2018年 地中海病院(7/21)PDFで表示縦書き表示RDF


2018年 地中海病院
作:GFJ



第7話 監視


 4階のICU前には、会議室の他に複数の家族控え室があった。私は『Vacantどうぞ』の表示のある部屋を探し、そのドア横にあるカードリーダーにカードを通して、中へ入った。ホテルの一室のような作りになっている。時間当たり2,000円で使用可能だ。ベッドとデスク、ロッカーがあって、家族が看病に疲れた時などに利用できるようになっている。
 私はベッドに腰掛けて、そのままゴロンと横になった。目の前にあるデスクの脚を見つめながら、一つ大きく深呼吸する。いわゆるネコ脚と言われる、クラシックな作りの脚をした洒落た小さなデスクだった。何だか疲れた。このまま寝てしまいたい衝動に駆られる。
 
「よし!」
 誰に言うともなく自分で気合いを入れると、私はベッドから起き上がり、足元に置いたバッグを引き寄せた。
 大量の契約書をベッドの上に出す。
 一番上にある『延命処置に関する契約書』を手に取って、私は、ネコ脚デスクの前に座った。
 それには、心臓が止まった場合の処置についての説明と呼吸ができなくなった場合の説明が書かれていた。人工呼吸器の装着については、次のようなことが書かれていた。
 人工呼吸器をつけることで必ずしも患者さんが回復するわけではないこと、人工呼吸器の設定がうまく行っているかどうかを確認するために、定期的に検査が必要であり、それは、患者さんの容態によって医師が随時判断すること(患者家族に検査を拒否する権利がないこと)、人工呼吸器は医療従事者以外触れてはいけないこと、回復の見込みがない場合でも一度つけた人工呼吸器をはずすことはできないこと、などなど、沢山の文章が箇条書きでびっしりと書き込まれていた。どれもこれも、私に言わせれば、当たり前のことだらけだったが、こうして文章にすることに意味があるのだろう。患者家族をバカにするな、と怒ってはいけない。形式上のことなのだから。

 一度つけた人工呼吸器ははずすことができない……か。
 高尾さんは、言っていた。回復して元気になる人と、短期間で命を落としてしまう人がいる……
 私は一人で笑った。バカみたいに何を悩んでいるのだろう。
 たかが契約書一枚に、どれほど私は時間と労力を費やしているのだろうか。
 やれることをやる。それでいいではないか。手術をしてもらって、その後一時的に呼吸抑制が来ても、人工呼吸器の力を借りて一時しのぎをすれば、うまく行けば回復してくれるかもしれないのだ。わずかな可能性であっても、ここでそれを捨ててしまう理由なんかないはずだ。
 私は、”延命処置を希望します”の欄と、”上記の内容を遵守します”の欄に力強くレ点をつけ、自分の名前をサインした。
 ベッドに移って、他の契約書をぺらぺらめくってみた。
 人工呼吸器の契約書を提出したら、今度は、これらの契約書を作成しなくちゃ。
 あんまりグズグズするわけにはいかないのだ。

 私は、ICU入口で石黒さんをお願いした。石黒コーディネーターは、すぐに来られた。少し微笑みながら……。
「決心なさいましたか」
 近づいたと同時に石黒さんはそう言った。
「はい。どうもすみません。遅くなりまして。残りの契約書は今から急いで書きますので……」
『延命処置に関する契約書』を石黒さんに手渡しながら、緊張気味に喋った。ふっと見ると、石黒さんの表情から微笑みが消えている。
 しばらく沈黙が続いた。目玉があちこちに動き、口を変な形に結んでから何かを言いかけた石黒さんだったが、再び口をつぐんでから、ようやく短く言った。
「確かにお預かり致しました」
 彼の一連の動きは、私が彼の予想を裏切る返答をしたことを如実に物語っていた。
 しかし、最終的な決定権は患者家族にあるわけで、そのための契約書なのだ。

 そうして、私は、私が占領している家族控え室に戻った。沢山ある中のたった一枚の契約書を提出しただけで、私は相当に疲れてしまったことを意識した。残りの契約書のサインという仕事がまだ残っている。
 ベッドの上にゴロンとなる。母さんが倒れてから、あっという間にいろんなことが起きた。私には初めてのことばかりで、何と言うのか、私の気持ちが宙に浮いたまま事務的に物事が勝手に進行していく、そんな感じがしていた。母さんは命の危機に瀕している。そんな大変な状況なのに、膨大な契約書のサインという、やるべき事柄に忙殺されて現状を認識する暇がない、と言えばいいのか……。自分でも不思議なのだ。助かる見込みが10%、どう考えても普通の状況じゃないのに、契約書を作成するのに必要な理性が、総動員で私の感情を押さえ込んでいるのかもしれなかった。母さんが死ぬかもしれない、それは、全く現実味を帯びていなくて、悪い冗談ぐらいにしか思えないのだ。
 家族控え室の天井には、丸い形の蛍光灯が二つ埋め込まれていた。白い天井と白い蛍光灯をぼんやり眺めながら、私は意識が次第に薄れていくのを感じていた。

 電話の音で目が覚めた。
 知らないうちに寝てしまっていたようだ。ほんの10分程度の仮眠だった。
 部屋に電話……。誰から?
「日野様ですね。 高尾ですけれど、おくつろぎの所どうもすみません」
 電話の主は、クラークの高尾さんだった。
 どうして私がここにいることがわかったのだろうか?
 まるで見られているかのような言葉、おくつろぎの所……
 起きたばかりの頭に謎がグルグルと駆け巡って返答に窮していた。
「日野房子様の手術の予定が入りましたので、ご連絡さしあげました。地中海姫でお知らせしても良かったのですが、家族控え室7番に日野様の入室が確認できておりますので、直接お話した方が良いと思いましたので……」
 ああ。そういうことか。
 鍵機能のついたこのカード。何もかも把握されているということか。
 私の返事がすぐになかったことで、高尾さんは言い訳じみた解説までしている。まるで、私の表情が見えているみたいだ。
「わざわざ、ありがとうございます」
 私は、お礼を言った。
「あ、いいえ。オペ室の調整とドクターの調整が完了しました。4時半から手術予定です。患者様は、もうオペ室へ向かわれましたので、しばらくご面会になれませんので。手術が終了しましたら地中海姫で連絡が入るようになっております」

 電話を置いて、ふと見ると、部屋の奥の天井近くに小さな監視カメラが設置されているのに気がついた。
 私は何だかおかしくなって声をあげて笑った。何のことはない。見られていたのだ。
職員の勤務状況をすべて把握しているだけじゃない。患者家族も全て、常に監視されているのだ。なるほど、セキュリティ対策が万全なわけだ。すべてを『疑い』の目で見ていて、すべてがすっぽんぽん。安全を買う、ということは、実はトランプの裏表。表から見るか裏から見るかでこんなに感じ方が違うのだ。私は地中海病院という組織に、何か不気味な物を感じ始めていた。
 日本の医療はもはや信頼の上には成り立っていないということなのだろう。
不審な点があったら、第三者委員会に申し出ればいい、その代わり、こちらも、言いたいことは言わせてもらうよ。全ての記録を取らせてもらうよ。患者家族の行動も逐一拝見させてもらうよ。地中海病院が患者や患者家族にそう言い放っている。そんな風に感じる私は被害者意識が強いのだろうか。
 机の上に平積みになっている分厚い契約書が、何だかどうでもいいものに思えてきた。






次話は5月1日(木)更新予定です。











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