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猫がくれた幸せ

作者:庭別かなた
 ぼくの人生をつまらなくしているのは、ぼくだ。暗い顔で口癖をつぶやくたびに、ぼくの人生から楽しいことは損なわれていく。ぼくの口癖は「何か楽しいことないかな」。
 つぶやいたところで、楽しいことなんて何一つ見つからない。楽しいことは自分で探さなくてはならない。でも、ぼくはもう何も楽しめる気がしない。

 たとえばクッキーを頬張った時。子どもの頃はそれだけで幸せだった。でも今は違う。口の中のクッキーは、噛むたびにじゃりじゃりと音を立ててほどけるが、ただの甘い砂を噛んでいるみたいだ。美味しいなんて感情は忘れてしまった。
 何をしていても楽しくない。それはこれからも変わらないことなんだと思う。生きていてよかったなんて思える日は、これからもやってこない。幸せだと思える日は、これからもやってこない。

 病院で薬をもらっている。薬を飲むようになってから、夜眠れないことはなくなった。
 寝ることは好きだ。眠っている時に見る夢だけが、唯一の楽しみだとも言える。時々、いっそ夢から醒めなければいいのにと思う。でも夢はいつか必ず醒めてしまうものだ。それに、夢なんかを見ることが何になるだろう。起きている時間こそが、ぼくの人生ではないのか。

 医者からは薬のほかに散歩も勧められた。だからぼくはよく街中を歩いている。「何か楽しいことないかな」とつぶやきながら。
 人の目があると緊張するが、ありがたいことにぼくの住む地域では人に出くわすことがほとんどない。人に会うことがない代わりに、猫にはよく出会う。
 猫が相手なら、さすがのぼくでも緊張することはない。ぼくは猫に会うと「ねこーねこー」と声を掛ける。どんな猫でも名前は「ねこ」だ。

 今日も猫に出会ったので、いつものように「ねこー」と声を掛けた。
 その猫は小柄な黒猫だった。黒猫が目の前を横切ると不幸になると言う。しかし、黒猫そのものは幸福の象徴なのだ。幸福が横切っていくことから、不幸になるという意味になったらしい。
 あの黒猫を捕まえられたら、ぼくも幸せになれるかもしれない。こんな時まで打算的に考えている自分を、少しおかしく感じる。

 しゃがんで声を掛け続けたが、黒猫は近寄ってこない。こちらから近づくと、少しだけ遠くへ行く。しかし逃げる気はないらしく、振り返ってこちらの様子をうかがっている。
 ここで走って追いかけたりしてはいけない。ぼくはゆっくりと黒猫を尾行することにした。
 黒猫とぼくの間には常に五メートルほどの距離がある。黒猫は時々立ち止まり、振り返ってぼくの姿を確認してはまた先に行く。まるでどこかに案内しているみたいだ。

 十分ほど歩いただろうか。ぼくたちは大きな屋敷の前に来ていた。黒猫は一声「にゃ」と鳴き、屋敷の敷地に入って行ってしまった。
 ぼくも入るわけにはいかないだろう。

「やっぱり幸せをつかまえるのは簡単じゃないな」
 ぼくが諦めて帰ろうとしたその時、黒猫が何かを咥えて戻ってきた。黒猫はキラリと光るものを地面に置き、また一声「にゃ」と鳴いて屋敷の中へ戻って行った。
 黒猫が置いていったものを拾ってみる。それはペンダントのようだった。銀色のチェーンに古風な鍵をかたどった飾りがついている。

 もう黒猫は戻ってこなかった。ぼくはペンダントをポケットに入れて、家に帰った。


 夕食を済ませ、ベッドの上でペンダントを眺める。ぼくはこのペンダントを屋敷の人に返すべきだったのかもしれない。でもぼくは知らない人と話すことは苦手だ。それならば、ペンダントを地面に置いたままにしておくべきだったのかもしれない。でもあの黒猫は、ぼくにこのペンダントを渡したがっていた気がする。
 そんなことを考えながらキラキラ光るペンダントを眺めているうちに、ぼくは眠りに落ちていった。

 ぼくは、昼間訪れた屋敷の前に来ていた。黒猫に案内されたあの屋敷だ。首にはペンダントが下がっている。ぼくは屋敷の扉の鍵穴に、ペンダントの鍵を差し込む。ガチャリ。扉が開く。
「お帰りなさいませ。お食事の用意ができていますよ」
 そこに立っていたのは、メイド服を着た小柄な女だった。

 夢の中とはいえ期待はしていなかったのだが、食事はどれも素晴らしい物だった。肉汁の溢れるステーキに温野菜の付け合わせ、新鮮な魚介類の煮込み、バターを添えたロールパン。どれをとっても文句のつけようがない味だ。何よりも黄金色のとろっとした飲み物が、甘酸っぱくて最高に美味しい。
 ぼくは長らく忘れていた美味しいという感情を取り戻していることに気付いた。
「お食事は満足されましたか?」
 メイド風の女に聞かれる。
「ええ、最高に美味しかったです。こんなに美味しい物を食べたのは初めてです」
「それはようございました。お風呂の準備もできていますからね」

 風呂は高級ホテルを思わせるような作りで広々としていた。お湯は熱くもなくぬるくもない、まるでぼくの好みを知り尽くしているような絶妙な温度加減だった。
 まさに「極楽、極楽」というやつだ。

 入浴の後は寝室に案内された。王様が寝てもおかしくないようなベッドだ。横になるとふかふかとしたマットに体が沈み込んでいく。あまりの気持ちよさに、そのまま眠りの中に沈んでいってしまいそうだ。

「ずっとこのままだといいのにな」
「ずっとこのままでいいのですよ」
 誰もいないと思ってつぶやいたぼくは驚く。いつの間にか部屋の中にあの女が入ってきていたようだ。笑顔を崩さないまま、ぼくに近づいてくる。
「でもこのままって訳にもいかないよ。だってここは夢の中だし、夢はいつか醒めるものだ」
 ぼくが返答すると、彼女はベッドの上に乗ってぼくに顔を近づける。近くで見ると可愛い顔をしている。きゅっと上がった目尻に小さい鼻と口。口角はやや上がっている。凛としていながら、どこか小悪魔な印象だ。
「いいのですよ。貴方様がそれでいいのなら」
 そう言って彼女はぼくの頬に口づけし、ついでのようにぺろりと舐める。ざらりとした彼女の舌の感触で、ぼくの背中にゾクゾクと電流が走る。
「醒めない夢だって、あってもいいではないですか」
 彼女が目を細める。悪戯っぽく、艶めかしく。

 彼女の言葉通り、ぼくが夢から醒めることはもうなかった。何か楽しいこと(、、、、、、、)はここにあった。


 今日も黒猫は街中を行く。ペンダントを咥えながら、気ままに歩いて行く。
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