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瀬戸内をBL小説で旅しよう企画 参加作品
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「飛行機? 明日、昼イチの便。……うん、わかっとるって……うん、そうするけん……」
心配性の母の様子に苦笑しながら、岡崎悠太はベランダの手摺に頬杖をついた。
高台に建つ学生マンションは、新しいとは決して言えないが、各部屋にちょっと広めのベランダがあった。そこから見える、郊外らしい慎ましやかな夜景が、いわゆるこの物件のチャームポイントだ。
1Kの暮らしに、ほんの少しのゆとりをもたらすスペースは、悠太のお気に入りだった。
電話の向こうで、母は尚も言い募る。
「あのね母さん、俺、独り暮らしも3年目やけんね? 自分の世話は自分でできるけん」
何を今更……と、悠太は溜息混じりに言った。
手には、高校時代の友人から届いた結婚式の招待状。
悠太は1年ぶりに帰省しようとしていた。
しかし、その実家は父の海外赴任に伴い、現在無人であった。せっかく悠太が帰るのに、迎えてやれない……と、母は気に病んでいるのだが、要らぬ心配なのだ。
何とか言い含めて、悠太はようやく母との通話を終えた。
ベランダの小さなテーブルからマグカップを取り上げ、口に含む。
冷たくなってしまったコーヒーに顔をしかめて、悠太はまたひとつ、小さく溜息をついた。
部屋の中でトランクが口を開けていた。荷作りが途中だった事を思い出す。
「支度しよ」
その前にコーヒー淹れ直しやね……と、思いながら、悠太は部屋へ戻った。
天候にも恵まれ、空の旅は快適だった。
松山空港。
到着ロビーの手荷物受取所には、乗客がごった返している。
じっと座って過ごした身体を解すように、首をゆっくりと回した悠太の目の前を、見覚えのある荷物が流れて行った。
慌ててターンテーブルに手を伸ばし、自分の黒いトランクと、すぐ隣の土産物の袋を取り上げる。
セーフ……と、息を吐いて、トランクを転がしながら歩き出したところで、後ろから声を掛けられた。
「あのっ、すみません」
ん……?
反射的に歩を緩めた悠太に、声は更に言った。
「えっと、もしかしたら、荷物……お間違えじゃないですか?」
自分に向けて言っているのだと、はっきり気付いて、悠太は振り返った。
「え? 荷物?」
黒いトランクにはタルトのステッカーが貼ってあり、間違いなく悠太の物だ。
紙袋の方は、空港で買った手土産の東京ばななーー
……じゃない⁉︎
紙袋の口を開くのと同時に、悠太もポカンと口を開けた。そこには、お菓子の箱ではなく、旅のガイドブックが入っているではないか。
「あ? あれ〜⁈ すみませんっ」
どこで間違えたんだろう……とパニクっているとーー
「君の、こっちじゃないですか?」
目の前に、同じ紙袋が差し出された。
背の高い男が、悠太の様子を面白そうに見つめていた。
傾けた袋からお菓子の箱が覗いている。悠太の東京ばななだ。
「そっ……そうです、すみませんっ! ありがとうございます」
壊れたロボットみたいにペコペコと頭を下げながら、悠太は男に歩み寄り、互いの荷物を交換した。
「本当に、失礼しました」
もう一度、深々と頭を下げた時ーー
男の腹が盛大に鳴った。
その元気の良い音に呆気にとられ、悠太が顔を上げると、男は腹を摩りながら情けない笑顔を浮かべた。
「とりあえずメシ、付き合ってくれない? そしたら許してあげる」
「……はあ……え?」
男の人懐っこい雰囲気に、悠太は戸惑いを隠し切れず、ぱちくりと瞬いた。
「美味い」
隣で男が声を上げる。
その反応にホッとして、やっと悠太も箸を付けた。
「こっち帰ったら一番に食べたかったんです」
フーフーしながら言う悠太に、男はウンウンと頷いた。
空港で手荷物を取り違えた男と、20分後には「三津浜焼き」の鉄板カウンターに隣り合わせているなんて、何がどう転んだらこうなるのか。
事の発端となった東京ばななは、到着ロビーを出てすぐに人手に渡った。
顔見知りの作業服姿のおじさんが、出口で悠太を待っていた。長期間留守にしている両親が、愛車の管理を任せているモータースのスタッフだった。
帰省中の悠太の移動用にと、母の軽自動車を届けに来てくれたのだ。もちろんそんな依頼をしたのは心配性の母である。
「お世話になります。社長さんにも宜しくお伝え下さい」
キーを受け取り、お礼に件の手土産を差し出す。
「悠太くんからお土産もらうようになるとはなぁ。社長が喜ばい」
おじさんに目を細めて言われ、悠太はちょっとこそばゆい思いをした。
その足で、餓死一歩手前の男と共に、この店にやって来たのだった。
「岡崎くんナンパして正解だったな〜」
出来立てホヤホヤの連れは、三津浜焼きを頬張って幸せそうに呟いている。
全てはこの男、朝倉直人の突出したコミュニケーション能力のせいだ。
ひとりでメシ食うの寂しくて苦手なんだよね。
君、こっち地元なの? じゃあ何か美味しいとこ教えてくれない?
それとも時間ないかな? 変なお願いしちゃってゴメンね。
矢継ぎ早にグイグイ来ておいて、最後にショボンと引かれると、元々はこちらのミスから始まった事だけに、断るに断れないではないか。
それに何より魅力的な男だった。かなり男前なのに、どこか安心させる空気を纏っていて、どちらかといえば人の後ろをのんびり付いて行くタイプの悠太には、色んな意味で衝撃的だった。
「三津浜焼きって、広島のお好み焼きとどこが違うの?」
「三津浜焼きの『定義』みたいなものはあるそうですよ。広島のお好みのルーツだっていう説もあります。この辺りは港町で、広島とは瀬戸内海を挟んだお隣ですから」
高速艇なら1時間ちょっとです……なんてウンチクを挟みながらも箸は止まらない。
実際、市内の方へ入ると、大阪タイプのお好み焼きを提供する店の方が多いのだ。偏るように広島タイプの「三津浜焼き」店が多数あるのは、おそらくこの辺りだけだろう。
って、ぺらぺらとウザかったかな……?
反応がない事に気が付いて、心配になった悠太がそっと隣を伺う。
連れはーー
入浴中か? と、ツッコミを入れたくなるような心地よさ気な表情で、目を閉じていた。
「寝てます?」
思わず訊いた。
「ううん」
なんだかめちゃくちゃ幸せそうな顔がこちらを向いた。
「俺ね、実はものすごい声フェチなの」
「……はあ……」
出たよ朝倉ワールド。
メシ付き合えと言い出した時と同じ混乱が悠太を襲う。
この男、ホントに予測不可能だ。
「最初から思ってたんだけど、岡崎くんって良い声してるよね〜。今の三津浜焼きの話も、声のトーンといい、テンポといい、間といい、なんて心地良いんだろうって聴き惚れちゃったよ」
「はあ……」
どうやら褒めてもらったらしいので、悠太は、どうも……と頭を下げた。
「朝倉さんは、おひとりで旅行ですか?」
「直人でいいよ」
にっこり笑って、直人はヒラヒラと手を振った。
「はあ……」
いちいち想定外の返しを繰り出されて、この1時間弱の間に悠太の脳味噌は何度フリーズしただろう。
しかし、どこかそれを楽しみ始めている自分がいる事にも、悠太は気付いていた。
「岡崎くんの事も、悠太くんって呼ぶね」
「はあ……」
曖昧な返事をしながら、しかし、悠太の顔は笑い出してーー
それに気付いた直人は、意外にも、ホッとした表情を浮かべた。
「昔、こっちにばあちゃん家があってさ。子供の頃は夏休みとか遊びに来てたんだ」
直人はグラスの水を飲み干して、ごちそうさま……と手を合わせた。
「もう亡くなってだいぶ経つから家もないし、こっちに親戚とかもいないんだけど。就職、内定もらったから、ばあちゃんに報告をと思ってさ」
「お墓参りですか……。っていうか、内定って朝倉さん、まだ学生?」
「順調に4年生だけど、なに? 俺、おじさんに見える?」
不満気に直人は鼻を鳴らす。
悠太は慌てて、いえいえ……と、手と首をぶんぶん振った。
おじさんでは決してない。中身はともかく、ビジュアルに大人の雰囲気があるのだ。
それにこの魅力的なキャラクターと、抜群のコミュニケーション能力だ。学生よりも、成績トップクラスの若手営業マン……と言われた方がむしろ頷ける。
「俺、今3年ですけど、『直人さん』大人っぽいし、俺の方はこんなだし、並ぶと1個違いくらいには見えないな〜って」
機嫌を取るように、慣れないけれど彼の提案に乗って、ここは「直人さん」と呼んでみる。
面白いように反応して、直人がみるみる笑顔になった。
悠太は吹き出しそうになるのを、グッと堪えた。
とりあえす、単純な、良い人らしい。
声フェチが高じた直人は、とにかくラジオの仕事がしたかったそうで、その念願叶って、この度ラジオ局から内定をもらったとの事だった。
「俺はやっぱり、テレビじゃなくてラジオなんだよね。すべての感覚を耳に集めて、声だけに集中する、あの感じが堪らないんだ」
目をキラキラさせて語る様子が、悠太にはなんだか眩しかった。
「すみません、結局ご馳走になっちゃって……」
店を出て、悠太はまた頭を下げた。この1時間半の間に何度目だろうかと数え始めそうになって、止めた。
悠太が手洗いに立っている間に、直人が支払いを済ませていたのだ。
慌てて財布を出したが、直人はするりとかわして、さっさと店を出てしまった。
「こっちこそ、無理やりメシに付き合わせちゃって、車にも乗っけてもらって助かったよ」
当初の目的である昼食は、終わってしまった。ミッション完了である。
互いの間に、どこか名残惜し気な空気がふわりと漂った。
「えっと……」
「あの……」
同時に何か言いかけて、同時に黙った時ーー
悠太のポケットで携帯電話が鳴った。
「もしもし……」
〔悠太ぁ? 飛行機着いて1時間以上も、あんたどこで何しよん?〕
「え? 何で?」
仕事で隣県に赴任している姉の春香だった。
〔悠太が帰ってる間の二泊三日? 家に居ってやってってママに言われて、私わざわざ休み取って帰って来たんやけんね〜〕
「もう……大丈夫やって言うたのに。あの人はホントに」
とはいえ、あの母なら充分予想できる手回しだ。
「ごめん姉貴、そうとは知らんかったけん、友達とご飯食べよった」
〔友達と一緒なん? こっちの子?〕
訊かれて口籠る。説明が面倒で、つい友達と言ってしまったが、そこをピンポイントで追求して来るとは。
「こっちの友達、では、ない……よ」
ちょっとおかしな返事をしながら直人を見ると、彼は面白そうに笑っていた。
なんだかどんどん思いもしなかった方向へ流されて行く。
姉との通話を終えて、悠太は困ったような顔で言った。
「とりあえず一旦帰って来いって。お友達も一緒にね……って」
さすがに直人も、目を丸くした。
悠太が連れ帰った男前の友人に、春香は上機嫌だ。
「ご飯、何食べたん? 言うてくれたらお姉ちゃんが作ってあげたのに」
「三津浜焼き」
「美味かったです」
車から荷物を降ろしながら、ぶっきらぼうな悠太の返事に直人が愛想よく補足を入れる。
三津浜焼きの店から、ほんのひとっ走りの住宅街に悠太の実家はあった。
和モダンのお洒落な造りに、直人は物珍しげに見入る。
「あれ? 直人くんの荷物は降ろさんの?」
姉の素朴な疑問は、毎度ちっとも素朴ではない。
友達と紹介はしたものの、知り合ってまだ2時間経たないのだ。本来、自宅に招待するほど親密な仲でもないわけで、ましてやお泊まりなんて、直人だって迷惑かも知れない。
何と答えたものか……と、悠太が思考回路をフル回転させているとーー
「今回、悠太くんは友達の結婚式で、僕は墓参りで……。飛行機こそ一緒でしたが、スケジュール的には全くの別行動になりますので、僕はどこかに宿を探すつもりです」
嘘はひとつもなかった。誰にも気を遣わせなくて済む、ちゃんと筋の通った理由だ。
今そこで知り合ったばかりだなんて白状して、姉に要らぬ心配をかける事もない。
やっぱこの人、達人級……と、悠太は感心してしまう。
しかし春香は、あの母の娘だった。
「何を水臭いこと言よるん」
にっこり笑って、車からさっさと直人の荷物を持ち出した。
「いや、あの、お姉さん?」
直人が慌てて制しても、お構いなしだ。
「かまんかまん、遠慮なんかせんでええけん。客間空いとるし、泊まって行ったらええがね」
「悠太くん……」
直人が初めて、テンパった顔で悠太を縋るように見た。
敵わないほど大人で、怖いものなんてなさそうな飄々とした男が、今、間違いなく自分に助けを求めてくれた。
大袈裟だけど、なんだかもう、それだけで悠太は満足してしまった。
知り合ったばかりとか、そんなに気にすべき事なのか。
自分はすでに、直人を良い奴だと判断している。
距離を縮めたとて、何の問題があるというのか。
「ごめん直人さん」
悠太は笑いながら言った。
「俺にも姉ちゃんは止められん。観念して」
お愛想ではない、友人に向ける親密な笑顔。
悠太の表情からそれが伝わったのか、直人が一瞬、はっとした。
釣られたように、同じ笑顔が帰って来る。
「ありがとう」
お言葉に甘えて……と、直人は頭を下げた。
実家で一休みをした後、悠太の運転で直人の祖母の墓参りに出かけた。
その夜は、やけに張り切った春香の手料理を囲み、家族みたいに屈託のない時間を過ごした。
悠太が話を始めると、直人は本当に心地よさそうに耳を傾けてくれる。
自分の声や話し方を好きだと言い、他愛の無い内容にまで興味を持ってくれる直人の側に居ると、普段は好んで前に出るタイプではない悠太が、積極的に話すのを楽しいと感じるようにさえなった。
タイプは全然違うのに気が合うと感じるのは、価値感が似ているからか。
時間はかからなかった。
新しい友人が、悠太にとって大きな存在になろうとしていた。
高校を卒業してすぐ家業を継いで働き始めた同級生の新郎は、すっかり社会人として自立していて、悠太の目にはずいぶん大人びて見えた。
その上、いわゆる「おめでた婚」との事で、まもなく父親にもなるという。
幸せのお裾分けをもらったのは確かだが、同時に、大人への道のりをいつの間にか遅れて歩いていると知らされた気もした。感動と、懐かしさと、色んな感情に揺さぶられたひとときだった。
「で? 悠太はどうなんよ。彼女とか出来たん?」
悠太はーー絡まれていた。
新郎新婦が同級生だったために、披露宴には共通の友人が多く集まり、ちょっとした同窓会のようだった。
会費制の二次会を終えても積もる話は続いていて、仲の良かった数人で別の店に流れた。
そこまで来ると、新郎新婦と交流のない友達や、自分の恋人なんかを呼び付ける者も出てきて、もはや結婚式とは別の飲み会となっていた。
悠太も、今日1日ひとりで観光地めぐりをしていた直人に連絡をしてみた。
嫌がられるかもと思っていたのだが、直人は大喜びですっ飛んで来たのだった。
さっきから悠太に絡んでいる田村亜希は、小学校から高校まで一緒だった、クラスメイトというより幼馴染と呼んだ方がしっくりする存在だった。
「ねえねえ、どうなんよ〜」
すっかり出来上がってしまっている。
「亜希、飲み過ぎ」
酔っ払いは相手にしないとばかりに、悠太は軽くいなす。
昔からそうだ。勝気でお節介焼きで、やたら悠太を構いたがる。
結婚披露のパーティー用に、とびきりのお洒落をしていても、中身はちっとも変わっていないようだ。
それにしても、亜希が「絡み酒」タイプだったとはーー
負けず嫌いなだけに、酔っ払った姿など見せない女かと思っていた。
付き合うのも大分疲れてきた悠太であった。
「ちょっと、そこの男前。友達やったら知っとるんやろ〜? 悠太ってリア充なん?」
矛先が直人に向いた。
もちろん悠太の恋愛事情など彼が知っている筈も無いのだが、直人は亜希にニヤリと笑いかけた。
「さて、どうなんでしょうね〜」
完全にからかう姿勢だ。
「なんなん、もぉ〜」
亜希はぷっと膨れて突っ伏した。
「おーい、亜希ぃ?」
「にぇむい……」
この酔っ払いが……と、悠太は溜息をついた。
「もう帰った方がええよ。タクシー乗り場まで送って行くけん。タクシーチケット、もらったやろ? 」
悠太にポンポンと肩を叩かれて、亜希は、うん……と頷いた。
のそのそとバッグを開け、タクシーチケットを取り出すと、なぜか直人に差し出す。
「これ……男前にあげる。私ん家、徒歩5分やけん」
「え? ほーなん? 引っ越したん?」
悠太の問いにコックリと頷き、そしてパンパンと悠太の肩を叩く。
「そ。やけん悠太、送ってくれ〜」
れっつご〜♪ と拳を突き上げて、怪しげな足取りで立ち上がっている。
「あーはいはい」
悠太は面倒臭そうに返して、直人には「ゴメン」のポーズを向ける。
「とりあえず、こいつ家に帰します。直人さん、どうする?」
勝手にフラフラ歩き出そうとしている亜希の腕を掴んで、悠太は席を立った。
少しの間があってーー
じゃあ……と、直人も立ち上がった。
「お言葉に甘えて、このチケットもらうね、亜希ちゃん」
亜希に向かって言いながら、その手はこちらに伸びて、悠太は引き寄せられた。
耳元で、直人の低音が囁いた。
「ごゆっくり、悠太くん……」
「そっ……そんなんじゃないですからっ……!」
振り返って、悠太がしっかり否定すると、直人は笑いながらヒラヒラと手を振った。
「え? ここ?」
亜希の自宅マンションに着いて、ふらつく彼女を支えながらドアを開ける。
手探りでスイッチを探し、明かりをつけたらーー
その部屋は悠太が予想していたのとは違い、明らかに単身者向けの造りだった。
「引越しって、家族で……じゃなくて……」
「独り暮らし〜」
亜希は歌うように言った。
そりゃいかん……と、悠太は身構えた。
じゃ、ここで……と、逃げの態勢に入ろうとしたところでーー
ぐにゃりと亜希がもたれ掛かってきた。
「おーい……」
「無理〜。もう歩けん〜」
「この酔っ払いが〜」
仕方なく、半ば抱えるようにして彼女を部屋へ運び込む。
突然、強い力で、ぎゅっとしがみ付かれた。
体重を支えきれず、ふたりして倒れ込んだのはベッドの上だった。
「亜希……」
身体を起こして彼女を見ると、身動ぎもしないで目を閉じていた。
心の何処かでは気付いていた。
亜希がやたらと自分を構うのは、そういう事なんだろうと。
けれどーー
ごめん亜希……
お前は友達やけん……
自分の袖口を掴んでいる亜希の手を、悠太は出来る限り優しく外した。
「おやすみ、亜希。また飲もな」
何も起こらなかったかのように立ち去りながら、いつもの声で「またね」を告げる。
意気地なし……
背中を追って来た呟きは、聞かなかった事にしよう。
亜希のマンションから出たところで、悠太は目を丸くして足を止めた。
エントランスの階段に座り込む、その後ろ姿に見覚えがあったからーー
「な……直人さん……?」
悠太の声に振り返って、直人はふっと微笑んだ。
「食わなかったんだ、据膳……」
悠太は、ぷいとそっぽを向いた。
「何ですか? 俺の意気地なしっぷりを見物に来たん?」
憎まれ口を言いながら、亜希の気持ちに応えてやれなくて沈んでいた心が、掬い上げられていくのを自覚していた。
直人は声を立てて笑った。
「それもあるけど……」
と、おどけてみせる。
「15分だけ、ここで待とうと思ったんだ。もし悠太くんが据膳ご馳走になるって事になったら、俺も君ん家には帰れないじゃん。嫁入り前の春香さんとひとつ屋根の下は、やっぱりマズイでしょ」
さっき振り返った直人の顔が、一瞬寂しそうに見えたのは錯覚だったのか。
あっけらかんとした口調に、悠太は拍子抜けした。
「……っていうか、据膳って決め付けるのやめてもらえませんか〜」
「まだまだだね〜悠太くん。彼女は君よりアルコール、イケる口だよきっと」
「え……そうなの?」
「間違いない。君はオオカミさんじゃなくて、赤ずきんちゃんの方だったよ、俺の目には」
「ちぇ〜なんかムカつく〜」
タクシーが捕まりそうな通りまで、ふたりで笑いながら歩き出す。
そして、直人が言った。
「お帰り悠太くん。すぐ会えて嬉しかったよ」
またーー
さっきの寂しそうな表情が重なる。
自分の心を掬い上げてくれたみたいに、直人の心も掬い上げられる存在でありたいと、悠太は思った。
「だだいま直人さん。待っててくれて嬉しかったよ」
笑顔で、告げた。
春香には、また必ず遊びに来ると約束させられて、悠太と直人は松山を離れた。
元の生活に戻るのだ。
東京には、悠太の知らない直人の日常がある。
宿を提供することも、車に乗せてあげる必要もない。
自分が居なくても、直人の生活に不便はないのだ。
悠太は寂しさを心の奥に押し戻して、努めて普段通りに振る舞った。
好きだと言ってくれたこの声を、少しでもたくさん聞かせたかった。
忘れないで欲しかった。
同じ沿線に住んでいると分かった時は嬉しかったが、羽田から最寄りの駅までの道のりが、こんなに早いと感じたのは初めてだ。
「悠太くん、またね。連絡するから……」
「はい。直人さん、お疲れさまでした。また……」
お互い笑顔で手を振った。
直人を乗せた電車が遠ざかるのを見送って、悠太はただ立ち尽くしていた。
たったの二泊三日だったのに、悠太の小さな城が、ものすごく久し振りの気がした。
部屋の真ん中に座り込んで、荷物を開く。
洗濯の終わっている物、これから洗うもの。細々した生活の道具を、日常の定位置に戻して行く。
いつもなら、まずコーヒーを入れて、テレビをつけて一休みしてーー
とことん怠け気分の時は、何日も荷物を解かない事だってあるのに。
黙々と、作業をこなしている方が楽だったのだ。
それでも、何とも言えない孤独感が悠太を包む。
大きな大きな溜息をついて、とうとう作業の手が止まった。
悠太はゆるゆると立ち上がり、サッシの掃き出し窓を開けてベランダに出る。
すっかり陽が落ちて、お気に入りの慎ましやかな夜景が悠太を待っていた。
ポケットの中で、ケータイが鳴った。
〔慎ましやかな夜景、見てるの? 悠太くん〕
「直人さん……」
さっきまで一緒にいたのに、とても懐かしい。
「慎ましやかな夜景の話、覚えててくれたんですか?」
悠太は知らず笑顔になる。それなのに、今にも泣き出してしまいそうだった。
〔もう声が聞きたくなっちゃったよ〕
直人が困ったように言った。
「直人さん、良い声の人に会ったら、すぐそんな事言うんでしょ……」
なんだか恨み言のひとつも言いたい気分になってしまう。
〔帰って荷物開けたらさ、俺の荷物の中に悠太くんのネクタイが混ざってたんだ〕
また想定外の方向に話題を振られて、悠太は言葉に詰まる。
そりゃ、大事な情報だけど、今それ? と責めてやりたくなるではないか。
〔ねぇ悠太くん。俺は確かに声フェチだよ。でもね、声にしか興味ないんだ〕
冷たい水を、頭からかけられた心地がした。
直人が好きだと言ってくれた声が、唇が震えて、喉が締め付けられたようになって、思うように出てこない。
耐えられなくなって通話を切ろうとした時、直人が続けた。
〔姿を見たいと思ったのは、君だけだ。方言で話すのを聞きたくて、気が付いたらストーカーみたく追っかけてしまってたのは……悠太くんだけだ……〕
何を、言ってるの?
悠太の頭が、これまでのなんてちょっとした目眩だと思えるほどの混乱に陥った。
空港で荷物を取り違えたのは、偶然ではなかったのだと直人は白状した。
悠太と同じ飛行機に乗ったのも。同じ飛行機で帰って来たのも。
どうやってこの人は自分を知ったのか。
いつ、どこで、情報を得たというのだろう。
〔ネクタイだけど、返さなきゃね〕
直人が言った。
だから、今それはどうでも良いんだって……
本気で怒りそうになった悠太に、直人はくすっと笑った。
〔今、ここでね〕
え……?
ヒラヒラと、風になびくネクタイが、悠太の視界に入った。
隣の部屋のベランダから、こちらに腕が伸びていた。
その手に握られた見覚えのあるネクタイは、間違いなく悠太の物だ。
「直人さんっ……⁈」
慌てて隣の部屋との仕切りに近づく。
乗り出して覗き込むと、懐かしい姿がそこにあった。
「俺は、ここで出会ったんだ。君の声に……」
直人はそう言って、照れくさそうに笑った。
悠太は精一杯の笑顔を浮かべて見せた。
彼のお気に入りの声で、そっと言った。
こんばんは、直人さん
俺を見つけてくれて、ありがとう
END