第1話 救急要請
この小説は、前作『2018年 菊花病院』の姉妹作になりますが、単独でもお楽しみいただけるようにしているつもりです。
背景として、2014年に国民皆保険制度が破綻した設定になっています。
前作を読まれた方へ……第1話のスタートが前作と同じになっていますが、途中から微妙に違っています。そこも含めてお楽しみください。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
2018年9月10日・・・
「母さん! 母さん、しっかりして!!!」
大変!!
どうしよう……
それは突然だった。
台所で夕飯の準備をしていた母が『吐き気がする』と流しの淵に手をついたかと思うと、突然、膝から崩れ落ちた。
慌ててその場にしゃがみこんで、母さんを揺する。
だらりと力の抜けた母は重かった。
「母さん! 母さん……」
そうこうしているうちに、私の両足に何か生暖かいものが染み込んできた事に気がついた。
失禁……
母は、意識を失い、同時に失禁して床に倒れこんでいた。
大変な事態に、私の方がうろたえる。
わぁ、どうしよう。ホントにどうしよう……
足が震えてくる。
救急車……
ちょっと待って。
救急車は、5年前から有料化されていた。とりあえず3万円あれば救急車を呼ぶことができる。
母をその場に置いて、財布を確認する。
3万円ジャスト。
どうしよう……
母が大変な時だと言うのに、私の頭の中は、動揺する気持とともに、様々な思いが駆け巡る。
医療制度が大幅に替わって、以前のように簡単に救急車を呼んで救急病院へ行く、という時代は終わっていた。救急車を呼ぶ前に、保険の利く病院(公立病院)へ運んでもらうか、自費診療の病院(私立病院)へ運んでもらうかを決めておかなくてはならない。
どうしよう……
神様……
その時、私は、友人渚の不幸を思い出した。
渚の弟さんが夜中に喘息発作を起こして亡くなったのである。このご時世に喘息発作で命を落とすことがあるのか、と私は唖然とした。
彼の発作は夜間に始まった。両親は車で近くの公立病院の救急外来まで息子を連れて行った。患者で溢れかえる救急外来。両親はバタバタ走り回る看護師さんを捕まえて、息子の呼吸が苦しそうだから診察を急いでほしい、と懇願した。しかし、ドクターが救急処置中で少なくともあと20分はこちらへ来られないこと、息子さんの他にも、緊急を要する患者さんが沢山待っておられること、を早口で説明されただけだった。そうして、渚の弟は、2時間待たされた末、医師の診察を受ける前に待合室で命を落としたのである。
ご両親は、自分の息子を公立病院に連れて行ったことを強く後悔されている。その無念さは、いかばかりだろう。<地中海病院に連れていけば良かった>その自責の念は、今もご両親を苦しめ続けている。家を売っても良かったんだ。隆の命が救えたのなら……。後悔しても後悔しても、時間の針は決して元に戻せない。幾ばくかの金を惜しんだばかりに……。息子を失った悲しみは癒えることなく、かえって時間が経つほどに両親を苦しめていく。真綿で喉元を絞められるように。
弟さんの不幸からしばらく経って渚と会った時、彼女は驚くほど憔悴しきっていた。両親の不仲、母親の自殺未遂。彼の突然の死が連鎖反応のように家族を出口のない不幸のトンネルへと追いやっていった。弟の死を悲しむ余裕も与えられないまま、彼女は両親を支えていくことに疲れ果てていたのだ。
どうしよう……
動揺しながらも、妙に冷静な私がそこにいた。
母の状態は深刻だった。だから急いで治療してもらう必要がある。
でも、深刻だからこそ、治療費がバカ高い値段になることも、簡単に予測できた。
母さん、貯金、いくら持ってるんだろうか。
私の貯金は75万円だ。
2年前、私費で保険に加入するかどうか話し合った時、母さんは言った。
「いざと言うときは、もう、諦めよう。な。保険料支払うより、毎日の生活の方がよっぽど大事。もしも、私が倒れたら、国民保険の利く病院に運んでちょうだい」
元来、元気で働き者であることだけが自慢だった母は、自分が病で倒れることなど考えていなかったのだろう。いや、余裕がなかったという方が正確かもしれない。
まさか、こんなに早く、その時が来るとは……
母さんの胸に耳を当てる。
心臓は動いている。息もしている。まだ、生きている。
「かあさん!ねえ、目ぇ覚まして!! お願い!」
母はぐったりしたまま、ピクリとも動かない。
やがて、母さんは鼾をかき始めた。
まずい……
母さんの顔を横に向けて、とりあえず舌が気道を塞がないようにする。
私は決心して、電話を取った。
保険に入っていなくたって、金のことは何とかなる。まずは、母の命を救うことを優先したい。私は後悔したくなかった。
「もしもし。すみません。救急車一台お願いします」
電話を置いたあと、私は、母の尿で濡れた自分の靴下を剥ぎ取り、台所横の小さな部屋に入って片っ端から机の引き出しを開けた。大事なものがしまってあるはずの机。
ヘソクリや通帳はここにあるはず。もしかしたら、私の知らないところで、広大な土地なんか持ってるかもしれない……
と期待しつつ、そんなわけないか、とため息。
普通預金が240万円、定期預金が650万円。
どうやら、それがうちの全財産らしい。これが母さんの治療費の上限ということだ。
救急隊が到着する前に、母さんの下着を替えておきたかった。
バスタオル数枚を持ってきて、母さんの腰の辺りにかけ、下着を脱がす。重い。何て重たいの。濡れた下着はべっとり臀部にしがみついていて脱がすのが大変だった。
涙が出てきた。
「かあさん……」
バスタオルで下半身を拭いて、ついでに、床もそれで拭く。
力ずくで清潔な下着を大腿部まで引き上げたところで、サイレンの音がけたたましく鳴り響いたかと思うとすぐ近くでぴたっと止まった。
救急隊員が到着する。
最初に、3万円を請求された。
財布からお金を出す。
領収書を渡された。
「確定申告の際、これも出されるといいですよ。医療費の一部とみなされますからね」
救急隊員はそんなことを言った。
「すみません。あの、スカートだけでも……」
箪笥からスカートを引っ張り出してきて、そう言った私に、
「一刻も早く搬送しましょう。毛布をかけるから大丈夫」
救急隊員は、二人がかりで母さんをストレッチャーに乗せた。
私も後をついていく。
「希望の病院はありますか?」
「はい。地中海病院でお願いします」
「わかりました」
救急隊員は、地中海病院に連絡を入れたと同時に、サイレンを鳴らして動き出した。
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