鳴りやまぬ鐘を聴きながら
フランツの心の恋人・エレナは継母や姉たちから使用人のように扱われ、つらい毎日を送っている。城でお妃選びの舞踏会が開かれると聞き、フランツはエレナを舞踏会に行かせようと決心する。王子はエレナの初恋の相手だ。エレナの幸せのためなら、命だって惜しくはない。フランツは魔女に会い、ある取引をするが……。
シンデレラの物語を下敷きにしたファンタジーです。気軽にお楽しみください。
「聞いたかい!? 城でお妃選びの舞踏会が開かれるんだよ!」
帰宅した女主人が、居間に入るなり興奮した口調でいった。
「ええっ!? いつ、いつなの!?」
長女が鼻息も荒くたずねる。
「次の土曜の晩さ。集まった国中の貴族の娘の中から妃を決めるんだ」
「ということは、わたしにもチャンスが!」
次女がうっとりした目つきになった。
「なにいってんの、お妃になるのはあたしよ。あんたみたいなデブ、およびじゃないわ」
「姉さんこそ、その馬ヅラじゃ永久に無理だわよ」
『あんたたちがお妃になれる可能性なんて、容姿は別にしてもゼロ以下だぜ』
おれはキャビネットの影で悪態をつく。
「ねえお母さま、ドレスは最新流行のでなきゃダメよ。他の娘より目立たなきゃ!」
長女が甘えた声で母親にすりよると、
「あたりまえだよ。そのためにほら、パリから着いたばかりの生地を買ってきたのさ」
母親は誇らしげに色とりどりの生地をテーブルに広げた。
「すてき! これをあたしに!?」
次女がいちはやくピンクのレースをとりあげてからだに巻きつけ、しなをつくる。おれは目をおおった。デブにピンクは似合わないぜ、身の程を知れ!
「でも、灰かぶりが縫うんでしょう? 生地が汚れたら困るわ」
「街の仕立屋なんかに頼んだら、一週間でできあがるもんかね」と母親。
「あの娘には部屋と食事をやってるんだ。せいぜい働いてもらうさ。死ぬまでね!」
にくにくしげにいう母親に、姉妹は「当然よね!」といってうなずきあった。
まったく、腹がたつったらありゃしない。おれは大きく息を吸いこむと、向かいの壁の穴めがけて全速力でダッシュした。
「きゃーっ! ねね、ね、ネズミっ!」
──そう。おれはこの館のれっきとした同居人なのだが、なぜかみんなから毛嫌いされている。もちろん、おれだって人間は大嫌いだ。……たったひとりを除いて。
* *
台所の穴から顔を出すと、ぼろぼろの靴が目に入った。爪先にぽっかりあいた穴から、しもやけだらけの指がのぞいている。
『エレナ』
呼ぶと、少女がこちらに顔を向けた。
「フランツ!」
色白の顔に、あたたかい、おひさまみたいな笑みが広がった。
「ごめんね、いま料理してるから相手をしてあげられないのよ」
むきかけのじゃがいもをいったんテーブルの上におき、エレナはしゃがみこんだ。深い藍色の瞳に間近から見つめられて、おれはがらにもなく赤くなる。
『エレナ、おれ……』
おれはエレナが好きだ。でも彼女にとっておれは、ただのちっぽけなネズミにすぎない。いくら話しかけても、エレナの耳におれの声はネズミの鳴き声としか聞こえない。
「しいっ! 猫に見つかったらたいへんよ。それでなくてもあなた、目立つんだから」
おれの毛皮は、ふつうのネズミとは違って銀色だ。そのせいでよく猫にも狙われる。
「そうそう、いいものあげるわ」
エレナは立ちあがって戸棚からチーズの塊を取り出し、薄くそいでおれに差し出した。おれが両手でうけとると、エレナは満足そうにうなずき、再びじゃがいもの皮をむきはじめた。
台所は暖かいから好きなの、とエレナはいう。石造りの館の冬は、芯から冷える。ときおり彼女は、夜、煮炊きの終わった調理場のかまどの灰の上にすわって暖をとる。それを「灰かぶり」といって、あの底意地の悪い姉たちは笑うんだ。
エレナは男爵がめかけに産ませた子で、小さいころ母親が死んだためにこの館にひきとられたという。器量のよいエレナをうらやんで、継母と姉たちは彼女をいじめた。彼女をかわいがっていた男爵が亡くなってからは、使用人同然の扱いだ。
「灰かぶり、仕事だよ!」
扉が開き、継母のとがった声が響いた。
「これから娘たちのドレスを縫うんだよ」
「ドレスを?」
エレナの顔がぱっと明るくなる。華やかな服を縫うのは、彼女がいちばん好きな仕事なんだ。……それが自分のドレスではなくても。
「土曜の晩の舞踏会で着るんだ。集まった娘たちのなかから、王子がお妃を選ぶんだよ」
そのことばに、一瞬エレナの瞳が輝く。と、即座に母親の平手が飛んだ。
パン、と乾いた音。
エレナはほおをおさえてうつむき、「ごめんなさい、お母さま」と小声でいった。
「……この娼婦の娘が。忘れるんじゃないよ、あんたは好意でこの館においてやってるんだからね!」
* *
憎しみがどれほど人間を変えるのか、おれにはよくわからないけれど。館の使用人たちが、「奥さまも以前はあんなじゃなかった」というのをきいたことがある。
おれは館の北側のすみにあるエレナの部屋に向かった。
冬でも火の気のない、冷たい部屋の中央にエレナが立っていた。ろうそくの光を受けた白い顔には、なぜかおだやかな笑みがあった。ピンクのレースを肩からかけ、きどったしぐさでそのすそをつまみあげると、エレナは貴婦人のように深く膝を折って礼をする。そして、ゆるりとステップを踏みだした。
低くくちずさむのはワルツのメロディー。くるりと回ると、ふわり、レースの端がひるがえる。優雅に、すべるごとく、彼女は舞った。
「あら、フランツ」
おれに気がついて、エレナはさっと顔を赤らめた。踊りをやめ、肩からレースをはずす。
「……ばかよね、こんなことして」
自嘲的なつぶやき。だが瞳には失意が色濃くにじんでいる。
エレナ、そんなに舞踏会に行きたいのか?
「小さいころ、伯爵の舞踏会で王子さまとお会いしたことがあるのよ」
なつかしそうに目を細め、エレナはいった。
「あちらも子どもだったけれど、すてきな方だったわ。わたしの初恋だった」
くすっと笑う。
「でも舞踏会はとっても退屈だったの! だからわたしたち、こっそり大広間を抜け出して、庭で泥んこ遊びをしたのよ。あとで父から、そりゃあひどくしかられたわ……」
エレナの瞳に陰がさした。思い出しているのだろう。やさしかった父を、母を、愛に満ちていた生活を。
おれは自分がネズミだってことが、無性に悔しかった。おれでは、エレナを幸せにしてはやれない。
「さあ、おしゃべりは終わり!」
元気にいって、エレナは仕事にかかった。型紙を作り、布を断つ。ピンクのレースや青い絹の上を、白い指が躍る。銀の針が魔法のように布を縫いあわせ、みるみる美しいドレスが形作られてゆく。
おれは糸や針をエレナの手元に運び、糸くずや布の切れ端をまとめた。おれにできることといったら、それくらいしかなかったのだ。
明け方、ようやくベッドに入ったエレナは、小さな声で「ありがとう、フランツ」といった。
「あなたのおかげでとってもはかどったわ」
『ごめんよエレナ。おれが人間だったら、もっといろいろ手伝ってやれるのにな』
おれの鳴き声に答えるように、エレナはほほえむ。
「わたし、どんなにあなたになぐさめられているかわからないわ。ほんとうにありがとう。……あなたはわたしから離れていったりしないわね? ずっとそばにいてくれるわね?」
* *
魔女に会おう。
おれは朝焼けの道をひた走った。国一番の魔力を持つと評判の、黒い森の奥深くに住む魔女。銀色が大好きで、銀色のものならなんでも集めているという。それならば……。
「あたしのコレクションに、あんたを?」
銀色の服をまとった中年の魔女は、おれを一瞥すると、論外というように鼻を鳴らした。さすがに魔女だけあって、おれの言葉も難なく理解してくれる。
「どうか、おねがいします!」
おれは筋ばった足にすがりついた。
「たしかに銀色のネズミは珍しいから、気が乗らないわけじゃないんだけどねぇ」
魔女はとがったあごをなでながら、値踏みするようにおれをながめる。
「いいのかい? コレクションに加わるってことは、死ぬってことなんだよ?」
おれはうなずいた。覚悟はできている。どうせネズミの寿命なんて長くて三年だ。惜しくはない。エレナのためなら。
ほうっと、魔女は大きく息を吐いた。
「まぁいいだろう。で、願いというのは?」
「エレナを王子のお妃にしてください!」
とたん、魔女はしかめ面になる。
「こらネズミ、高望みにもほどがある」
やっぱりだめか。うなだれたおれに、
「あんたの毛皮なら、低級魔法一回分だね」と、魔女はなぐさめるようにいった。
「低級魔法って?」
「ドレス姿に変身させる、って程度かねぇ」
「それでいいです、ぜひおねがいします!」
舞踏会に出られさえすれば、きっとエレナは王子の目にとまる。
「エレナはほんとにやさしくてきれいで……貴族の娘だし、資格はあるんです!」
聞かれもしないのにいいつのるおれに、魔女はやれやれといった表情で肩をすくめた。
「それでおれは、いつ死ねばいいんですか?」
「舞踏会が終わったらここへおいで」
「ありがとうございます!」
おれは本心から礼をいった。エレナが舞踏会で踊る姿を見てから死ねるなら、もう思い残すことはない。
魔女はあきれたように目を丸くし、それからするりとあごをなでて、にやっと笑った。
「……あんたには負けたよ。出血大サービスだ。銀の馬車と馬もつけてあげよう」
* *
いよいよ舞踏会の日がやってきた。
「ふぅん、まあまあなんじゃない?」
「とりあえずは合格ね」
気がなさそうにいってはいるが、姉たちがエレナの縫ったドレスに満足しているのは明らかだった。姉の青い絹も妹のピンクのレースも、流行の型で、しかも体型をうまくカバーするように縫いあげられている。
「今日はもう休んでいいよ」
母親でさえ、やさしい声でいった。エレナはそのことばに一瞬驚いたような表情を浮かべたが、やがてうれしそうに口もとをほころばせた。
「あんたの分も楽しんできてあげるわね」
興奮にほおをそめた姉たちは、いそいそと馬車に乗り込み、城へと出かけていった。
おれはエレナの服のすそをひっぱる。そろそろ魔女が現れる時間だ。
「なぁに、フランツ、どうしたの?」
『きみの番だよ、エレナ。今日こそ、きみは幸せをつかむんだ!』
しかしことばは通じない。エレナは首をかしげると、にっこりほほえんだ。
「……じっとして、ほら」
するりとおれの首に青いリボンをかける。
「あなたの銀色の毛皮には青いリボンが合うと、ずっと思ってたの。縫い物を手伝ってくれたお礼よ。受け取ってくれるでしょう?」
それは青い絹のあまり布で作られた、輝くような光沢のリボンだった。寝る間もないほど忙しかったはずなのに、いつのまに作ったんだろう。
おれはなにもいうことができなかった。ただただ、胸の奥が熱かった。
「……泣いてるの、フランツ?」
「ネズミ、用意はいいかい?」
そのとき、しわがれ声が響きわたり、一陣の風とともに銀色の魔女が部屋の中央に姿を現した。
「あ、あなたは……?」
驚きのあまり、エレナは目を丸くしてその場に立ちすくんだ。
「あたしゃ黒い森の魔女さ」
あんぐりと口を開けたままのエレナを一瞥して、魔女はうなずいた。
「素材は申し分ないね。さ、早くすませちまおう」
手にした銀色の杖を、エレナのくたびれた服に当てる。刹那、服は象牙色のつややかな絹のドレスに変わった。つぎのあたった上着は真紅のビロードのローブに、錆びたピンは真珠の髪飾りに。
自分を見おろして絶句しているエレナを満足そうに眺めてから、魔女はおれにも杖を当てた。
「これもサービスだよ。あたしゃ気前がいい魔女なんだ」
虹色の霧に視界がおおわれ、おれは思わず目を閉じた。
「……フランツ、あなた、フランツなのね?」
おそるおそる目を開けると。
「エレナ」
泣きだしそうな、うるんだ藍色の瞳が正面にあった。
「……これは夢なのね」
「夢じゃないよ」
「いいえ、夢だわ。こんなこと、あるはずがないもの」
エレナがさししめした窓ガラスには、見たことのない青年が映っている。銀色の髪、銀色の瞳。
……これは、おれなのか?
首元に結ばれた青い絹のタイが、ひときわあざやかに白い上着に映えている。
「ありがとうございます、魔女さま」
おれはやっとの思いでそういった。
「あんたは御者兼従者だからね。そこんとこわきまえて行動しておくれ」
にやにや笑いながら魔女はいい、くるりと踵を返して部屋を出ていきかけたが。
「いけないいけない、忘れるところだった」
エレナの穴のあいた靴に杖を当てる。と、それは輝く銀色の瀟洒な靴になった。
「十二時になると魔法は解けてしまうから、気をおつけよ。それでは、楽しい夜を!」
* *
白い馬にひかれた銀の馬車は、月光の下、すべるように城へと向かう。おれは黙って馬を走らせ、エレナは窓の外をうつりゆく景色をながめていた。
なにを話していいのかわからなかった。ことばが通じたなら、話したいことがたくさんあったはずなのに。エレナにとっても、それは同じだったろう。
馬車が城に到着した。
大広間はすでに人でいっぱいだった。色とりどりの晴れ着に身を包んだ男女が、弦楽器の奏でるワルツに合わせて優雅に舞っている。
「……踊らない?」
遠慮がちに、エレナが口を開いた。
「でもおれ、ダンスなんてできないし……」
「わたしに合わせてからだを動かせばいいのよ。さあ」
天使のような笑みに、おれは負けた。
黒い森の魔女の魔法も、ダンスの腕前にまでは効果が及んでいないらしい。おれは何度かエレナの足を思いっきり踏んだが、彼女は痛い顔も見せず笑っていた。大広間の端から端まで、おれたちは踊りつづける。ワルツのようにゆるやかに、時が流れていく。
このままずっと、エレナといられたら……。
頭をよぎるそんな考えを、無理に振り払った。おれは明日には死ぬ。そういう約束なんだ。
「お嬢さん、わたしと踊っていただけませんか?」
ふいに背後で声がした。
振り向くと、背の高いハンサムな青年が立っていた。見るからに高級そうな服をまとい、大きな宝石のはまった指輪をした手をエレナに差しだす。
「王子よ!」
周囲のざわめきで、おれはその男が舞踏会の主役だと知った。
「喜んで」
おずおずと、だがときめきを声にしのばせて、エレナは応じた。
握っていたエレナの手が離れていくのを、おれはどうすることもできなかった。
大広間の中央に進み出たふたりは、一対の蝶のように優雅に舞った。シャンデリアの輝きも色あせてみえるほどに、エレナの美しさはきわだっていた。
「あれはどこの姫君かしら」
「なんてダンスが上手なの!」
「王子さまを見てよ、うっとりしているわ」
ざわめきの波が広間をつつむ。そのなかにあきらめた表情の姉たちと継母の姿を認めて、おれはひそかに溜飲をさげた。
「くやしいけれど、とてもお似合いだわ」
「あたしたちなんか、とてもかなわないわね」
おれは誇らしく胸を張った。
みんな、見てくれ。あれはおれのエレナだ。
だが同時に、胸の底から激しい痛みがわきあがった。
エレナ……。
たまらず、広間の明るさに背を向ける。
彼女の幸せを願っていたはずだ。思いどおりになったのになにを嘆く、ネズミのフランツ。
どのくらいそうしていただろうか。ふと広間の窓から塔を見ると、時計の針は十二時の少し前を指していた。
「いけねっ!」
もうすぐ魔法が解けてしまう。
あわてて広間を見わたす。エレナと王子は壁ぎわで話をしていた。エレナのほおは上気し、ほんのりと赤い。おれはふたりに近づいたものの、声をかけるのをためらった。
「ずいぶん以前に、伯爵の舞踏会でご一緒したことがあります。庭で泥遊びをしたのを覚えていらっしゃるかしら」
「やっぱり! そうじゃないかと思っていたんですよ」
王子はうれしそうに顔をほころばせた。
「でもまさか、貴婦人に『ぼくと泥んこ遊びをしませんでしたか』なんて訊けませんし。困っていたんです」
ばつが悪そうに髪をかきあげ、真顔になった。
「またお会いできて光栄です」
「……わたしもです」
エレナは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「お嬢さん、よろしければお名前を――」
そのとき。
ゴオォォン……
真夜中を告げる鐘の音が、王子の声をかき消した。
さっとエレナが青ざめる。
「わたし……帰らなくては!」
身をひるがえし、エレナは走りだした。
「きみ――!」
追いかけようとした王子を、待ちかまえていた女たちがいっせいに取り囲んだ。
「王子! 次はわたくしとダンスを!」
「いいえ、わたくしが先ですわ!」
「どいてくれ、ぼくは彼女を……」
王子の姿は黄色い声の集団にのみこまれた。
* *
十二回目の鐘が終わると、おれたちはみすぼらしい服の娘と小さなネズミにもどった。
夢は消えた。
エレナの頬をひとすじの涙が伝った。
『ごめんよエレナ、おれ……』
「悲しいわけじゃないのよ」
ほんの少し前まで銀の馬車だったカボチャを見やり、エレナは指先で涙をぬぐった。
「だって、これは夢なんですもの。いつか覚めるものだわ」
いつのまにか片方だけになってしまった銀の靴を脱ぎ、いとおしそうに抱きしめる。
「この靴だけ残るなんて、ふしぎね」
おれは呆然とした。おれがしたことは、いったいなんだったんだろう? エレナに夢を、手の届かぬ幸福な幻をかいまみさせただけだったのか?
暗い路地に、ちらちらと雪が舞いはじめた。
「おや、今回は靴だったんだね」
しわがれ声が響き、つむじ風とともに魔女が姿を現した。
「あたしも年をとったせいか、最近魔法の精度がおちてねぇ。魔法が解けるとき、なにかひとつもとにもどらないものができちまうんだ。ま、その靴は記念にとっておおき」
「……ありがとうございました、魔女さま」
おれは深く頭をさげた。
「これからいっしょに参ります」
「そのことだけどね、あたしゃ急用ができちまってねぇ。すまないが、来るのは明後日にしておくれ」
「でも……」
「おわびに、好きなときに一回だけ人間に変身できる呪文を教えてあげよう」
断る間もなく、おれの耳元に呪文をささやいて、魔女は消えた。
呪文はばかばかしいほどに簡単だったけれど。おれがそれを使うことは、けっしてないだろう。
* *
城の兵士が銀の靴の片方を携えて館にやってきたのは、翌日の晩のことだった。
「これを落とした娘を探しているのだ」
おれは思わず飛びあがった。やはり王子はエレナを選んでくれたんだ。
「わたしよ!」
「いいえ、わたしよ!」
姉たちが先を争っていいつのると、兵士はうんざりした表情でいった。
「では証拠に、もう片方の靴を出してください」
きっとどの館でも、こんな反応にあっているのだろう。
「それがその、なくしてしまって……」
「でも、はいてみてぴったりだったら、証拠になるでしょう?」
自信ありげに姉が胸を張る。
冗談はやめてくれ。あの大足がエレナの靴に合うわけはないだろう。
おれは全速力でエレナの部屋に走り、戸棚から銀の靴を引きずりだして台所に向かった。
「フランツ?」
不審げな表情でエレナが靴を拾う。
『早く来るんだ、エレナ!』
ときどき立ち止まってエレナがついてくるのを確認しながら、おれは客間へ走った。扉の前で、ちょうど帰りかけた兵士に出会った。
エレナは気後れした様子で身を引きかける。
「あなたもゆうべ舞踏会に?」
兵士の目が、エレナの胸に抱かれた銀の靴に吸いよせられる。
「なんですって!?」
「そんなはずないわ!」
「その娘は館の使用人です!」
継母や姉たちの抗議を無視して、兵士はエレナにもう片方の靴を差しだした。
「これをはいてみてください」
一対になった銀の靴にエレナの華奢な足がするりとおさまると、兵士のいかつい顔にほっとした笑みが浮かんだ。
「あなただったのですね」
エレナはためらいがちにうなずいた。
――そうだ、これでいい。
おれはそろそろと居間を出た。おれの役目は、終わったのだ。
* *
「フランツ、フランツ! 出てきてちょうだい、お願い……!」
エレナはその晩、何度もおれの名を呼んだ。天井裏で聞きながら、おれはふしぎに心が穏やかなのを感じていた。死ぬのが怖くないといえば嘘になる。だがおれは、幸せだった。
そのまま眠ってしまったらしい。下のかすかな物音で目が覚めた。
なにか様子が変だと、けものの直観が教えた。あわてて壁を伝いおりて、隅にあいた穴から部屋に飛び込む。
火の気のない部屋の中央に、闇よりも暗い影がそびえたっていた。わずかにさしこむ月光を受けて光るものは……。
短剣だ。
「おまえなんか、あの女たらしが死んだときにこうしておくべきだったんだ」
凍えるような低いつぶやきは。
「お母さま……?」
エレナの震える声が闇を伝う。
継母は無言で短剣を突きだした。
危ない!
おれは影の脚に飛びつき、渾身の力をこめて脛に牙を突きたてた。
「痛いっ――!」
悲鳴とともにおれは振り飛ばされ、壁にたたきつけられた。骨が折れる鈍い音。そのまま床にどさりと落ちる。すさまじい痛みに全身が貫かれる。
「お母さま、やめて──!」
エレナのおびえた声が闇に響く。
「おまえなんか、おまえなんか……! 主人の愛を奪ったばかりか、いままた娘たちの幸せも奪おうとするなんて。ゆるせない!」
愛? 幸せ? あんたはエレナからすべて奪ったじゃないか。それでもエレナは、あんたのやさしいことばを待っていたのに。〝お母さま〟と呼ぶのをやめはしなかったのに。
「う……っ!」
エレナのおさえたうめき声が聞こえた。床に倒れ伏すおれの目の前に、ぽたりと赤い血がしたたり落ちる。
『エレナ──!』
おれは必死に手をのばした。と、指先に冷たく滑らかなものが触れた。
縫い針だ。ドレスを縫っているときに、エレナが落としたのだろうか。そのとき、魔女のささやきが耳の底によみがえった。
あまりにも簡単な、変身の呪文。
『好きなひとの名を、三回いうんだよ』
針をしっかり握りしめて、おれは叫んだ。
『エレナ、エレナ、エレナ――!!』
次の瞬間。
手の中には輝く銀色の剣があった。ずしりと重く、目の前にかかげると、からだの奥底から力がわきあがってくるように思えた。
「おまえは……!?」
突然現れた男に驚いたらしく、母親は一瞬ひるんだ。だがすぐに、嬌声を発しておれに飛びかかってきた。おれは短剣の刃を剣で受け止め、はじき返した。
短剣が母親の手を離れ、床に落ちる。おれは構えた剣を母親の喉元に突きつけ、壁際に追いこむ。母親の顔が恐怖にゆがんだ。
「フランツ、やめて!」
悲鳴にも似た声が、部屋にこだました。振り向くと、エレナが涙をいっぱいにたたえた瞳でこちらを見つめていた。
「だってエレナ、こいつは――」
「もういいの、いいのよ……」
腕の傷口をおさえながら、エレナはいった。
「この女をゆるすというのか? さんざんエレナにひどいことをしたこいつを」
エレナはわずかにほほえんで、うなずいた。
「だって、お母さまですもの。館においていただかなかったら、わたしは生きてはいけなかったわ」
「お人よしすぎるぞ、エレナ。きみはゆるしても、おれはゆるさない」
エレナがゆっくりとおれに近づき、剣を握った手に、血で汚れた自分の手を重ねた。
「もう傷つけあうのはいや。いまわたしがお母さまをゆるせば、わたしもお母さまにゆるしてもらえると思うの」
わからない。エレナがこんな母親にゆるしてもらう必要なんかないはずだ。
それでも、エレナの涙を見ると、もうなにもできなかった。
おれはゆっくりと剣をおろした。
継母はへなへなと床に座り込む。やがて、騒ぎを聞きつけた姉たちや使用人たちが駆けつけてきた。
もうエレナが傷つけられることはないだろう。
安心したとたんに、いままで忘れていた全身の痛みがよみがえった。おれはもはや抵抗せず、押し寄せてきた白い闇に意識をゆだねた。
* *
「ネズミ、あんたほんとにバカだねぇ」
あきれたような声が頭上から聞こえた。
「……魔女さま」
うっすら目を開けると、にじんだ視界に金色の服をまとった魔女が映った。
「エレナは?」
「無事だよ。城からお召しがあってね。あんたのことをひどく心配していたけど、あたしがついてるからっていって行かせたんだ。それでよかったんだろ?」
おれはうなずき、からだを起こした。まだ人間の姿をしているのを不思議に思うと同時に、どこにも痛みがないのに気づいて驚いた。
おれは魔女を見た。
「治してくださったんですか? どうせ明日には死ぬのに……」
「それがねぇ」
魔女はぽりぽりと頭をかいた。
「急に、銀色より金色のほうが好きになっちまってね。あんたには用がなくなったのさ」
「はぁ? そんな……。おれの決心はどうなるんです?」
「知るもんかね。あたしゃ気まぐれな魔女なんだ」
腕に巻きつけた金色の鎖をじゃらじゃらと鳴らして、魔女はにやっと笑った。
「おわびといっちゃなんだが、ひとつだけ願いをかなえてあげよう。どうだね? このまま人間の姿でいたいんじゃないのかい?」
ゴォォォン……。遠くで鳴っているのは十二時の鐘だろうか。
「あの鐘が終わったら、おれはネズミにもどるんですか?」
「そうだよ」
「じゃあ……お願いします。どうかおれを──」
* *
街中の鐘がいっせいに鳴りはじめた。祝福の鐘だ。いまごろ城は、嵐のような拍手と歓声に包まれていることだろう。
「父ちゃん、あたいも王子さまの結婚式を見たいよ。なぁ父ちゃん!」
幼い娘がせがむ。
「んなもん見たってしょうがねぇ。わしらとは違う世界のことだからな」
父親は答え、馬に容赦なく笞を入れた。ガタン、と荷馬車が動きだした。
「ねえあなた、旅のお仲間?」
山と積まれた荷物のあいだから、茶色い頭がひょっこり顔を出す。黒い瞳がかわいらしい、魅力的な娘だ。
「ああ、そのようだな。よろしく」
まんざらでもなく、おれはにっこりする。
「あら、その青いリボン……。あなた、お触れ書きの〝尋ねネズミ〟じゃないの? お城の花嫁が探してるっていう銀ネズミ」
「よく見ろよ」
おれは茶色ネズミにむかって、むっとした表情をつくってみせた。
「尋ねネズミは銀色、おれは黒。ぜんぜん違うだろ?」
「そういえば、そうね」
おれはあのとき、魔女に頼んだ。からだの色を変えてくれ、と。
おれはこれから、ただのネズミとして生きるんだ。ネズミと恋をして、ネズミの子をもうける。そして年をとる。ときおり胸の古傷がうずく日には、孫たちに昔語りをすることもあるだろう。若き日の武勇伝と、美しい王妃を救った銀色の剣の話を。
『あの剣は、もともとは針だったんだよ』
銀色の靴と同様、魔法が解けずに残った剣は、あのまま館においてきた。エレナはきっと、おれの形見として大切にしてくれるに違いない。
おれは荷台にあおむけになった。
「いい天気だな。おれはフランツ。きみは?」
「モニカよ。ほんと、いい旅立ち日和よね?」
茶色ネズミがとなりに座った。
「ああ。そしていい結婚式日和だ」
青い青い空に、白い雲がぽっかりと浮かんでいる。
鐘が鳴っている。いつまでも、いつまでも。
鳴りやまぬ祝福の鐘を聴きながら、おれは目を閉じて、あたたかな日差しを全身で受けとめていた。
<おわり>