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振り返って笑った君が、繋いだ手を離すまで。 作者:汐利
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三章


 綾乃に呼び出されたときも、ああ、ついに来たなとしか思わなかった。
 しかし、学校での態度は、優陽に対しても、綾乃に対しても全く変わっていなかった筈である。なんせ、呼び出された当の本人が、呼び出されたことによって漸く察知したのだから。
 そういうことか、と。
 いつのまにか状況が動いていたのだと。
 動かした当事者が、トリガーが、加害者が、まるで他人事のように。
 何にせよ、女の洞察力とは恐ろしいものである。いや、優陽は何も気づいてはいないだろうから、綾乃の洞察力が、と言い改めるべきかもしれない。優陽は変わらず深夜に、時として日付変更後であってさえ俺を自宅へ呼びつける。どうせ隣同士だ問題ない。しかし、年頃の女子としてはもうちょっと気を遣ってほしいものである。
「私のこと初めから好きじゃなかったでしょう」
 そう綾乃に問われたとき――いや、恐らく問われたのではなくただ念を押されただけなのだが――わからない、としか答えることができなかった。
 告白されて、付き合った。俺は綾乃のことが好きではなかったんだろうか。好きなんだと思っていたけれど。恋人としてそれなりに大切にしたつもりではいたけれど。
「それでもいいと思ってたよ。拓海の隣にいられるのなら。いつか好きになってくれるかもしれなかったし、その努力がしやすい場所を与えてもらえただけで」
 そう言う綾乃は苦しそうに笑った。
「でも、もう無理だね」
 無理なのか、そうか。
 綾乃の背中を追いかけもしなかった。呼び止めもしなかった、虚無感もなかったし、罪悪感もなかった。
 中学生の恋愛などこんなもんだと思った。綾乃はそのうちまた違う彼氏を愛するだろう。そしてまた別れを経験するだろう。その度に新しい癒しを、場所を、恋を求めるだろう。それは俺の関知するところではない。
 優陽の、柳に対する気持ちも。
 俺の、優陽に対する感情でさえも。
 それなのに、優陽が俺に背を向けて同じように去っていく姿を想像するだけで、吐き気がするほど空気が薄くなるのは何故だろう。

――――――――――――――――――――

 シューが膨らんだ!
 その一報を受け、俺はいつもの通り隣の家に駆け付けた。駆ける程の距離はないけれど。
 君の笑顔に涙の跡はなかった。
 綺麗な空洞ができたシュー生地を俺に自慢げに見せた君の、頭を思わずくしゃくしゃと搔き撫でた。
「よくできました」
 わざと子供に対するようにそう言うと、君は照れたように一歩身を引いて、冗談めかして拗ねたように口を尖らせた。
 流し台の中も綺麗だった。クリームも程よい色をしていた。
「ひとつ試食していい? 形悪いやつでいいから」
 俺の申し出に快く頷き、君はひとつにクリームを詰めた。
 美味しかった。
 店の味には程遠かったが、美味しかった。
 焦げたクッキー、肌理の粗いパウンドケーキ、粉っぽいマドレーヌ、歯が立たないスコーン。君の風変わりな手作り菓子を真っ先に口に入れる権利も、これにて剥奪。そう思うと、君と共に舌が壊れそうになりながら失敗作を消費する日々から解放された喜びよりも寂しさの方が勝ってしまいそうで、俺は思考回路を現実に引っ張り戻した。
 俺が笑うと、君の笑顔は一層輝き、君はいそいそとラッピングを取り出し始めた。
「だいぶ前に買ったんだけどね、やっと使える時が来たよ」
 女の子らしいラッピングだった。
 紙の小箱に鳥の巣のように詰め物をしたあと、全体を透明な袋で包み、天辺で口を結ぶリボンは朱色だった。
 夕日色。彼女が好きな色だった。優陽らしいラッピングだった。
 小さなレターセットがついていた。緊張すると頭が真っ白になる君にはいい手段だと思った。
「生地が完全に冷めてから入れた方がいいよ」
「そっか、じゃあ明日の朝包もう」
「明日告るの」
「そのつもりだけど」
 君はそこで、初めて不安そうな顔を見せた。
「告白、していいかな」
「何故俺に訊く」
 笑った、今までの気丈な君は何処へやら。
「何、急にビビってんの?」
「ビビってる訳じゃないけどぉー」
 言い訳しようとする君を手で制し、俺はソファに寝転がった。完全に我が家と同じ扱いだ。
「いてやろうか、俺も」
「本当!?」
 君が俺に駆け寄り――ソファの、俺の足の方に無理矢理体を捻じ込んで座った。
 俺は仕方なく足を畳んで場所をあけた。
「ほら」
 俺がひとことそう言ってちょっと指で空を掻くだけで、君は理解して手を差し出す。
 姿勢の悪い俺と、ソファの隅っこに小さく埋もれた君の手が繋がる。
「大丈夫だって」
 相手は恋愛っ気ゼロの生真面目くんだからなあ。
「告白されて嫌な思いはするわけないし」
 告白された瞬間から優陽のことが気になりだす可能性も無きにしも非ず。
「柳の周りそれとなく探ってみたけど、カノジョも好きなひともいないらしいよ」
 そう言った瞬間に君が勢いよく首を回し、俺を見た。
 その唇は固く閉ざされていた。緊張の色がありありと窺えた。
「大丈夫だよ」
 俺がまた言うと、君は硬い表情のまま頷いた。俺は笑って体を起こし、いた方の手で君の頭を撫でた。
 君は今度はとめなかった。髪がくしゃくしゃになるのも構わず、されるがままにしていた。表情が少しだけ解れて、君は目を閉じてちょっと俯いて、微笑んだ。
 暫くそうしていただろうか。
 君は唐突に沈黙を破った。
「拓海が綾乃ちゃんと別れたのって私のせいかな」
 驚いた。
「……いや、違うけど」
 俺は君の頭に伸ばしていた手を引っ込めて、そう答えた。
「でも、私がいつも拓海と一緒にいるせいで、綾乃ちゃんとの時間を奪ってたのかなって、ちょっと思って」
「そんなことないよ」
 俺は、握った手に、きゅ、きゅと数回力を込めた。
「お前との関係はお前との関係で、俺と綾乃の関係には何の支障も来してなかったの。それで今までずっとやってこれてたからそれは間違いないの。最近になって俺らが別れたのは、俺の心境の変化が原因」
「それならいいけど」
と、君は本気で思っているようだった。俺の心境の変化とは何かについては、一切触れてこなかった。俺としては気付かれない方が有難かったからほっとした。
「じゃ、俺、家戻るわ」
 俺が立ち上がりかけると、君はさっと俺の手を離した。
「明日、告んのいつ?」
「柳くんの都合に依るけど、放課後かなって思ってる。また学校で言う」
「りょっかい」
 じゃあ。
「おやすみ」
「おやすみ」
「待って」
 玄関に向かう俺を君が呼び止めた。
「やっぱり、もうちょっと」
 そう言って左手を差し出す君が、愛しかった。
 君の手は温かくて柔らかかった。
 君は静かに目を閉じて、そのままの姿勢でじっとしていた。まるで、繋がれた手からエネルギーを貰うように。俺の手から何かを感じ取るように。
 居心地は最悪だった。
 無防備なその姿に、動きそうな体を制止するので必死だった。繋がれた手から君が俺の感情を読み取って、明日への意思が阻害されるのではないかと気が気でなかった。
 たっぷり三分ほどが三時間にも感じられた。
 君が手を離し、恥ずかしそうにありがとうと言った。
 俺は目を合わさず、いつものことじゃねーかと言った。君はいつもありがとうと言った。別れの言葉に聞こえた。俺は返事をしなかった。
「おやすみ」
「おやすみ」
 君の家のドアを閉めると、似たような顔をした自宅のドアを開け、そして漸く息を()く自分が、やはり客観的に何だか馬鹿馬鹿しくて、思わず声を出さずに笑った。
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