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〜ミスティ・ローズの部屋へようこそ〜
作:あんじぇ



第四話 芳樹


 芳樹がこの街を訪れたのは、初めてである。
 突然、海が見たくなって、新幹線を途中下車し、在来線を乗り継いでふらりとここへ降り立ってしまったのだ。

 今日は天気もよく、初めて見るこの海は穏やかで、遠くまで陽の光を浴びてきらきらと輝く波を見ていると瞳が潤んでくる。
 雲の間からまっすぐに射す光の帯が、まるで壮大な宗教映画のワンシーンのようにも思え、そこから神は降りてくるのだろうか、その空間を天使が行き来しているのではないだろうか、という何か非現実的な妄想にとらわれてしまいそうにもなる。

 芳樹はそんな自分を卑しむように、ふっと笑った。

 ――神なんか、いない。


 天気がよいとはいえ海風はさすがに冷たく、五分といられるものではない。
 冬のこの時期にはどこか海の見えるレストランかカフェにでも入り、ゆっくりと眺めるべきなのはわかっていたが、今日、芳樹が唐突に感じたくなったのは、あるいはこの冷たい海風だったのかもしれなかった。
 そう、少なくとも、海に癒しを求めに来たのではないことだけは、はっきりしている。

 海に背を向けた芳樹は、両手を黒いジャケットの中に突っ込み、いささか背を丸めながらレンガ造りのお洒落な店舗が並ぶアミューズメント広場を歩き出していた。

 この華やかな場所も、今の自分には大いに場違いである。

 ショーウィンドゥには一切目もくれず、彼は早足でその広場を抜けた。


 通りを一本渡ると、そこはいきなりビジネス街になっており、花や賑やかな看板で装飾されたお洒落な町並みは、あたかもハリウッド映画のセットのように忽然と消え失せてしまった。
 とはいっても、どのビルも大きく立派で、鏡張りの壁面や大理石の支柱がふんだんに使われ、さすが大都市と思わざるを得ない。
 きっと昼ともなれば、これらのビルから大勢のサラリーマンやOLが先ほどの広場へ食事をしにあふれ出てくるのだろう。

 今度は芳樹は大きなため息をついた。

 と、その時、目の先に、それら立派なビルの隙間にひっそりと並ぶ、昔ながらの雑居ビルを認めたのである。
 さらにその入り口に立つ看板――それは地下へと案内していたが――に目が留まった。

 薄いピンクの木の看板に、赤い薔薇の花が一輪大きく描かれ、水色の文字で『占い・ミスティ・ローズ』と書かれてある。

「占い……か」

 普段、芳樹は占いなど信じない。
 
 だが今日は、なぜかそこへ行ってみようと思ったのだった。



「チリリン」とベルの音をさせて中に入った芳樹は、そこに座っていた女占い師に「どうぞ」と迎えられた。
 そうして、どちらかといえば、安物のクッションを敷いただけの貧相な椅子に腰を下ろし、自分の生年月日を告げる。

「1971年6月25日……ですね」

 女占い師ミスティ・ローズは、手元の紙に書き入れると、その下に「9・4・4」と書き加えた。

「で、お悩みは何でしょう?」

「私の人生――これからを教えてください。特に、仕事と家庭を」

「ご結婚されているんですね? お子さんはいらっしゃいますか?」

「はい。二人……います」


 ミスティ・ローズは、脇にあったカードを手に取るとさっと広げ、また集めていつものように切り出した。そして無作為とも思えるやり方で何枚かのカードを引いてテーブルの上に並べてゆく。

 最初この部屋に入った時に、まわりがあまりに天使だらけだったので芳樹はちょっと引いていた。

(また場違いな所へ来てしまったかな)と思い、(確かに)と思い直した。
 そもそも占いなんて、キャラじゃない。

 だが今はそんなことも忘れて、この奇妙なカードから何がわかるのだろうかとじっと見入っていた。

 ――もしかしたら、とんでもない質問をしてしまったのかもしれない。俺は本当に、「これからの人生」なんかを聞きたいのだろうか?


「ちょっとお仕事、大変ですね。あなたは経営者なのかな?」

 その言葉に芳樹はぎくりとした。じわりと(わき)の下に汗が浮く。

「――そのとおりです」
 正直に言わざるを得ない。

 ミスティ・ローズは困ったようにため息をついた。

「会社、一度整理しないといけないかもしれませんね。時期は、この春までに」

 まさにそのままのことを言われ、芳樹の胃はとたんに重くなったようだった。
 しかし、やはりそういう運命だったのかと変な納得もできる。

 芳樹は二十六歳の時に二歳年下の彼女と予定外のでき婚をした。
 幸い双方の両親は認めてくれて特に不都合はなかったし、芳樹は父の会社を継ぐことになっていたので経済的にも恵まれていたのだと思う。
 だが問題は、自分に商才がなかったことだ。
 三十三歳の時に父が急死し、会社を継ぐには継いだが、わずか三年で傾けてしまったのである。

 今、芳樹の会社には、負債はあっても資金はほとんど底をついていた。

 妻や子供たちに迷惑はかけたくない。

 芳樹は昨日突然、家を出てきたのだった。ひとり、この世から消えるために。


 占いは、新たなカード展開により続いている。

「春までに整理したら、次のチャンスは秋です。秋にいいお仕事の誘いが来ますよ。それはまた起業するチャンスかもしれないし、あなたに合った会社に就職が決まるということかもしれません。――夏まではしんどいけど、持ちこたえてね。それと」

 ローズが上目遣いに芳樹を見た。

 その目は鋭いようにも思えたが、たしかに澄んでおり、強いきらめきを宿していた。

「奥様がとても心配しておられるみたい。あなたはあまり奥様に本当のことを話さないでしょう? でもね、奥様は話してもらいたいと思ってますよ。このカードは、『力』そして『女帝』。これはとても強いカードです。奥様は大きな愛情であなたを支えてくれるわ。この苦しい時期を乗り切るポイントは、奥様と力を合わせることですよ――夫婦なら、いわずもがな、ですけどね」

 そこで芳樹の中から、どうにもこらえられないものが堰を切ったように噴き出した。
 彼は思わず腕に伏せると「うっ」と声を殺す。熱い涙が目尻にあふれた。

 ローズの低い声が優しく耳に届く。

「奥様をもっと信頼しなきゃ。家族を幸せにするんではなくて、ともに幸せになろうと思うこと。それが大事だと思うんです」

 瞑った目の内に、何分か前に見た海のきらめきが甦ってくる。そしてその海に差し込む光のカーテンも。

「大丈夫。必ず今の困難は越えられます。あなたにも、奥様にも、まだまだ未来が続くのよ。感情的に動かないこと。あなたの悪い癖ですね。そして『好きなもの』を選ぶのではなく、『必要なもの』を選ぶようにしてください。人間関係には特に気を配ること。人をうまく使う術を身につけるのは、あなたの役目です。頑張って」

 
 かっこ悪い、と恥らいながら、芳樹は涙を拭き、顔を上げると鼻声になりながら言った。

「……本当は死ぬつもりでこの街に来ました、妻にも黙って。事業資金もなくなり、妻や子を幸せにしてあげられない、そんな自分には生きている価値はないと。誰かに聞いて欲しかったんです。――ありがとう。楽になりました」

「奥様に今すぐ電話、してあげてくださいね。そしていつかまた、奥様と一緒にこの街に来てください」


 頷きながら芳樹は、この次はきっと、風の音ではなく、波の音を聞きに来ようと思った。












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