第17話 罪
ビビーーーーーーーーーッ
耳をつんざく警報音が私の心臓を射抜く。
反射的に私は両手を引っ込め、そのまま凍りついた。
看護師が飛んできた。遠くにいる別の看護師からの視線を肌が感じている。
私は息もできずにその場に立ち尽くす。顔を上げることすらできない。
私の両腕は母の顔近くの空中で停止していて、その中途半端な姿勢は「私がやりました」と周囲に告げている。そしてその先には、外れた管の端がそれを支えるアーム部分からだらりと下に垂れてゆらゆら小さく動いていた。
看護師の動きは素早かった。
連結部分を元のようにつなぐと、その姿勢のまま上目遣いに視線だけを私に2秒間注いだ。永遠とも思える2秒間。そして、何も言わずに警報音を解除した。ICUには、異様とも思える静けさが訪れ、再び鳥のさえずりが降り注ぎ始めた。
私の視界の端の方で看護師が淡々とそして迅速にやるべきことをやっているのがわかった。聴診器を母の右胸にあてたかと思うとそのまま左へ移動させる。そして母の人差し指につけられた機械の数字を確認し、やがて、彼女は私の視界から姿を消した。その間、私は微動だにできずに放心していた。母の胸は、まるで何事もなかったかのように、規則正しく動いている。
やってしまった、とうとう。いつかは実行するだろうと密かに思っていたことだった。こんな他人事のような言い草が通用しないことは自分でも知っている。だけど、これまでに私の頭の中で何度も流れた映像だった。あんなに大きな警報音が鳴ることまでは想像できていなかったが。ふと見ると、あの意地悪な目をした悪魔が高笑いをしている。
私は母の命の糸を切り損ねた。母を助けるができなかった。しかし、一方で、ほっとしている自分もいた。それは、母の死を再び先延ばしした、という安堵感でしかないのだが。どの段階であろうと、直接ハサミを使うのは難しい。どんなに母が哀れに見えようとも自分の親にハサミを使うことが平気であるはずがない。看護師が飛んできてくれたことに感謝している私がいる。
しばらくすれば、警察官がここへ来るだろう。殺人未遂犯を逮捕するために。
ぼうっとそんなことを考えていると、さきほどの看護師が再びやってきた。彼女は、黙ったまま、手に持った黄色いビニールテープを連結部分に巻いた。ハサミでテープを切り取り、丁寧に貼り付けて、彼女は再び私の元を去った。
じっと立ったまま、私は警察官の到着を待った。
母の手を静かに握り締め、このまま死に目に会えないのだろうなあ、とそんな事を考えた。今が別れの時。私が刑務所に入っている間に、多分、母は絶命するだろう。暖かい母の手。少し力を入れて握り締める。
---かあさん、ごめんね。
何がごめんなのか自分でもわからなかったが、自然に私の口をついて出た。
どれだけ待っただろうか。警察官は来ない。それどころか、いつの間にかICUにはまるで何事もなかったかのような穏やかな時間だけが流れている。看護師はそれぞれ迅速に動き回って日常業務を遂行している。
私の緊張感は別の色合いを濃くしていった。
これは一体、どういうことなのだろう?
患者家族が人工呼吸器の連結部分を外したのだ。契約違反、そして、殺人未遂。なぜ、誰も一言もそのことに触れないのだろう。なぜ警察官が来ないのだろう。どう考えても不自然である。
私はどうしたらいいのかわからずにいた。30分もじーっと立ったままである。腕はベッド横についているが、動くことで逃げると思われてはいけないとじっとしているのだ。かと言って、まさか私から看護師にどうなっているのかを尋ねる勇気はなかった。
ICUに姿を現したのは、警察官ではなく石黒さんだった。
彼は、まっすぐ私に近づいてきた。
「こんにち、わ……」
彼の挨拶は、尻切れトンボだった。目が呼吸器の管に吸い付けられている。視線の先には黄色いビニールテープが巻かれた連結部分がある。
「あの……、実は私……」
激しい鼓動を感じながら、石黒さんに自分の罪を告げようとしたのだが、石黒さんが私の言葉を遮った。
「あ、ああ、はずれちゃったんですね。よくあることです。テープを巻いてるから、も、もう大丈夫……」
明らかに石黒さんの方が動揺している。彼は私が呼吸器を外したことを知っている。いや、連結部分がテープで巻かれているのを見て知った様子である。
「ちがうんです! 私、わたしがやったんです!」
私は泣き崩れた。もう限界だった。
「顔を上げてください。あなたは悪くない。監視カメラには何も映っていません。証拠は何もない。あなたは何もしなかった。そして……、黄色いテープは、監視カメラを通るとただの白い色にしか見えません。誰もあなたを責めたりしません。お願いですから、自分を責めるのはやめてください」
私は静かに顔を上げた。石黒さんが、今までに見たこともないような優しい顔で目の前に立っていた。
「監視カメラ……、黄色いテープ……」
何の話かわからなかった。
「とにかく、何も心配はいらないから。いいですね」
有無を言わさない強い意志を持った石黒さんの眼差しがそこにはあった。
「カウンセリングを受けましょう。あそこには監視カメラもない。プライバシーが完全に守られています。何も心配せずに相談されるといい。予約を入れますから」
私には今、何かを決定する、という意志が完全に消失していた。今後のことを冷静に考える余裕があるはずもなく、今、私が置かれている状況すら認識できずにいた。もう、何もかもどうでもいい。カウンセリングを受けることで何かが好転するはずもないと頭の片隅で思っていながら、わざわざ石黒さんの提案を否定する余力も私にはなかった。
石黒さんは直接カウンセリングルームに電話をかけ、1時間後に、新島心理士に会うことになった。私は、だまって母の横に座って時間が経過するのを待った。静かに上下する母の胸。看護師が体温とモニターのチェックに来た。ぼんやり放心している私に声をかけるでもなく、いつもと変わらず、看護師としてやるべきことを淡々とこなす。そっとしておいてほしかったから、有難かった。座った姿勢の母のお尻が少し下にずり落ちているのに気づいた看護師は、別の看護師を呼んで、二人がかりで母を引き上げてくれた。私は邪魔になるので、その時だけ立ち上がってスペースを作った。
予約時間10分前に、石黒さんが再びやってきた。私が本当にカウンセリングに行くか心配だったのだろうか。私には喋る元気もなくて、黙って頷いた。
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