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第4話 迷い
 石黒コーディネーターは、中肉中背でやや毛深い感じの人だった。眉も濃い。
 彼は、黙って説明用紙をテーブルの上に綺麗に並べると、初めて口を開いた。
「コーディネーターの石黒です。さきほど斉藤医師から説明があったとおりですが、補足的に色々説明をさせて頂きます」

 一通り説明を聞いた。長い長い説明だった。説明用紙を大事そうに丁寧に並べる仕草、説明の仕方から、彼が真面目で、かつ見かけに反して少し神経質であることが伺われた。
 私は医療内容に関する契約書たちのうち、納得できるものにサインをし、今決められないものは後回しにしてもらった。
 さきほど斉藤医師から説明のあった手術の契約書だけでも4枚もあった。
 その他にも、脳死と判定された場合、臓器提供の意志があるかどうかの書類(本人がドナーカード保持者であるかどうかも含めて)、研究試料として血液その他を使用可能かどうかの書類が山ほど。それから、検査データを研究発表(論文を含む)に使用していいかどうかの許可についても。

 こんなものまであって驚かされた。<医療に不服がある場合、第三者委員会へ申し出ることができます>という書類。まずはコーディネーターが丁寧に説明をするが、それでも不審な点がある場合は、このような手続きを経て、こうして、こうして、と矢印で患者や患者家族が取ることのできる手続きの道筋が書いてある。そこには第三者委員会への連絡先も。
 そして、逆に、次のような条項に抵触する場合は、医療機関から患者、患者家族へ注意、勧告、そして、場合によっては顧問弁護士を通じて法的手段に出ることもありますよ、という警告文まで。
 明らかな犯罪行為を院内で行った場合には、警察に通報するが、犯罪と取れない程度のものは、全て弁護士が動くということだ。列挙された数多くの条項に目を通した。実に細かいことまで書いてある。要約すると、医療従事者に対して『紳士的でない態度』を取った場合が該当するということらしい。あくまでも、医療従事者が「脅された」と感じるようなことがあったなら、文書で抗議文が届くらしいのだ。何だか、殺伐としている。
 沢山の契約書を見ながら、私は、母をお願いしていること全てが一つ一つ細かい契約の集合体であることを思い知らされた。

「『地中海姫』をお持ちですか?」
「あ、ええ。はい」
 私は、バッグからそれを取り出した。
「その中に、通信欄があります。もしも困ったことがあったり質問がある時には、そこから私共に連絡を取ることができます。ご利用ください。すぐに返事ができないこともありますが、なるべく早く対応いたしますので。また、こちらから連絡をする場合もありますので、時々覗いてください」
 私は、サービスが行き届いている点について、本当に感心した。しかし、だからこそ、強気にも出ることができるのかも知れない。

 そして、最後に、延命処置に関する契約書が差し出された。
「これは、実は急いで提出してもらわなくてはなりません。他の書類は明日の朝で結構ですが、これは、できれば、この場で考えていただけないでしょうか。さきほど斉藤ドクターからも説明があった通り、日野様の容態はかなり深刻です。手術中にも急変の可能性はあります。また、手術がうまくいっても、今後の対応をどうするか、ご家族のご意向を伺っておかないことには方針が立ちませんから。返事をいただけなかった場合、我々としては、人命救助の観点から、自動的に延命処置をとらせて頂くことになります。人工呼吸器をつけたり、心臓が止まった場合には心臓マッサージをおこなったりと最後の最後まで努力することになります」
 私はため息をついた。
 どうすればいいのだろう。本当に……
「あの……。私、気が動転していて先ほどの説明がよく理解できていないのですが、手術がうまくいったからと言って、母が良くなるとは限らない、ということ……なんですよね」
「これから、斉藤医師チームによって血腫除去術が行われます。最も我々が望んでいるのは、それがうまく奏功してくれて、意識が回復することです。しかし、そうなる確率は、高くありません。いずれかの時点で延命処置に切り替えることが必要になる可能性の方が高いわけです。一旦そうなれば、回復は困難です。言葉を変えれば死までの時間稼ぎに過ぎない公算が強いということです」
「母が助かる可能性はほとんどない、と……」
「そうですね」
「ゼロではない、ということですよね」
「まあ、ゼロではありませんが、ゼロに近いでしょう。手術や術後の管理については全力を尽くします。時々、本当に信じられないようなことがありますからね。我々も今の段階ではまだ諦めていません。しかし、その結果については再三申し上げておりますように、どういう結果になろうとも、ご家族の方に納得して頂くしかありません。それは、救命できた場合に考えられる後遺症も含めての話です」
「呼吸器をつけた場合、どういう経過を辿りますか?」
「心臓が止まるまで着けたままになります」
「心臓が止まるまで……ですか。どのくらいの期間になりますか?」
「人によりますので何とも言えません。数時間のこともありますし、数ヶ月に及ぶこともあります。臓器提供の意志がおありであれば、脳死判定後、その時点で臓器移植の手続きに移る、という選択肢もありますが……。ご本人はドナーカードをお持ちではなかったようですし、たとえ移植のご意志があったとしても、脳死の判定が出ないことにはやはり呼吸器をはずすことはできませんから……」

 説明を聞いて、私は、ますますどうしていいのかわからなくなった。
 私は、今、ハサミを手渡されている。
 母の細い細い命の糸。それをどこで切るか、さあ、切ってみなさい、と迫られている。食道の辺りに刺すような痛みが走った。膝の上に置いた手をいつの間にか強く握り締めている。そして、掌にじっとりと汗をかいているのが自分でよくわかる。
 私が本当に知りたいことは実はそんなことではない。堂々巡りの質問でそれこそ時間稼ぎをしている自分。わかっているが、なかなか切り出せずにいた。しかし、それを聞かないことには返事ができない。
 これまで、至れり尽くせりのサービスに感激していたのと正反対に、民間病院の残酷とも言える仕打ちを感じていた。

 意を決して、聞きたくなかった質問をする。
「延命処置をお願いした場合……、あの、あの……どれくらい費用がかかりますか……」
 最後の方は不自然なくらいに声が小さくなっていた。
 その質問を口にした途端に私は激しい動悸がし、続いて軽いめまいを感じていた。
 母の命とお金を、私は今、天秤にかけようとしている……
 石黒コーディネーターは、表情一つ変えずに言った。
「私の意見を先に述べさせて頂きますね。私は、延命処置を勧めない。一つには、さっきから繰り返し述べているように、回復の可能性が小さいこと。そして、もう一つは、日野様が保険に入っておられないことです。残酷なことを言って申し訳ないが、無理はされない方がいい。血腫を取り除く手術を受ける、家族として、そこまでされればいいではないですか。本当ならその処置だってする必要があるのかどうか疑問です。人工呼吸器をつけたら、管理費だけで一日10万円以上が別途かかります。その他にも入院しているだけで様々な経費がかかることは、クラークからお聞きになったと思いますが……。本当は、お金の問題は、私ではなくクラークに相談されるべきなのですが、余計なお世話ですみません。無理されているみたいで気になったものですから。一度つけたらはずせません。そのことも考えた上でお返事なさってください」

 私の目からは涙がボロボロ流れてきた。
 母が倒れた悲しみは、ここへ来たことで、いつの間にかオブラートに包まれてしまっていた。多くの優秀なスタッフが全力で母の処置に当たってくれる。そういう安心感が、逆に私を深刻な状態を認識することから遠ざけていた。いや、逃げていたのかもしれない。
 今、私は、たとえエリート病院である地中海病院で処置してもらっても、結局、私自身が現実と向き合わなければならないことを思い知らされていた。どんなに設備が整っていても、どんなに優秀な人材が揃っていても、最後は、私自身が母の状態を受け入れるしかない。そして、自分で、ハサミを入れるしかないのだ。しかしそれは、私には、余りにもつらい現実だった。

「すみません。あと少しお時間を頂けませんか。ご迷惑は重々承知しています。だけど……」
 石黒コーディネーターは、しばらくテーブルの一点を凝視していたが、やがて顔を上げて、私に一つの提案をしてくれた。




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