第3話 説明
次に渡されたのが、カードだった。
薄いプラスチックカードには、私の名前が入っている。
これから母はICUで治療を受けることになるので、このカードには現時点でICUの開錠機能がついているそうだ。もしも、病状が安定してきて一般病室に移ることがあったら、その時点で、その病室だけに使えるように切り替わる。退院と同時に機能は全部無くなるので返却の必要はないとのことだ。
セキュリティ管理は万全だと言う。病室へ出入りすると、全て、オペレーションルームのコンピュータに記録が残る。何か事件があったら、誰に渡したカードで部屋へ侵入したか全てわかるのだそうだ。職員は名札にリモートコントロールの発信機がついていて、カードを使わなくてもその部屋に近づいただけでドアが開く。薬剤師、クラークや清掃業者は担当患者の部屋全部の鍵機能を持つ。医師と看護師に関しては、自分の担当以外でも全ての病室に入れるようになっている。緊急事態にいつでも飛び込めるようにするためだ。別の見方をすると、医師を含めて、全ての職員は、誰がどこの部屋にどれくらい滞在したかまで全て管理されているわけだ。
患者は、腕に取り付けられたタグに発信機が入っている。患者取り違えを防ぐ固体識別機能と共に、部屋の鍵機能を果たす。発信機の発する電波は微弱なもので、ペースメーカーに影響はないらしい。
ITを駆使した病院。驚くばかりだ。
私は、分厚い契約書の控えと『地中海姫』、それに鍵の役割をするカードを受け取って、コンシェルジュを後にした。
私が向かうのは、ICUの外にある会議室である。そこで、スタッフから話があると言う。
4階に向かう。
会議室で私を待っていたのは、医師と『コーディネーター』と言われる職種の方の説明だった。またしても、説明書の山だ。
「はじめまして。脳神経外科チームのチーフをしています斉藤と言います。我々チームでお母様の治療をさせて頂きますが、事態が緊急ですので、大急ぎでご意向を伺わなければなりません。その点、ご了承ください」
挨拶をしたのは、惚れ惚れするような二枚目医師だった。切れ長の目、鼻筋の通った涼しげな顔。反面、体つきはがっちりしていて、青の術衣がより一層斉藤医師を頼もしく見せていた。
早速、病状の説明があった。
薄いパネルのコンピュータ画面に、母の頭の3D画像が出てきた。
斉藤医師は、画像を指し示しながら詳しく説明してくれた。
それは私にとって、ショッキングな内容であったが、これだけ設備の整った病院で、しかも多くの有能なスタッフが全力を尽くして治療に当たっているという安堵感が私のショックを和らげていた。
母は、小脳に巨大な出血巣があって、救命自体がかなり難しいという話だった。延髄が圧迫されているのだそうだ。希望があれば手術をするが救命の約束はできないこと、救命できても意識が戻らない公算が強いことが説明された。開頭血腫除去術という手術の方法についてもコンピュータパネルに図が出てきて、わかりやすく説明された。
時に奇跡的な経過を辿ることもあるが、手術が必ずしもいい結果を残すとはいい難い。特に、母のように重篤な場合は、通常は手術もできないレベルなのだそうだ。
斉藤医師はパネルを指し示しながら、私の顔を覗き込んだ。
「手術をした場合の救命率は10%と思ってください。ここまでで何かお聞きになりたいことはありますか?」
これまでの説明は、素人の私にもわかるようにポイントを押さえた要領のいいものであった。
ただ一つ、抜けていた説明……。
「もしも……、もしも手術を受けなかったら、どうなりますか?」
斉藤医師は一旦テーブルに視線を落とし、それから顔を上げて言った。
「恐らく……、今夜が峠かと」
「……!」
私には、手術を受けても救命率が10%しかないという説明よりも、何もしなかった場合に、母が明日まで持たないだろうという返事の方がずっとショックだった。
ここへ来て、手術を受けないという方を選択することが可能だろうか。
10%の道があるのとないのでは全く感じ方が違った。二つを比較しているうちに、私の中で10%はいつのまにか70%くらいに膨れていた。手術を受ければきっと助けてもらえるはずだ。私は、後悔しないために母をここへ搬送してもらったわけで、このまま何もせずに、じっと母の死を待つなんて考えられない。
何より、目の前の医師は誠実そうで全てを任せられる、そんなオーラを放っていた。そう、確かテレビで見たこともあるドクターだ。そんな先生が手術をして下さるのだ。助からないはずがないではないか。
「手術を……お願いします」
私は、頭を下げていた。
助かっても意識が戻らない可能性が高いのですよ、と念を押されたが、このまま見殺しにできるはずがない。
まだ、続いた。今度は、延命処置の話だった。
手術がうまくいった場合、そのまま回復すればいいが、そうでない場合についても考えていてくれ、ということだった。
「つらいかもしれませんが、大事な書類になりますから、よく考えてお返事ください」
一つ一つのことを全て私が決めなければならない。どの道を通れば一番いいのか、濃い霧の中を進んでいくような心細さがあった。医学知識がない上に、斉藤医師の説明を受けても、「この道を通りなさい」という明快な道を指し示してくれるわけでもない。全ての説明は、確率論であり、結局どれもこれも『蓋を開けてみなければわからない』という答えしか得られない。
恐らく、医師自身にも、どの道が一番いいのかわからないのではなかろうか。「奇跡が起こることもある」と言うから、「奇跡」が起こった場合には、間違いなく、その道がベストな道であるはずだ。しかし、滅多に起きないから「奇跡」というのである。
「決める」ということには苦痛を伴う。できるなら、誰か全部決めてほしいとさえ思ってしまう。
受付では、油断すると、いらないサービスが山のようについてきそうになった。なるほど、あったら便利だとは思ったが、私は、母の命に直接関わらないそれらのサービス一つ一つに「要らない」と返事をしてきた。しかし、今度の質問には簡単に「要らない」と言えない。
私が答えに詰まっていると、斉藤医師が微笑んで言った。
「あとは、なるべく早いうちにコーディネーターの石黒に回答をお願いします。わからないことは、彼に色々相談してください。申し訳ないが私はこれで失礼します。石黒君、お願いしますね」
そう言うと、斉藤医師は深々と頭を下げて、退席した。
母の頭の中で何が起こっているのかという説明と治療の選択肢の提示、そして、延命治療の話をした後は、細かい説明はコーディネーターに引き継がれた。コーディネーターは、看護師の資格を持つ。専門知識を持っているので、医療に関する相談を受けてくれる他、説明の多くがこのコーディネーターを通じて行われる。相談内容によって、事務に関することならクラーク、医療に関することならコーディネーターが動いてくれるわけである。
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