第16話 悪魔のささやき
5日目。
私は、今朝一番に高尾さんから診断書を受け取った。それはきちんと病院の封筒に入れられ封印が押されていた。その足で、市役所へ行き住民票を出してもらい、そして銀行へ行った。銀行で無事母の定期預金を解約することができ、私はほっとした。私の通帳には650万円が入った。実際に自分の通帳の金額を見ると、今まで私の通帳にはない桁の数字が打ち込まれている。大きなお金を自分が管理していることを実感した。母が、20歳過ぎからコツコツと貯めてきた貯金。そのお金が短期間のうちに無くなるのだ。母の治療のためとは言え、とても虚しい気がした。あんな雑誌を読んだ後だけに、その思いは余計に増幅されている。
何にせよ、当面の心配事からは遠のいた。それが決して解決策にはならないのだが。銀行を出た時には、ほとんどお昼になっていた。このところ毎日、私はウロウロするだけで時間を使っている。
昨日私がICUで過ごしたのは、ごく短時間だった。その反省もあって、私は、銀行帰りに、再び病院を訪れた。母に会いたくて……というのとは少し違う。自分でそう仕向けなければ、病院から足が遠のいてしまいそうな自分が怖かった。
半座位の姿勢で眠っている母の口に入っている管は、途中で連結されてそのまま人工呼吸器につながっていた。看護師が連結を外して細いチューブをそこから入れて母の気管に溜まった痰を吸引している。ズーッズーッと音がして、痰が取れていることがわかる。短時間のうちに上手にお掃除をするものだ。
吸痰を終えて彼女は呼吸器の管を元通りにはめ、聴診器で胸の音を聞き小さくうなずいた。それから母の身体の向きを少し変え、病衣を整えてから微笑みながら私に小さく頭を下げた。「終わりましたよ」という合図。
母が倒れてから、すでに5日目。最初の頃は、いつ意識が戻るだろうかと期待していたが、少しずつ母の顔は母の顔でなくなってきた。今では、どこからどう見ても、死を待つだけの意識のない病人。管の入った口は少し歪んだままだらしない格好になっている。こんな管を突っ込まれて払いのけるでもない、されるがままの母。「表情がない」ということが、これほどまでに外観を変えてしまうのかと思う。でもそれは、母が変わったのではなく私の受け止め方が変わっただけなのかもしれない。
母は、これで幸せなんだろうか。母が生きている理由は何だろう。私の自己満足のため? そのためだけに生きているのだろうか。母自身にその意味が果たしてあるのだろうか?
別れの瞬間を先延ばしするために母は延命処置を施された。現実を直視できずに延命処置をお願いしたことは私のエゴではなかったか。母の回復がもはやありえないのだと感じるようになってから、私は、そういう思いを強く抱くようになった。心臓が止まるまで、延々と続くのだ。お金のこともあるけれど、それを抜きにしても、人工呼吸器で意味のない時間を過ごしていくことに疑問を感じ始めていた。
私はハサミを手渡されて、そこから逃げた。母の命の糸を切ることができなくて、結果、母は、こんな姿で生きている。あの時にやれなかったことを今やればいいのではないか? 看護師がさきほど外したばかりの連結部分に視線が向く。あそこをはずせば、人工呼吸器から送られる空気は母の胸に到達しない。
大きくため息をつく。私は疲れているのだろうか。頭を振って自分の考えをすぐに否定した。ベッドのヘリに悪魔が座ってニタニタ笑っている。邪魔な奴。あっちへ行って。
私は母の腕をさすった。手を握り締めても腕をさすっても、母は何一つ反応しない。こんな状態がどこまで続くのだろう。
突然、石黒さんのセリフが聞こえてきた。
「人によりますので何とも言えません。数時間のこともありますし、数ヶ月に及ぶこともあります」
最初に延命処置について説明を受けた時に私が問いかけた質問に対する回答である。あの時の彼のセリフがよりによってこんな場面で蘇ってくるなんて。私は下を向いて耳をふさぐ。
どこまで続くかわからない。延々とこの状態が続く可能性がある……。生きているのか死んでいるのかわからない状態で、母はこのベッド上でひたすら呼吸を続けていく可能性がある……。規則正しく、機械の命じるままに。
結果としては同じことではないのか? だって、あの時切っていれば、とっくに母の命は終わったのだ。終わる時間が少し延びるというだけではないのか? 私には覚悟する時間が必要だった。ハサミを入れる覚悟。あの時点で、私にはどうしても使えなかった。だって、そうでしょう! 誰だって、いきなりハサミを手渡されて、そのまますぐに使えないでしょう? それとも、そんなことを平気でできる人がいるんだろうか? いきなりハサミを渡されて、すぐに糸を切れるんだろうか? ハサミを使うことで肉親が息絶えた時、誰がその事実をまっすぐに受け止める自信があると言うのだろう? どうしてこんな残酷なことを私に要求してくるんだろう! そして、今度は少しずつ弱っていく母を見続けなければならないのだ。どこまで続くか分からない苦しみを私は無条件で受け入れなければならない。どんなに母が可哀想でも、黙って耐えなければならないのだ!
もう、いやだ。こんな毎日、耐えられない。もうたくさん!!!!
あああぁあぁあああぁぁ!!!
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