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小田中の『ものをかく』
作:小田中 慎


 僕は少し前まで“自己中”が許される仕事をしていた。 芸術とか技術とか、ワザの付く仕事だ。

 この手の仕事はひとりで取り組み、作“品”とか商“品”とか、シナの付くものを仕上げ、売ることで“おまんま”が喰える、というパターンが多い。

 でも僕のはちょっと変わっていて、あるリーダーが示した方向性を、様々な部門がそれぞれのワザを持ち寄り、時にはアクの強さと言うか個性と言うか、他人から見たら、実につまらない事で衝突しながら、ひとつの作品を仕上げる、そんな仕事だった。 回転の早い人はお気付きだろう。 楽団、劇団、アーチストの公演、はたまた、車、ゲーム、アニメ、映画、番組の製作・製造、そういう、文字通りの“チームワーク”、である。

 でも、考えて見てごらん、世の中、ほとんどがチームワーク。

 最初に上げた自己中でひとり、作品を仕上げる、まあ、“先生”と呼ばれる類の人も、制作とか販売とか売るためのスペシャリストなくして“おまんま”は喰えない。
 人間とはよく名付けたもので、人の間にネットワークが無ければ、生きる糧は得られないからね。

 僕がチームワークでも自己中が許される仕事を選んだのには、理由がある。 何かのルールに沿わせることが全てで、決められた範囲から外れることは“悪”とされる世界では、飯を喰いたく無かったからだ。

 別にそういう世界を蔑むつもりはない。 公務員諸氏の仕事は正にそれだし、ルールが厳格に定められている仕事もこの世の中、ごまんとある。
 同じ“シナ”を上げる仕事でも、鉛筆や電池などを実際に作る工場の人たちに求められる創意工夫は、より早く、大量に、美しく正確に、清潔に、など、環境や効率の範囲に限定されている。 今日はノッテルから、2センチ長く作りました、なんて、ね。 とにかく、僕にはそれが無理だった。

 でも、ひとりでひとつのものをつくりだす、という生き方も、弱い意志と貧弱な才能で腰が引けてしまった。 チームワークでも自己中でいられる、僕はそこに、やっとのことで居場所を見つけたんだ。

 リアルの世界で“おまんま”を喰う、その話はこの位にする。 偉そうに人の成り立ちなんかを語るために筆を取ったわけではないから、主題に入ろう。

 長々とこの話をしたのは、僕が今している行為、ものかき、について話したかったからだ。

 恥ずかしい話、僕はもう、かなり大人になってしまっている。 大人とは年齢や外身、世間様に見られる部分の事、内面とか精神とかの事は別である。
 でも世間様は中身は見ない。 僕はもう、分別とやら呼ばれるものを持っていないと、世の中渡って行けない年齢だ。 だから見てくれでは精一杯、大人を演じている。 多少は演じ方が成功したのだろう、飯は喰えている。 ああ、成功、とは大人演技 (ごっこ)に、であって、人生やら仕事に、ではないので、あしからず。 いつかこの“大人演技”の事を書くかも知れないけれど、最近の私小説は、リストカットやらレイプやら近親相姦、DV、幼児虐待etc.etc.過激でないと見向きもされないそうだから、書かないだろうな。

 ああ、またも脱線。 ものをかく、という虚しさ半分高揚半分の行為について話そう。 

 人はなぜかくのか。 残したいからだ。 なぜ残したいのか。 自己顕示に駆られるからだ。

 もちろん、全てこれで括られる訳じゃない。 でも考えてみるがいい。 強弱はあるけれど『僕はここにいるよ』、と作者が訴えて来ない書物などあるものかどうか。 

 そんな自己主張の塊の様な書物を読む事はとても重労働だ。
 
 なんだってそうだけれど、最初から最後までお付き合いする、というのは結構しんどいことだ。 たとえばあなたたちのパートナーが一日中ウインドーショッピングをするのにピッタリ寄り添えるかな? 趣味でない映画を観たり、日に焼けるからいやだと思っているのに山や海へ行ったり、そして、これ面白いから読みなよ、と渡される本・・・たとえ一日中でも横顔を見ていたい、と思うような美男美女でも、やっぱり勘弁、ていうのはある。 
 だから、寝食を忘れて夜明けになってしまった、なんて書物に出会うというのは運命なんだろうね。

 物語のエピローグ、最後の一文字がすうっと胸に沁み込んだあと、ふと気が付くと、鳥の囀りが聞こえ、窓から白々明けの空が見える。 あなたはふぅ、と深い溜息を付いて、少しでも寝ておくかどうか迷う。 でも気持ちは晴れやかで、清々しさだけが残っている・・・どう?

 これを読んでいるあなたには、きっとあるのだろうね、そんな本が。 なぜならば、玉石混交とは言うものの、圧倒的に石の多いネットで読み物を探すくらいの人だから。 読書家のあなたはそんな本に出会えて幸せですか? 作者はもっと幸せだと思うよ? 勿論作者は、ファンレターか感想文でも送って貰わなければ、そんな人間がいて深い感動を与えた、なんて分からないのだけれど。 幸せの度合いは作者の方が数十倍大きいと思うよ。 だって一つの自我に楔を打つ事など、滅多にあるものではないのだから。

 でもこんなものはプロの作家でもほんの一握りだから、大概は読者の顔も反応も知らぬまま、作品の旬は去り、埋もれて行くのだ。 歴史に残る傑作などそんなに簡単に現れるものじゃない。 そこまで行かなくても芥川賞作品ですら消えてしまうのだから。 第XX回文学界新人賞佳作ってどんな作品? 分からないよねぇ、でも作者はそれを胸に生きて行ける。 それが誇りか古傷かは関係なく、ね。 大多数の自称作家は、そんなものだ。

 かくことはくるしい。 かくことはかなしい。 かくことはわすれること。 かくことはゆめをみること。 かくことはかざること。 かくことはみつめること。 かくことはしめすこと。 でもだれのこころにも、のこらないのはつらいこと。

 真剣に“ことば”を紡ぎたいと考えていたあの頃の僕。 けれど喰う手段にまで高める事ができないと分かってしまうと、産み出す文字は、どいつもこいつも響かなくなった。
 たった一人、僕のかく、文字の羅列を読んでくれた人は、鳥になろうとして、団地の屋上から飛び立ってしまった。 僕はものをかくのを辞めた。 幸い僕には死ぬ勇気もなく、だらしなく生きたあと、自己中でいられる仕事に就いた 。かくのを辞めたら、らくに息が吸えるようになった。 僕は青臭いあの日々を、思い切り意気勝って過ごした。

 そしてがむしゃらに生きて、ふと自分の歳を意識したとき。 再びかこう、と思った。

 今度は自分の作品の読者は自分だった。 それでいいじゃないか、と思った。 楽しんでかいたのは生まれて初めてだった。 それで構わない、と思えるまでなんと時間の掛かったことか。

 だから僕は、まだ肉体的にも、もちろん、精神も若いあなたたちに言いたいのだ。
 オヤジの戯言と思っても構わないよ。 でも聞いてほしい。

何も人に残すことを目指さなくてもいいんだ。 偉い先生や評論家なんて関係ない。 

 まずは自分に残ればいい。 なぜなら自分に残るものならば、必ず誰かが認めるから。 

 そして運が良ければ、あなたの紡いだ言葉は生きた言葉として、ある人の胸に届き、静かに沈んで行くだろう。 

 力を抜いて、自分の好きなものを、好きな言葉で残すんだ。 今の世の中、それがとても簡単に出来るじゃない? 

 なんだかんだ言ってもさ、ものをかくことは、やっぱり自分を生かすことなんだよね。














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