第9話 ICU
あわてて、地中海姫を開けて通信欄を確認する。石黒さんから連絡が入っていた。
「手術が無事終わりました。ICUでお会いになれます。石黒」
短い連絡だった。
……手術が無事に終わった。
緊張で息をするのも忘れていた。連絡を読み終わってようやく私は深呼吸をした。
喜びはじわっとやってきた。詳細はわからないが、無事に手術が終わったのだ。助かった。 母さんがここへ戻ってくるのも夢じゃない。
かあさん……
私の口から零れ落ちたつぶやきは、今度は私の身体を暖かくした。
私は大急ぎで契約書の残りを取り出した。
悩ましい内容のものもあったが、なるべく詳細を考えないようにして、全ての書類にさっさと印をつけてサインをしてバッグに突っ込む。
さすが、地中海病院だ。公立病院だったら、母さんは助からなかっただろう。自分の判断が正しかったことを今更ながら感じていた。1秒でも早く母さんの姿を確認したくて、私は、玄関を飛び出した。外はもう暗くなっていた。
地下鉄のホームには会社帰りのサラリーマンに混じって5〜6歳くらいの子供の笑い声が軽やかに響いていた。人間の温もりを感じるホームだった。さっき、ここに降り立った時は寒々しいほどに乾いた場所だったのに。
詳細が書かれていないことに対して、多少の不安はあったが、なるべく考えないように努めた。石黒さんも忙しいのだ、詳しく書き込むほど暇じゃないはず。何にせよ、ICUで会えるのだ。9割の喜びと1割の不安を抱えて私は地下鉄車両に乗り込んだ。
カードをカードリーダーに差し込んで、私はICUの扉を開けた。ステンレスの分厚い扉。スーッと軽やかに開く。エアシャワーを通って、用意されているディスポーザブルのウエアとキャップを身につける。
さらにICUと準備室とを隔てているもう一つの扉は、カードを差す必要もなく、やはりスーッと開いた。
ICUには、鳥のさえずりとゆったりとした音楽が流れていた。時々アラームが鳴って看護師さん達の動きも迅速であるが、不思議とICUにしては柔らかな雰囲気である。それは、スタッフの数が充分確保されていることも一つの大きな理由だろう。看護師さんの表情に余裕が見られるのだ。
こんな中で目覚めたら、母さんは野原かどこかで居眠りでもしていたと勘違いするかもしれない。
石黒さんはすでに帰宅されていた。看護師さんに挨拶をする。
「手術がうまく済んでよかったですね。手術後まもなく自発呼吸が認められましたので、呼吸器ははずしています。管は入ったままになっていますが、ご自分の力で呼吸をされているのですよ。今のところ意識はまだ戻っていませんが、あとは日野様の生命力を信じるしかありませんね。何でも気づいたことがあったら仰ってください」
母さんは、手術前と変わらない様子で眠っていた。頭の手術というからフランケンシュタインのような様子になっているのかと思ったが、髪の毛もあるし、普通の様子である。口には管が差し込まれていたが、それ以外は母さんそのものだった。
私は母さんの手を私の頬に当てて泣いた。まだ、目を覚まさないようだが、少なくとも命は助かったのだ。ベッドの傍らに腰掛けて私は話しかけた。急に倒れてびっくりしたこと、心細かったこと、翻訳の仕事を途中までしてきたこと、そうして話していくうちに、一緒に登山をしたときのことを思い出して、山の上から見た景色に二人して感動したことなど、おおよそこの場に関係ない話まで飛び出してきた。
「母さん、頑張ったね。今日は母さん特製の親子丼を食べ損ねちゃったから、また、作ってよ」
そう話しかけた時、母さんの胸が大きく動いた。
「母さん!! ねえ、母さん!!」
思わず私は立ち上がった。椅子のズズッという音が響いた。
もしかしたら、私の声が聞こえているのかも知れない。
私は興奮した。
「母さん、母さん!!」
看護師さんが私の方を振り返った。
自分の声が大きすぎたことに気づいて、私は声を落としてまた呼びかけた。
「ねえ、かあさん、かあさん……。聞こえてるんでしょう? ねえ、かあさん……」
母さんの顔のまん前まで近づいて、私は少しの変化でも見逃すまいと閉じられたままの瞼や頬の辺りを見つめた。
しかし、どんなに見つめても、あれっきり、何の変化もなく、ただ静かに眠り続けていた。
それでも、私の中に確信に近い思いが溢れていた。
何も焦る必要はない。母さんはきっと回復する。さっきの動きだって気のせいなんかじゃない。確かに大きく動いたのだ。神様は私たち親子を見捨ててなんかいなかった。もうしばらく待てばきっと目を覚ます。そう、必ず目を覚ますに違いない。
母さんが倒れてから初めて私は幸福感に包まれていた。10%の可能性。何のことはない。やっぱり奇跡は起きるのだ。私はおかしくなった。母さんが選ばれた10%であることがおかしいのか、それとも、その奇跡にわずかでも疑念を抱いていた自分自身がおかしいのかよくわからなかった。こうなるように地中海病院に導かれてきたのだ。
母さんが目を覚ますことを想像するうち、私は、病院を退院する時のことを考えておいた方がいいと思い当たった。斉藤先生と石黒コーディネーターにどんな風にお礼を言おうか。そうだ、何か気の利いた物でも準備しておいた方がいいだろうか。お菓子とかでいいかな。そう言えば、高尾さんにも。
先ほどとは違う看護師さんが記録に来られた。
体温計を母さんの脇に挟み、モニターの確認をして、小さな機械にちょこちょこっと記入している。ここは何でもIT機器なんだな。
手術が無事に済んだことで私は少しハイテンションになっていた。
「こんにちわ。母のこと、よろしくお願いします」
看護師さんに話しかける。
「こんにちわ。山元です。今晩夜中まで担当させて頂きます。何か変化があったら『姫』でお知らせしますね。今の所、意識はまだ戻っておられないようですが……」
「あ、でも、さっき、胸が大きく動いたんですよ。多分、私の声、聞こえてると思うんです」
私は重大な変化を告げたつもりだった。けれども……
山元看護師は、私の言葉に別に驚いた風もなく、私の目を見て一瞬微笑んだだけだった。あとは、何事もなかったかのように母さんの脇から体温計を取り出すと機械に記入した。空っぽになった点滴を差し替えている山元看護師に、もう一度、私の声に母さんが反応したことを説明しようかと思ったが、あまりしつこいのもどうかと思って止めた。まあ、いい。また、きっと動くから。今度は目をぱっちり開けるかもしれないし。
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