをしようとしていたクラスメイトにわたしはそう声を荒げたのだ。そして、さらに二、三個と文句を言ったような気がする。
 彼から貰った勇気と自信がこんなところで勝手に空回りをした。そんな印象だった。
 わたしがその言葉を言った瞬間の彼女たちの顔をわたしはきっと忘れないだろう。鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのは正にその表情のことで、彼女たちは瞬き一つで鳩から般若になった。
 そこから先はあまり覚えていない。
 気がつけば教室の床に頬を擦り付けていて、わたしの左腕はあり得ない方向に曲がってしまっていた。遠くで誰かが先生を呼ぶ声がして、わたしはゆっくりと意識を手放したのだった。

 病院のベッドで泣きじゃくる母から自分が転校する旨を聞かされた。そんな母の背中を撫でるのは、母と喧嘩ばかりしていた父だ。寄り添うような二人の姿に困惑を覚えたのは言うまでもなかったが、二人が久方ぶりに一緒にいる姿にわたしは胸が熱くなった。
 母は何度もわたしに「いじめられていることに気づけなくてごめんなさい」と謝ってくれた。どうやら母と父はわたしが怪我をしたことにより共通の敵を見つけたらしい。とりあえず一時休戦なのか、このまま夫婦仲が戻るのかそれはわからないが、わたしは突然訪れた安らぎに両親の前ではじめて涙を流した。
 外傷は折られていた左腕だけで本当は入院する必要は無かったのだが、今後のことをいろいろ考えた結果、検査入院をするという運びとなった。
 薬臭い廊下をわたしはのんびりと歩く。こんなに心落ち着いた時間は久々だった。いつもどこかすり減るような、磨耗していくような日々を過ごしていた。一時的かもしれないが両親の不仲も直り、わたしは息が詰まるような学校から逃げることができた。これも全て彼のおかげだ。
「会いたいな……」
 純粋にそう思えた。こんな状態で会えば、もしかしたら『私』が目覚めて、『わたし』は消えてしまうかもしれない。でも、それでも会いたかった。
 わたしはそう遠くない未来消えてしまうだろう。このまま他に『私』を傷つけるようなことがない限り、『わたし』は消えてしまう。それがわかっていたから、わたしは最期に彼にお礼を言いたかった。
「でも、もう、会えないよね……」
 残された時間はきっと多くない。退院する頃には『わたし』はきっともういない。
 そんな時、廊下の奥から聞き慣れた低音が聞こえてきた。地面に落ちる雨のようなその声は、何かを朗読しているようだった。わたしはその声のする方にゆっくりと近づき、そしてある一室を覗いた。
 本の並ぶその部屋はこの病院にある図書室らしい。声の主は小さな子供たちの中心にいた。薄青色の病院服を着て、彼は子供たちに本を読み聞かせている。
「めでたし、めでたし」
 そんなありきたりな締め文句で本を閉じた彼は子供たちを見回してから、ゆっくりと視線をあげた。そして、わたしを見つけて少し目を見開いた後、いつものように微笑んだ。
「どうしたの? 呼吸の仕方、忘れちゃった?」
 その言葉にわたしは何も返せなくて、子供のように声を上げて泣いたのだった。

「参ったな。見つかるつもりはなかったのに」
 そう言って笑う彼の肩にわたしは弱々しい拳を突きつける。それが精一杯の抗議だった。
「図書館に行けなくなってごめん。元気になったら一番に会いに行くつもりだったんだけど」
「……元気になったら?」
「そ、元気なったら。僕、心臓の病気だから……」
 そう言って彼はわたしの右手を自分の胸板に当てた。確かな脈を右手に感じながら、わたしはゆっくりと顔を上げる。
「図書館にはさ、毎日ここを抜け出して行ってたんだ。……最初の日は死ぬ為に、次の日からは君に会うために、僕は毎日図書館に通ってたんだ」
「え?」
 その告白は突然すぎてよく意味が理解できなかった。首を傾けるわたしに彼は少しだけ真剣さを滲ませた声を出す。
「最初に君を見たのは七月の半ばだったよ。僕は成功率の低い手術と両親にかかる多くの手術費用におびえていて、その日死ぬつもりでいたんだ。どうせ死ぬなら両親に迷惑のかからない方法で、そう思っていた。ただ、大好きな小説の一節だけは胸に刻みつけてから死のうと思って、その日僕は図書館に足を向けたんだ」
 そんな告白をする彼の声に悲壮感は感じられない。むしろ吹っ切れたようなすがすがしさを感じる声だった。
「君は覚えていないかもしれないけれど、その日僕と君は目があったんだ。本を数冊胸に抱きながら会釈をする君に、僕はその日の自殺を諦めた」
「……どうして、ですか?」
「申し訳なかったからさ。君のような学生の目に、数時間後に死ぬ男の姿を映したくなかった。ニュースなんかで取り上げられて『あのときの!』なんて君が思ったら可哀想だと思ったんだよ。……だから、自殺は次の日にすることにしたんだ」
 まるで自嘲するように彼は口角をあげた。そして、少しうつむきながらも話を続ける。
「でも次の日も、また次の日も、君は図書館にいた。僕の死の決意はいつの間にか薄れていって、君への興味がその薄れた部分を埋めていったんだ。そして、意を決して僕は君に話しかけた。君は覚えているかい? 僕に対して、君が最初になんて言ったのか……」
「…………」
「君はね、生きるために、呼吸をするために此処へ来てるんだって言ったんだよ。僕はその言葉に酷く驚いたんだ。僕と正反対だ、って。僕は死ぬために図書館に通っていたのに、君は生きるために同じ場所に通っていた」
 冷たい指先がわたしの涙の痕をゆっくりと撫でた。
「……ありがとう。僕は君のおかげで手術をする勇気が持てたんだ」
「……たけるさん」
「明日、手術をするんだ。……終わったらほのかちゃんに話したいことがある。待っててくれるかな?」
 そう言って笑ったたけるさんの手は、少し震えている。わたしはその手を抱きしめながら、絶対に守れない約束をした。
「待っています」

 その日は雨が降っていた。
 ストレッチャーで運ばれる彼を見送って、わたしは祈るように折れていない方の手を胸に置き、目をつむった。目を閉じた暗闇の奥で『私』は完全に目を覚ましていた。もう起きあがろうとすればそうできるのに、彼女は寝転がったまま虚ろな瞳で『わたし』を見上げる。
「ありがとう」
 起きあがらない彼女に『わたし』はお礼を言った。しかし、確かに消滅の足音はすぐそこまで近づいている。
 たとえば、考えたくないことだが彼の手術が失敗したとしよう。そうなれば『私』は受けた傷の深さに、きっと深い眠りについてしまうことだろう。そうなれば、わたしはまたしばらくの間消滅しない。しかし、彼の手術が成功すれば、わたしはきっと消えてしまう。
「もう、話せないのか……」
 そう思った瞬間に鼻の奥がツンと痛んだ。ストレッチャーに乗せられながら最後まで笑っていた彼の姿を思い出す。ポケットに入れた封筒をそっと撫でると、わたしは彼の手術が成功することを祈った。

 長い、長い手術だった。
 手術室の前では彼の家族が『手術中』と光るランプをじっと見つめていた。そことは少し離れたところでわたしも同じようにそのランプを見つめる。
 手術が終わったのはそれから数時間後のことだった。彼を担当した医者は肺から息を一つだけ吐き出すと、『手術は成功だが、目が覚めるかどうかの保証は出来ない』と言った。
 それからわたしは待った。自分の検査時間以外はすべて彼の近くで時間を潰した。彼の家族がいないときにはベッドの隣でずっと手を握りしめていたりもした。

 早く声が聞きたかった。
 声を聞いたら、目を開いたら、きっとそこでさよならだけれど。
 わたしは早く彼に目覚めてほしかった……

 その日は唐突に訪れた。
 秋雨前線が頭上に伸びて、昨晩からの長雨が今朝まで続いている、そんな日だった。
 雨で車が込んでいるのか彼の母親はまだ来ていない。わたしはその隙を盗むように彼の近くに腰掛けた。
「明日退院なんです。また、会いに来ますね」
 彼の小指をぎゅっと握る。その体温に彼の生を感じてわたしは思わず微笑んだ。そして、彼の枕元に一つの封筒を忍ばせる。
「――っ!」
 身を屈ませて彼の枕元に手を伸ばしたものだから、顔と顔の距離が近くなる。そのことに驚いたわたしは息を飲んで彼から飛び退くように距離をとった。
 心臓がバクバクと高速で体中に血液を運ぶ。その血液が沸騰しているかのようにたまらなく熱かった。
 心臓を落ち着かせると、そこからは身体が自然に動いた。図書館で何度も読んだ童話が頭の中で回っていたからかもしれない。

 まるで物語のお姫様を起こすようにわたしは彼にキスをした。

 それは馬鹿みたいに都合がいい光景だった。閉じられた瞼がゆるゆると動いて、黒い宝石のような瞳がわたしを映した。
「ほのかちゃん」
 それを聞いた瞬間、わたしは確かに幸せを感じた。
「ありがとうございました」
 さよならは言えなかった。

 『わたし』はごみ袋だ。
 『私』が抱えきれなくなった傷を入れておくためのごみ袋。
 けれど、『わたし』の短い一生の中にも、確かに幸せは存在した。
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