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第12話 人工呼吸器
 電話は石黒さんからだった。
「さきほど、地中海姫でもお知らせしたのですが……」
 携帯を持つ手にぎゅっと力が入る。早く言って、早く……
「実は、お母様の呼吸状態が悪くなられまして……」

 意識が回復したのではなく、逆の知らせ……。母の意識が回復したのだとばかり思い込んでいたので、石黒さんが何を言われているのか、最初はピンとこなかった。連絡内容の重大さをようやく理解して、私は気が遠くなりそうだった。これまで選ばれた10%だと思っていたのに。これで10%の可能性はもっとずっと小さくなったということだ。

「今から……そちらへ伺います」
 ようやく返事をした。
「人工呼吸器をつけさせていただきますが、よろしいでしょうか?」
 石黒さんの質問に言葉が詰まる。正直言って、何も心の準備ができていなかった。呼吸状態が悪くなれば人工呼吸器をつけますか、どうしますか、という話を、イヤと言うほど聞いて、そして契約をした。けれど、実際にこういう風に現実になると、本当に慌ててしまう。こういうことは前もって考えるなんて無理なんだ。あれだけ悩んだ契約書だったのに、私の中ではこの時点で石黒さんの口から『人工呼吸器』の話が出ることが余りにも唐突だった。たとえ、延命処置はしないという契約をしていたとしても、実際にその場になれば、簡単に契約を覆しただろう。死んでほしくない。まだ、死んでほしくない。それが追い詰められた身内の心の叫びだ。
 私は、延命処置をお願いしたはず。契約書は渡してあるはずだ。何をいまさら……。石黒さんの質問を心でなじりながら私は返答した。
「よろしくお願いします」

 私は、とりあえずバッグの中に財布が入っていることを確認して、地中海姫と携帯電話を入れて、家を飛び出した。
 地下鉄車両の窓の外を流れるコンクリートの壁を眺めて私は呆然と突っ立っていた。不思議と涙も出てこない。手術が終わった当日の夜、母の胸が大きく動いた映像が繰り返し私の中で流れた。あれは何だったのだろう。母はあの時点で私の声を聞いていたのだろうか。それとも、何かの間違いだったのだろうか。ぼうっとしていて危うく私は地下鉄を乗り過ごすところだった。

 ICUに入ってすぐに聞こえてきた鳥のさえずりは、今の私には耳障りだった。こんな重大な場面で、偽りの鳥の声なんかで和めとでも言うのか。

 母は約束どおり人工呼吸器につながれていた。ベッドに横たわるその姿は昨日と何ら変わらない。人工呼吸器のリズムに合わせて胸が動いているが、傍目からは、あたかも自分で息をしているかのようである。手を握ってみる。暖かいその手は、確かに体温を持っていて、母の皮膚を通して、しっかり生きていることを私に教えてくれている。
 不思議な感覚に襲われる。母が倒れた時、地中海病院でなくて公立病院に搬送してもらっていたら、今頃は……。あの日、斉藤医師は言った。何もしなければ今夜が峠だろうと……。手術をしてもらったことで、今も母はこうして生きている。昨日と違うのは、人工呼吸器の助けを借りているということだけだ。意識がなくても、体温を持った母が目の前に眠っている、回復の見込みが小さくなったということ以外、昨日と何ら変わりない。本来なら死んでいておかしくないのに、こうして存在してくれている。
 私は、この状況をどう捉えたらいいのかわからなくなっていた。死なずに存在してくれていることに感謝したらいいのか、それとも、意識が戻らないことを嘆くべきなのか。医療が人の死を先延ばしできることについても、不思議な気がしていた。心臓さえ動いていれば、人は生き続けることができるのだ。それと同時に、医療の限界についても。どんなに力を尽くしても、力を尽くしてもらっても、どこかで悲しい現実を受け入れなければならない。
 
 10%の可能性。まるでギャンブルみたいだ。私は10%に掛けた。熱狂しながら。だけど、残念ながら母は90%の方に入っているみたいだ。母の身に奇跡が起きないことを一度感じてしまうと、今度は助かることを信じる方が難しくなってくる。近い将来母と別れなければならない現実。私はようやくその現実が目の前にあることを納得し始めていた。そうなんだ、納得なんだ。ここへ来た時にはそれができなかった。

「かあさん、あした、また来るからね」
 私は母の頬を撫ぜながら小さく呟いた。
 看護師は、石黒さんが別の患者さん家族と話をしている最中だと私に伝えた。「少しお待ち頂ければ……」と言われたが、別に石黒さんから説明を受けなくても、目の前の母の姿が全てだ。私は疲れていた。今日はこれで失礼します、と挨拶をしてICUを後にした。

 自宅に着くと、そのまま私はベッドに倒れこむようにして眠りに落ちていった。

 次の日、目覚めたときには、すでに朝日が高く上っていた。昨日、病院を出てからの記憶がほとんどない。どうやって帰ってきたのか、どうやってパジャマに着替えたのかもわからない。身体が妙に重かった。母のことを思い出すとため息が出た。目覚まし時計を引き寄せて時刻を見る。8時20分。部屋全体に灰色のベールが被せられているみたいに、どんよりと空気が沈んでいた。
 それでも、やることは沢山ある。私はノロノロと起き上がると、顔を洗って着替えを済ませた。あまりお腹は空いていないが、食べないわけにはいかない。少しでも食べれば元気も出るかもしれないし。冷蔵庫を開けると、昨日の食パンの残りがあった。

 半ば義務的に朝食を済ますと、私はコンピュータの電源を入れた。
 メールチェック。翻訳会社から、新しい仕事の依頼が3件来ていた。3件すべて断りの返事を書く。目の前の仕事のことだけで精一杯だった。それだけじゃない。今は仕事をしたくない、それが私の正直な気持ちだった。
 





次話は、5月23日(金)に更新予定です。


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