忘れ物
ツイてない。
こういうのを踏んだり蹴ったりって言うんだろうな。
大風邪引いて寝込んだ挙句、一週間振りに学校へ来たら、図書委員の先生に捕まった。
『今週は誰も遣り手がいないから、放課後の図書室当番を頼まれて欲しい』
そんなの誰も遣りたがらないに決まってる。
期末テストは来週からなんだ。みんな試験勉強に必至になる頃じゃないか。
ボクなんか休んだ分の試験範囲、これからやったって追い付かないのに。
だけど断れないんだよね。
先生が生徒相手に泣き落とし、なんてズルイと思うけど。
先週のボクの担当分、他の委員が代わってくれたわけだしさ。
まぁ、良いや。それならそれで図書室で勉強すれば良いだけだ。
放課後の図書室なんて、よっぽどの物好き以外、やってくる生徒なんていないから。
静かな場所なら、家でやるよりよっぽど勉強が捗るよ。
……なんて思ったボクは甘かった。
試験前の図書室が、そんな廃業寸前の喫茶店みたいに閑古鳥が鳴いてる筈がない。
普段どれだけ授業を聞いてないんだって勢いで、成績の良い友人を最強の語部に従えて、
試験範囲を順に朗々と語る口伝に耳を傾ける生徒達で、図書室は大盛況だ。
テーブルの間を回るノートリレーも、運動会に負けないくらいの力走を見せている。
「わっかんねー!! 特に英語と数学は、もう完全にお手上げだ」
本など誰も借りに来ないのを良い事に、カウンター内で試験勉強をしていたボクは、
開いていた教科書を放り出し、諸手を上げて喚き散らす。
口伝の騒々しさと、ノートリレーに参加できない虚しさとで、集中力は何処かへと
吹き飛んでしまった。
元々苦手な教科なのに、試験範囲が広すぎなんだよ。
欠席した分の範囲なんて、教科書を読んだくらいじゃ、まったく頭になんて入ってこない。
全てを投げ出して教科書の上に突っ伏していると、何処かでクスクスと笑う声が聞こえた。
会話の途中の笑い声とは少し違う。あちこちで交わされている会話の喧騒とは違って、
楽しそうに笑うその声だけが際立って聞こえた。
ボクは気付かない振りをして顔を上げてみる。けれど声の主は判らない。
「おーい、図書委員。サボってんなよなー」
テーブルの一角でクラス委員に勉強を教わっていた友人達が、笑顔で手を振ってくる。
先生に頼まれなければ、ボクもあの輪の中に一緒に居た筈なのに……。
苦笑いを浮かべながら手を振り返す。
ホント、ツイてないよな。
*****
下校時刻のチャイムが鳴る頃には、賑わっていた図書室も静かになる。
ボクの仕事も、後は戸締りをするだけで終わりだ。
「時間だけが虚しく過ぎ去った、って感じだよな」
開いていた窓を締めながら、大きな溜め息を吐き出す。
英語の文法も数学の公式も、教科書をまる暗記すれば良い訳じゃないのは判ってる。
それでも、せめて書かれている内容くらいは把握しなければ、話にならない。
「誰か簡単に説明してくれー」
他力本願なのは判ってるけど、クラス委員の口伝に混ざれなかった事が悔やまれる。
戸締りを終えて忘れ物を確認していると、テーブルの上にノートが残されている事に
気が付いた。
誰かの忘れ物? この席、誰が座っていたんだっけ?
カウンター越しから眺めていた時の事を思い返してみたけれど、このテーブルを何組の
奴等が使っていたのかすら思い出せない。
「テストの要点ノートだ。こんなの忘れるなんて、ドジな奴だな」
パラパラと捲ると、授業用のではなくテスト用に作られたノートだというのが判る。
女子が書く整った小さな文字が、赤ペンやマーカーで彩られながらノートの上を踊って
いた。書かれている内容からみて同学年だ。同じ試験範囲の英語のノート。
これを借りて勉強すれば……。
そんな邪な思いが脳裏を掠める。
そんなのダメだ!!
先刻までは他力本願に縋ってでもと考えていたけれど、誰かの忘れ物を盗み見してまで
なんて、考えていた訳じゃない。
カウンターの隅に置かれた忘れ物箱にノートを入れると、ボクは図書室の鍵を締めて
帰宅した。
翌日の放課後。
カウンター当番を担当しながら、落ち着かない気分で座っていた。
忘れ物箱に入れられた英語のノート。まだ誰も取りに来ない。
図書室で忘れた事、気付いていないのかな。
昨日は格好付けて諦めた振りをしたけれど、実は藁にも縋りたい気分なんだ。
このままいったら赤点は確実。放課後の補習は免れない。
せめてコピーだけでも取らせてくれたら、なんて都合の良い事を考えている自分が、
本当に情け無い。でも切実な思いだっていうのも、紛れも無い事実なんだ。
ソワソワして勉強が手に付かないまま、下校時刻になってしまった。
忘れ物箱のノートは、誰も取りに来ないまま残されている。
「だよなー。試験は来週からなんだし、もしかしたら忘れた事にも気付いて
なかったりして。ギリギリになってから慌てても、遅いんだからな」
ノートを指で弾くと、ボクは戸締りの為に立ち上がる。
窓を閉めて回り、忘れ物がないかテーブルの上をざっと眺め回して……。
見付けてしまった。奥まったテーブルの上に置かれた、一冊のノート。
「今度は数学だ」
残されていたノートをパラパラと捲ると、数学の試験範囲で埋め尽くされた要点ノート。
昨日忘れられていたノートと同じ文字で書かれている。
どうしてノートばかり忘れていくんだろう?
そしてまた、このテーブルを使っていた生徒達の顔を思い出そうとして、失敗する。
ボクは名残惜しそうにノートを忘れ物箱に入れると、そのまま図書室を後にした。
*****
次の日も、ボクはカウンターの中に座っていた。
今日になっても、ノートを取りに来る生徒はいない。
ボクは気になって、返却された本を本棚へ戻す振りをしながら、テーブルの周りを
それとなく歩いてみた。
テーブルの上に拡げられたノートに書かれた文字までは、見られなかったけど。
結局はそれも徒労に終わる。何の収穫もないまま下校時刻がやってきた。
戸締りを始めたボクは、ほんの少しだけ期待する。
もしかしたら、今日もノートが忘れられているかもしれない。
「そんな訳ないか」
戸締りの後、テーブルの周りを確認しても、忘れ物は一つも見付からない。
そうだよな。要点ノートを作るだけだって大変なのに。そう何度も忘れていたら、
さすがに自分のドジに気付くよな。
思いの外ガッカリしている自分に驚いて、ウンザリした気分で天を仰ぐ。
ボクは何を期待していたんだろう。
ここ数日ノートの事ばかりが気になって、あまり試験勉強が捗っていない。
今日こそは帰って真面目にやらないと、英語や数学以外の教科も赤点になりそうだ。
そう思って慌てて帰り支度をすると、最後にもう一度忘れ物箱のノートに視線を向けた。
「あれ? あんな処に付箋なんて貼ってあったっけ?」
ノートの表紙に、女子の間で人気のキャラクターが描かれた付箋が貼られている。
近寄って付箋を手にすると……。
『このノートあげる。試験範囲だから、これをやればバッチリだよ。頑張ってね』
ノートと同じ整った小さな文字で、そう書かれていた。
後日。
ノートのお陰で赤点を免れたボクは、預かっていたノートをまた忘れ物箱に戻しておいた。
『助かった、ありがとう』
そう付箋に書いて、ノートの表紙に貼っておく。
そのノートを取りに来たのが誰なのか、カウンター当番が終わってしまったボクは、
未だに知らないままだ。
完(2012.01.15)