第13話 お会計
今日は、仕事をするよりも病院を優先した。こんなに気分が乗らないことは、翻訳の仕事をやるようになってから初めてのことである。母さんの顔を見たら、少しはやる気が出るかもしれない。そんな期待もわずかに抱いて、私は電車に乗った。
シートに腰掛けて、”姫”を取り出した。今日のスタッフを見ながら、昨日、9月分の支払額を確認する途中で、そのままになっていることを思い出した。
『お会計』のページを開ける。
9月分会計をタッチ。
5,964,351円
59万円?
いち、じゅう、ひゃく……
思わず、「ええっ!!」と大きな声を出してしまう。周囲の人が迷惑そうに目だけをこちらに向ける。
一瞬、周りが真っ白になった。
心臓は張り裂けそうに鼓動を打つ。
何度も確認する。
596万円!
何かの間違いではないか……
震える手で明細の欄を確認すると、ずらっと項目が出た。
入院手続き費用から始まって、検査代、薬剤代、そして手術の費用がずらり。明細は何ページにも渡っていた。
いや、高いだろうとは思っていた。もしかしたら100万円を超えるかもしれないと、密かに心配していた。けれど、596万円ははるかに私の予想を超えた金額だった。
心臓がバクバク音を立てている。
どうしよう……
気分が悪くなりながらも何とか病院のICUまでたどり着く。
母さんは半座位の状態でベッドの上に休んでおり、その口には管が入っている。無表情のその顔を見ると、これまでになかった感情が湧いてくる。
「かあさん……。かあさん…、わたし……」
かあさん、わたし、一体、どうしたらいいの!
体温を持ったままそこに存在している母さんが私の問いに答えるはずもなく、規則正しい人工呼吸器の音だけが私の心に響く。
しばらく、ベッドの横から母さんの腕に顔をつけて、私は流れ落ちる涙を隠した。病衣の袖が涙に濡れた。一番の相談相手だった母さん。今は何も答えてくれない。
やがて、水色のユニフォームを着た理学療法士さんがやってきた。この前とは違う人だ。
涙を拭いて、お願いしますと挨拶をして、私は一旦ICUの外に出た。
回復の見込みのない患者に施すリハビリテーション……。何の意味があるのだろうか。私はディスポのウェアを外しながら、よく働かない頭で考えた。
ICUの外にある会議室横の自動販売機で私はコーヒー牛乳を買った。
長いすに座って喉を潤しながら、これから色々対策を練る必要があると思った。悲しみに暮れている場合ではない。お金のことをどうするか、真剣に考える必要があるのだ。
母さんの入院がこれからどこまで続くかわからないが、やれることはやってもらったのだ。後悔しないためにここへ搬送してもらった。請求額は私の予想を超えた金額だったが今さら文句を言っても始まらない。手術が一番お金がかかるはずだから、最初の請求が一番高いはず。何とかなるさ。
『死までの時間稼ぎ』、石黒さんは、かつてそう言った。だったら、残されたわずかな期間を悔いのないように過ごさなくては。
9月分の596万円を2ヵ月後までに準備することが先決だ。具体的に考えながら、少しずつ私は理性を取り戻していった。
結局、私はICUへは戻らず、自宅に帰って母さんの通帳を確認した。今月分の支払い額約600万円を捻出しなければならない。
何度見ても同じ。普通預金が240万円と定期預金が650万円。私の貯金が75万円あるが、母さんの普通預金と足しても足りない。最初から定期預金に手をつけなければならないのだ。
時計を見る。12時40分。とにかく銀行に行こう。
支払いまでに2ヶ月あると言っても、私は落ち着かなかった。自分の通帳ならともかく、母さんの通帳のお金だ。エースカードは私名義で作ってある。母さんの定期預金を解約して引き出し、私の口座に移し替える必要がある。
銀行は混んでいた。
私は順番待ちの紙を取り、記入用デスクの上の用紙を探した。定期預金を解約するための紙を取り出し母の名前を書き印鑑を押す。
そうして私は定期預金用紙と番号用紙を手に持ったままソファの端に腰かけた。
手持ち無沙汰で、落ち着かない。ソファ横にあるマガジンラックから雑誌を適当に取ると、膝の上に広げた。別に読むのが目的ではなく、何かしていないと落ち着かない、それだけの理由だった。
何も考えずに一番手元にあるのを適当に取ったので、おじさんが読むような雑誌だった。すぐに女性用雑誌に変えるつもりでぺらぺらとページをめくってみた。そして……
私は、めくっている途中、ある文字を捉えた。その文字を追いかけて、急いでページを数枚元に戻す。そこにあったのは、「地中海病院」の文字。面白いものだ。自分が関係すると、コンマ何秒で流れていく些細な文字でも目に留まったりするのだから。
『今、地中海病院が熱い』
雑誌記者と地中海病院理事長との対談が載っていた。
『最高の医療、最高のサービスを患者様とご家族の皆様へ提供するために』という副題が踊っている。モスグリーンの背広の下には同系色のネクタイをしたおじさんの写真。前頭部が少し薄くなっているが、にこやかなスマイルは営業用か。
ホテルのようなコンシェルジュ、最新式の医療機器を揃えた衛生的な手術室、そしてスタッフ会議の様子を写した写真がページの下の方に並んでいる。
記者 『医療の分野に進出されたのはどうしてですか?』
理事長 『以前から日本の医療のあり方に疑問を持っていたからです。病気でつらい時に、患者は、文字通り、ペイシェント、つまり我慢を強いられる。一刻も早く診てもらいたい時に、ひたすら待合室で待ち、挙句の果て、ろくろく診察もされないまま検査、そして薬をもらうにも、また、待たなければなりませんでした。あれを何とかしたいと思っていましてね。医療はサービスである、それを形にしたかった。そのためには閉ざされた世界に私のような外部の者が乗り込んで医療界を改革する必要があると思いました』
私は、雑誌に夢中になっていた。自分の番号が繰り返し呼ばれて、はっとした。雑誌の表紙を確認する。『経営のプロ 10月号』。マガジンラックに投げ入れて、急いで受付に走った。
「お願いします」
母の通帳と印鑑と用紙を差し出した。銀行員は、それらを確認して、
「免許証か保険証はお持ちでしょうか?」と聞いてきた。
「あ、私、娘ですが」
そう言って、自分の免許証を探していると、
「ご本人がご来店になるか、それが無理である場合には、委任状が必要になります」
にべもない。
その日、私はお金を下ろすことができなかった。事情を説明すると、病院から入院証明書一通と委任状が書けない理由となる証明書一通、そして住民票か戸籍抄本を一通持ってきてくれと言われて、私はすごすごと引き下がった。母さんのために母さんの預金を引き出すだけなのに。でも、仕方がない。このご時世、いろんな人がいるからね。書類をそろえれば済むことだ。帰り際、私は、私が投げ入れた雑誌を横目で再確認しながら、銀行を後にした。
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