2018年 地中海病院(18/21)PDFで表示縦書き表示RDF


2018年 地中海病院
作:GFJ



第18話 叔父


 カウンセリングルームは6階にあった。
 ドアはカードを差し込む前に内側から開いた。新島心理士が小さく「どうぞ」と頭を下げる。
 壁には、お花の絵が数枚飾ってある。柔らかい色の花の絵は、病んだ心を癒すのに効果的なアイテムなんだろうか。
 ゆったりしたテーブルに向かい合って座る。
 
「日野さん。苦しいですね。ここでは何でも話していただいていいんですよ。話したくなければ、無理に話す必要もありませんけど」
 新島心理士は優しかった。私はどうすればいいのかわからなかった。話したいことがあるような気がするが、果たしてここがその適切な場所なのか、この人を信用していいのかさえ、私には判断ができなかった。
 ふっと部屋の天井の隅にある監視カメラに目が行った。監視カメラがないなんて、石黒さん、ウソついて……。
 新島心理士は、私の視線を追いかけて後ろを振り返った。そして、笑いながら言った。
「ああ、あれは、ダミーです。ここだけダミーのカメラが設置してあります。もともとは本物の監視カメラを設置する予定になっていたのですが、私たちが猛反対したので、取りやめになりました。妥協案としてダミーを置くことになったんです。ダミーだと言っちゃったら、その役割も果たさないですけどね」
 新島心理士が笑うと口元に小さな笑窪ができた。
 監視カメラがダミーかどうかは、今の私にはそれほど重要な問題ではなかった。私の犯した罪についても私は隠すつもりはなかったし。ただ、石黒さんが私にウソをついたのかどうか、それはとても重要な問題だった。
「私は、母の呼吸器の管をはずしました」
 この人になら話をしてもいいような気がしてきて、私はポツリと言った。新島心理士は驚いた風もなく、黙って聞いている。
「大きな警報音が鳴って、看護師さんが飛んできました」
 彼女は、少し右に傾けていた首を、今度は左に傾けなおして私の話に耳を済ませている。
「びっくりなさったでしょう?」
 私は彼女の目を見て喋った。
「心臓が止まるかと思いました。あんまり大きな音だったから」
 そこで会話は途切れてしまった。会話は途切れたが、決して不愉快な時間ではなかった。一時いっときの静寂の間を破ったのは、新島心理士の方だった。
「実は、半年前にも同じようなことがあって……」
 私は、驚いて顔を上げた。今度は、新島さんが喋る番で、私が聞き役だった。

 半年前に患者さん家族が人工呼吸器を外して逮捕された。黄色いテープはその事件後に石黒さんが提案したICU内だけで通じる暗号なのだそうだ。監視カメラはカラーであるが、カメラの性質でモニターには黄色の色調が鮮明に反映されない。石黒さんはそれを利用して黄色いテープを使うことを提案した。新島さんにも、カウンセリングの予約時に「黄色いテープ」という短い言葉で私の状況が伝えられた。
「私が逮捕されたら、私からお金が取れなくなる……、皆さん、そう思っておられるのでしょうか?」
 私は、失礼な質問をしていることを百も承知だった。私はすっかり病院不信に陥っていた。新島心理士は不躾な質問にも全く動じなかった。
「日野さんが病院を疑うのは仕方がないことだと思っていますが、逮捕されてもローンが無くなるわけではありません。石黒は、前回の事件の後、ひどく落ち込んでいました。これは私の個人的な見解なんですけど、彼はあなたを犯罪者にしたくなかったんです。ただでさえ肉親が植物状態になって苦しんでいるのに、その上、犯罪者になんかなったら、その後の人生はめちゃくちゃになります。今回のことでは、ICUの看護師さんが、日野さんの不審な動きに気づいて監視カメラの電源を一時的にオフにしたみたいですね。4分後に電気系統の不良として事故報告がなされています」
 そういうことだったのか。私はICUの看護師さんたちに助けられたのか。感謝しなければならないと思うと同時に、病院内の対立が私の想像以上に大きいことを感じていた。

 一息入れて、新島さんが質問した。
「お母様のこと、お一人で問題を抱えておられるみたいですけど、どなたか他にいらっしゃいませんか? ご家族かご親族に一緒に考えてもらえる方がおられれば、それだけでも随分と楽になると思うんですけどね。これまで、いろんな事をお一人で決めてこられて大変だったでしょう?」
 はっとした。何という的確なアドバイス。叔父がいた。叔父の存在を私はすっかり忘れていたのだ。

 私はぎりぎり30分で退室した。それ以上になれば、5,000円が10,000円になるからだ。ところが、ずいぶん後になってから知った。私がその日カウンセリングを受けた記録はどこにも残っていなかった。石黒さんが、コンピュータを使わずに直接電話で彼女に予約を取りつけたのは、カウンセリングの受診記録を残さないためだったのだ。彼が徹底的に私の罪を隠し通すつもりでいることを知って、改めて申し訳ない気がした。
  
 彼女が私に叔父の存在を思い出させてくれたことは本当に有難かった。叔父に相談したところで支払額が減るわけではないが、一人で悩まなくて済む、という安心感は私には大きかった。
 その日の夜、私は叔父が帰宅する時刻を見計らって、電話をかけた。母が倒れた知らせに叔父はショックを受けていた。無理も無い。しばらく間があって、最初に彼の口から出たのは「沙希ちゃん、大丈夫かい?」という言葉だった。これまでの悲しみや苦しみが、一気に出口を見つけたように押し寄せてきて、私は電話口でワンワン泣いた。

 次の日、叔父は仕事の都合をつけて病院に駆けつけてくれた。人工呼吸器につながれた母さんの姿を見て、彼は黙ったままハンカチで目頭を押さえた。言いたいことが出てこない様子で、しきりとため息をついている。
「叔父さん、ごめんなさい。もっと早く連絡するべきだったのに……」
「ぃいや。沙希ちゃん……、ホンマ、……ホンマ一人で辛かったなあ。はぁぁ。悪かったなぁ。おっちゃん、気いつかんくて……」
 私のことを気遣ってくれる人が傍らにいる、それだけで、どれだけ救われることだろう。
 
 私たちは病院内の喫茶店に場所を変えて、色々と話をした。叔父は、母さんのことよりもむしろ私のことを心配してくれた。明日から3日間、私は母のことを叔父に任せることにした。仕事を優先しろ、との叔父の計らいだった。
 「地中海病院って、テレビでは見たことあったけど、いやあ、すごい所だね。姉さん、こんな所にいるんだからのんびり寝てる場合じゃないんだけどなあ。意識がないのが勿体ないなあ」
 叔父が無理をして冗談を言っているのが分かったが、私は、何だか嬉しくてくすっと笑った。
「やっと、沙希ちゃんらしくなった」
 顔をしわくちゃにして叔父は笑った。目尻に涙が溜まっている。イングリッシュティーを口に含むズーッという音を聞きながら、母さんが倒れてから、初めて気持ちが軽くなったことをしみじみと感じていた。





次話は、6月18日(水)に更新予定です。











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