第七話 芳乃
――どうしよう。何を着て行けばいいのかわからない。
「やだ。もうこんな時間……もう、何でもいい!」
長い間ドレッサーの前で迷っていた芳乃は、とにかくボウの付いたクリーム色のワンピースを掴むと、取り外したハンガーをベッドの上に放り投げた。
急いで着込むと背中のファスナーを上げ、また鏡を覗く。ボウを首元でクロスさせると、きらきら光る小さなピンでその中央を留めた。
「うっ……髪が」
バランスが悪い。アップかポニーテールにしなきゃ。
迷わずブラシを入れるとひとつにまとめ、高い位置に持っていく。左右を確かめ、手早くゴムで結んだ。
今日、芳乃は、初めてお見合いをするのだ。
お見合いだから、あまり派手ではいけないが、地味でもだめだ。若く見え過ぎても、老けて見えても、いけない。その加減がむつかしい。
芳乃は今年二十九、ぎりぎりのライン。
(私が二十歳の頃、二十九なんて、完璧オバサンだったのに)
仲良し三人組は、うち一人が結婚しているけれど芳乃は全然焦ってはいなかった。ただ両親が心配するのだ。
それに、まあ、子供は産んでみたいと思うし。
そういうとき、この見合い話がきた。
いつも訪問してくれる、S生命保険会社の中江さんが持ってきたのだ。
「芳乃、まだなの? お父さん、もう車出してるわよ」
「はぁい、今行く」
――そう、芳乃だけではない、父も母も全然落ち着きがなくなって、いつもと違う日曜になっていた。
「大変だねェ、お見合いも」
妹の眞子が部屋を覗いて、くくくっと笑い、「何か手伝おっか?」と、ちらかったカバンやらをよけながら入ってきた。
いつもなら、ラブラブの彼氏がいるような妹の皮肉を黙って聞き過ごす芳乃ではないが、今は生憎と余裕がない。
「助かる。このリボン、結んで」
だが眞子はそのリボンを見るや、
「えーっ、それ? 子供っぽい」
ドレッサーの引出しを探って、以前芳乃が買ったものの上手く使えずに放りっぱなしにしていた夜会巻きコームを取り出した。
白いパールもどきが一列に並んでいる、上品なコームだ。
眞子はさっさと芳乃の髪を解くと、夜会巻きコームで髪をすくい、器用にねじって頭に留めた。指先で後れ毛を散らすことも忘れない。
「ほら、これでいい。完璧でしょ」
「わっ、眞子ったら、器用ね。――ありがとう」
窓の下から、「芳乃ー」という母の声が聞こえる。
芳乃はシャネルの白いハンドバッグを掴むと、部屋を走り出た。
普段は自転車で飛ばす道を車で送ってもらい、駅で降りる。
――やれやれ、本当に今日は特別な日だ。
車の中で、父は何も言わなかったが、降り際に一言、「頑張れよ」と言った。
「何を頑張るのよ」
そう言いながらドアを閉めたものの、(頑張らなきゃ) 電車に乗った芳乃はそうつぶやいていた。
目的地に着いてターミナルビルの前で辺りを探す。
「芳乃ちゃん」
中江さんが手を振ってくれた。
「素敵ねぇ」
近づいていくと彼女はそう言って芳乃の手を取り、
「こっちよ。あー、どきどきするわね」
まるで自分のことのように胸に手を当てた。
それから一週間後。
芳乃は定時になるや仕事場を出、走って、同僚の法子に教えられた占い師のところへ向かっていた。
今まで気にもかけなかったというのに、一輪の赤い薔薇の花と水色の文字で『占い・ミスティ・ローズ』と書かれた薄いピンクの看板を即座に見つけ、階段を下りてゆく。そして薄暗い廊下の一番奥の扉を、そこに『ミスティ・ローズ』と書かれたプレートがかかっているのを確かめながら、ぐっと押し開けた。
「こんにちは」
エスニックな香りの中、自分の声が頼りなく響き、座っていた占い師がふっと顔を上げた。
「こんにちは。どうぞ」
お愛想の笑顔一つなく、特に感情の感じられない声で返された芳乃は、(まるで病院のようだ) と憮然と思う。
(病院……でも今の私には必要なのだ)
そう思い、ローズの前の椅子に腰を下した。
黒い布のかけられたテーブルの上には、ガラス細工の天使が乗っている。
デパートの贈答品売り場で見る高級なガラス細工――たしか、スワロフスキーだ。
輪っかの部分にはめ込まれた金が、明るい黄色に輝き、芳乃の目を射た。
「お悩みは?」
とローズが聞く。薄いブルーのブラウスに、黒い網のショール。
やっぱりスワロフスキーがついていて、(こういう世界に光物はつきものね)と変に納得せざるを得ない。
芳乃は、まだ荒い息を整えながら話し出した。
「あの……先日お見合いをした人との相性を見てください。私にとって、運命の人なのかどうか」
――『運命の人』! なんて少女チックな言い方だろう。私ったら、いい年をして恥ずかしい……。
勝手にひとり赤くなってうつむく芳乃に、ローズは二人の生年月日を聞いた。
そして例の如く数字を計算し、カードを広げる。
芳乃は昔、手相やら四柱推命で人生を占ってもらったことはあるが、タロットは初めてだった。
けばけばしいともいえる絵がずらっと目の前に並び、冷静になってくると不安になった。
(こんなカードで何がわかるのかしら)
「うーん。残念ながら、あなたはこの方のこと、女性としては好きにはなれないでしょうね。ぐっとくるものがないというか。一緒にいて、どきどきしたり楽しいとは感じないでしょう。――それに、『死神』が出てるわ、逆位置だけど。『フール』もね。もしかして、忘れられない人がいる?」
芳乃はどきりとした。非常に驚いた。
そう、芳乃には忘れられない元彼がいたのである――真也。どうしようもない、身勝手なヤツ。
「います……でももう別れて二年にもなるんです。忘れようと思って、もう忘れて結婚しようと思ってお見合いをしたんです」
「やっぱりそうなのね。その彼の生年月日を覚えてる?」
「はい。1978年3月25日です」
ローズは、『1979.7.1』『1977.12.3』と書かれた下に、『1978.3.25』と付け加えた。そしてまた計算し、「うーん」と唸って顔を上げた。
「かなり振り回されたでしょう。あなたと彼じゃ、何もかもが違い過ぎてたわよ。まあ、変なところで盛り上がるでしょうけど」
ペンをコツコツいわせ、ローズは続ける。
「あなたは予定通り行きたがる現実主義、反対に彼は自由気ままな感覚人間。でもどちらも相当な頑固者ね。何にしろ、彼には彼独特の価値観があるから、人の話なんて聞かなかったでしょ」
「あっ、そう。そうでした」
その間にもローズはカードを手早く切り、新たにテーブルの上に並べ直した。そして、芳乃が一番知りたかったことを告げた――
「彼はもうあなたのことは怒っていない。懐かしく思っています。でも今後、お二人の縁が重なることはないでしょう」
思わず芳乃の瞳から涙が零れ落ちる。
なぜ泣くの? そんなこと、わかっていたはずでしょう?
「でも、あなたがどうしても彼とよりを戻したいと思うなら、この夏がチャンスです。あなたの誕生日の少し前に、『お久しぶり』メールでもしてみたらどう? ただし、もし上手く戻れても、また以前と同じことで喧嘩にはなりやすいから注意してね――結局、彼は変わらないから」
今まで追い払おうとしていた真也の面影を、今芳乃は一瞬で取り戻し、もっと、もっと、細部まで思い起こそうとしていた。濃い眉、ちょっと曲がった鼻、男の癖に長い睫毛に綺麗な二重の目、そして皮肉っぽく笑う口元――。
だがローズは、芳乃を説得するような目で見つめた。
「あなたには結婚に対する情熱がどのくらいあるかしら? このお見合いの方はいい相手よ。ほんとはこちらの方の方が安心な人生を送れます。真っ直ぐで融通がきかなくて、すごく不器用なところがあるけれど、責任感もあるし誠実だわ。結婚するならこういう人が、冒険嫌いなあなたにはぴったりなの。だからよく考えてね。私のカードでは――」
そこで少し言葉を切る。
「私のカードでは、残念ながら結婚にはならないと出ているけど。あなたの結婚はまだ五年先かな」
芳乃は思わず声を張り上げてしまった。
「五年?! 五年も先なんですか?」
「ええ。でも未来は変えられる、あなたが決断すれば。あなたが今この方を選んで結婚しようと思えばそうなるし、でも昔の彼をもう一度選ぶなら、この結婚は当然なくなる。そして元彼とゴールインできるかどうかも、あなた次第」
そんなの占いの意味ないじゃない、そう言いたげな芳乃の顔。
ローズは見抜いたようだった。
「私は占い師やってるけど、あくまで決めるのは自分だと思ってる。だって自分の人生じゃない? アドバイスをして背中を押してあげるのが私の役目なの。――でもあえて言うと、自分に嘘をついたらきっと後悔する。あなたは五年後、結婚するチャンスがある。だから今は、本当に好きな人に気持ちを伝えてみてはどう?」
ミスティ・ローズの部屋を出ると、辺りはもうすっかり暗かった。
それでも夜気はすがすがしい。
(冒険嫌い……か)
そのとおりだと思った。
芳乃はもう一度、"冒険嫌い"の自分の性格と、"結婚に対する自分の情熱の大きさ"をよく考えてみようと思いながら、まるく満ちつつある月を眺めた。
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