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深淵サンクチュアリ

作者:柳坂郁
お読みいただく前に、あらすじ・キーワードをご確認ください。
 天を仰げば星屑、足元には真紅の花びらがどこまでも広がっている。

 漆黒の空には、私の住む街からは確認することが難しい星座がいくつか、それも鮮明に瞬いていた。時折流星が駆ける様子も見える。
 満天の星空と言って差し支えなかった。こんな星屑まみれの空を目にするのは、幼い頃に母に連れられて向かった母の生家――深い森の奥に佇む邸宅の庭から眺めた時以来だと思う。遮るものが何もない分、今見えている景色はかつて見たそれとも微妙に異なる。自分の視線とほぼ同じ高さまで煌めく星々で埋め尽くされている光景は、この上なく非現実的だった。

 空と地の境目ははっきりしていた。
 地面には一面、薔薇と思わしき真っ赤な花びらが散らばっている。いや、地面を埋めていると言ったほうが多分正解に近い。靴先が隠れるくらいの厚みを持った花びらの集まりは、それこそ満天の星空と同じように、際限なく周囲一帯を埋め尽くしている。星空と花びら、なかなか結びつかないその二つが空と地の境界線を生んでいるという事実が、にわかには受け入れがたかった。


 そこまで思い至って、ようやく理解が及ぶ。
 そうか、これは夢だ。夢……いや、もっと踏み込んだ表現をするなら、恐らくここは。


 その事実に気がついた途端、ざ、と風が膝をすり抜けていく。
 ざわ、と蠢いた真紅の花びらに気を取られて足元へと目を落とし、再度視線を上げた時には、すぐ目の前に一つの人影があった。

 何もない空間から突如現れたとしか思えず、知らず息を呑む。
 微かに喉を通過した声ならぬ声、それでも足を動かしてその場から離れるなどということはできなかった。まるで数多の薔薇の花びらが、明確な意思を持って私の足に絡みついているかのような錯覚に溺れ、その考えを払い落とすのに無駄に時間が掛かる。

 目の前の人物は、見る限りでは男性のようだった。仕立ての良い燕尾服を身に着け、手には白い手袋を嵌めている。どこかの貴族に雇われた執事に見えなくもない。しかし顔全体を覆うオペラマスクが、その雰囲気を完全に壊してしまっている。表情はマスクに隠され、少しも覗けそうになかった。
 しばしの沈黙の後、訝しげな視線を投げたまま微動だにできずにいる私へと、その人物は静かに口を開いた。


「ようこそ。何かお探しですか、麗しきご令嬢?」
「……貴方は?」


 声は低い。男性で間違いないらしい。
 つっけんどんな私の言葉にも、彼はこれと言って動じた様子を見せなかった。くすりと笑った風に見えなくもなかったが、それは次いで彼が紡いだ言葉にあっさりと掻き消されてしまう。


「それは、私の問いにお答えいただいたその時にお話ししましょう。さて、貴方がお探しなのは日常でしょうか。それともそれとは懸け離れた場所にある非日常ですか?」
「……」
「答えが前者なら、このまま私に背をお向けください。あるべき日常へとお戻りいただけるでしょう。ですがもし後者をお求めなら……私のこの手をお取りいただけますか。」
「……、何、を」


 答えに詰まる。
 自分の問いに答えるなら私の問いにも答えると言う。しかしそもそもの問い掛け自体が、私が思い描いていたものとは懸け離れていた。にわかには答えられず、訝しさにますます拍車が掛かっていく。

 逃げようにも足が動かない。
 先ほど漠然と感じた花びらの拘束は、今となっては完全に現実のものとしか思えなくなっていた。一面に敷き詰められた薔薇の花びらは、確かに私の足をこの地面に縛りつけて離そうとしないのだ。まるでそれ全体が、一つの意志で動く生き物みたいに。

 息が震える。
 その時、オペラマスクの奥に隠れた視線が緩く揺れて見えた。それに重なるように、酷く近い位置から男の声が鼓膜を揺らす。


「さぁ、選んで……エマ。」
「……!」


 不意に名を呼ばれ、目を瞠って男を凝視した。
 見れば男は、私に選べと言いながら、既に白い手袋を被せたままの掌を私へと伸ばしている。すぐにでも取れと言わんばかりに。

 どうして私の名前を知っている。
 この男は誰なんだろう、私の知っている人間なのか。そうは思うものの、顔全体を覆う仮面が邪魔をする。先ほどから何となく聞き覚えがある風に感じる声も、まるで靄。あっさりとその正体を眩ましてしまう。

 その手を取ってはいけない。
 確かにそう思っている、……それなのに。


「……、」


 首を横に振りながらも、私は自分の掌を男のそれに重ねてしまった。
 触れた掌は、手袋をしているにも関わらず酷く冷たい。そのひんやりとした感触が、ますます私から現実感を剥ぎ取っていく気がしてならなかった。

 男は私のすぐ目の前で、どうしてか肩を強張らせた。
 マスク越しに覗く瞳が動揺に揺さぶられているように見えて、その仕種にほんのりと既視感を覚える。揺れる瞳、掌が湛える温度。手を取れと言いながら取れば取ったで拒絶するという、矛盾に満ちた態度。

 この感じは……あぁ、そうか。
 むしろ、どうして今の今まで忘れていられたんだろう。


「……。」
「お答えしましたよ。今度は私の質問に答えてください……貴方のお名前は?」
「……私には既に名はございません。お好きなように呼んでくださって結構ですよ。」
「……」
「では参りましょうか。……もう後戻りはできません、お判りですね。」


 最後の言葉が鼓膜を叩くとほぼ同時、満天の星空と薔薇の足元が一瞬で消え失せた。急に足元が抜け落ちる危険な感覚に、思わず身を竦める。口からは知らず、小さくも悲鳴じみた声が零れ出ていた。

 目の前にいたはずの男は、いつの間にか私の隣に寄り添うように佇んでいる。
 手袋を嵌めたままの掌が私の手を引く。やはりひんやりとしている。しっかりと握り締められた掌は、そう簡単に外れそうにはなかった。

 宙に浮いている。現実ではあり得ない状況に、目を閉じることすら忘れていた。先ほどから既に、これは現実ではないと思えていたはずの現状ではあったものの、さすがにこのような状況に置かれては驚くなと言うほうが無理がある。


 空を飛んでいるみたいな、ふわふわと揺れる目線。
 気づけば眼下には、私の生家がある街が広がっていた。黒く塗り潰されていた空には、星の代わりに燦々と輝く太陽が姿を見せている。見慣れた光景に胸がぎちりと軋んだ。

 浮いた身体の隣には常に男の姿がある。
 いつしかオペラマスクを外していた彼の顔を見て、ある種の確信を抱いていた。彼は既に、私に顔を見られても問題がないと判断した。だから派手な仮面を外して素顔を晒しているんだろう。


 見れば見るほど恩師によく似ていた。
 数年前に亡くなったはずの、今尚私が敬愛し続けている恩師に。



 ***



 徐々に高度を下げて地面へと近づいていく身体は、まるで綿にでもなったかのように軽い。

 手を引かれたまま、私はゆっくりと地面に降り立った。
 教会の鐘が鳴っているのが聞こえ、そちらに視線を向ける。すると黒い服を着た人混みが見えた。どうやら今日は、葬儀が行われているらしい。見慣れた教会の天辺にそびえる十字架が、いつにも増して眩しく光り輝いて見えた。

 降り立った足で、人だかりのほうへと歩みを進める。
 驚いたことにと言えばいいのか、それとも想像通りと表現したほうが正解に近いのか。その場に居合わせる誰にも、私の姿は見えていないようだった。


 そのまま、荘厳な扉をくぐって建物の中へと足を踏み入れる。
 浮かされたみたいな私の足取りに、男はそれでも何も言わずに後ろからしっかりとついてきていた。

 お父さまとお母さまの声が聞こえる。
 泣いているようだ。二人が身に着けているのはやはり黒い服、……喪服だ。二人並んで、棺に縋りつきながら泣いている。随分と殊勝な態度を見せていると思った。特に父だ。彼のそんな姿を目にするのは、酷く新鮮な感じだ。

 泣き崩れる両親の斜め向かい、ある人影を視界に入れて思わず息を呑んだ。最近になってから新しく宛てがわれた婚約者がいたからだ。
 彼も両親と同じく、黒の正装に身を包んでいる。ぎゅっと握り締めた掌、そこからは血が滲んでいる風に見えた。にも関わらず、顔には仄かに安堵の表情が覗いているみたいにも思え、そこまで思い至ってようやく記憶が鮮明に蘇った。


 そうだ、この人には恋人がいたんだった。
 とある事件の後、転校を余儀なくされた先の高等学校を卒業した私。実家へ戻った直後に、お父さまが無理やり、私とあの人の婚約を決めてしまったんだ。自ら命を絶つこととなってしまった元婚約者――アレンのことなど、最早露ほども記憶に残っていないと言わんばかりに、あの人の元へ嫁げと私に命令した。

 するすると紐が解けるようにして記憶が蘇ってくる。
 靄の掛かった感じは一瞬で払拭され、私はかつての婚約者の死とその原因と、目の前の人物の正体に思い至った。


「思い出しましたか。」
「……はい、先生」
「違いますよ、僕は単なる自殺者です。守るべき生徒の命を守れず、嘆きの末に自ら死を選んだ背徳者ですよ。」


 ざわめきが一瞬途絶えた。
 ふわりと身体が浮いて、先ほどまで地面についていたはずの両足は空へと高く舞い上がる。先生に抱え込まれるようにして浮いた先、棺の中に横たわる人影が確かに視界に映り込んだ。白いドレスを身に着け、頭の周りに白い花をたくさん添えられた、その人物が。


 ああ、もう少しで、顔が見えそうだ。


「私は先生を尊敬していました」
「……。」
「貴方が命懸けであの日、教室で自殺を企てたクラスメイトを……アレンを止めようとする姿を目にする前から、ずっと」
「……、エマ。」
「先生の行動は無駄なんかじゃなかった。人として、教師として、貴方はあるべき姿を毅然と貫いた。あの日、教室の中にいた誰もがそう思っていたのに」


 先生は何も言わない。
 目も合わせぬまま独り言のように口を動かし続ける私の、どこか感情を欠いた声を、ただ静かに聞いてくれていた。


「先生のことがずっと好きでした。尊敬だけではなくて、私、一人の男性として先生をお慕いしていたんです。いずれ他の殿方のところへ嫁がなければならない身には許されない想いだと判っていても、自分の心を止められなかった……」


 その時、ちょうど視界を遮っていた人影がその場から動いた。
 棺の中の人物の顔が、しっかりと視界に入り込む。

 艶やかに巻かれた、胸元まで伸びた金色の髪。
 紅が引かれた口元、美しく施された死化粧と硬く閉じた両目。


 そこに眠っているのは、私。
 既に死に彩られた私の顔は酷く鮮やかで、そして――残酷だ。


「私、自殺したんですね。先生を追って」
「……うん。君は僕の死を知って、僕の墓の前で命を絶ってしまったんですよ。」


 強めの風が、私たちの間を吹き抜けた。



 ***



 今から二年前。
 先生は、私の同級生であるアレンの自殺を止めようと、彼の持つナイフを奪おうとして誤って刺された。半狂乱になったアレンはそのまま窓から飛び降りて、結局自ら命を落とした。

 先生は半年もの間、意識不明の重態に陥ったままだった。私はその間に何度も先生の見舞いに向かっては、意識のない彼に「先生のやったことは無駄なんかじゃないよ」と話し掛けていた。
 それが両親に知れた後、訳の判らない焦燥を滲ませた二人の手によって、私は遠くの全寮制の高等学校へと強制的に転校させられたのだ。

 両親は、私が先生の影響を受けて教師になることを夢見るようになったと知り、酷く焦っていた。家の道具として結婚するだけの、ただの駒でしかない私。そんな私に下手に夢を与えてしまった先生に、それ以上私が固執することを恐れたのだろう。


 貴族の女生徒ばかりが通う高等学校を卒業し、早々に自宅に戻ったその日、私は両親から先生の死を伝えられたのだった。


 先生は私の転校直後に意識を取り戻し、結局アレンを救えなかったと嘆いて、病院の屋上から身を投げたのだという。

 私の世界からすべての色が消え失せたのはその瞬間だった。
 話を聞いた翌日、喪服を身に着け真っ白なユリの花を手にしながら、私は先生が眠る墓地へ向かった。彼の名前が刻まれた墓石はしばらく手入れをされていないのか、蔦が這って薄汚れていた。

 涙は出なかった。指先が汚れることすら気に懸けられず、蔦を取り除きながら、私の心は静かに息を止めていった。
 冷たく汚れた指先で、用意していた小瓶を取り出した。そのままそこで、小瓶の中身――前日のうちに入手していた劇薬を口に含んで、自殺を図った。


 ――それが、七日前の話。



 ***



 明確な自覚はしていなかったと思う。それでも自分は、そう長過ぎる訳でもないほんの数年の間に、それほどまでに先生への想いを募らせていたらしかった。
 加えて、長い学生生活がようやく終わりと告げたその瞬間に最悪の悲劇を耳にしたことにより、一気に感情の箍が外れたことも影響しているのかもしれなかった。


 浮かんだ身体は教会の天井をすり抜け、空高く舞い上がっている。
 抜けるような青い空は、生前何度も見上げた光景であるにも関わらず、今となっては非現実的な感覚しか連れて来ない。

 空はいつしか、最初に眺めていたものと同じ星空に戻っていた。
 宙に浮いたままの足元には薔薇の花びらこそなかったものの、今度は足の下にまで満天の星が広がっている。真下に並ぶ幾つもの星座は酷く新鮮で、そして美しい。場違いにも感嘆の声が零れ落ちてしまいそうになった。

 私の身体を支えようと触れていた先生の手は、既に離れてしまっている。
 先生の手には、いつの間にか大きな鎌が握られていた。いつか書物で見た死神が持っているのと同じ、三日月みたいな刃の形をした大鎌だ。長い長い柄の部分を、先生の節ばった指が――否、骨が、這っている。顔はどうしても、すぐには見られそうになかった。


 そうか。
 先生は、死神になってしまったのか。


 死神は、自殺者の成れの果てだと聞いたことがある。
 幼少の頃、母方の祖母から聞かされたのだったか。その時は子供心にも、絶対に自害などしないと誓った。それから十年あまりしか経っていないのに、己の忘れっぽさと決心の甘さには辟易してしまう。

 自殺を経て死神となった先生は、新たに自ら命を絶った私を迎えに現れた……そういうことなんだろう。
 先生が身に着けていたはずの燕尾服は、いつの間にか漆黒のローブに形を変えていた。同じ黒色、それでも裾の長いローブに全身を包み込んだ先生の姿は、かつて見た書物に描かれていた死神にそっくりだ。大きな鎌の刃の部分がギラリと光を反射し、早く獲物を食わせろと言っている猛獣そのものに見えた。

 現実から懸け離れた光景を見つめていると、大鎌が私にそっと触れた。
 刃は冷たいようなあたたかいような、何とも言えない温度を湛えながら首元に当てられている。生きた人間を狩る訳ではないその鎌は、数多の星の輝きを反射しながら、それでも酷く鈍い光を放っているみたいに見えた。


 血ではなく、魂を吸う鎌。
 私などの魂を捧げるには、これほどの得物はむしろ勿体ないとすら思えてくる。


「馬鹿だな。僕の手を取りさえしなければ、君は命を絶ったことをなかったことにして、元の生活に戻ることができたのに。」


 堪えきれず視線を上げる。
 真っ黒なローブに包まれた頭蓋骨――その口元が覗き見えた。不思議と、先生の声音は先ほどまでと変わらなかった。時折、骨が軋むような音が加わっただけだ。


「……いいえ、これで良かったんです。たとえ生きて戻れたとして、私にはもう居場所なんてなかっただろうから」
「君には婚約者がいたんでしょう。アレンではなく、新しい婚約者が。」
「いました。でも彼には恋人がいるんです。あの人は、無理やり恋人と引き離されて私との結婚を強いられた、かわいそうな人」
「……。」
「元の生活に戻れたってどうしようもない。人を不幸にしかできなかった私に、これ以上まだ誰かを不幸せにしろとでも言うの……」
「……、エマ?」


 訝しげな声がすぐ傍から鼓膜を叩き、思わず両手で顔を覆った。
 それとほぼ同時、首筋に触れていた刃が放つ冷気がほんの少し遠ざかった気がした。

 思い出したくない。これ以上は要らない。
 でも、どれだけ願ってもそれはもう叶わない。

 先ほどまで脳裏を占拠していた靄がまるで嘘のようだ。私の頭には、次から次へと記憶の欠片が蘇ってくる。
 空に浮かぶ身体が妙に軽い。先生が握り締める大鎌すら、今となってはいっそ愛おしい。断罪の刃が、早くこの身を切り刻んでしまえばいい。そうすればきっと私は救われる。終わりのない後悔から解放されるに違いなかった。


「ねぇ、先生。あの日アレンが自殺を図った理由をご存じですか?」
「……え?」


 脈絡なく口を突いた言葉を前に、先生がにわかに眉を顰めた。
 それこそがアレンの死に隠された真実。今となっては私しか知り得ない、私だけの罪だ。

 さぁ、先生。
 どうか、私を、裁いてください。


「……アレンはね。私が先生に想いを寄せていると知って、わざと先生の目の前で自殺を図ろうとしたんですよ。せめて一矢報いようとして」


 一面の星空が、一瞬で輝きを失って見えた。
 今の私の足元に広がるのは、底の知れない深淵のみ。けれど知れないはずのその底は――地獄の入り口は、もう目の前だ。

 誰も知り得なかった真実、それこそが私の罪。
 アレンが死んでしまった今、この真実を知るのは私だけだ。先生は目を見開いたまま、私が放った強烈な毒を反芻している様子だった。


「親同士の約束で、私たちは将来を共にすることが生まれながらに決まっていました。そのことに反発していたのは私だけ。アレンは何の迷いも疑問もなく受け入れていたんです」
「……。」
「アレンがナイフを振り回した日の前日、私、アレンに呼び出されたんです。誰もいない資料室で、『お前、あいつのことが好きなんだろう』って非難されました」
「……。」
「あいつを脅してやったんだ、この学校からあいつの居場所を奪ってやったっていいんだぞ。アレン、言いながら笑ってた。それが許せなくて、私、先生以外にそんな風に思える人なんていないんだってはっきり言ってやったんです。婚約も解消してやるんだから、大体がそんなの、親同士が勝手に決めただけのただの口約束なんだからって」
「……。」


 アレンは結局、先生を学校から追放するような真似はしなかった。
 その代わり、そんなことよりも遥かに私と先生を奈落に突き落とす行動に出てくれた。


 わざと先生が教室に入ってくるタイミングを狙っていた。
 悲鳴じみた声を上げながらナイフを自分の喉に突きつけ、……一世一代の演技でも気取っていたのだろうか。先生が止めに入るだろうことまで見据えていたのだろう、今度は先生へと刃を向けながら、それでもアレンの視線は完全に私だけを捉えていた。

 当然だ。アレンのあの行動はすべて、私への復讐だったんだから。
 自分へと振り向かなかった私を苦しめる為だけの、単なる当てつけだったんだから。

 誤算だったのは、先生の脇腹にナイフが刺さってしまったことだったんだと思う。フェイクの為に振り回していた凶器が見る間に血に濡れていく様を見て、その取っ手から慌てて手を離したアレンは、完全に意識が混濁しているように見えた。
 元々大して気の強くない男だった。殺してしまったと思い込んで半狂乱に陥り、そのまま窓から飛び降りたんだろう。


 正義感の強い先生は、あの男のつまらない意地と嫉妬に巻き込まれただけだ。
 そして、アレンの本質をある程度把握していながら無駄に挑発することを選んだ私も、あの男と同罪と言って差し支えないんだろう。

 どれだけ後悔したところで時間はもう戻らない。アレンは生き返らないし、私も先生も生き返ることなんてない。
 だったらせめて、中途半端なところで終わってしまった先生の命の責任を、私に負わせてほしかった。


「全部私の所為なんです。アレンが自殺を図ったことも、先生がアレンに刺されてしまったことも。それから先生が自ら命を絶ってしまったことも、私が自害したことも」
「……。」
「ねぇ先生、先生こそ私を許せるんですか? 苦しんで、何もかもを狂わせられて、今だって辛いんでしょう? それも全部、私の所為なんだって風には思わないの?」


 いつしか、死神の鎌の柄に手を添えていた。
 断罪してほしい。お前の所為で自分はすべてを狂わせる羽目になったと、私をきつく詰ってくれればいい。……それなのに、耳を揺らしたのは予想に反する言葉だった。


「……いいえ、思いませんよ。」
「……?」
「君は本当に変わらない。あの頃からずっと、僕は君のその美しい心に惹かれていたんです。」


 がしゃん。
 酷く耳障りな音が聞こえ、それが骨となった先生の手から死神の鎌の柄が離れたからだと、一拍置いてから気がついた。

 宙に浮いていると思っていた私たちの身体のすぐ傍、大鎌は落ちたその場所から周辺の星屑を吸い取って、深淵を作り出していく。深い闇、あるいは終焉。辺りを瞬く数多の星々は、見る間にそれに置き換えられていく。


「……、あ、せん……せい」
「やっとです。やっと君に触れられる。生きている時にはどうあっても果たせなかった願いを、叶えることができる。」
「……あ」


 自分だけが想いを寄せていたと思い込んでいたというのに、……まさか。


 一度胸を占拠した期待は、走った動揺を瞬時に歓喜の色へと塗り替えた。
 無機質としか言いようのない目の前の髑髏(しゃれこうべ)にも、微かにだけ悦びの気配が宿って見えた。それは見る間に彼の全身を覆い尽くしていく。狂気さえ湛えて私へと向けられた視線に、意識が伴わないまま呼吸が止まった。

 ……「呼吸」?
 いや、そんなものは既に必要ない。だって私も先生も、もう生きてはいないのだ。

 それなのに、胸を満たしていくこの感覚は、何?
 私の頬を両手で包み込みながら口元を緩ませた先生の、人ならざる形をした目尻から零れ落ちたそれは、一体何?


「……っ」


 近づけられた顔、触れ合う唇。肉と、骨が、重なり合う。
 既に体温を持たない私たちが交わす口づけは、最早氷と氷の触れ合いに等しかった。

 行き着く先のない、中途半端に途絶えさせられた命の成れの果て。生前の豊かな感情の切れ端をズルズルと引き摺りながら、私は今、新たな死神になる。
 身にまとっていた白いドレス――棺の中で眠っていた私が着ているものと同じそれは、瞬く間にどす黒く染まっていく。ものの数秒も経たぬうち、先生が身に着けているものとよく似た黒色のローブへと姿を変えていった。

 その様を、恍惚と見つめる先生と目が合った。
 どちらからともなく再度寄せた唇に、既に生きてはいない身体のはずなのに、ぽろりと一粒涙が零れ落ちていく。それを拭うように、肉のない指先が私の頬をそっと掠めた。


「美しい。君にはやっぱり黒が似合います……『死』がまとう深淵の色が、こんなにも。」
「……はい、先生。」


 硬い骨の指に、自分の指をそっと絡める。
 蕩けた声が口を突き、それでも本当に伝えたい言葉はどう頑張っても出て来そうになかった。

 愛しているんです、先生。
 さっきも伝えた通り、これは教師に対する生徒の敬愛なんかじゃない。一人の男性として、誰よりも貴方を愛している……それなのに。

 既に命を持たない私のからっぽな身体は、少しも満たされやしないのだ。
 この上なく満たされているにも関わらず、ちっとも渇きが癒えそうにない。


 そうか。
 己の命を自ら切り捨てた私たちに、愛を交わす資格など残っているはずはないのか。その癖、人らしい温度を宿さないまるで麻薬のような痺れをもたらすこの口づけは、こんなにも甘美で――そして空虚。

 これでいい。
 むしろこれこそが私の望んでいたことだったとすら思える。

 違う、そうじゃない。
 胸の内で叫び続ける声無き声が、徐々に勢いを欠いていく。心の底を這うように増殖する不穏な感情も、そもそももう人の心すら宿していない身であるという事実の前には完全な塵と化す。


 もしかして先生も一緒なんだろうか。
 今この時も、私と同じ耐えがたい渇きを抱いているんだろうか。
 ああ、それってなんて素敵なこと。

 ねぇ、私たち、一緒なのね。
 命を持たないことも、渇きを癒やせないことも、望んで深淵に身を捧げたことも、それが間違いだと理解していることも、何もかも。

 でもね、それでももういいの。
 望む幸せを手に入れることが永遠にできなくても、それで別に構わない。


 この先ずっと貴方が隣にいてくれるなら、私はもう、それだけで。





 ***

 **

 *





 深淵と同じ色に染まった純白のドレスと、瞳の奥から欠落した光。
 それこそが僕の最大の望みであり、願いでもあった。


 さぁ、……答え合わせをしよう、エマ。


 君は一つ、大きな誤解をしているんだ。
 あの日僕はアレンに誤って刺された訳じゃない。わざと刺されてやっただけ、なんですよ。

 目障りだった。
 君を娶ることが決まっているあの男は、僕が君へと向ける控えめな好意の視線に誰よりも早く気がついた。口汚く僕を罵りながら、彼女に手を出せばどうなるか判っているだろうなと醜く顔を歪めたあの男。僕はあいつに、君のそれより遥かに危険な嫌悪を抱いていたんだよ。

 僕を刺したアレンは、案の定簡単に取り乱した。手が僕の血で染まっていく様子を横目に、その耳元で囁いてやったんだ。伝承に登場する悪魔のようにね。
 そんな穢らわしい手でエマに触れるつもりか……それを告げた時点で、僕は既に深淵に見初められていたんだよ。


 唯一の誤算は、アレンだけが死んで僕が生き残ってしまったことだ。
 君のご両親は躍起になって、早々に君を遠くの女子校へと転校させてしまった。ご両親が君に転校を促していたというのも、あの事件以前からだったんでしょう?

 僕は元々大した身分を持った人間じゃない。本来ならあのままアレンと結婚する君を、指を咥えて傍観しているしかなかったんだ。
 でも……馬鹿な男だな、アレンは。自分からそのチャンスを潰した。あんな風に僕を脅さなければ、僕も、こんな風にしてまで君を手に入れようなんて思わなかったのに。


 ああ、でもこれで、君はやっと僕のものです。
 自殺という最悪の手段を用いて、君の気を最大限に惹くことができた。

 人は脆く、弱い生き物だ。動揺が常識を上回ることなんて日常茶飯事。それが命に関わってしまうことだって、言うほど少なくはないんですよ。
 君が後を追ってくれるかどうかは単なる賭けでしかなかった訳だが、もし君がああやって死を選ばなくても、僕はこの死神の鎌で君の命を奪っていただろう。


 君は知ってるかな?
 自殺者が死神になる訳じゃない。死に魅入られ、その死にこの上ない充足を覚えた者だけが、死神に堕とされるんだよ。

 だからアレンは死神にならなかった。
 そして君は、僕と同じく深淵に染まった。

 ドレスだけじゃない。髪も、瞳も、ほら。
 あれだけ鮮やかだった金色も紺碧も、今は見る影もない。深淵が君を囚え、君もまた深淵を受け入れた。


 愚かだな。君も、僕も。
 死の先に望むべき未来などありはしない。それを判っていながら、どうして君は笑っている。どうして僕も笑えてしまっているんだろう。

 僕らの唇はどちらも、最早氷と同じ温度しか持っていない。
 君のそれはまだ人の形をしているが、僕はとうに人としての形を失って久しい……唇もまた然りだ。硬くて冷たい口づけは、交わしたところで何のぬくもりも生まない。体温を宿さない僕らが交わしているのは、最早愛でも何でもないんだ。

 賢い君は、そのことにもう気づいているんでしょう?
 癒えない渇きを引き摺りながら、それでも今日、君は新たな死神となった。美しい心を持った天使のような君は、深淵をまといながら、恍惚とした微笑みを浮かべている。


 「騙して」と表現していいだろう方法で君を手に入れ、それでも満たされない心を引き摺って、僕は一体どこに向かおうとしているんだろうな。
 ……でも、それが何? 僕はこの先永遠に、君の隣にあり続けるよ。この形が愛だろうがそうじゃなかろうが、そんなのはもう、僕らにとっては露ほども関係ないことだ……違う?

 望む幸せを手に入れることが永遠にできなくても、それで別に構わない。
 この先ずっと君が隣にいてくれるなら、僕はもう、それだけで。


 間違いも嘘も、すべて深淵色に塗り潰して真実に変えてしまえばいい。





■END■
お付き合いいただき、ありがとうございました。

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