第6話 高尾さん
私は、高尾さんのここまでの説明を聞いて、自分が悩んでいた事柄が、本当はそんなに大した問題ではないのだと思い始めていた。最初からここへ来ればよかった。
高尾さんは、私の目をみながら、再び口を開いた。
「お母様のご病状ですが、チーフドクターからは、どのような説明をお受けになりましたか?」
私は、私なりに理解した内容を伝えた。
「これから、脳圧を下げる処置をしてくださるそうです。でも、それをしても、助かる可能性は10%だそうです」
高尾さんは、視線をテーブルに落として深くため息をついた。
「そうでしたか。娘さんとしては、本当におつらいですよね」
「ええ、まあ。何とか生きていてくれたら、こんなに嬉しいことはないのですが、こればっかりは、担当の先生方と、それから神様にお願いするしかありません」
長い睫毛がマスカラでなおさら強調されて、お人形さんのような高尾さんの表情は、その目の動きがよくわかる。ゆっくりその目を上げて私の方へ向けると、彼女の潤んだ瞳が、私に同情してくれていることを効果的に伝えている。
「折角、外科手術までお受けになるのでしたら、娘さんとしては、何とか希望の光を繋ぎ止めたいですよね。私が日野様の立場だったら、同じように考えると思います」
私は、嬉しかった。患者家族の立場で考えてくれる人がいる。
ここまで来て、私は、今まで心にひっかかっていた物が何であるかを理解した。
医療従事者は、人の死に慣れている。沢山の死に直接関わってきた人達だから、治療方針やアドバイスが、どうしても、「確率論」や「一般論」に終始しがちで、大事なものが抜け落ちるのだ。それは、患者や患者家族の気持ち。いくら科学的な説明をされても、患者や患者家族は、それだけで納得できるものではない。
石黒コーディネーターのアドバイスは、確かに正しいのだろう。母さんの病状は重くて、助けることが難しい。認めたくなくとも、それが事実だろう。プロがそう言うのだから。けれど、延命処置を勧めない、という彼のアドバイスはどうだろう。そこには、患者家族の気持ちはない。人工呼吸器をつけることが、無駄に等しい、と、それは、医師や看護師の立場からのアドバイスなのだ。
それに比べて、事務の高尾さんは、たとえ医療機関で仕事をしていても、直接医療行為を行うわけではない。それは、言葉を変えると、より家族に近い、別の言い方をすれば、患者家族に感情移入してくれる、ということだ。
「石黒コーディネーターは、どちらかと言うと、延命処置には否定的であったような印象を受けました」
何の気なしに、私は私が感じたことを口にした。この言葉を聞いて、高尾さんの目が一瞬、キラッと光った。私は、まずい事を言ってしまったのではないか。本能的にそう感じた。何というのか、事務職員と医療者の間の溝……。そういうものがあるのかも知れないと、かすかな匂いのようなものを感じていた。
しかし、そう言う目で高尾さんを見ると、彼女はすでに、先ほどと露ほども違わぬ雰囲気を取り戻していて、私の感じた一瞬の違和感が、単なる私の思い過ごしであったと思えてきた。
「一時的に呼吸ができなくなって人工呼吸器をつけられる患者様は、回復して元気になられる方と、残念ながら、短期間のうちに命を落としてしまわれる方とおられます。それは、本当に、先ほど日野様がおっしゃったように、神のみぞ知る世界ですからね。私がどうこうアドバイスできるものではないのですが……」
その通りだ。人工呼吸器をつけても、それは自己満足で終わってしまう確率が高い。でも、人工呼吸器をつけない、ということは、最初から可能性を捨てる、ということになる。
「高尾さん。高尾さんだったら、どうされますか?」
私は、目の前の高尾さんに質問してみた。無意味な質問かもしれないが、何か小さなヒントのようなものでもいいからほしかった。それほど私は迷っていた。
「私でしたら……。そうですね、悩む所ですけど、後悔することは避けたいと思いますから、お願いするような気がします。後で苦しむのはイヤですものね」
彼女の返事は、誠実な答えだと思った。絶対につける、とは言わなかった。それは彼女の本心であることを強く印象づける申し分のない答えだった。
彼女にこのような質問をすることに意味がないことはわかっていた。それでも、彼女の答えは、最終的に決めかねていた私の結論を後押しするのに充分だった。
「ありがとうございました」
私は頭を下げた。
「お役に立てたかどうかわかりませんが、どうぞ、お気をしっかり持たれてくださいね。どんな些細なことでもいいですから、また、悩み事があったらいつでもいらして下さい。日野様のお役に立てるよう、精一杯努力いたしますから」
こんなに綺麗で、それでいて、こんなに優しい人が受付にいる。地中海病院のすばらしさを私は見せ付けられた気がした。テレビで持ち上げられるだけのことはある。
ブースを退出し、コンシェルジュを後にすると、私は急いで4階に向かった。思わぬ時間を食ってしまった。急がなくっちゃ。
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