ダークと言うよりも、ヘビーな展開になっていきます。気が向かない方は、この辺りで引き返してください。
第11話 歯車
結局、手術から丸一日経つというのに、母の意識は戻らない。今日は昼前に斉藤医師から昨日の手術についての報告もあった。心配していたトラブルもなく無事に済んだことが説明された。必要があれば映像を収めたメモリーディスクを貸し出します、と言われて驚いた。地中海姫で見ることが出来るという。テレビに接続すれば大きな画像で見れますと説明されたが、実際にそういう映像を『見たい』という人が存在するのだろうか。肉親の頭の骨を開ける場面が映っているのである、私などは想像しただけで卒倒しそうだ。
手術がうまく行ったことと回復することは別の問題だそうだから、これから本当にどうなるのか分からない。
昨日は母が回復することに絶対の自信があった私だったが、まるでその気配さえない状態に次第に不安が混じってきた。もしもこのまま意識が戻らなかったら……。いけない、そんな事考えちゃ。私が信じなくて誰が母を助けてくれるだろうか。私はつとめて話しかけるようにした。何らかの刺激になるかもしれないし、私の心の安定剤でもあった。
私は、小一時間ICUで過ごした後、自宅へ戻って仕事の続きに取り掛かった。少しでも遅れを取り戻しておかなくては……。
休憩の度に”姫”を確認するが、連絡は入っていない。確認する間隔も少しずつ長くなってきた。昨日はあんなに頻繁に見ていたのに、今日は気づくと4時間も経っていたりした。
自宅に一人でいると結構雑用がある。時には何だか知らない団体の勧誘が来たり、掃除、洗濯、買い物……。これまで母がやってくれていた家事の一つ一つ、そんなに大したことではなくてもやることの項目が増えると、結構な時間を食ってしまう。そして病院へも顔を出す。気がつくと私が仕事に費やすことのできる時間は明らかに半分以下になっていた。ため息が出る。仕事を少し減らすしかない。
そこまで考えて、私は重要なことを思い出した。頼まれていた翻訳の返事を一つ保留にしていたのだ。残念だけどあれは断ろう。仕方がない。あわててメールを開く。
翻訳会社から新着のメールが届いていた。
新しい仕事の依頼が1件と午前中に送った翻訳を確かに受け取ったという内容のものだった。そして、最後にあった文章は私を慌てさせた。
『日野さんにはいつも迅速な返事と質の高い仕事をしてもらって感謝しています。お客様からも日野さんのレポートには高い評価を頂いています。ところで、昨日は何かの手違いだったのでしょうか、日野さんにはめずらしく、No.CN-3049954の翻訳の件、お返事を頂戴しておりませんでした。新規の会社ですし社としてもここは是非日野さんにお願いしたいと思って昨日メールを差し上げたのですが……。先方も急いでおられます。これから別の会員にお願いするのはちょっと困難ですので、引き受けてくださったものとして処理いたしました。依頼されている翻訳書類を添付しておきます。もしもどうしても無理である場合には至急お電話で連絡を下さい。これからもどうかいい仕事をしてください。期待しています。高橋』
どうしようか……。電話をかけて断った方がいいだろうか。メールをもらった時刻が午後1時少し前、そして、今、7時を過ぎている。電話をするには遅すぎる……。確かにこれまで私が仕事の返事を一日放置していたことは一度もなかった。今回はすでに2日が過ぎようとしているのだ。もしも4件とも返事をしていなかったなら、自動的に次の人に仕事の打診が行っていただろう。ところが、4件のうち3件の返事を入れたことで、会社は私の手違いと思ったようだ。会社に迷惑をかけていることをその文章から感じることができた。大きくため息をつく。この仕事までは何とか頑張ろう……。返事が遅れたことの謝罪と引き受ける旨のメールを送信したが、正直言って、気が重かった。
こうして少しずつ私の中の歯車が狂い始めてきた。
この頃は、まだ、自分で自覚していなかったのだが、実際に、病院通いと仕事と家事と、3つを同時にこなしていくのは相当の負担になっていた。
3日目。
とうとう昨日は母の意識が戻らないまま終わってしまった。私の中に焦りが出てきた。いつになったら意識が戻るのだろう……。ネガティブな思考が始まるたびに、弱気になっている自分自身を叱る。しかし、母のことだけでなく、仕事の方も追いかけられる圧迫感を感じ始めていた。
昨日は2時間しか眠れなかった。とにかく、仕事が追いつかない。今は睡眠時間を削って当座をしのぐしかないのだ。
ところが、今朝、翻訳会社から受け取ったメール、昨日、夜中に送信したレポートに『3ページ翻訳が抜け落ちている』という指摘があった。余計に気分が落ち込む。こんな基本的なミスをするなんて……。集中力が落ちている何よりの証拠。
普段、翻訳は大変と口では言いつつも、少なくとも30%くらいは『楽しい』という感覚が私にはある。時には、面白くて仕方のないレポートだってある。斬新なアイデア、私の知らなかった様々な科学の世界、会社や個人が必死になって取り組んでいる仕事、そういう宝物を日本に紹介する前に、あるいは世界に発信する前に、真っ先に知ることができる特権。勿論、興奮するような内容は滅多にはないが、どのレポートも何かしら面白い要素を含んでいる。産業翻訳という仕事は、大変な割に報酬は決して多くはない。でも、この、知らない世界を覗くという楽しみがあるから続けていけるのだと思っている。けれど、母が倒れてから、仕事そのものを楽しむという心の余裕は、すでに消えていた。今あるのは、追いかけられる感覚。仕事を追いかけるのではなく、仕事から追いかけられている感覚だけだった。
母のことが気になりながら、結局午前中いっぱいコンピュータの前に座っていた。肩と腰が痛くなって、私は、ベッドに横になった。天井を見ながら、ため息と、そして涙が出てくる。これから一体どうなるのか……。母は本当に元に戻るのだろうか。もしも意識が回復しなかったら……。そこまで考えて、私は重要なことに気づいた。
3日目だ!
私はガバと起き上がった。とりあえず9月分の支払額を確認しておかなくては。母が搬送された9月10日の支払額の計算が終わっているはず。
大急ぎで地中海姫を取り出す。しかし、支払額を確認するどころではなかった。取り出した地中海姫にはオレンジ色の点滅が光っていた。新しい連絡! 母さんの意識が戻ったんだ! 待ちに待った母さんの意識が! 私は興奮で心が震えた。”姫”を操作するのももどかしく、あわてて通信欄を開こうとしたその時、私の携帯電話が鳴った。
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