おすそわけ
隣の奥さんの事が気になって仕方がない――。
森司は、大学の講義も上の空で恋焦がれる相手に想いを馳せていた。
大学進学をきっかけに上京し、小綺麗な2DKのアパートの二階角部屋で一人暮らしを始めた司は、新生活に慌ただしく日々を費やしていた。
その日もあっという間に夜になり、自炊するのも面倒で今日もコンビニ弁当で済ませるかと思っていた矢先、インターホンが鳴った。
「こんばんは。ちょっと夕食を作り過ぎてしまって、お口に合うかどうかは分からないんだけど、良かったらこれ、どうぞ」
「あの、えっと……」
突然の訪問者に司はたじろぐ。そこにはエプロン姿でタッパーを差し出す隣人の姿があった。小柄で、緩くウェーブがかった髪を後ろで一つに束ねている。歳は二十代前半ぐらいだろうか。幼顔で十代にも見える。
引っ越しの挨拶を交わした程度にも関わらず、相手は目尻を下げて親しみのこもった笑顔を司に向けている。
「あ、ひょっとして迷惑だったかな?」
対応にまごついている司に、隣人は怖ず怖ずと尋ねる。司は固まったままだった表情を笑みでほぐし、
「いえ、ちょっとビックリしただけで……ありがたくいただきます。実は、最近コンビニ弁当ばっかりで、手料理に飢えてたんですよ」
と言って短い茶髪の頭を掻き、タッパーを受け取った。
「そう、よかった。困った事があったら何でも言ってね。お隣りさんなんだし」
隣人は安堵したように顔つきを和らげると、「じゃあ」と会釈して隣室に帰って行った。
司はタッパーを受け取ったまま、暫し呆然と立ち尽くしていた。
胸の鼓動が早鐘を打っている。頭の芯が痺れ、身体中が熱い。
都会の人間は冷たい――そんな覚悟を持って上京して来たというのに、拍子抜けする程の親切さを目の当たりにした司は、うっかり恋に落ちてしまっていた。
「奥さん……か」
しかし、司は見逃さなかった。隣人の左手の薬指に光る、既婚者の証を。
最初から“隣の奥さん”以上の関係性は望めない。そうと分かっていながらも、司の胸はときめかずにはいられなかった。
部屋に戻り、早速電子レンジで肉じゃがを温める。正直いきなりのおすそわけに戸惑いを隠せない部分もあったが、目の前の食をそそる香りに空腹は勝てなかった。
「ヤバっ、超ウマい」
口をつけた瞬間、口内を旨味が駆け巡る。空腹による過剰評価ではなく、料理の腕の高さを物語る絶妙な味付けだった。あまりの旨さに箸が止まらず、あっという間に平らげた。
恋は盲目。甘酸っぱい初恋に似た想いは、美味な料理も相まって刹那に燃え上がった。
ぼんやりとしている間に講義は終わっていたようで、学生達は散り散りになっていた。
「どうしたよ、司。ずーっと心ここにあらずって顔しちゃってよ」
翔が、机に頬杖をついたまま動かない司の目の前に立ちはだかり、声を掛ける。彼は司の高校時代からの友人で、共に上京して同じ大学に通っている。
「別に、何でもないよ」
司は含みのある微笑を浮かべると、はぐらかすように席を立って教室を出た。
「何でもないって顔じゃないな。あ、分かった。光の事考えてたんだろ。妬けるね〜。これからデートってか。いいなぁラブラブで。彼女のいない哀れな俺にも女の子紹介してくれよ」
「光とはとっくに別れました」
司は翔の冷やかしを一蹴した。途端に翔は驚愕の声を上げる。
「マジかよ。何で? フラれたのか?」
「違う。こっちからフったんだよ」
司はうんざりした面持ちで吐き捨てる。思い出すだけで反吐が出そうな、記憶から消去したい存在だった。
光は、翔と同じく高校の同級生でクラスメイトだった。向こうからの告白に、当時交際相手のいなかった司は何となくOKの返事をして付き合いが始まったのだが、仲が深まるにつれて司の方が光に惚れ込んでいった。仔犬のように甘えてくる仕種の一つ一つが堪らなくいじらしかった。でも、鼻から抜けるような声の感じも、まどろっこしい話し方も今となっては鼻につく嫌悪の対象でしかない。
それというのも、光の浮気が原因だった。自分以外にも容易に尻尾を振って愛想を振り撒いていたのだ。手酷い裏切りに、悲しみよりも怒りが上回った。
そして、先日司の自宅で口論となった。光は浮気を誤解だと必死に否定したが、言い訳がましい態度に我慢の限界を超えた司は、光を思い切り殴っていた。我に返って暴力行為に厭悪したものの、おとなしくなった光を見て爽快感が胸を駆け抜けたのも確かだった。
それ以来、光とは会っていない。事実上の別れと言ってもいいだろう。
「他に好きな人も出来たし。まあ障害のある恋だけど、実る可能性もなくはない」
「まさか、不倫か?」
揶揄のつもりで言ったらしい翔の締まりのない顔を、司は無言で見つめ返す。
「嘘だろオイ……。不倫とかないわ〜。俺だったら人妻に手を出すなんて不健全な恋より、清く正しい恋を探すね」
潔癖なところがある翔は、口をへの字に曲げて拒否反応を示した。
「まだ片思いで不倫じゃないけどね。でも隣人だし、親しくなって距離が縮まるのも時間の問題。早速おすそわけもらっちゃったし。案外向こうもこっちに気が合ったりして」
浮かれ気味に新たな恋について語る司に、翔は嘆息をついて肩を叩く。
「一応忠告しとく。報われない恋はやめとけ」
「報われたら紹介するよ」
大学を後にして翔と駅で別れた司は、参考書を買う為本屋に立ち寄った。
店内で物色していると、思いがけない相手を視界に捕らえた。細長く繊細な指先が本棚をなぞっている。ふんわりと柔らかそうな髪を後ろで束ね、ミントグリーンのシャツにジーパンといったラフな姿。思わず胸が高鳴る。
「奥さん」
司が駆け寄って後ろから声を掛けると、隣人は小さな肩をピクッと震わせて振り返った。
「驚いた……。あ、昨日は急に押しかけてごめんね」
「いえ、おすそわけご馳走さまでした。めちゃくちゃ美味しかったです」
「本当に? よかった」
口元を綻ばせる隣人。司もつられて頬を緩ませ、もっと笑顔を引き出そうと絶賛する。
「お料理お上手なんですね。実家の母が作る肉じゃがよりも断然美味しかったです。もうプロ級の腕前ですよ」
「そんな、照れるなぁ。私は料理が趣味みたいなもので、昔から家事も得意だったんだ。だから、お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃないですよ。ホントに美味しくて褒めてるんです。自分も自炊しなきゃなって思うんですけど、料理が苦手でなかなか。羨ましいです。奥さんみたいな料理上手な人が結婚相手だと、きっと毎日のように美味しい料理が食べられるんでしょうね」
司の言葉に隣人は一瞬表情を曇らせ、視線を落とす。
「奥さん?」
司が小首を傾げて呼び掛けると、隣人はさっと顔を上げて微苦笑する。
「聖でいいよ。奥さんって呼ばれるの、今だに何か恥ずかしくて」
「聖さん……じゃあ、自分も司って呼んで下さい」
「司さん。それじゃあ、また」
そう言うと、聖は本を手に会計へ向かった。
その後ろ姿を見送りながら、司は小声で「聖さん」と呟く。名前を呼び合うだけで一気に関係が深まった気がした。
一緒にいると、温かく晴れやかな気持ちになれる。あの優しさに満ち溢れた笑顔を、自分だけのものにしたいと感じる。
司は、自身の中に芽生えた恋心を抑制できずにいた。光に浮気されて別れたはずなのに、伴侶がいようと構わない、この恋を叶えたい――そう願う利己的な自分がいる。
光の事を早く忘れたいという想いもあった。だからこそ、傷ついた心を癒してくれそうな聖に惹かれているのかもしれない。
「こんばんは。今日褒められたからって訳じゃないけど、また作り過ぎてしまって、よかったら食べてくれるかな?」
昨夜の再現かのようにインターホンが鳴り、聖が現れた。
「何か催促したみたいですみません」
司は恐縮する思いでタッパーを受け取りながらも、嬉しさを隠しきれないように顔全体に笑みを広げた。
「わあ、ハンバーグだ。大好物です」
「味の感想聞かせてね」
「美味しいに決まってますよ。けど、何か悪いですね。こんなに貰っちゃって」
気兼ねしてみせる司だったが、聖は手を振って、
「いいのいいの。真さん、朝から晩まで仕事で忙しくて、なかなか一緒に過ごす時間がないんだ。結局いらないって言われる事も多くて。だからって捨てるのももったいないし、食べてもらえると私としてもありがたいんだ」
力なく微笑む。寂漠感で形成されたような、物悲しい笑顔だった。
「そう、なんですか。では、遠慮なくいただきます。今度何かお礼しますね」
「気にしないで。好きでやってる事だから。じゃあ、お休みなさい」
聖の姿が隣室に消えても、司の頭の中は“好き”という言葉がいつまでもこびりついて離れなかった。
陶酔したまま部屋に戻ってハンバーグをつつく。胃袋が歓喜の悲鳴を上げ、瞬く間に完食した。
満腹感に浸りながら、司は恋敵について考えを巡らせた。真という名の聖の伴侶。想像するに仕事人間で、聖の手料理に見向きもしないような冷淡な性格の持ち主なのだろう。何となく吊り目で厳めしい、いかにも高慢そうな風貌が浮かび上がる。いずれにしろ、聖には似つかわしくない人物だ。まだ見ぬ相手に闘争心が沸き上がる。
司は未だに真に会った事がなかった。朝早く夜遅い仕事なら当然かもしれないが、隣室に聖以外の人間が出入りするところを目にした事もない。引っ越しの挨拶の際も、聖一人が応対していた。
擦れ違いの日々にお互い不満を抱えているとしたら、付け入る隙はある。聖の寂しさや孤独を癒し、埋める事が出来れば……。
司は、聖との恋が成就する日もそう遠くはない現実になりそうだと感じた。
次の日の夜も、聖はおすそわけをしにやって来た。そんなやり取りをしている内に、親密さは増していった。
聖は小説家で、何冊か本を出しているもののあまり売れていないらしく、それを真に罵倒される事もしばしばらしい。司は「酷いですね……」と口では同情の言葉を掛けつつも、内心で冷えきった夫婦関係に歓喜していた。
新婚で越して来たばかりという話だが、離婚が成立すれば堂々とアタック出来る。もしかしたら聖は、おすそわけと称して暗に自分を誘っているのかもしれない。向こうもまんざらではないのだ。そうでなければ毎晩会いに来たりはしないだろう。真に嫌気がさしてこちらに気持ちが揺らいでいるに違いない。
司は、今すぐにでも告白してしまいそうな逸る気持ちを抑圧しながら、今日もおすそわけの肉団子の甘酢あんかけをペロリと胃に納め、早速購入した聖の小説を読んで眠りに就いた。
次の日も、そのまた次の日も、聖はおすそわけをしに訪れた。
司がバイトで不在の時も、ドアノブにタッパーの入ったビニール袋が掛けられていた。そのどれもがボリューム満点の肉料理で、いくら若いとは言え、毎日こってりとした味付けの肉料理はさすがに胃に堪えるものがあり、司は幾分食傷気味になっていった。
「今日はシチューです。お肉たくさん入れといたからね」
得意げに満面の笑みで鍋ごと手渡す聖に、司は愛想笑いを浮かべ、礼を言って受け取る。
「もしかして、シチュー嫌いかな?」
司の気持ちを悟ったのか、聖は眉尻を下げ、声を萎ませる。司は慌てて首を横に振って朗らかに答えた。
「とんでもない。大好きです。肉料理得意なんですね」
「まあ、ね。でも真さんは肉料理があまり好きじゃないし、子供もいないから作り甲斐がなくて。だから、寂しさを埋めるみたいに趣味の料理に力が入ってしまうんだよね。それで、いつも作り過ぎてしまって……。司さんが綺麗に残さず食べてくれるのも嬉しくって、ついつい」
聖の健気さに、司は内心でほくそ笑んだ。
寂しさを忘れさせてくれる存在。心許せる存在。聖の中で、自分への評価はかなり上がっている。いよいよ自分への好意に拍車を掛けたような聖の態度に、司は優越感に浸った。ゴールは近い。恋敵に面と向かって勝利宣言をしたい気分になり、勢いづいて提案してみる。
「真さん、この事良く思ってないんじゃないですか? 一度会ってご挨拶した方がいいですよね?」
ところが、聖は表情を強張らせ、
「えっ、大丈夫だよ。それにあの人、人付き合いが得意じゃないんだ。きっと不愉快な気持ちにさせると思うから、だから気にしないで。じゃあ、また明日」
そう言うと、そそくさと帰って行った。
「ま、焦る必要ないか」
気が削がれた司は、独り言ちて部屋に戻った。
ガスコンロで温めたシチューを処理するように口に運ぶ。デミグラスソースで煮込んだシチューの中には、塊肉がゴロゴロ入っていた。相変わらず味は絶品で申し分ないのだが、
「たまには魚が食べたいな」
思わず不満を漏らす。こうも連続すると飽きが来るのが自然の道理。しかし、考えてみれば贅沢な悩みである。店で出されてもおかしくないような料理を毎晩食べられて、食費も浮く。しかも好意を抱く相手の手料理だ。文句を垂れていたら罰が当たる。
それにしても、と司は肉を咀嚼しながら思案する。
この舌触りに風味……今まで何とは無しに舌鼓を打って来たが、どの料理も味わった事がないものばかりだった。庶民的で素朴な味というよりも、高級な肉をふんだんに使っているかのような食感に味わい、とでも言うのだろうか。何とも形容しがたい感覚が、舌の上で踊っている。
一体、何の肉を使っているのだろう――。
スプーンに乗せた塊肉を凝視する。
不意に、深夜まで読み耽っていた聖の小説の内容が脳裏をよぎった。
「まさか……」
思い至った可能性に肌がさあっと粟立つ。
その時、インターホンが鳴り、思考は中断された。
聖だろうかとドアを開けた司は、相手を見て露骨に顔をしかめた。
「今さら何か用?」
思わず声が尖る。訪問者は、別れたはずの元恋人、光だった。
光は緊張した面持ちで司を見つめ、決心したように口を開く。
「あれから冷静になって考えたんだ。誤解させるような態度が悪かったんだよね。でも、誓って浮気はしてない。ウソじゃないよ。やっぱり司が好きなのは変わらないし。ホントだよ。だからさ、ヨリ戻そうよ、ね」
光は顔色を窺うような上目遣いで懇願する。司は虫酸が走る思いで光を睨みつけた。
見苦しい。まるで媚びを売る鬱陶しい駄犬だ。全てが嘘臭い演技に見える。この甘えた声色と仕種で何人たぶらかしたのだろうと、忘れかけた怒りが込み上げる。浮気相手にも恋人がいた。もしかしたらヨリを戻すというのは口実で、自分と聖の仲を引き裂くのが目的なのかもしれない。人の物を欲しがる病気なのだ。あげた玩具が惜しく感じる子供と同じ。順調に育ちつつある愛が気に食わないのだろう。それを破壊するべく、今になって現れたに違いない。
「ここじゃ何だから、中入って」
誰かに見られたら厄介だと考えた司は、とりあえず光を部屋に招き入れる事にした。しかし、その心は黒く澱んだ沼に飲み込まれつつあった。
「えっ、これ司さんが作ったの?」
タッパーの蓋を開けた聖が驚嘆の声を上げた。中にはロールキャベツがぎっしりと詰まっている。
翌日の夜、司はおすそわけを持って聖の部屋を訪ねていた。
「はい。いつもいただいてばかりだったので、そのお礼にと思って。料理は苦手なんですけど、結構手間隙掛けて作ったんで、是非食べてほしいなと」
「確かに、苦戦した痕が見られるね」
聖は、包帯が巻かれた司の右手を見て小さく笑みをこぼした。司は右手を咄嗟に背中に隠し、肩を竦めて苦笑する。
「そうだ、家で一緒に夕食食べない? 私の料理と合わせて。今日も真さん遅くなるみたいだし、一人で食べるのって何だか味気無いし。だめかな?」
光と違い、何の魂胆もない澄んだ瞳で見上げてしおらしくお願いする聖に、司は二つ返事で了承した。
「じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔します」
司は心躍らせながら意中の人の家に入った。早速キッチンから食欲を掻き立てる匂いが漂って来る。
聖は司をテーブルまで案内し、椅子を引く。
「ここに座って。すぐに用意するからちょっと待っててね」
司は言われた通り腰掛けると、キッチンで準備する聖を尻目に部屋をぐるりと見回した。
掃除が行き届き、整理整頓されていて几帳面さが窺える。家具や小物など全体的に淡い色調でまとめられていて、聖の温和な人柄を表しているようだった。間取りは同じはずなのに、自分の雑然とした部屋とはまるで様相が異なって見える。
ふと、チェストの上の写真立てに目が留まった。チュールレース模様のフォトフレーム。散りばめられたラインストーンが華やかに写真を演出している。
写真の中で、男女二人が腕を組んで笑っている。この世で最も幸福そうな笑顔。結婚式の時のものだった。
司は嫉妬を覚えた。だけど、そんな醜い感情を抱いても無意味なのだと思い直し、
「綺麗な方ですね」
写真を見ながらそう言うと、聖はテーブルに司のおすそわけと自分が作った料理を並べながら微笑する。
「わぁ、美味しそう」
司は料理を見て声を弾ませた。司が作ったロールキャベツに加え、スペアリブ、春雨サラダ、かぼちゃの冷製スープといった聖の料理がテーブルを豪華に彩る。
「では、いただきましょうか」
聖は席に着いて手を合わせた。司もそれに倣って「いただきます」と言って箸を持つ。
聖が先にロールキャベツを口にする。司はそれをまじまじと見据えた。
「どうですか? 肉をミンチにするのに結構時間かかっちゃって……」
司は自信なさ気に聞く。聖はしばし噛み締め、味わってから頷いた。
「うん。なかなか味が染み込んでて美味しいよ」
「よかった〜。不味かったらどうしようかと思っちゃいました」
司は、ホッと胸を撫で下ろして椅子の背もたれに身体を預けた。
「一生懸命作ったのが伝わってくるから、それだけでも充分だよ」
聖は柔和に目を細める。
「優しいですね。あっ、そういえば読みましたよ。『真夏の晩餐』」
司は、気を引く為にやっとの思いで読み終えた聖の著書を思い出した。
「へえ、随分古い作品を読んでくれたんだね。若い女の子が好む題材じゃないと思うけど、どうだったかな?」
「普段あまり本とか読まないんですけど、面白かったです。主人公に感情移入して、夢中で読んじゃいました」
身を乗り出し、目を輝かせて称賛する司に、聖の頬がほんのり朱に染まる。
「そう、最高の賛辞だね。作者冥利に尽きるよ。真さんには“リアリティがない”“気持ち悪い”って散々けなされた作品だから。衝動的に夫を殺して死体処理に困った主婦が、夫をバラバラに切断し、その肉を料理して近所におすそわけしに行く――そんなの、味や食感ですぐにバレるって。木を隠すなら森の中、死体を隠すなら胃袋の中って……あ、ごめん。食事中にする話じゃないね」
気まずそうに謝る聖だったが、司は気にする様子もなく春雨サラダを口に運びながら淡々と意見を述べる。
「味付けを濃くしたりして工夫すれば、意外と気付かれないんじゃないですか? 実際あたしは全然気付きませんでしたよ」
「気付かなかったって、何が?」
「肉ですよ。小説と違って女性だからですかね。真さん、とても柔らかくて美味しかったです。どうやって調理したんですか?」
平然と言ってのける司に、聖は箸を止めて目を剥いた。
「……何、言ってるの?」
「やだなぁ惚けちゃって。聖さん、おすそわけでずっとあたしに食べさせてたじゃないですか、真さんを」
司は可笑しそうに乾いた声でケラケラ笑う。
「馬鹿な……それは架空の話で、おすそわけの料理に使った肉は羊や馬だよ。今日だって豚肉だし。私が真さんを殺すなんて、そんな恐ろしい事、できるはずないじゃないか。妻を手にかけるなんて……。笑えないよ、そんな悪い冗談」
軽蔑の籠もった目つきと声で否定する聖。二人の間に冷ややかな空気が漂う。それでも、司は鋭い眼光を真っすぐ受け止め、笑みを崩さずにゆっくりとかぶりを振る。
「隠さなくてもいいんです。警察に言うつもりはありません。それに、あたしも真似しちゃいましたから。小説の主人公と同じように、衝動的に……」
司は包帯が巻かれた右手をそっと撫でる。労るように、優しく。
「アイツ、しつこくて……だから殴ったんです。飼い主の言う事を聞かない犬にはお仕置きが必要でしょう? 殴って殴って、そしたら動かなくなっちゃって、焦りました。でも、運命を感じたんです。あたしとあなたが結ばれる為に、元パートナーを殺して食べ合う――これって、まるで聖なる愛の儀式みたいですよね」
司は痛んだ拳をさすりつつ、恍惚の眼差しで聖を見つめた。
「食べ合うって……」
聖は目を見開き、唇をわななかせて目の前の食べかけの料理を恐る恐る見遣る。キャベツに包まれた挽き肉が顔を覗かせ、こちらをじっと見ているような錯覚を覚えた。
「想像以上に大変でした。中高とバスケ部で鍛えてたんですけど、それでも人間を解体するのって体力いりますね。臭いもすごいし、血だらけになっちゃいました」
司は眉を顰め、何でもない事のように平然と語る。言葉の端々に冗談ではない生々しさが滲んでいた。
「嘘だ、そんな……」
聖は胸を押さえ、喉の奥から絞り出すように呟く。けれど、司はお構いなしに続けた。
「今日は腕の部分を使ったんですけど、まだまだたくさん肉があるんで、明日も何か作って持って来ますね。何がいいですか? どの部位が好みですか? リクエストがあれば頑張って作ります。足でも頭でも腹でも何でも!」
聖は、司が吐き出す戦慄の言葉が脳に染み渡るのを防ぐようにゆるゆると頭を振る。しかし、顔は青褪め、視線は肉に張り付いたまま剥がれなかった。
そんな聖とは対照的に、司は場に不釣り合いなぐらい溌剌とした笑顔を見せる。
「あたし達、絶対相性良いですよ。もう二人を邪魔する障害はなくなったし、きっとお似合いのカップルになれると思います。ねぇ、そうですよね、奥さん。奥聖さん」
聖は司の言葉を遮るようにうっと呻いて右手で口を押さえた。身体を折り曲げ、テーブルに突っ伏しそうになるのを何とか左手で支える。そして、席から立ち上がると覚束ない足取りで洗面所へ駆け込んだ。すぐさま嘔吐する音が聞こえて来る。
そんな聖を他所に、司はゆるりと顔を下げ、
「真さん、あたし達絶対幸せになりますから」
だから、天国で見守ってて下さいね――。
そう言うと、歪にくすんだ笑顔でスペアリブにかぶりついた。