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第10話 思い
 私は1時間半ほどICUにいた。表立ってほとんど変化はなかったが、母が確かに私の声を聞いているという自信があった。目を覚ますのは時間の問題だ。家に帰って仕事の続きをしようかと思う度に、もしかしたら私がICUを去ってすぐに目を覚ますかもしれない、そう思うと一度椅子から離したお尻をどうしても下ろしてしまう。何度かそういうことを繰り返して、ようやく私は決心して立ち上がった。母が目を覚ませば、地中海姫で連絡が入るはず。ここは一旦帰った方がいい。
 もしも母の目が覚めたら、おにぎりでも食べてくれるだろうか。果物でもいい。こんな点滴ばかりで母も、少しウンザリしているだろうから。だったら、家に帰って明日持って来れるように準備しておく方がいいかもしれない。
 私は、自宅に帰る旨を山元看護師に伝えた。
「母のこと、よろしくお願いします。あの……意識が戻ったら、おにぎりとか持ってきてもいいですか?」
 山元看護師は、少し困ったような顔をした。
「意識が戻られて、嚥下がきちんとできることが確認できたら、トロミ食から徐々に硬いものに変更していきます。いきなりおにぎりは無理ですよ。それに……、いえ、そうですね……、もし意識が戻られたら、また、コーディネーターから説明があると思いますよ。明日も石黒は出勤しますから、質問があれば彼に何でもお聞きになってください。複数の者が説明をして内容に微妙な食い違いが発生するといけませんから、基本的にご家族との窓口はコーディネーターということになっています。小さな質問には私でも答えられますが……」
「ごめんなさい。そうでしたか」
 本当にここの仕事は細分化されているんだな。でも、ようやく私も地中海病院独特のシステムを理解してきていた。高度な医療を提供しなければならないのだ。その方が効率がいいに違いない。最初は正直言って戸惑うことも多々あったけれど、私は何でも好意的に受け止めることにした。私の捉え方がこうも変化するのは、母の手術がうまく行ったことと関係があるのかもしれなかった。
 山元看護師は、「何か変化があれば”姫”でお知らせしますね」と約束してくれた。

 近くのカレー屋に寄って、私はその日の夕食を済ませた。自宅に帰ったらすぐに翻訳の続きをやりたかった。明日は意識の戻った母の世話をするのだ。そうなると、少なくとも今日仕上げるはずだった二つの翻訳は終えておかなくてはならない。新たな翻訳も3つ引き受けちゃったし。カレーを待っている間も気になって私はカバンの中の”姫”を覗いてみた。残念ながらオレンジ色の点滅はなかった。食べ終わってもう一度確かめたが、やっぱり結果は同じだった。
 カレー屋を出ると、細い雨が降るともなく降っていた。風が吹くと、霧吹きで吹き付けられるように顔面に冷たい感触が生じる。私は地下鉄の入口を見つけてそこへ向かった。

 自宅に着いたのは11時を少し回っていた。本当に忙しい一日だった。気分の上がり下がりも激しかったし、実際にやるべきことが多かった。母が倒れたのがもう一ヶ月も前のような気がする。長い長い一日。それでもまだ、私にはやるべきことが残っていた。
 自室に入り、コンピュータを立ち上げる。あと二つ、翻訳を仕上げなくては……。やりかけの仕事を始めて30分もすると激しい眠気が襲ってきた。ふっと気がついて画面を見ると、そこには……
 t t t t t t t t t t t t t t t t t t t t t t t ……
 無数の t が並んでいる。指を置いたまま、一瞬寝てしまったらしい。私は、うんざりするような t の行列を消してから、コンピュータの電源を落とした。これ以上は無理だ。少し休もう。母の手術が無事終わったことでほっとしたのだと思う。目覚まし時計を朝の4時にセットして私はベッドに潜り込んだ。

 翌日、朝4時。目覚ましの音に眠たい目をこする。バッグから”姫”を取り出す。オレンジ色の点滅はない。意識はまだ戻っていないのか……。私は大きくため息をついた。もしかしたら、看護師が連絡するのを忘れただけかもしれない。昨晩特に忙しかったとかで……。
 そうだ。データの欄があった。あそこに何か新しいデータが入っているかもしれない。私は”姫”をあれこれいじって、母の新しい情報がないかを探した。
<看護記録>の欄があった。
0時5分 体温37.0℃ 血圧140/80 あとは何やら分からないデータが沢山書き込まれていた。そして、看護師さんの短い言葉。著変なし。
0時25分 ……
 昨晩だけでも記録は膨大な量になっていた。けれども、その中に私を喜ばせるような痕跡を見つけることはできなかった。
 下線の入ったデータをタッチすると、画面が入れ替わって、時系列でのグラフが現れてきた。ふーん。すごいね。 
 <本日のスタッフ>を確認する。看護師の顔ぶれが入れ替わっていたが、クラーク、コーディネーターは高尾さんと石黒さんのままだった。

 コンピュータの電源を入れてから画面が立ち上がるまでの時間を利用してインスタントコーヒーを入れる。窓を開けると涼しい風が入ってきた。残暑が厳しいとは言え、朝晩は秋らしくなってきた。
 昨日終える予定だった翻訳をようやく仕上げた時には、すでに10時を過ぎていた。7時ぐらいに休憩がてらコンビニまで食パンを買いに行き、トーストと牛乳という簡単な朝食を済ませたが、それ以外はコンピュータの前に座りっぱなしだ。
 『姫』はいつも傍らにおいて、時々点滅がないか横目で見ながら仕事をする。結局仕事を終えるまで『姫』はピカりともしなかった。二つのレポートを送信して私はコンピュータを閉じた。

 大急ぎでICUへ来てみたが、母の様子は昨日と何ら変わらなかった。丁度、水色のトレーナーを着た人が母の手足を動かしているところだった。リハビリテーションなのだそうだ。脳卒中の場合、リハビリは早く始める方が後遺症が少なくて済むという。そう言えば、そういう契約書があった。でも、こんな風に意識が戻る前から身体を動かすのだ。驚きだ。母の回復に向けて着々と準備がなされているのだ。その様子を見ながら、今日にでも意識が戻ってくれることを感じていた。本当は自分でリハビリの契約をしているのだから、そんな風に感じるのはちょっと違うのかも知れないが。
「まだ、病状が不安定な時期ですので、関節を動かしたりと軽い動きだけにしておきました」
 担当の人はそう言って、機械に記録をすると出て行った。
「かあさん、来たよ。沙希だよ。昨日、お守り買ったの。ここにぶら下げておくね。良かったね、かあさん、みんなかあさんのために一生懸命頑張ってくれているよ」
 母に話しかけて私はベッドの端にお守りを下げた。ちょうどその時、石黒さんが入って来た。看護師が連絡を入れてくれたようだった。
 私はお辞儀をした。
「本当にありがとうございます。感謝してもしきれません」
 石黒さんは硬い表情のまま返事をした。
「勝負はこれからですね。今の所、何とも言えませんが、厳しい結果になることも頭の片隅に入れておいてください」
 どうして、医療従事者は悪いことをこんなにも強調するのだろう。石黒さんの返事に少し幻滅しながらも、職業柄、否定的なことを言わなければならないのだろうと解釈した。
「昨日、夜ここへ来たときに、私の言葉に反応して母の胸が大きく動いたんです」
 私は、少しでも明るい言葉を石黒さんから引き出したかった。じっと石黒さんの目をみつめる。
「そうですか」
 それだけ? 私の予想を裏切る彼の返答に少しだけ動揺している私がいた。



次話は、5月15日(木)更新予定です。


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