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第8話 自宅
 私は一度自宅に帰ることにした。どっちみち母には会えないのだ。
 手術がうまくいったとして、すぐに退院はできるはずがない。長期戦になることを見込んで、それなりの準備をしなければならない。それに、いつまでもここに居れば、時間当たり2,000円ずつお金が減っていく。監視カメラも気持ちのいいものではないし。自宅が病院から近くて本当に良かった。
 病院内には家族用の宿泊施設まで用意してある。遠方からの患者家族だけでなく、治療途中の患者さんがそちらへ移ることも珍しくないと言う。一泊15,000円から準備されていて、入院しているよりずっと安くつくからだ。うまいこと考えたものだ。周囲の宿泊施設より少々高くても、患者はこちらを選ぶ。同じ敷地内にあるから治療途中の人たちにとっては何となく安心というわけだ。

 地中海病院の敷地は、面白い構造になっていた。建物に囲まれて、地中海池がある。この病院のシンボルらしいが、以前は、池の近くにバラ園とかハーブ園があって、もう少しゆったりしていたみたいだ。それが、建物が増えたために、池だけがポツンと残って、少しおかしな具合になっている。現在、バラ園とハーブ園は、病院の屋上に移されていて、入院患者の憩いの場になっているようだ。地中海姫の案内でその綺麗な風景を見ることができる。

 退室のボタンを押して、私は、部屋を出た。
 コンシェルジュの前を通って、正面玄関から外へ出る。玄関には2名の警備員が立っていた。
 地下鉄で家に向かっていた時、急に思いついて私は途中下車した。神社が近くにあるのだ。いつもならお賽銭も入れないところだけど、500円玉を投げ入れて、そして、お守りも買った。500円玉で母が助かるのならこんなに簡単なことは無いけれど、今の私にできることはこれくらいしかない。やれることは何でもやっておきたかった。

 母のいない自宅は、ガランとしていた。台所には濡れたバスタオルが床にそのままになっていて、つくりかけの昼食の材料がまな板の上に、そして、大きなキャベツが調理台の上にゴロンと転がっていた。母が倒れた光景が蘇ってくる。ついさっきまで、ここで、二人でお喋りをしていたのだ。ドラマの途中でコマーシャルが突然入って、ぶちっと途切れたみたいな、そんな感じだった。だけど、ドラマが中断した所から再開されることはない。残念ながら、新たなドラマが始まってしまったのだ。それも、悲しいドラマが。

 台所を大急ぎで片付けた後、私は自分の部屋に入ってコンピュータの電源を入れた。午前中に仕上げた翻訳を送信していなかった。もう一度間違いがないかどうかを確認して、送信する。
 それから私はメールをチェックした。4件の新たな翻訳依頼。特定保険用食品の許認可資料の翻訳が一件、これは3時間もあればできそうだ。化粧品原料に関する報告書が一件。データが中心になるので、ページ数は多いがそんなに大変ではない。あとは、コンサルティング会社が作成したマーケティング資料が一件。ここは前回にも私を指名してきた会社だ。そして、新規の依頼が一件。保存容器をインドの会社と共同開発するという会社からのものだ。ちょっと変わった容器のようで面白そうだ。
 私は、悩んだ。母が倒れていなければ、悩むことなく全部を引き受けていただろう。けれど、そのことで、どの程度時間的に制約を受けるか判断ができない。なるべく母のための時間は確保しておきたいと思うが、そのためには仕事を減らすしかない。でも、逆に少しでも治療費の足しになるよう、その分余計に仕事をしたい気持ちもあった。
 最初の3件は、それほど負担にならないが、新しい会社からの依頼……。契約書類一式と会社概要等さらには保存容器についての資料。ページ数もとても多いし、新たに勉強する時間が必要になる。けれど、こういう大きい仕事を確保しておけば、次の仕事につなげることができる。最初にいい仕事をすると、大抵は、私を指名して仕事を依頼してくるからだ。3件の返事をして、4件目は保留にした。今夜にでも返事をしよう。やりかけの翻訳とこれから手をつける翻訳を合わせて今5件抱えている。小さな仕事は今日中に2件仕上げるつもりでいたが、それは難しくなりそうだ。でも、1件だけでも仕上げておきたい。

 私は、洗濯機を回し、お茶漬けをざざっと胃袋に押し込んだ。
 やるべきことは本当に沢山あった。母のことは、今は、神様に御願いするしかない。助かることを信じて、目の前にある「とりあえず」私がやるべきこと、それらを一つ一つ片付けていくしかないのだ。会社勤めなら有給休暇をとることもできるだろう。しかし、私の場合、仕事をしなければ、1円も入ってこない。そして、一度仕事を減らしてしまうと、翻訳会社からの評価が下がってしまって、なかなか元に戻せなくなる。特に、母の治療費が実際いくらになるのか、はっきりとわからない今、安易に仕事を減らすことはできれば避けたかった。

 洗濯が終わるまでの間、私は仕事に没頭した。母がそこにいた時と同じように、パソコンに向かって。
 洗濯が終わった合図が聞こえてきた。いつまでも鳴り止まないアラームに思わず私は「かあさーん」と呼んだ。呼んだ後で、しまったと思った。翻訳に没頭していてつい油断してしまったのだ。私の声は誰もいない廊下を走っていって、そのまま静寂を連れて引き返してきた。深い孤独の湖に放り投げられたことをイヤでも思い知らされた。覚悟をして玄関を開けた時には堪えられたのだ。けれど私の隙をついて侵入してくる孤独には私は余りにも無力だった。アラームが自動停止すると一気に静けさがそこいらじゅうを支配して、物音一つしない室内には遠く車の走る音だけがやっと聞き取れる程度の音量で響き渡った。
 あふれ出る涙を拭いて、私は洗濯物を干すために立ち上がった。バスタオルを1枚干す間にも何度涙を拭いただろう。今、泣くわけにはいかないのに。母は手術台の上で頑張っているのだ。

 洗濯物を干し終えて、再び、翻訳の続きを始めた。なるべく母のことは頭から排除するようにして目の前の仕事に専念する。あっという間に2時間が経過した。
 今日提出予定だった翻訳を一つ、半分ほど終えたところで、私は一息入れた。母の手術のことが気になって、かばんから地中海姫を取り出してみると、小さなオレンジ色の光が点滅していた。それは病院から新しい連絡が通信欄にきていることを示す点滅だった。


次話は5月7日(水)の更新予定です。