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〜ミスティ・ローズの部屋へようこそ〜
作:あんじぇ



第一話 智子


「占い、初めてなんです」

 智子はそう言って、落ちつきなく目の前の椅子に腰掛けた。
「そう」
 占い師はそっけない。智子の顔も見ないで、その一言だけ投げた。

 まったく場違いのところへ来てしまったかもしれない――こんなところで貴重なお金を遣うなんて、どうかしてた。

 早々に後悔の感情が沸き起こり、智子は思わず、「もういいです」と言って立ち上がりそうになった。が、その衝動をかろうじて常識という体裁で押さえ込むと、智子は仕方なしに深く息を吸い込み、そわそわと部屋の中を見回した。

 ふんわりとしたエスニック調の香りが、先ほど智子が怖々入ってきたドア一枚を隔て、確実に現実社会との隔絶を強調しているかのようだ。

 壁じゅう天使の絵で埋め尽くされ、占い師の背後にある背の高い古びたキャビネットの中にまで天使のオブジェがずらりと並べられているのを見ると、やはり異空間に来てしまったのだと思う。
 ビーズの垂れ下がったスタンドから放たれる黄色い光が、さして広くもない部屋を包み、天井から吊り下げられた惑星をモチーフにしたモビールをきらきらと輝かせていた。

 上目遣いにそれを見た智子は、心の中で(水、金、地、火、木、土、天、海……)とつぶやいてみる。

 近年、冥王星がこの惑星系列からはずされたことぐらいは知っていた。

(このモビールについている惑星は八つだわ。最初から冥王星ははずされていたんだ)

「あなたの生年月日をおっしゃってください」
 女占い師の少しハスキーな声がそう智子に言い、智子ははじかれたように答えた。
「あ、はい。1972年6月30日です」

 占い師はそれをサラサラッと紙に書き留め、何やら数字を計算すると、「それで、お悩みは?」と聞く。占い師はその時初めて顔を上げて、智子を見たのだった。

 その目があまり真っ直ぐに自分を見るので、智子はやや驚きを持って、だが自然と作り笑いが出た。

「ええと……あの、私のこれからの金運を占ってください。生涯、お金に困らないで生活できるでしょうか?」
「ふうん……」

 占い師は一組のタロットカードを手に取ると、じつに鮮やかにカードを切り、月と星を金糸で刺繍した黒いテーブルクロスの上に円を描くように並べ出した。
 それから何枚かのカードをめくったが、その指先が優雅で、よく磨かれ薄っすらとエナメルの塗られた桜色の爪と、指にはめられた数個の大きな彫金の指輪が、閃くカードとともに智子の頭に鮮烈に記憶された。

「あなたの金運は安定していません。お誕生日から見ても、お金は貯まらない性格ですね。すぐに大きな物を衝動買いしてしまう。気をつけないと、一生ローンをかかえることになりそうです――すでに、ローンがいくつかありますね?」

(やられた)と、智子は思った。

 そうなのだ。

 智子が今日、こんな今まで来たこともないような異次元の場所に思い切って足を踏み入れたのも、まさにそれが聞きたかったからなのである。

「先生、そのローンなんですが――私、全額返済できるでしょうか?」
 今度は椅子から身を乗り出して、智子は聞いた。
「もう、いっぱいいっぱいなんです。いつか、ローンから解放される日が来るのでしょうか?」

「ローンは払い続ければいつか必ず終わります。あなたの場合、これ以上遣わないことが肝心ですよ」

 当たり前のことなのだが、占い師の言葉に智子は妙に納得した。

 智子は今まで、一つのローンが終わりそうになると、また次のローンを組んで大きな買い物をしてしまうという過去を繰り返してきたのである。その結果、現在五社で約四百万円ものローンをかかえている。返済元金一万円に対し、利息だけでその倍以上取られているのだ。ということは、最終的に、八百万円以上の返済をすることになる……そう考えただけで、身が震えた。しかし、今さらどうすることもできず、毎月、ただただ支払いに四苦八苦しているのである。

 もちろん、借りなければいいことは百も承知だ。
 だがそれができれば苦労はしない。

 新たな借金は、どうしようもなくすることもあれば、「どうしてもこれだけは欲しい」という思いを抑えられなくなって(そんな時は頭に血が上り、後先が考えられなくなる)、買ってしまうためにできることもある。
 智子はそんな自分が嫌で、この先の人生を前向きに考えられなくなってきていたのだった。

 ――どうして自分はこんなにもだらしがないのだろう。いい年をして、貯金は一銭もないのに借金ばかりが膨らんでいく。
 こんな自分が結婚などできるわけがない。
 幸せになど、なれるわけがない。

「先生、私は幸せになれるのでしょうか」

 智子のすがりつくような声にも、占い師は淡々と再度タロットカードを切ると、今度は何枚かを横一列に並べ、
「大丈夫。今の借金は五年後にはきれいになくなっています。でも来年、また大きな買い物をしないようにしてください。せっかく楽になっても、元の木阿弥ですよ」

 そして智子をじっと見た。

 スタンドの明かりのせいか、その目は黒ではなく明るい茶褐色に見えた。それがきらきらと光っている。天井から吊るされた惑星のモビールのように。

 彼女の顔はやや丸顔で、白い肌に小作りの目鼻立ちは愛嬌があり、美人といえなくもない。緩くウェーブした黒髪は、レース編みの黒のストールをまとった肩先で広がり、柔らかそうな印象である。

 と、占い師は、にっこり微笑んだ。
 ぷっくらと艶のある赤い唇の横に小さなえくぼができ、それは最初のそっけなさとはまったく無縁のものである。

「ねぇ、あなたはお金が好き? お金を汚いものだと思っていませんか?」
「えっ……思っているかも……しれません」

 智子はお金に走る人間が大嫌いだ。お金は人を堕落させるとも思っている。何でもお金で解決しようとする人間や、「金ですべてが買える」と豪語する人間は、この世で一番醜いと確信している。

「お金に復讐されているみたいね。あなたがお金を目の仇にしているから」
 そう言って、占い師はうふふと嫌味なく笑った。

(お金が復讐? 目の仇にしている?)

 戸惑う智子に、女占い師はさらに言う。

「お金は、お金が好きな人のところに集まるの。だからお金持ちは、よりお金持ちになるようになっているのよ。お金のおかげて人は欲しいものを買えるし、美味しいものも食べられる。お金は本来、人を幸せにするものよ。残念ながら、それを遣う人の心によってずいぶん変わってしまうけど、でも正しく遣われれば、これほど人を幸福にするものはないんじゃない?」

 なるほど、そう言われればそのような気もする。というか、正論だ。

「あなたはカードが好きなんでしょう。カードは何枚も持つのに、現金は持たない。それでは財布の中は『お金のパワーゼロ』ということになるわ。すぐにカードは財布から抜くことね。そして徐々にカードを減らすといいわ。逆に硬貨は入れておくこと。五百円玉なんか、とてもパワーが強いのよ」

 そういえば五百円玉は、智子の財布からいつもすぐなくなる。真っ先に遣ってしまうのが、五百円玉だ。

「感謝すること」

 占い師は言った。

「お金は人を幸せにすると信じること――じつはあなたの前世に、高利貸しだった人がいるのがカードに出ています。ほら、これ。天秤を持っているでしょう? あなたは人にお金を貸して富を得たんだけど、そのことを後悔していたの。だから現世では罪滅ぼしの意識が働いて借金してしまうのかもね。なぜ後悔するのかしら? あなたの貸してあげたお金で、多くの人が救われたのに」

 一瞬にして、智子の心から黒雲が吹き消えたようだった。まさに雨上がりの空、まばゆい光が天から射し込むように、自分の未来が明るく晴れていくイメージがはっきりと心に浮かんだ。

「先生、ありがとうございます。私、お金を大切にして、お金に好かれるようにします」

 占いで借金が減ることは現実にはあり得ない。
 しかしこれからの希望をもらった。

 智子は短い挨拶だけで部屋を出て、ふっと一息ついた後、振り返ってドアを見た。

 入る時には、まるで安酒を飲ませるスナックの扉のような汚れた木のドアに、一輪の深紅の薔薇の造花と銀色のドアベルだけしか目に入らなかったのだが、今智子は改めて、ピンク色のボードに水色で書かれた先がはねあがるような手書きのその文字を、ゆっくりと目で読んだ。

 ――『ミスティ・ローズ』












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