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美しすぎる花は、完璧であることを強要されぬために高嶺へと逃げていって、そうして、美しいというのに、高嶺の花は孤独なのだ。

僕と君と俺たちの音楽.txt
作:水瀬愁


 ソナタアルバム2 作曲者ベートベン
 それのひとつに、この曲『月光』が収録されている。
 僕は小一、ニにかけてこの曲を練習し、そのときも下手というわけでもなかった。
 右手で二つの流れを叩くパターンというのは、慣れるまでは力の配分が上手くできなくてどちらかの音が潰えてしまいそうになる。そうでなくとも、指の長さが一オクターブに足りない場合は、千切れるように痛くなって最後までは弾き難い。
 それで、最後まで弾けるようになった僕は、得意満面になってしまっていたのかもしれない。気づかないくらいであっても、少しは調子に乗っていたかもしれない。
「そんな風に弾くな、気持ち悪い」
 だから、僕は出鼻を挫かれたその日を忘れることはなかった。
 その日、僕は『月光』を学校の音楽室で弾いていた。
 不満、不安、憤怒、イラつき。マイナスの気持ちを叩き込んで『月光』を弾く。それは常からのクセで、とても他人には聞かせようのない弾き方だと気づいてもいた。
「なんだよ、お前」
 それでも、僕は反抗的な態度をとった。
 突然のぶっきら棒な乱入が気になったわけではない、と思う。しかし、もしかしたら、自分のピアノが貶されたことに反発感を抱いていたのかもしれない。
「独りよがり」
「何?」
「あなたの『月光』は独りよがり。自分の演奏に酔いしれてるなんて馬っ鹿みたい。それに、酔えるほど凄い演奏でもない。だから、独りよがり」
 性根の悪い女。そう印象付けられるには絶大な毒舌だった。
 何か言い返そうと、口を開く。
「どいて」
「ぅおっ」
 しかしサッと僕の隣に腰掛けた彼女にどぎまぎとしてしまって、何も言えぬまま僕は席を立った。
 ……いや。だって仕方ないじゃん。妙に良い香りが、あああ。
 反論しろよと僕の中の僕が叱責してくる。悲しいかな青春真っ盛り。悲しいかな百八ひゃくはっつの煩悩。
 そんな僕を無視して、そっと静かに息を吸った彼女は、ゆらりと両手を鍵盤にかざした。
 その様が幻想的で、その様に何かを予感させられて、思わず凝視してしまう。
 揺れる髪、小刻む瞳、呼吸で上下する肩、なぜか見逃すのが惜しく思えて、
 僕は、今この瞬間で世界の総てとなっている彼女をじっと見続ける。
 徐に、彼女が時の針を刻みはじめた。
 ――旋律は、雰囲気を一変させる力を持つ。
 始まった世界に僕は飲まれた。
 弾き始めは僕と同じようで、なんだたいしたことないと余裕をもてた。けれど、フレーズひとつを過ぎて気づいた。
 切ないだけじゃない。この音は、僕のように切ないだけではない。
 音の響きには、切なさと、安らぎと、静まりがあった。
 イメージが、僕の目に映る。
 夜の闇が見えた。暗い。しかし、暗いだけじゃない。世界を包み込んでいるというイメージ、夜の闇には静寂があるというイメージ。静寂には、切なさだけでなく、安らぎすらも感じ得た。
 彼女は弾いていた。彼女は語っていた。
 夜を包み込む闇を、優しく、丁寧に、正しい様で。
 僕のように深い切なさだけでなく、もっと違うように彼女は唄っていて、それがあまりにも美しすぎて、
 いつの間にか弾き終えたらしい彼女が、僕の顔を覗き込んできていても、どうも動けなかった。
「君は――何がしたいんだ」
 鬱憤。勝手な言い分。自信を潰されたことへの、どうしようもない怒り。僕は、搾り出すようにして低い声で呟いていた。
 薄幸とは縁のないであろう彼女、栄光に照らされる彼女、
 彼女は動揺したように瞳を揺らせ、えっと声をあげた。

 おぼえている。思い出せている。
「野乃宮麗華ちゃんは今日ロンドンの公演から帰国したばかりだ。疲れていらっしゃるだろうでしょうから、できるかぎりおしゃべりかけるようなことはなさんようにご遠慮くださってやれよ」
「せんせー。敬語か何かわからん口調です」「麗華って、テレビで凄い凄い言われてるピアニストの麗華ちゃんですかー?」「なんでこの高校に転入してきたんだろ」「お前の脳みそじゃ考えても無駄だよ」「何っ」「まあまあ、結構図星だから言い返さないほうがいいよ」「友人を信じられなくなりました。人生オワタ!」
 綺麗な金色の髪を二束まとめ、それ以外はストレートに下ろしている可愛らしい女の子。
 僕にとっては、そう好印象でもない。
 途端、目が合った。
 しばらく見つめあい、ぷいと向こうから顔を背けてくる。
 ――なんだよ、一体。
 僕は拳を固めた。
 ――なんでまた、現れるんだよ。
 僕を魅入らせ、僕を壊したあの少女の再来。
 僕は嫌悪感を抱いて、しかしそう嫌と思っていない気持ちを混沌とさせ、オーバーヒートして机に突っ伏した。

 高校二年の春――
 こうして、彼女と再会してしまった――

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 僕と君と俺たちの音楽



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「おい」
 話しかけた。その声があまりにも低くて、自分自身でも驚いてしまう。
 ビクッと肩を震わせ、おそるおそる彼女は振り返ってきた。僕の顔を見た途端その緊張は解かれ、瞳はクワッとキツく凄められる。
「なんでここにいるの」
「なんでって……俺、ここの学生」
 制服を指差す。彼女は顔を近づけ、さらに凄んできた。
「話しかけないで。気持ち悪い人と話したくない。あっち行け。私の前から消えろ」
「――てめぇ。何様のつもりだよ」
 話したいことの総てを放棄。軽はずみな笑顔で受け流すつもりだったそのムカつく態度に、真っ向から対抗意識を全力で燃やす。
「おまえ、たかが学生の分際で俺のご主人様のつもりかよ。おまえは学生、俺も学生、俺たちは対等。おまえに媚びる筋合いはねぇの。
気持ち悪いだなんだ自己中心的な意見で物事動かせるって甘い考えは捨てろ。捨てられねぇんなら俺がぶっ壊してやるから覚悟しろ。謙虚になれ。我慢をおぼえろ。自分を崩してでも協調しろ。
ってことで、ちょっと俺と会話しろ」
「……何、言ってんの。わけわかんない」
 口論は面倒。実力行使を決め込んで、僕は彼女の肩を強めの力で掴んだ。
 後ろの壁まで下がらせて、グッと彼女の顔を覗き込む。
「……痛い」
「当たり前だ。痛くなるくらいの力籠めてる。
それより、おまえなんでここにいるんだ。簡単に、簡潔に、簡素に説明しろ。簡三かんさんの鉄則を守って具体的に説明しろ」
「馬鹿、難しいっ」
 駄々を捏ねるような声。しかし、無理やりに作っている感じがした。何かに動揺している、そう思わされる声色。原因がわからない。僕は眉を顰める。
「わかった。理由はこの際どうでもいい」
「なら……聞かないでよ」
「なんで声が萎んで――ああもうこの際それもどうでもいい。いいから答えろ。なんで・・・ピアノ弾けること・・・・・・・・を隠す・・・
 彼女が押し黙る。
 ラインが見えた。
 踏み込んではならない世界の、領域と領域との区切りを表す線。
 目の前にあった。とても近かった。簡単に踏み越えられる気がした。
「おい、ねーちん。おめぇ、公衆の面前で女を口説ける色男だったんだな。そりゃ、おめぇは容姿がいいからなぁ。いや、心意気は認めるぞ。友人として尊敬できる。ほんと、すごいよ。こっそり口説くとかじゃなくて、人前で堂々とだもんな。しかも校内で。ほんとすごいすごい」
 肩をトンと叩かれる。
 振り返ると、見知ったクラスメイトの顔が語ってきた。
 ――おまっ、口説き行為は風紀委員に餌付けするようなもんだぞ。自重しろ自重。っつうか羨ましいぞコンチクショー。
 自重するということに関しては、同意を示すことができる。
 さすがに、廊下の真只中ですべきことではないかもしれない。
 そうでなくとも、もっと穏やかに接するべきなのだ。
 ラインが見えたのだからそれくらい――頭が沸騰していた。暴れ馬の勢いでどうにかできると思い込んでしまった。俺が、悪かった。
 目を瞑る。目を開ける。
「……わりぃ」


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「義之。お前の目に、俺はどう映った」
「んと、シチュエーションで喩えると『夜の街でナンパを行っている男が、しつこいくらいにひとりの女生徒に迫る』て感じ」
 最悪だ。教師が来るかもしれない。
 教室。机イスがセットとなって列をいくつも連ねる部屋。イスにすわり、背もたれに両腕を置く馬座りをする俺。義之は机に浅く腰掛けている。
「学年隔てなく、いろんなやつらに注目されてたぞ。まるで『ガラスが一枚くらい割れたあと乱闘を始めた男子学生二人組』を見に来た感じの野次馬っぷりで、現実がそれを越える何かだったから呆然としてしまったって感じの目をお前に向けてたな」
 ペラペラとそのときの状況を客観的視点から教えられ、俺はそれらひとつひとつを飲み下して真剣に尋ねる。
「……義之。強姦未遂は、どういう処罰を受ける?」
「強姦ってことは認めちゃうのか」
「強姦といわれても仕方ない気がして、な」
 学業に営むことへの執着はないから、牢屋に叩き込まれても困りはしないと考えを募らせた。
 しかし、首を横に振られてしまう。
「お前がどういうキャラしてるかは、名物ってくらいに広まってるからな。
今回のだと、気にするのは教師共くらいだ。あと問題なのは、麗華様が耐性をもっていないことだけど、そっちも大丈夫だろう」
 ――どういう風に広まっているのか、気になる。
 尋ねると、爽やかな笑顔が返ってきた。
「天然」
 ――彼女の方は大丈夫という、その理由は何か。
 尋ねると、輝かしい笑顔が返ってきた。
「天然」
 その二文字に含まれる意図を説明してはもらえなかった。


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 帰宅して、居間にいるであろう親への挨拶を後回しにして階段を昇り自室へ。
 ドアノブを回した途端、在り得ない景色が目に飛び込んできた。
「……あ」
「…………あ」
 最初のが彼女の方で、あとのが僕の方。
 合った目が離せなくなって、どうしようか迷う。
「これ、どうやって使うゲームなの?」
 "これ"というのは、彼女の片手でひらひら振られている物のことだろう。一目でGBMだとわかった。最近買ったばかりのやつで、網膜に焼き付けたり手で感触をおぼえたりしたのが一昨日かそこらだから、見間違えるはずもない。
「左下のほうにスイッチ。十字キーとかは、わかるよな」
 コクリと頷いた彼女が素直すぎて、どこか調子が狂う。
 ……いや、この程度の会話でいがみ合うのも嫌だけどさ。
 ぴこぴことゲームし始めた彼女をぽかんと眺めつつ、思う。
 ……っていうか、なんでいるんだよ。
 尋ねよう。しかし、先手をとられた。
「ねえ。これ難しすぎ。ほんとにクリアできるの?」
 しかも、彼女が言ってきたのは不満いっぱいの文句だった。
 溜息を吐きたくなって、一度天井を仰ぎ見てから彼女に口を開く。
「……貸してみろ」
「へ? ええっ?」
 彼女の背に回りこみ、彼女の手を覆うようにして操作を奪う。
 ふんわりとした彼女の髪が邪魔で画面がよく見えない。掻き分け、押さえるように彼女の横顔に頬を当てた。
「ちょ、ちょっと――」
「うっさい。黙って画面見ろ。レクチャーが無駄足になるだろーが」
 第一面の中間辺り。やりこんでいるから予想はだいたい当たる。画面でスクロールされて行くこれからの地形を思い出しつつ、脳裏で文章を組み立てつつ、しゃべる。
「画面下のほうに、光ってる文字があるだろ。これが、赤い敵倒したときに手に入るパワーでひとつ右にできて、欲しいのが光ったときにビーボタン押せばそれが使えるようになる。
一つ目がスピードで、序盤に一回はアップさせといたほうがいい。二回三回やると細かい動きできなくなるから、一回で十分。二つ目とかよりもまずオプションっつう支援機増やしたほうがいいな。それと、弾丸タイプを変更したら楽。シールドは展開しても地形のほうで潰されることもあるから、後回し。弾丸タイプは二回アップできて、二回目アップさせたら少しかっこよくなるから今度試してみろよ」
「……」
 返って来るのは、無言。彼女がぷるぷると震えていると気づいて、訝しげに思って画面から目を離し――
「だぁ! うっさい!」
 罵声とともにドンとていをぶつけられ、よろめきながら部屋の壁端まで追われた。
 足元をしっかりとして、彼女――野乃宮麗華――に目をもどす。
「……何?」
「何、じゃない! アンタって、ほんと、すっごくすっごくうるさいんだから! 楽しいゲームも楽しめないってーのっ!」
 仁王立ち。彼女は頭から煙を出す勢いで怒っていた。
 叫ぶだけ叫んでとりあえず感情を発散できたのか、ムスッとした顔で僕をひとにらみしてから彼女は黙々とゲームをピコピコしはじめる。
 何が何なのか、わからない。しかし、僕が何か気に障ることをしてしまったらしい。
「……ごめん」
 言って、頭を下げた。彼女が息を呑んだような、そんな気がした。
 頭を下げ続ける。すると突然、腫れ物に触れるように優しく、髪に手を添えられた。
「ねーちん」
「え?」
「ねーちんって呼んでいいなら……許してあげる」
 彼女の声に、どこか違和感があるように思えた。
 だからかもしれない。いや、だからではないかもしれない。そんなこと、どちらでもいい。
 僕は何かに突き動かされるようにして、顔を上げてコクリと頷いた。
 どうしてなのかは、わからない。いや、まあ、ねーちんと呼ばれることにトラウマはないのだけど。
 どうしてなのかわからないといえば、もうひとつ。
 彼女がなぜ真っ赤だったのかわからない。
 あまりにもおかしくて、ジッと見ていたら、ゲームとイスを投げつけられた。ゲームの液晶がイスにぶつかりかけて肝を冷やしたのは、なぜか僕だけではなかった。
 なら投げるなよと言いたいけど、口を閉じる。
 今日はいろいろとおかしいらしい。そう納得することにしたら、何もおかしいことはなくなった。
 腰掛ける場所をベッドに変えた彼女は、ツンと顔を背けている。不機嫌、なのだろうか。なんとなくそうではない気がする。そう、なんというか、ごまかしている感じというか。
「呼んでくれよ」
「……何を?」
「ねーちんって呼んでみて。理由は、なんでもいいからさ」
 彼女が渋った。瞳を泳がせて少し迷い、決めたように口を開いたけど言葉が喉に詰まってパクパクとアホなことをする。略してアホる。
 ひとしきりアホった後、うーと僕をひとにらみして、気合十分に肩を強張らせ、ついに言った。
「…………ね、ねーちん」
「なぁに?」
 僕は優しく微笑みかける。
「……っ。な、なんでもない!!」
 彼女がまたそっぽを向いてしまってから、僕はこっそりとニヤついた。
 ……可愛い。
 思った途端、彼女が前髪の毛をぴょんと逆立てた。
「……ねーちん。今、ムカつくこと考えたでしょ」
 なぜわかった。口に出しそうになって、慌てて取り繕う。
「ないない。気のせいだ。被害妄想ってやつすぎる。不可抗力だ」
「……不可抗力ってことは、やっぱり考えたのよね?」
 しまった。口が滑った。
 僕の様子で確信したのか、彼女はのっそりと立ち上がり、冷たい目で僕を見下ろす。
「こぉんの――」
 僕は思った。
 呆然と、漠然と。
 ……ああ、あんな髪の毛をアホ毛っていうのか。
 そして、来た。
「――アホって言うなぁ!!」
 いや、言ってないだろ。
 強すぎる衝撃に抗うことをやめ、僕はあっさり意識を闇に落とした。




 BAD END...


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 ハッと目を開けると、僕はベッドに寝ていた。
 寝息に気づいて視線を動かせば、なぜか隣には彼女が。
 その彼女の位置づけというのが、なんというか、こう――事を終えた後のような、俺の片腕に寄り添うっと言った感じで。
「……ん」
 身動ぎ、僕の首元に更に擦り寄ってきた彼女。まだ眠りは深いらしい。まあ、自意識があれば、こんなことを行いはしないだろうが。
「そうとも限らないかぁ」
 状況が状況だ。彼女への印象を改めねばならない、かもしれない。どういう風にか、はあえて言わないでおく。あのアンテナが反応してきても困――
「残念」
 ピクンと起き上がって僕の頬にぶち当たったアホ毛。煩悩への反応率が異常に高いといわざるを得ない。
 彼女がよく呻くようになってきて、僕は思い切って揺すり起こすこととした。
 丸められた彼女の背に、手を当てる。
 ――温かい。
 ドキッとした。当たり前なはずだ。触れた相手は生きている物。生物。生物には温度がある。だから、当たり前。そう、そのはずなのだ。
 何だ、この謎な感じは。
 妙に力が籠もってしまいそうなのを気にしつつ、撫でるように彼女を揺すった。
「う、んん」
 呻き。彼女は抗うように身をくねらせ、仰向く。
 さらにドキッとした。しわっとした制服越しでもはっきりしている、双つのふくらみ。皿に落とされぷるんとする生卵の黄身白身みたいで、だけどじっと凝視してしまって、生唾を飲み込んでしまう。
「……う?」
 途端、うっすらと彼女が目を開けた。
 僕は咄嗟に目を彼女からはずし、そして

 思わず頭が真っ白になってしまうほどのことを知った。

 自然と顔が引き締まる。僕は慌ててさらに視線を動かす。
 ……部屋が、僕の部屋じゃない。
 洋風すぎる、というか。華やかすぎる、というか。とにかく、違う。
 決定的にそう思わせるのは、ベッド。
 うっすらと花柄がある掛け布団。においは、何かの香水のよう。
 そう思って部屋の臭いを体に吸い込んでみれば、違和感は確信的なものに変わった。
 いや、推量など関係ない。どちらにしても、ここが僕の部屋でないことは確実で漠然とした事実。そうして次なる疑問が湧き出す。
 ――なぜここにいるんだ。僕らは。
 起き上がって、一直線にドアへと駆け出す。
「……マジか」
 バンと押し破った先、左右に広がる細い廊下。手を伸ばせば触れられるくらいに近い壁には、一切窓がない。
 ガクンと、揺れる。その揺れにおぼえがあって、しばし立ち止まる。
 もう一度、揺れる。小さな揺れ。それとともに、遠くからの轟音が耳に入ってきた。
 どうして、先ほどまではわからなかったのだろう。あまりに緊迫していたか、動揺していたか。どちらにせよ、聴覚からの情報が僕にわからせてくれた。この、妙におぼえのある場景に。
 そう、こんな場所に僕は嫌というほど訪れている。
 ここは――
「――ファーストクラス」
 飛行機の、豪華な客室のことだ。
 自分に言い聞かせるように思い、僕は呆然とした。


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 部屋に落ちていた、ひとつのパソコン。それに一縷の望みを託してみれば、案の定デスクトップにはReadme表記のtxtプログラムしかなかった。この場合、望みは叶ったことになるのだけど。
 そのプログラムを二度クリックし、起動させる。即座にウインドウが開き、文字の羅列が浮かんできた。
 序列の文から、このプログラムが当たり・・・であることを再確認。ゆっくりとスクロールし、飲み込んでいく。
 一番下まで突き当たり、どうにかこの状況は理解できるようになった。
 公演だ。
 録音だ。
 つまりは、そういうことだ。
「……」
 僕のほうは、元からあったスケジュール通りなのでロンドンに行くのに差支えはない。問題といえば、彼女のほうだろう。彼女はこの状況を知らされているのか否かに関しては言うまでもないが、知った後の環境適応能力は僕のほうが上だと自信はある。というか、いろいろ文句たらされる未来が軽く予想できてしまう。
「んぁ……あ?」
 まだ眠け眼を擦っている彼女。両足をお尻のほうに折り、何も用のない片腕はぶらんと垂れて。
 着崩れてくしゃくしゃとしている服よりも、スカートがなにやら危ういように見える。どう危ういかは、ちゃんと見ることに差しさわりをおぼえてためらわれる故割愛だ。
「……ねーちん?」
「ああ、ねーちんだ。お前とベッドを共にしたねーちんだぞ」
 がしがしわさわさと彼女の髪を撫でてやる。柔らかく幸せそうな、夢見心地な表情。彼女がこんな顔をするなんて、希有なことこの上ない。
 少しの後、彼女の瞳に強い光がぼんっ! と宿って、来た。
「――な、なっ!?」
 パクパクと口を開閉した彼女は、僕を押し退けベッドの向こう側へと逃げて行き、胸を隠すようにひしと肩を抱いた。
 へっぴり腰でギロリと僕を睨み、彼女は言う。
「ひ、ヒニンは!?」
 ……その件に関しては、僕から言うことがあるようだ。


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「ってことで、俺たちはいつの間にやらここに投げ込まれてたんだ。そして、今この瞬間にも日本から離れていっているわけで」
「……パパが、何かしたのよ」
 一通り説明し終えた後に彼女がその一言を呟いたので、僕はドキリとしてしまった。
 そう、そのとおりなのだ。この迷惑極まりないことを発案したのは野々宮父。しかし、そのことを話してはいない。彼女が自分で気づいたのだ。
 なら、根拠があるはず。それが彼女の表情に影を差しているのだと、僕にはそう思えて仕方がなかった。
 根拠のキーワードが、きっと彼女の言う"パパ"
「パパは……必死だから」
「必死」
 オウムのように、彼女の言葉を呟く。彼女は体育座りをして、膝と膝の間に顔を埋めてしまった。
 野々宮父、野々宮晴海。中年代の天才ピアニストで、今に輝く方。音楽を知らずとも耳にできるほどに有名だ。
 僕も、彼を知っている。些か心情には違いがあるが。
 そう、喩えるなら――目標なのだ。
 同じプロとして、僕が到達すべき高さに彼は立っている。
 彼女もそう。高さはわからないが、彼女も僕と同じ階段を昇る人間だ。
 野々宮麗華の名は、天才少女ピアニストとしても、天才ピアニストの娘としても、大人気を誇っている。こちらさんもCMやら雑誌やらでよくお目にかかれるのだ。かくいう僕もそうなのだが、その件に関しては割愛する。
「ねーちん。今も、やってるの?」
「……まあな。独りよがりが直ったかは全っ然わかんないけどな」
 ピアノのことだと思って、僕は受け答える。顔を上げた彼女がキョトンと僕を見て、淡く微笑んだ。
 彼女が虚ろな、それこそ美しく作られた人形のように見えて、僕はそれを否定した。
 ……こいつが感情のない人形なら、僕たちは空気だな。
 あるはずがない。
 僕があのとき見た彼女と今の彼女が同一人物なら、そんなはずはないのだ。
 あのピアノは、あの旋律は、あの音楽は、まぎれもなく彼女が人形でないからこそのもの。
 そう思って、今の彼女を見つめる。
 彼女は、今、どんな音を奏でるのだろう――
 得体の知れない不安が頭をよぎった。
 得体の知れない不安が胸をざわめかせた。
 まったく、本当に得体が知れなかった。


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 着陸してしばらくの後、空港から出た僕たちは目の前に立ちふさがってくるその者をひと睨みする。
 いや、睨んでいるのは僕だけか。
 泰然自若としたその者が、口を開いた。
「よう、我が愛しくない息子よ」
「やあ、我が憎むべき父さんよ」
 同時、拳をガッとぶつけ合う。
 ニヤリという微笑みがカッコイイ父さん。哉鶯やおうという名前を持っている。漢字変換で直せばさいうぐいすとなる当たり、かなり適等な付け方をされたのだと自分のことのように悲しくなってしまう。
 哉鶯はガサツに傲慢な男だ。ワイルドといえば響きはいいが、自分勝手でギャグに生きているといえば貶してるようにしか聞こえない。そういうなのが哉鶯だ。存分に"哉鶯やおってる"といってもいい。まあ、そういう人間だ。清く美しく青春謳歌しちゃってる熱血系、というジャンルになるのかはわからないが。
「お前とまたあいまみえる日がくるとは、運命とはまた皮肉なものだな」
「……父さん。俺、あんたを殺したくないよ」
「はんっ。もう勝った後を考慮しているとは、私も小さく見られたものだな……本気でこなければ死ぬということを、その身に教えてやろうかァ!」
 まあそんなことはともかく、
「こいつ、俺の父親兼食料消費で哉鶯っていうやつ。夜の王で凄いホステスなほうじゃないほうのやおうで。再びウグイスー! っつうの」
「いや、ちょっと違うから」
 ツッコミを促すことで哉鶯のテンションを通常まで冷やすことも忘れず、彼女への紹介を手短に終える。
 そうして哉鶯へと向き直り、僕は哉鶯を故意にギロッと睨んだ。
「どうした、息子よ。同じ航空時間を有意義なものにしてやった俺の気遣いが、気に入らんか?」
「おもしろくなりそうだから、って辺りだろうが。こういうサプライズはよしてくれ」
 この親は僕のマネージャーで、僕の総てを管理しているといっていい。自由の抑制までもを僕は掌握されてしまっている――といえば嘘になる。実際には哉鶯は親らしい態度で僕に接している。親らしいというのも、良い意味でと付けることができたりする。
 そう考えれば、哉鶯が親であることにそれほど悪い気はしないかも。
「――っと、雑談はこれくらいにして。ようこそ、と言っておこうか、諸君」
 そうして、僕たちは哉鶯に連れられてこれから数日間の拠点となる場所に急いだのだ。


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「案外、良いホテルだな」
「そうだろう? こういうのは、その土地その土地でも変わんないわな」
 金の注ぎ込み率がそれなり以上であれば、どんな地域であっても特殊場合のみ以外はこんなホテルにも住める。
 "こんなホテル"を見上げてみた。
 高層。周囲の建物とあまり溶け込んでいない、日本にもありそうなものだ。
「ほら、息子よ」
「っと」
 宙を舞って来た鍵を受け取る。
 番号は257――って、三桁とは予想外だな。
「麗華ちゃんもな。息子の隣室だが、勘弁してくれよな? な?」
「あ、いえ、気になさらないでください」
 両手で丁重に鍵を包み込む彼女は、ペコペコと哉鶯に礼を述べている。彼女の殊勝な態度を見るのはこれが初めてといっていいため、ビックリした。
「それじゃあ、今日はこれで解散だ。各自部屋に引き籠もるよーにっ。っていうか、明日から忙しくなっからちゃんと休んどけよ」
 哉鶯の言葉を聞きつつ、時計を見る。しかし、時差があることを思い出して、時間の確認は諦めた。
 大人しく哉鶯の後に続いてフロアの奥へと行く途中、僕はある物を見つけてちょんちょんと彼女の肩を突いた。
「……何」
「あれ、あとで弾かないか」
 僕の指の方向を見て、彼女が顔を顰める。
「……やめとく」
 え? と声をあげる暇なく彼女はそそくさと歩いていってしまった。
 ちょっとだけ立ち止まり、じっとそれを見つめる。
 ……なんでだ?
 フロアの隅に置かれたグランドピアノには人がいなくて、どこか寂しそうに見えた。


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 ホワイトソースとご飯を絡めたドリヤ。
 グラタンの具のマカロニとご飯をとりかえっこしたような料理。
 ディナーで食したそれの後味が口に充満し、甘いそうなそんなに甘くないような微妙な感じとなってしまっている。
 口を濯ごうかどうか迷ううちに、僕は目指すべき場所に着く。
「おう、おせぇぞ。我が愛したくない息子よ」
「えぃっ、はぅっ、と、とぅっ」
 にこやかに僕へと振り向く哉鶯。
 もう一人のほうは忙しいようだ。見ていればわかる。
 必死に哉鶯へと腕を振るいその度に汗を噴き乱しているという様には、庇護欲的なものを誘われてしまうな。
 ともかく、
「卓球か」
「おう、卓球だ」
 目の前に広がる場景は、日本ではありがちな温泉宿といったところだ。温泉ではなく男女別の風呂だが。
 僕も、ここに来たのは汗を流すためにほかならない……温泉ではなく男女別の風呂だが。
「俺たちはもう一風呂ひとっぷろ浴びてきたから、息子もさっさと行って来い。そしたらテーブルテニスのバトロワな」
 マジか。
 僕は呆れながらも、しぶしぶそそくさとだんの垂れ幕をくぐった。


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 簡潔にいおう。
 ……完敗した。
「うぉう! やったな、麗華ちゃん!」
「は、はい!」
 一対ニは卑怯すぎる。僕は、両手を叩き合って喜んでいる哉鶯と彼女に溜息を漏らした。
「おー、負け犬が遠吠えする気力もなくしてやがるな」
 誰が負け犬だ。誰が。
「……息子よ。俺の理想は、どんな物事でも無敗を発する素晴らしく勇者な男だと誇れたり自慢できたりすることなんだ。それに応えてもらえないってのは、あまりにも残念すぎて一言二言文句をぶつけたくもなる。しかし、しかーし。自分の負けを認めないような駄目野郎は、絶対に認めん! 親として、お前は俺の恥だ!」
 一対ニを企画したあんたのほうが恥だよ。
 一風呂浴びた後だというのに、体がべとべとしてしまっている。哉鶯の言うとおり、気力も底の底まで尽きてしまった。
「……っと、そろそろ時間だな。戻るぞ」
 哉鶯がまんまるい時計の盤を見上げて言うので、僕はもうそんな時間かと窓の外を眺める。
「麗華ちゃん。我が息子を部屋まで届けてやってくれるかい?」
「とんだ子供扱いだな」
 彼女に目を向ける。彼女も僕に向いていて、すごく自然に目が合った。
 パッと彼女が顔を背けたために、ほんと一瞬の出来事だったわけだが。
「行くか」
「……ん」
 僕に一定の距離を置いて、おそるおそるついてくる彼女。
 避けられているような気がする。しかし、その理由が思い当たらず、卓球道具を返却しに行く哉鶯と別れてからもずっと頭を捻ってみる。
 何にも閃かないまま辿り着いてしまい、僕は諦めて彼女に手を振った。
「じゃあ、また明日な」
 え? と言う風に目を丸めた彼女。いや、それは気のせいかもしれない。彼女がそんな様子をすることにはたと我を疑った次の瞬間には、先ほどまで通りの彼女がそこにいたのだから。
 気のせいだ。うん、そういうことにしておかないと埒が開かない。
 彼女を見送らず、僕はさっさとドアノブを回した。


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「ふう……」
 ベッドへ倒れこむ。
 いろいろ、あったな。うん、ほんとまあ、いろいろと。
 しかし、先ほどの彼女の様子はなんだろう。まるで、僕が何かしたかのようだ。
 彼女関連で、思い出すことがもうひとつ。初めこのホテルに訪れたときの、ピアノだ。
 ただ弾かないと言っただけなら、こうも気になりはしない。彼女がピアノに顔を背けたときの表情が、どことなく暗かったというか。寂しげを思わせるような、痛々しげを思わせるような、とても悲しい影。そんな影が彼女の表情を曇らせていたということはわかる。しかし、それしかわからなかった。
 ピアノ……好きじゃ、ないのかな。
 ピアノ。
 ピアノ。
 ピアノピアノ。
 ピアノンノン。
 ピア☆ノンノンピアノンノン、イェイ♪
 ハッ。






「そういうことかよ……」
 思い出した。
 彼女に避けられる理由といえば、あれしかない。
 最初の出来事。僕としては記憶しておきたくない失態の一幕。
 たしかに、あれでは彼女と目が合わせられるものではない。
「あー、シクッた」
 悶えてみる。謝れなかったどころじゃなく、結構つっけんどんな態度をしてしまった気がしたからだ。っていうか、事細かに動画再生できるほど最近なため、気がしたなんて次元ではない。
 うわ、すっごい罪悪感みたいな感情。
「どうしよ……」
 呆然と呟いた途端のことであった。
「おーおー。青春を行く少年っぽく悩みの時間を過ごしているねぇ。父さんは少し安心したぞ、息子よ♪」
 忍者のように天井に大の字で張り付く哉鶯と、目が合った。


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 僕に割り当てられたこの部屋は、ドアを開けて少し廊下を歩いた先にリビングがあり、
 左手に行けば簡易なシャワールームが、
 真直ぐ行けばうす暗いベッドルームが、
 そして、ベッドルームを抜けた先に今いるベランダがあるのだ。
「つつつ……ったく、親に対してなんたる暴力行為だ」
 思わず枕を投げたことは、謝ってやってもいいような気がしないでもない。
「それで、何でアンタは俺のとこに来た」
「口調は弁えなくていいぞ。我が息子よ」
 目線を向けられて、僕は切り替えた。
「……僕に頼みごとかい?」
「ああ、そっちのほうがやっぱシックリくるな。
っと、頼みごとってのも大体当たってるぞ。さすが我が息子だ」
 褒められた気がしない。僕は哉鶯の隣まで歩み寄る。
「……話してくれ」
「俺がなぜお前と麗華ちゃんをここに来させたか。それの発案者には俺以外に誰がいるか。それはわかってくれてるよな?」
 僕は頷く。
 発案者というのには、僕と同じ名字な哉鶯と野々宮の名字を持つ彼女のお父さんのことで間違いない。
 そして、僕たちがここに来た理由――それは、あのテキストエディタで見た以外のものである可能性が大きい。
 つまり、
 ……野々宮麗華の例の事件、か。
 雑誌、ニュース、クラスメイトとの会話。僕はそれら以外、つまるところ哉鶯からもその話を聞かされている。
 野々宮麗華はピアノを弾くことを拒絶するようになった、と。
 始まりはとある録音でのことだったらしい。あの再会のとき、ロンドン公演から帰国と言っていたので気にもとめていなかったのだが。
「いや、何も言わんでいいぞ、顔が語ってる。
ってことで話を進めると、中学からずぅっと悪友なはるっちに頼まれてんだ。ああ、はるっちてのは晴海のことな」
「続けてくれ。どうせなら、なんで僕も手伝わなきゃならんのかも含めての簡三の法則に則った説明でよろしく頼む」
「なにがどういう法則か知らんが、説明してやるよ」
 哉鶯が手すりに片膝を置いた。日が暗いため、一寸先はまさに闇だから、場景もへったくれもない。
「あの子な、突然弾かなくなったそうだ。理由も何もわからんらしい。はるっちは過保護野郎だから、それが気が気でならなくて。そんなときにあの子が転校したいって言い出したらしい。はるっちは今の学校でいじめでも受けてるのかって推測して、すぐに転校の手続きをして。
それで、お前のいる高校にあの子が来たってわけだ――言いたいことからは少し脱線になるんだが、これも説明しておいて損はないからな。一応、しこりがひとつは減っただろう?」
「まあ、な。次こそは本題に入ってくれると、ありがたい」
「ご期待に応えてやる。まあ、順序だてて言ったほうがいいような気がしただけだから、総ては俺様の都合なんだけどなぁ!」
 豪快に微笑んで言う哉鶯。どこか無理をしているように感じる。雰囲気を明るくしよう心がけてくれている、ということだろうか。
「……で、本題のほうなんだが。転校させてもあの子が全然ピアノを弾こうとしないって、はるっちがぶつくさ言いやがるから、俺が企画してやったんだよ。俺が聞き出してやるってな。
しかし、どうも、俺では駄目な気がしてならないんだ。同時に、はるっちでも駄目な気がする。俺やあいつでは、彼女をわかってやれはしないと思うんだ」
「挫折か」
「そうじゃな――って、そういうことになるんだよな。コンチクショー」
 テキストエディタのほうよりも得られた情報は多い。あちらでは『急遽スケジュールを変更することになった』程度のことしか知れなかったし。
 だが、まだ聞きたいことがある。
「……彼女が弾けなくなったことに、心当たりはあるのか?」
「まあ、な。でも、言ったってどうにかできることじゃねぇ」
 哉鶯は答えを渋った。おい、じゃあどうしろって言うんだ。
「どっちにしろ、お前が彼女を見過ごすはずないだろうしな」
 ……そのとおりだから、言える言葉もない。
 彼女の指が音を紡がない。そんなこと、信じられるはずがなかった。
 あの音が失われる――美しいと感じた、彼女の音色と、彼女の弾く姿とを思い返して、
 僕は強く強く願った。今の彼女で、あの姿が見れることを。


 そんな願いが彼女を苦しむものの正体なのだと、微塵も感づくことなく。


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 もしかしたら、彼女は世界の終わり・・・・・・を見ているのかもしれない。
 だから弾かない。総て同様に失われてしまうから。だから鳴らせない。
 そのとおりならば、彼女はピアノが好きだからこそ弾かなくなったというわけか。
「戯言だ――」
 気になる。僕は彼女が気になっている。
 だからか、眠れない。
 そうしてベッドでごろごろしていると、

 トントンッ

 ドアが、突然ノックされた。
 誰だろう。疑問に思い、しかし心のどこかで確信みたいなものがある。
「どうぞ」
「……」
 はたして、入室してきたのは彼女だった。
 ベッドから上半身だけを起こす。部屋に入りドアを閉めてからは全く動かない彼女を、片手で手招いた。
 しかし、来ない。仕方なく僕は立ち上がり、彼女に歩み寄る。
「反抗期か」
 ダンッと、彼女の顔の真際を往きすぎて背後に片手を叩きつける。音の大きさと、あまりの突然さに彼女がビクッと驚いて、それまで伏せられていた顔が僕へと向いた。
 灯っている憤怒の色。グッと覗き込む。彼女の心を見透かせるとは思っていないけれど、そこに僕は映る。僕の思いが、移る。
「……悲しいのか」
 つらいのか。とも聞けた。
 悲しくてつらいから、それを音に籠めたくないから、弾かないのか。そう聞きたかった。
 彼女が止まった。ジッと僕の瞳を見返す彼女。何かを訴えてきているような、そんな錯覚。いや、錯覚ではないのかもしれない。しかし僕にはわかってやれなかった。伝わってくるものはあっても、それがなんなのか分かり得ない。
 わからない。なぜ、わかってやれないのだろう。
「悲しくなんて、ないから。勝手なこと言わないで」
 彼女が僕の胸板を押した。そして、おもむろに顔を伏せる。
 あのときの彼女は、此の彼女にはない。
 あのときの音は失われてしまったのだろうか。どちらにしても、此のときにあの音は無い。
 途絶えてしまったものだから、此処にあるはずがないのだ。
 僕は、もう一度彼女の瞳を覗きこむことはしなかった。
 できなかった、のかもしれない。


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 飛び起きた。
 いつもの朝の風景ではないことに、すぐ納得がいかない。
 なぜなら――
「麗華、何度言えばわかる!?」
「パパこそ、なんでわかってくれないの!?」
 目の前で、彼女が男の人と口論していたからだ。
 男の人に見覚えがあるような、妙な感じがして、隣に目を移す。
「おう、やっと起きたか我が息子よ」
「……この状況を説明してくれると、助かる」
「場所を移した。今俺たちがいるのは、はるっちの別荘宅だゾ」
 とてもわかりやすい説明だった。つまり、こっそり連行されたわけか……ここ最近はノットフリーダムだな。ノットフリーのほうが正しいのだろうかとか、どうでもいいことは考えないでおく。
「はるっちがあの子に説教したんだが、それが的外れすぎるあまりあの子がキレて……と言ったところだな。ちなみに、イスはないぞ」
 道理で、地べたに座り込んでるはずだな。哉鶯と肩が触れ合いそうな位置でいるのが嫌で、僕はゆかから腰を上げた。
 同時、キッと彼女の目が僕に向く。
「ねーちん、行くわよ!」
 どこへだ。
「どこかに!」
 なんつー適等。
 僕は彼女に手を掴まれ、晴海さんに会釈すらできずに部屋から連れ出されてしまった。
 視界がいろんな色の流れで、酔いそうになる。いろんな色といってもレインボウなわけではなく、茶色近くのものがいろいろってわけで……て、そんな場合ではなく。
「引っ張るな、結構痛い!」
 僕の異論が耳に入っていないのか。彼女はどんどん早歩いていってしまう。もちろん、僕の手を離してはいない……とても歩きづらい。
 しばらく歩く後、行先が突き当たって道がなくなった。歩みも止まる。僕は、ほっと息を吐――
 ガクンッと足場が震えて、腹の底が浮くような感じがした。戸惑う。彼女の向こう、窓ガラスの壁。そこから見える風景に、一定のリズムで影が上から下に駆けて行く。
 ――エレベーター。
 その判断は間違いでなかった。振り返れば、ボタンが縦に羅列した、エレベーターでよくみるあれ。そうか、やはりここはエレベーターか……なぜ?
 尋ねるように、彼女に目を向ける。肩で息をして、しかしきつく眉を吊り上げて、彼女は窓の外をじっと睨んでいる。だが、途端に彼女は僕に振り向いて、
 バッチリ目が合った。
「な、何?」
「いや、他意はない」
 即座に首を横へ振るも、彼女との間に妙な雰囲気が流れる。
 はがゆいような、微妙な、そういう雰囲気。なぜだ。なぜなんだ。
 なぜ――
「――――ピアノ、弾かないのか?」
 彼女の目が、えっ? と僕を見た。失望、怯億きょうおく、淡い後者から強い前者に移り、それが燃料となり、
 憤怒の炎が燃え上がった。
「あ、あんた、まで! みんなみんな、そう言って、ひ、ひどい!」
 剣幕と表すのが一番正しいであろう、彼女がいかりり狂って僕を振り回す。まるで、不満なことがあって泣き喚く幼稚園児のようだ。見たことあるだろう? あの意味不明なおこり様は今の彼女にそっくりだ。
「あんたまでって……俺は純粋に、お前のピアノがもう一度聞きたいんだよ」
「――ッ!?」
 宥めるように、彼女の手を握る。すると、彼女はハッと目を見開いて、僕の手を振りほどく。
 途端――彼女がすってん転んだ。
 咄嗟に、彼女と床との間に自分の身を挿し入れる。
 瞬間、ゴンッという音がしそうな痛みを感じた。
「だ、大丈夫?」
 いつの間に退いてもらったのかわからないほど意識が飛んだが、とりあえず大丈夫だろ。
 俺は、柔道で受身を取ったときにくるようなじんわりとした痛みの残響に耐えつつ、心配そうな目をする彼女に笑みを浮かべるのを最優先した。
「僕は、大丈夫。お前は?」
「ああ、うん。私は、ねーちんが助けてくれたから全然大丈夫――僕?」
 言われて気づく。どうやら、逆転していたようだ。いけないいけない。僕、僕、俺じゃなく僕。口調のほうが俺。あー、あー。マイクテスマイクテス。精神的マイクテス。心情側、オーケーですか?
「あー、ちょっと頭が混乱してる。でも、ほんと、俺は大丈夫だから」
 現実側も良好であります。よし、万事異常ナシ。
 僕は立ち上がる。すると、まるでタイミングを図ったようにドアが開いた。
「ほら、さっさと降りるぞ。この階に用があるんだろう?」
「あ……う、うん」
 歯切れの悪い声。気にせず、彼女と連れ立って降りる僕は、どこの階に行くかを指示できるボタン共からこの階のものを探し、その横の説明をみる。
 まあ、一瞬だったから、はっきりと確信できはしないのだけど、
 ――防音室、ねぇ。
 一瞬ばかり途方に暮れて、彼女がわからなくなった。


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 遅々とした歩みで進み行く。
 すぐに、でんとグランドピアノの鎮座した部屋に辿り着き、僕はぐるりとその部屋を見回した。
 隅にある本棚には、きっとピアノ曲の楽譜が詰まっているのだろう。和風なものがほとんどないところを見ると洋風な部屋といえるのだろうが、洋風と確証できるものも特には見当たらない――あ、床が畳じゃないってことが洋風の要素か。ええと、こういうのはなんていうんだっけかな。洋風の定番なやつ。うぅん、思い出せない。
「ねーちん」
「……何だ?」
 グランドピアノに顔を向け僕に背を向ける彼女。どこかその背中が小さく見えて、その躯体が華奢にみえた。あんなにか弱そうだったんだなと思って、そりゃ彼女も女性だからなと我を嘲笑う。元から勇ましいとは思っちゃいない。彼女を男っぽいと思ったことすらないというのに……なんだろうか、この妙な驚きは。
「ねーちんは、今もピアノ弾いてるんだよね」
「まあ、な。雑誌とか見ないのか? 結構、インタビューとかよく受けてるんだけど」
 ちょっとだけ残念――いや、しかし、公演のための出張だとかで手一杯だったのかもしれないな。そいうことにしておこう。プライドのために、といってもそれほどのプライドをもってはいないが。
「じゃあ、わかるんじゃないかな。私が、弾かなくなった理由」
「え?」
「……ううん、違うかな。ねーちんにはわからない、だってあなたは強いから。今でも弾き続けられるんだもの、私よりずっと強い。それか、私とは違って、あなたにとっての音楽はその程度ってこと」
 そんな言い方はないだろ。即座に反論が浮かぶ。しかし、言えなかった。
 彼女は、どこかおかしい。相手を軽蔑するような言葉を彼女の口から聞くなんて、到底信じられるはずがなかった。冷ややかな態度で相手を馬鹿にする。見下す、というのが妥当か。
 少なくとも、あの頃の彼女がこんなことを言うはずがない。聞いたことに文句をつけることや、嫌なものに対して全身で嫌と意思表示することはある。しかし、見も聞きもしないものをいきなり貶すことはない気がする。まあ、彼女と過ごす時間はあまりにも少ないから、断言はできないのだけど。
 何もかもが足りなさ過ぎる。僕には、彼女が背負っている闇を見ることはできなかった。寂しげな声は聞けるのに、何もできない。彼女の心に刺さる棘があるのは確か。彼女の心を締め付ける鎖があるのは確か。痛い痛いと助けを求めてくれているのに、助けを必要としているのに、僕には何もできない。
 だから、なんだろうか。勝手に絶望してるんじゃねぇよ、自分。僕は思った。
『どっちにしろ、お前が彼女を見過ごすはずないだろうしな』
 ――当たり前だ。
 わからないなら、知ろうとすればいい。それだけのこと。情報ならあるはずだ。ヒントは、彼女がくれている。彼女は教えてくれている、そのはずである。わかれ。彼女の悲鳴を聞け。わかるようになれ。今わからなくてどうする。考えろ。思い返せ。彼女を想え……

 僕が、強い。
 彼女が、弱い。
 僕は、弾き続けられている。
 彼女は、弾き続けられていない。
 彼女は、あのころの彼女ではない。
 僕も、あのころの僕ではない。
 全部変わっていく。変わっていった。これからも変わり続ける。
 僕が強くて、彼女が弱い。
 僕が、強くて――彼女が、弱い――

 ……わかった。
 そういうことなのか、麗華。
「もう――ピアノを楽しめないのか」
 返答は、振り返ってきた彼女の無理やりな笑顔。イタズラのばれた子供を演じようとして失敗したような、恐怖を思わせる笑みだ。
 疲れたと言っていた。そのとおりに、闇に瞳の"光"が飲まれていた。肩が、震えていた。
 僕はグッと五指を握り込む。冗談じゃない。冗談であってほしかった。
 彼女は、自分の音を見失ったのだ。
 あのころ以外に、あの音はどこにも存在しない。
 頭の中で、あのころの彼女の姿が暗い暗い闇の底に飲み込まれていくビジョンを見ていた。訳、今の彼女に"光"はない。つまりはそういうこと。そういうことなのだ。ここには、どこまでも深い闇しか広がっていない。
 "光"は――どこにもない。


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 痛痒。
 思わず我を失ってしまうほどの衝撃だった。
 腹に違和感を抱く。
 息が――吸えない。
 いや、吸えている。錯覚。風呂で逆上せたかのような、足元がふわふわする妙な感覚。眠りたかった。十分な睡眠を取ったあとでないと、この感覚には耐えられそうになかった。しかし、手を打たねばならない。
 彼女は今、真っ暗闇の中を歩いている。灯のない、ほんとうに真っ暗な世界を。彼女は闇の中を歩けはしない。怖いと思うのは誰もが同じ。彼女は強いといった。僕は強いのかもしれない。なら――闇の中を彷徨するなど恐怖するに値しないはず。真っ暗闇の中を進み行って、そして彼女が手に掴むべき夢の欠片を見つけて、彼女にその方向を教える。彼女を導く。強くなくてはできない。強いはずの自分、見出せない。しかし在ると信じる。信じ、願う。彼女の音色が脳裏で鳴響めいきょうし続ける。あの音色をもう一度聞きたい。もう一度見たい。もう一度感じたい。失われてはならない。失われていいはずがない。世界の大いなる意思が彼女からあの音色を奪うのだとしても、僕が世界から奪い返す。彼女を護るなんて大それたことができるとは思っていない。現にも、今はもう失われてしまっている。僕にできることはただひとつ。取り戻す。それだけしか、僕にはできないのだ。逆にいえば、まだそれならば可能であるということ。
 彼女に音を還す。彼女には弾いていてほしい。僕が見惚れ聞惚れたあの音色になくなってほしくはないのだ。
「……よお、やっとお帰りか。はるっちがちょうど出てったところだぞ。お前は運が良い」
 運が良い。在り得ない。音を失った彼女と再会したことのどこに運の良さがあるというのか。いまならまだ彼女に音を取り戻させられるという意味では、たしかに運が良いかもしれない。
 ……食えないツキだな。
「父さん。お願いがある――真剣な話なんだ」
 あえて念を押す。冗談ととられてはかなわない。余裕がないから、感情を抑えるのには自信がなかった。何をしでかすかわからない、と言うと自分の中にもう一人自分がいるようで気味が悪い。
「おう、わかってる。あの子関連だろ」
 哉鶯は髪を掻き乱した。
 僕はこの部屋を見渡す。目が醒めた途端親子の口論に直面させられて頭も醒めた、どこにでもありそうなリビング風景の豪華版といったところか。
「とりまぁ座れ。はるっちの分であるコーヒーかっこ誰もまだ口をつけてないから安心していいぞかっこ閉じるでも啜れば?」
「遠慮しておく」
 少し軽めだが、いつもの哉鶯に比べればテンションが大分低い。それを見て僕もちょっとは落ち着いた、ような気がしないでもない。
 ソファに腰かけ、哉鶯に向かい合う。おもむろに、哉鶯はコーヒーを啜り始めた……もしかしたら、何から話せばいいのか迷ってるのかもしれないな。
真相は本人のみぞ知る。よし、どうでもいい。
 僕は口を開いた。
「……彼女と俺を、日本に戻してほしい」
「無理だな。仕事関連で急遽ってのは嘘なんだが、ここまできてはるっちがあの子を手放すはず無いだろ」
 思ったとおりの答え。晴海さんは彼女を心配しているのは、わかっている。晴海さんも親なのだ。僕には、それを貶すことはできない。
 言えるようなことは何一つなかった。僕の胸で渦巻くものはあれど、それは形がない。言えない。表せない。まだ何も見えない。だけど在る。在るのだから見える。見えるようになる。いや、絶対に見る。
「頼む」
 ゆっくり、深々と、頭を下げる。
 ハッと息を呑むような気配がしたけれど、次の瞬間には豪快な笑い声が僕を叩いていた。
「任せろ。お前は俺の息子らしく、自由気侭に行動してこい」
 顔を上げる。ニヤリと不敵に微笑む哉鶯が、どこか頼もしかった。


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 変哲もなく面白みもない授業。
 窓からの陽射しに照らされ、頭がぼんやりとして眠い。頬杖を突いたまま、ぐるりと教室内を見回した。
 何の変哲も無い。義之がぱたぱたと手をを振ってきたので振り返した、それくらい。
 ――つんつんと背中を突かれる。
 振り返れば、むっつりと般若顔をする彼女がいる。
 そう、いるのだ。
 僕は帰って来た。この高校に、彼女といっしょに。
「何?」
「……なんでもない」
 プイと顔を背ける彼女に、僕はいろんな意味を込めて微笑を浮かべた。
 苦笑いになっていない自信がある。
 彼女もどこか刺々しくなくなっている。なんでだろうね。とっても可愛いから、良いんだけどな。
 おもむろに彼女の髪を撫でて蹴飛ばされる。そんなことにももう慣れっこってくらいだ。この日常が嬉しい。彼女が僕の日常の中にいてくれるのが、とてつもなく嬉しい。
 ともあれ、彼女はまだこの手で掴めている。ちょっとくらいほっとしても、ばちは当たらないだろう。きっとそのはずさ。


 昼休み。購買部でカツサンドを無事確保して、それを胃に押し込みつつ廊下を歩く。そして、考えるのだ。
 ……なぜ彼女を撫でたくなるのか。
 僕の感性がおかしいのか。いいや、そうとは違う気がする。そうか、わかったぞ、つまりはそういうことか。
「彼女が可愛いのがいけない」
 けしからん。後で叱っておかねば。
 ……なんだろうこのテンションは。一体自分はどうしたのだろうか。
 なあ、どう思う義之。
「ずばり、恋」
 アホか。
「あら。前の点数をもう一度教えてあげよっか?」
 やめてくれ。もっとわかりやすく「アホじゃない」と反論するだけでいい。
「それじゃおもしろくない。だろう?」
 同意だ。
 メロンパンを齧る義之を連れに、僕たちは目的もなく廊下を歩いていって――
「あっ!」
「……何?」
 階段のほうから脱兎のごとく飛び出してきた彼女を、反射的にさっと避けた。
 しかし彼女は踏みとどまれずに僕の前を駆け抜けると、勢いあまって転びそうになる……このままだと壁に激突しちまうな。どうする?
 僕は仕方なく手を伸ばして、よろける彼女の腰を支えた。目の前で転ばれなかったのはいいが、これでは避けたことにまるで意味がない。
 まあ、そんなことにケチつけるつもりはないんだが。
「ど、どこ、行って、たの!?」
「どこって……購買部。昼食買いに行ってただけだよ」
「か、勝手に、勝手にどっか行かないで、よ!!」
 それどこの駄々っ子。
 涙ぐんだ表情の彼女はぽこぽこと僕の胸板を叩く。あまりに意外で、どう対応すべきなのか困る。
「お熱いね」
 お熱くない。外見はそうであっても、中身は混沌の一言に尽きる。
「それじゃ、これからも末永くお幸せに」
 無視するな。っていうかその言葉はおかしすぎるぞ。
「じゃね〜」
 だから無視するなっ。
 激しく言い立てたあげくに、義之はすたすた歩き去っていってしまった。薄情な友人を持って少し悲しい。それはまあともかく。
「う……ぇ、えぐぅ……」
「すまんかった。だから泣き止めって、な?」
 マジ泣きして嗚咽をあげる彼女。未だその腰に回していた己の手を解き、僕は彼女の背中をトントンと優しく撫でてやる。
 それだけではどうにもならず、僕は彼女の目じりに浮かぶ涙の粒を指先で拭ってやった。
「教室ももどるぞ」
「う……うん」
 少し頬を赤めらせて隣をついてくる彼女。僕はそれどころではなく、気づいてしまった現状に心ここにあらずだった。


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 彼女がこのクラスに溶け込めていないというのは、非常にろしくない。
 これは彼女のピアノがどうこうというより、彼女についてということになるだろう。しかしそんなことは問題ではない。
 彼女は人見知りなのかもしれない。僕の姿が教室から消えただけで親とはぐれた子供みたいになるのだから、よっぽどのことが昔にあったとも考えられる。どちらにしても、少しは克服させてやらないと、僕の気が済まない。
「なあ。お前って、クラスではよく誰としゃべるんだ?」
 齧る度に幸せそうな顔をしていた彼女が、メロンパンから顔を上げた。
「ねーちん」
 即答。
 それだけ言って食事を再開しようとしたので、僕は尋ね直すことした……まあ、妙な予感はしてるんだよ。当たる気のする予感がな。
「……もしかして、俺としかしゃべってないのか?」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
 またも即答。当たり前なこと聞かないでよと言う風に首を傾げられ、僕は押し黙るしかない。
 ……いや、僕がおかしいんじゃなくて、彼女がおかしいんだよな。こうも断言されると動揺してしまう。
 彼女は訝しげに僕を見て、その後に食事を再開した。いや、この場合は再々開になるのか。でもそれはおかしい気がするな。
 って。
「俺のカツサンド食うな」
 彼女が手にしているのは先ほどまでのメロンパンではない。あの強烈に甘いやつはもう彼女に取り込まれてしまったのだろうか、まあそうだろうな。
 何がどうであったとしても、僕の栄養摂取に欠かせない物を奪取するとは万死に値――はしないが、それなりにひどい。スパッと彼女の手からカツサンドを奪還する。ちっ、一口くらいとられたか。
 全部食べられなかっただけマシ、及びカツだけ食べられなかっただけマシと考えて、僕は一口頬張った。彼女がぽっと頬を染めるのが見えたが、自ら難問に立ち向かうような心意気は僕にはないのでスルー。触らぬ神にたたりナシ。
「そういえばお前って、この街は初めてなのか?」
 ふと閃いて、彼女に尋ねる。
 悶々とした風に唸りを上げていた彼女がハッと我に返って、コクコクと頷いた。初めてってことでいいのだろうか。
 彼女の顎に手を当てる。そうして彼女の顔を上げさせ、彼女の瞳を覗き込んだ。
「じゃあ、俺といっしょにさ――」


 そういうことで、僕はバス亭前のベンチで数分間待ったあげくに彼女の姿を見つけられたのだ。彼女もこちらの姿を見つけ、刻一刻と近づいてきてくれている。空は青い。太陽がギラギラと輝いている。今はまだ昼だ。
 今日はまだ始ったばかりだ。


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 ひとつずつ、この街の案内をする。
 おおまかに、自分の立ち寄ることのある場所についてはちょっとした感想も交えつつ、そうして僕たちは一通り見終わってひとつの喫茶店での休息を味わうこととした。
 もちろん、一通りというもののなかに音楽店は含まれていない。意味もなく彼女を苦しめるわけにはいかないからな。時と場合とをしっかり考慮すべきというのには念に念を押すべきだろう。街の案内中に彼女がクスクスと笑うのを見てしまったから、どうも慎重になってしまう。これも僕の性分というやつだろうかな。
「で、どうだ」
「……何が?」
「この街の印象だよ。お前、今日一日でどう感じた?」
 彼女がカフェラッチをテーブルに置いて、黙りこくる。僕はただただそれを静観して、待つ。
 少しの時間を置いて、彼女はぽつりと零した。
「普通」
 おいおい。マジかよ、一生懸命案内した俺の努力はなんだったんだ。
「か、勘違いしないでよ! わ、悪い意味での、ふ、普通じゃ、なくて!」
 おろおろするな。落ち着け。で、良かったんならなんで普通っていうんだよ。
「あなたが簡三の法則守れっていうから!!」
 ああ、そんなことを言ったことがあるような……悪いな。ねーちんは情緒不安定で気変わりがはやいんだ。ちゃんと付き合ってくれ。
「付き合っ!?」
 彼女はどうしてしまったのだろう。あんぐりと口を開けてから動かなくなってしまった。
 とりあえず呼びかけてみる。おーい、おーい! おーい、お茶! 甥。甥っ子!
 返事がない。ただの屍のようだ……って、そうじゃなくて。
「まあ、良かったって感じてくれたんなら俺も良かったよ。で、この次はどこに行きたい?」
 尋ねた。返答は無いと思っていたがなぜか都合良く我に返ってくれて、彼女がええとと考える素振りを見せる。
 またしばらくの時間を置いて、彼女がおそるおそるといった風に囁いた。
「音楽、店」
「……は?」
 きっと今の僕は、豆鉄砲を食らったような顔をしているんだろうね。思わず我を疑ってしまった。すっとんきょんな声を返してしまったことに悔みはない。
 戸惑い、しかしプチンとキレるようにして彼女は再度その言葉を、囁くのではなく怒鳴った。
「ピアノあるとこに行くの!!」
 解り易い。
 しかし、解り難い。
 不満イッパイという表情でそっぽを向く彼女を、目を真丸くして見つめる僕。
 わからない。
 ここ最近の難題一位二位を争うほど、彼女とピアノが結びつくことに関しては全くわからなかった。


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 来た。
 しかし、取り分け良い事が起きたわけでも悪い事が起きたわけでもなく、つまりは何事もなかった。
 CDの置いてある方で彼女がパッケージとなった物を見つけドキリとしたが、ただの気苦労にしかならなかった。
 結局、彼女はここに何をしにきたんだろうな。展示されているピアノ達に触れることもなくぶらぶらしているだけ。もしかしたら彼女なりな努力なのかもしれないなと思うが、彼女にしては軽率でない行動だ。それだけ大切なんだろうな、ピアノが。
 彼女が意味もなくレジへ向かう。まばらにちらほらしている人々を気にしつつ、僕もその後を追った。
 ――と、店員の真横ほどにあったそのポスターに、ギョッと目を引ん剥く。
 僕だ。ピアノに腰かけるようにしてどちらかを見ている、冷たさを感じさせる一枚絵。前の公演で宣伝としていろいろ張り出したと哉鶯から聞いたやつと合致。無意味に背中を汗が流れた。
 彼女はすたすたと歩いていく。僕は動揺を押し隠して、仕方なくついていった。
 そうして申し分程度に再生されているピアノ曲が、僕の耳に入ってくる。
 愛の夢 作曲者フランツ・リスト 
 誰が演奏しているか、すぐにわかった。今でも思い出せる鍵盤の感触。駆け巡った走馬灯。今も両手にあの旋律が染み付いているから、すぐにわかった。
「俺の、曲……?」
 言葉では表し難い戦慄と恐懼に切羽詰められて、僕は嫌な予感を覚えた。なんとかしろと何かが訴えてくるが、なにをどうすればいいのか全くわからない。いや、そうか、わかったぞ。ピアノか。ピアノだからだめなのか。彼女+ピアノというのに異常な恐怖心を抱くまでになったのか僕は。どこいらの犬の例え話が使えるな。僕はちゃんと僕に教えてやらないと。
 彼女自身が歩み寄っているのだから、問題は無い。
 楽しいって感じるためには自発が必要なのではないか。だから僕は今日までできるかぎりピアノの話題を避けた。彼女が決心するまで、僕には何もできない気がしたからだ。それは晴海さんには到底できないことだろうし、させるわけにもいかない。親がみすみす娘を放っておけると思うか? 僕はそう思わないね。
 だから無理やりあの人から彼女を奪ったのだが、きっと晴海さんは黒い炎をめらめら燃やしているだろうと考えるとゾクリとくる。そのときに考えられた最善策だから仕方ないのだが、それでももっと穏やかな手段を考慮すべきだったな。くそう、あの頃の自分め覚えてろよ。そう、これはあの頃の自分への復讐。あの頃の自分が、未来の僕がどうにかしてくれると期待していたのだろうから、託される僕はそれを裏切ることで復讐が果たせる。そう。そうなのだ。理屈なんてありゃしない。しかし自身は納得した。だからこの理屈でいい。この理屈通りに、彼女を腫れ物扱いするのはやめるのだ。そういうことで納得しやがれ警報機。
 彼女の手が今一度ピアノに触れるならば、それは彼女の意思でなくてはならない。それが、今この瞬間に来るかもしれないのだ。
 ……って言っても、ただ僕のピアノ曲が聞こえただけなんだがな。
 なんだろうこの妄想力。僕は押し黙って彼女の背中を見つめることだけに専念した。
 途端、その背中がグンと近づく。
 彼女がただ立ち止まったというだけなのだがね。なぜだろう。僕は彼女にぶつかりそうになったことに動揺してしまった。いや、なぜってほどの物でもないか。人とぶつかりかけて驚くのは、とても自然なことのはず……今日の僕は何かおかしいな。何にでも弁解してる感じだ。妙に思考が脳裏で渦巻いているというか。
 その渦巻きは、次の瞬間に消し飛んだ。
 彼女は僕よりも背が低い。だから僕は彼女の頭先を顎くらいにして、彼女の見ている方向を眺めることができる。それは今も顕在で、僕は彼女の見ているものを同じく視界に入れられた。
 ピアノ――
 クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ。弱い音と強い音の出るチェンバロ。アップライトピアノ。
 彼女がそれをじっと見ていた。僕はそんな彼女の横顔をじっと窺見る。
 なあ、もしかしてお前――
 言葉が浮かんで、しかし口を開くよりもはやく彼女が僕に振り向いた。小首を傾げ、僕に上目遣って、彼女が言う。
「ねーちん、弾いて」
「え?」
「あなたの音楽ピアノが聴きたいの。駄目、かな?」
 駄目ってわけじゃないんだが……ほんとうにいいのか。
 聴けなかった。また心でもやもやとさせるだけだった。
 特に何も言わずに心を決める。
 ……もうどうにでもなれ。
 僕はそちらへと歩み寄り、黒イスを引いてそれに腰を下ろした。
 鍵盤を前に、クセのようにペダルを数度踏んで深呼吸。
 ……もうどうにでもなれ。
 横の方に彼女の気配を感じつつ、僕は鍵盤に手を這わせて、
 静かにゆっくりと、弾き始めた。


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 何がどうなったわけでもなく、
 どうしても無駄に弾かされただけなんじゃないかっていう想像をしてしまいながら、僕は夕焼けで茜色に染まりゆく街を歩いていた。
 少し前を行く彼女を視界に入れて、溜息を吐く。
 何がどうなったわけでもなく、特に何も起こらず店を出ただけだった。
 いや、あったといえばあったのだ。僕が弾き終えて以来彼女がまったくしゃべらない。どうしたことか。何か悪いことが起きる前触れか。それはいやだな。この後には――
「ねーちん」
「な、ナンデスカ!?」
 裏返った声に、潜れる穴があったら潜りたい気分となる。とりあえず顔を片手で隠して自嘲。ハッ、間抜け野郎が。言えば言うほど自分が傷ついていくのはどういうことだろう。くそう、僕は間抜け野郎だったのか。ちょっとショック……行き場のないこの感情はどこに吐き出すべきなんだろうな。
「ごめんね」
 …………え?
 舌の上まで登りつめてきたその一言をグッと飲み込み、彼女を見る。
 こちらへは一切顔を向けず、歩調を乱すことなくさきさき行っている彼女は平静な感じだ。それが取り繕っているものなのかは、僕には判断がつかない。
 ただ、言うべきなのは問い返しではないのだ。
 僕が言うべきことは他にある。考える。しかし、考えれば考えるほどわからなくなる。ならばと、直感通りを思い描き――
「…………ああ」
 頷いて、そっと彼女の髪を撫でてやった。
 言葉では表せない気持ちの総てで
 大丈夫という想いが伝わってくれてればいいなと、切に思う。
 自分の総てをかけて彼女を支えられたらいいなと、切に願う。
 そんなにも、彼女はその華奢な肩にいろんなものを乗せているのだ。
 乗せている――
 そう。そうなのかもしれない。
 僕が強くて、彼女が弱い。その意味は、ここにあるのかもしれない。
 いろんなものを背負っている。期待、失敗への不安、完璧への渇望。そういう荷物がたくさんになって、彼女はいつしか歩むことしかできなくなったのだ。
 我武者羅に歩くだけというのは、どんなにおもしろくない人生だろうか。
 何も見ていないのだ。何かを見る暇がないのだ。楽しいことはひとつもない。嬉しいことはひとつもない。悲しみはあっても、それはつらいものにしかならない。真剣になれることはあっても、それはつらいものしかならない。彼女はなんて道を歩いているのだろう。僕も同じだけど、同じではない。僕に有って彼女に無いものがある。彼女に有って僕に無いものもある。しかし、彼女に欠けてはならないものが多くて、その総てを僕が持ち合わせているのも確か。人それぞれが個々に同じとなれないのは定められている"当たり前"だとしても、神はなぜ嘲笑うことがお好きなのかと嘆きたくもなる。
 彼女には支えが必要なのだ。こんなことを思うのは今さらなのかもしれないけれど、今この瞬間にしかと内に秘める。
 だって、当然だろう。
 彼女には僕と同じ道を歩んでほしくはない。
 彼女自身が言ったことだ。悲しみや辛さや苛立ちは音に乗せてはならないと、そして彼女もそれを守っている。なぜか。簡単だ。彼女はピアノが好きなんだ。彼女はほんとうにピアノが好きで、それなのにピアノが嫌いになるってのはよっぽのことがあったからで、それはとても悲しいことで――いや、悲しすぎることで。
 あの頃の僕のような音楽ピアノはしてほしくない。あの頃彼女がしてくれたように、僕が彼女に音楽ピアノの楽しさを思い出させてあげたい。
 覚悟の再確認。僕は彼女を撫でる手を離し、しかしすぐさまその手でもう一度彼女に触れた。
 ――彼女の手に自分の手を重ねる。
 ぎゅっと掴んで、走り出した。
 二歩程度で彼女を追い抜く。さらに二歩程度踏んだら、腕がグンと後ろに引かれた。手と手が解けないよう力を籠めなおし、歩調を乱すことなく早歩きを続行する。
「麗華、いっしょに来てくれ」
 少しだけ振り向いて、彼女に口を開いた。
 今にもこけそうなおぼつかない足取りで、だけどちゃんと彼女は付いてきている。手を振りほどこうともせず、それどころか強く握り返してくれていて。
「お前との出会いを祝いたいってやつらがいるんだ」
 今はまだどこまでも進んでいける。進むことを許されている。
 僕は、彼女を連れてどこにだって行けるのだ。


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 オレンジジュースに生クリームを乗せて飲む、というのは。
「さすがにゴージャスすぎるぞ。義之」
「そう? 美味しければいいジャン」
 ステーキにナポリタンにコーンスープとは。
「さすがにどこで収穫したのかを尋ねざるを得ない、義之」
「そう? 美味しければいいジャン」
 いや、突発的に決まった転校生歓迎会だぞ。前から予定してたのなら納得できる気もするが、こんな豪勢料理の資金をその場で調達できるようにも思えない。高校生の通常所持金はせいぜい万桁ぎりぎりの辺りが妥当だろ。
「そうでもないよ。世の中ってのはね、知らぬ間に変わってるもんなんだよ。変化じゃなくて変貌ってくらい、ときには驚愕してしまうほど」
 ううむ。そうなのか。
「そうそう。だから、美味しければイイノ」
 パクパクと料理に没頭しはじめた義之から目を離し、この場をぐるりと見渡した。
 教室。通常ならば六列くらいに等間隔で並ぶ机が、班体形とよばれる六つの大テーブルへの変形を遂げている。そこにカーテンのように大きな白い布をひとつずつ敷いてたくさんもの料理を置き広げているのだから、ちょっとしたバイキング騒ぎだ。
 ざわざわと談話し合っているクラスメイト達の隙間を縫って、教卓前の黒板を見る。
【これからヨロシク♪ 野々宮麗華ちゃん★大☆歓迎☆パーティ★ ポロリはないよ←テラ馬鹿野朗←野郎だろーが】
 後半のほうは男子の書き殴り。前半の凝りに凝ったやつは、女子だな。
 少し視線の方向を変えれば、教卓前の大テーブルの賑わいが目に入る。
 女生徒に囲まれて翻弄されている彼女。うーと唸ることもあれば、逃道を探すように目を泳がせることもあり、それでも、頬をほんのり赤くしながらもがんばって会話を続けているようだ。
 感心感心と微笑ましく思っている矢先に、パッと彼女と目が合う。
 しばしの硬直…………おもむろに視線を逸らす。
 すると、ダンっという音――何かを叩いた感じだ――とどたどたという音――歩いてくる感じだ――がして、無理やり彼女の方へと向き直させられた。
「な、んで、そっぽ向いちゃうの!?」
 近い。鼻先と鼻先とをぶつけられる程の距離に、彼女の涙目がある。
 うぇ¨っと呻きたくなるのを堪え、なんとかはにかんだ。
「麗華ちゃん。ひとつ提案があるんだけど」
 救いの手を差し伸べるように、僕の後ろからひょこっと義之が顔を出す。爽やかにも淫らかしくも見えるニヤニヤ顔が、彼女に問いかけた。
「君を歓迎してくれたみんな・・・に、お礼としてピアノ伴奏をしてはどうかな?」
「な――」
 反射的に怒鳴ろうとした僕の口を、そっと人差し指で塞いだ義之。ウインクが完璧めいていて、故にそれがどうアイコンタクトしているかよくわかってしまう。
 ……大丈夫、任せろ。って言ってもな。
 義之は彼女の肩に腕を回して、なにやらひそひそ話をはじめている。僕は手持ち無沙汰となってしまって、別段することもないために義之達を見捨てず待ち続けた。
 そして、話が終わったのか、彼女との距離をポンッと一歩分開けた義之が今度こそ淫らかと断定できる微笑みを向けてくる……一体何を企んでるのだろうな。
 ――と、すたすたと彼女が僕の目の前にやってきた。
 眼差しの真剣さに、思わず凄みそうになる。目を逸らしてもいい空気だよなと判断を迷ううちに、彼女がすぅっと息を吸って。
あなた・・・のために、弾くから!」
 そう、言った。
 妙に響いた。なぜか。シンとこの場が静まり返っているからだ。静寂の中では咳払いすらも大音量。ああ、だからか。耳にキーンと彼女の言葉が残響しているのはそのせいなんだな。
 我が目を疑って、彼女を見直し、あっと息を呑んだ。
 口をへの字に結び、胸を張って、つま先立って、今にも揺らいでしまいそうな瞳でしっかりと僕を見て、
 ――弾く。
 彼女はそう言ったのだ。そう。そうだ。やっと実感が湧いてきた。やっと思考が追いついてきた。
 そして、戸惑ってしまう。
 どう返答すればいい。いくつか言葉が浮かぶ。だけど、どれも駄目な気がしてしまう。
 そうして、もう一度彼女の瞳を見た。揺らぎそうで、揺らいでいないその瞳。"光"。彼女は頑張っているのだ。彼女は歩こうとしているのだ。
 何も見えないという闇の世界の恐怖に、打ち勝とうとしているのだ。
「…………ああ」
 頷いて、そっと彼女の髪を撫でてやった。
 言葉では表せない気持ちの総てで
 大丈夫という想いが伝わってくれてればいいなと、切に思う。
 自分の総てをかけて彼女を支えられたらいいなと、切に願う。
 夢を見失った彼女を導くことは、僕にはできない。彼女にとっての夢とは彼女にしかわからないし、僕に導けるはずもない。また、僕が見つけられたとしても、彼女がそれを夢と感じなければ何も意味はない。だから、彼女は歩まなくてはならない。彼女が立ち止まってては、何も変えられない。彼女はたくさんの荷物で潰れてしまいそうだというのに、僕は助けることではなく急かすことをしなければならないのだ。こんな残酷なことはない。彼女が痛々しいというのに、僕はそれを傍観しなくてはいけない。こんなに無力なことはない。
 ごめんと、言外で彼女に告げる。
 届いたのかわからない。届かなかったのではないかと思う。届いたと感じるのは、ただの思い込みなのではないかと思う。
 それでも、彼女がクスリと微笑んでくれたことは変わりない。
「良かった。僕がクラスのみんなとこっそり持ってきておいたピアノは無駄にならないようだね。おっと、言及は不要だよ、ねーちん。美味しければいいジャン。ほらほら、麗華ちゃん。そうと決まればってやつだよ。時間は有限だからね。さっさと急ごう」
 そうして彼女は身を翻した。
 僕は、その背中を見送った。



 上り坂を迎えて、つらくなるときはあっても、
 歩けなくなるなんてことは、ないと思っていた。
 ないはずだった。


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 ――ん。朝か。
 降り注ぐ光にじりじりと肌を焼かれ、起きる。
 って、あれ? 僕、いつの間に寝たんだっけか。というか、いつ家に戻ったんだ?
 その頃の記憶が全くない。いや、起きたばかりでまだ頭がぼんやりしているから、そうそう応答が返って来るほうがおかしいのかもしれない。僕の頭はそういう仕様だ。どこかにいる天才な方々とは作りが違う。
 鉛のように重い身体に意思を流し込んで、僕はゆっくりと上半身を起こした。
 左右を見回す。うん、自室だ。納得して、欠伸した。目の端ににじんだ涙を擦り取り、視線をドア前へ――
「……え?」
「…………え?」
 途端、彼女と目が合った。
 白いワンピース。
 髪は全てストレートに下ろされている。
 両腕でひしと抱きしめられている黒ケースは、それほど大きなものではない。それほどってのは曖昧だよな。ええと、通学鞄くらいの大きさってことでいいや。
 すー。
 はー。
 すーはー。すーはー。すーはー。
 ……よし。
 …………
 も、もういっかい深呼吸しとこうかな?
 い、いや。これ以上伸ばしても間の空きすぎでつらくなるだけだ。いや、今でも十分つらいけど。
 よ、よし。
 せーのっ。
「……なんで、ここにいるの?」
 絶句。驚愕。疑問。見惚。いろいろな感情が渦巻いてのその声は、もう一人の自分がしゃべったんだと言われても納得してしまえるほど低く冷えていた。
 彼女は動揺したように瞳を揺らせ、えっと声をあげた。
 思考回路を覚醒させることに力を尽くすため、目元を片手で覆って情報を遮断する。って、それならさっきの深呼吸はなんだったんだ。あれだけ時間かけたというのに、実は無意味だったのかよ。おい自分。
 そして、ふとあることに思い至って再度彼女を見る。
 立ち上がり、いつもどおりの目線で彼女を見下ろして。
「とにかく、まあ、座れよ」
 机の方にあるイスを親指で示し、言った。
 彼女は少し驚いて、次の瞬間には柔らかく目を細めてコクリと頷く。
 彼女がとてとてと歩いていくのを見る最中、僕は妙な違和感を抱いた。
 その違和感は彼女から発されていて、いうならば、その存在への疑惑。
 在り得ない。自答した。そんなことは在り得るはずがない。僕はどうかしている。そう、彼女が突然ここにいるから、いろんなことを疑ってしまっているだけなのだ。だって、在り得るはずがないだろう。存在への疑惑。つまりは、彼女が幽霊かもしれないと思っているということ。そんなことは在り得ない――
「ねぇ、ねーちん。アレは?」
「……えっと、アレって?」
 我に返り、思わずそう聞き返してしまったが、よくよく考えればすぐに思いつけた。
「ああ、アレね」
 すぐさま言い直し、彼女へと歩み寄る。
 ちょうど彼女の背の向こうにある小さな引き出し。彼女の横を往くように腕を伸ばしたが、しかし届かなかった。
 どうするかと思い、強引ながらもさらに踏ん張ってみることにする。
 身を前へ前へ。手近なものにもう片手をつき、前へ前へ乗り出す。
 どうにか取っ手に指先が引っかかり、上手く中を引き出せた。勘を頼りに探って、目的のものの感触を見つけ、掴み、腕を引き戻す。
「ほら」
 グッと握り締める拳を開けば、GBMのピンク色が電灯の光で輝いて見えた。
 それを彼女に手渡し、役目を終えた満足感を胸に秘めつつ一息。僕はベッドの方に腰を下ろす。
 じっくり、ぼおっと、彼女を窺った。
 ……なぜ彼女がここにいるのだろう。
 真っ先に浮かぶのが哉鶯。
 いきなりの彼女の来襲にはおぼえがある。前のときは哉鶯が原因だったから、今回もそうなのかもしれない。
 もしかしたら、あいつが僕に助力してくれての結果なのかもな――良いように解釈してしまったが、まあいい。
 思考を終え、彼女がゲームをピコピコする様を特に何も考えず眺め続ける。
 おもしろかった。力んだり、あっと息を呑んだり、悔しそうにぶんぶん首を振ったりする彼女が、とてつもなくおもしろかった。これこそまさにいつまで見てても見飽きないというやつだろう。ううむ、芸術だ。絶対違うだろうけど、芸術だー。
 そう思っているうちにも、ある思慕がみるみる膨れ上がっていく。それもこれも。
 彼女が胸にひしと抱きしめているケースが、気になるからだ。
 気になる。知的好奇心というか、興味が湧くというか。決して開けてはなりませんと言われたら開けたくなる鶴の恩返しチックな感情だ。パンドラの箱でも喩えられるかもしれない。たまてばこでも喩えられるかもしれない。まあ、つまりはそういう"気になる"という気持ちが彼女のケースを矛先にしているのだ。ううむ。この獣は貪欲だからな。抑えられる自信がない。よし、訊いちゃうか。
 そうして言葉が喉のほうまで上り詰めたとき、突然彼女がゲームから顔を上げてじっと僕を見てきた。
 何かあると思って、口からは別の言葉を放つ。
「…………何?」
 それを引き金に、彼女がぼんっと真っ赤になってしまった。
 口をパクパクし、不満げな風を装って話を切ろうとするのかと思えば、ハッと何かに思い至ったように断念し、僕の視線を気にするようにちらちらとこちらを見たりしては、更なるしどろもどろへと落ちていく……そろそろ助け舟出してやるべきだろうか。でも、どう救いの手を差し伸べようか迷うな。
 しかし、それよりもはやく彼女が努力を実らせた。
「お、お願いが、あるの」
「おねがい?」
 尋ね、顔を寄せる。彼女の瞳がくじけたように揺らいだのでしまったと肝を冷やしたが、彼女はゆっくりと言葉を零し始めた。
「直したいの。パパとお母さんが弾いてたやつで、お母さんが死んじゃってからはパパが弾かなくなって、なんでって訊いたらこれは壊れてるんだよって言ってたから。私にはわからないんだけど、だけど壊れたままなのは嫌で……」
 彼女が言葉を紡がなくなってから気づいた、彼女が嗚咽を上げて泣いていると。
 僕はそっと彼女の髪を撫でる。彼女が大丈夫と言って目元を拭う。そうしてから、ケースを見下ろした。
 彼女に大事にされている"それ"に、そっと手を置いた。
 両膝を床につき、彼女を見上げる。僕の目をみて、彼女がコクリと頷いた。言葉もなしに分かり合ったのが少し嬉しい。
 薄く微笑んで、"それ"に視線をもどす。自然と顔が引き締まるのを感じた。
 息を吸うのが難しい。意識がかき乱される。息を止め、決心を堅め、ゆっくりと両手で"それ"を開き。
「ああ……」
 思わず、声を漏らした。


「ちゃんと掴まれよ。結構スピード出すから」
「ん」
 家をこっそり飛び出した僕らは、自転車を使って街に出ると決めた。
 目標の場所は歩きでも問題はないのだけど、彼女が首を縦に振らなかったのだから仕方ない……って、甘いな僕。尻に敷かれてるな僕。
「ねーちん?」
「ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
 彼女に急かされ、僕は苦笑を返す。なぜか彼女がプイと顔を背けてしまったのが気になるけれど、気にしないことにする。
 女の子は複雑だからなぁ……っと、こんな考え事してるから怒られちゃうんだよな。いけないいけない。
「それじゃ行くぞ。ちゃんと掴まってろ」
「うん」
 緊張するように力が籠もり、僕の腰に回る彼女の腕が確かな圧迫を与えてくる。可愛いなぁと感じて、僕は内心で微笑み、前へ向いた。
 道がある。どこまでも真っ直ぐに思える道。その実はどこかに突き当たってしまう道で、それまでにどこかで折れなければ歩む道は続かなくなってしまう。
 どこかで折れ続ければどこまでも行けるのかというと、そうでないと僕は思う。
 誰しも、いつかは疲れ果ててしまうのだ。だから、どこまでも歩いていける者などどこにもいない。
 ――それでも。
 僕はペダルを漕ぎ踏み出した。
 ――僕は。
 最初の一歩は重かったけれど、二歩目からはとても軽くて、
 ――――どこまでも行けるような気がした。


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 街のどこか――街地図で確認したことがないため、どの辺りかわからない――にあるその店に行き着いた。
 自転車を下りて入店するまでも彼女がぴったりと僕に引っ付いてきたから、少し動きづらかった印象が残っている……店内に入った途端サッと離れる女心は、一生理解できそうにない。
 店長は、どこかの豪邸でセバスチャンをしてそうな穏やかな方で、顔見知りの僕を見て優しく微笑んでくれた。
 僕は軽く会釈し、背中に隠れる彼女をそのままに店長さんの前へと進む。
「お久しぶりです。にのまえさん」
「お久しぶりですね。今日は、どのようなご用件で?」
 雰囲気から雑談に来たのではないと悟ってくれたのだろうか。話が早いと思い、僕は左右を見渡した。
 いくつもある楽器達。一さんがつくったか、あるいは仕入れたか。どちらにしても、ピアノしか嗜んでない僕から見ても綺麗なものばかりだ。
 部屋の壁沿いに三つの段に分けて置かれている物々と、一さんの前にあるカウンターに並べられている物々と。それらをぐるりと見回してから、僕は彼女に向いた。
 そっと片手を伸ばす。その意図を汲んで、彼女が僕にケースを手渡してくれた。
 僕はそれを、一さんによく見えるよう自分の腕を台にして開いた。僕の視界がケースの一色に埋められてしまうが、それでも一さんが息を呑んで驚いているように見えた。
「これを……直してほしいんです」
 一さんは心ここにあらずな気がしたから、最低限伝えるべきことを端的に告げる。
 僕の言葉を聞いてかそうでないのか、一さんはカウンターから出て、ケースを両手で丁重に受け取り、まじまじと"それ"を見つめはじめた。
 やることがなくなり、ハッと彼女の視線に気づく。振り返れば、やはり僕を見ていたらしい彼女と目が合った。紅潮して顔を背けるわけでもなく、彼女は黙りこくって僕を覗き込む。
 心配そうな瞳をする彼女に、僕は大丈夫と微笑んで見せる。一さんは"それ"と同類の楽器を専門に扱っているのだ。どこが悪いかもわかるだろうし、直してもくれるはずだ。
「……これは、そこの子の物ですかな?」
 一さんが"それ"から顔を上げずに尋ねてきた。僕ははいと返して、彼女をの背中を押して一さんの前に歩かせる。
 一さんはゆっくりとしたモーションで彼女へ向き、閉めなおしたケースを彼女へと差し出した。
「安心してください、どこも壊れていませんよ」
 一さんは卒業証書を生徒に手渡す校長のような暖かい笑顔を浮かべて、言う。
 呆然とさせられた。僕はきっとまん丸な目をして一さんを見ていることだろう。一さんは顔を上げて、僕にも微笑んだ。しかし僕は、何も返せず、ただ呆然とするしかない。
 硬直したままの彼女の後姿を数秒見つめて、ハッと我を取り戻し、僕は声を漏らした。
「そ、そんなはずないです。だって、彼女のお父さんが、これは壊れたんだって言ってたらしくて――」
「嘘を、言われたのだろうね。何のためかはわからないけれど」
 嘘。彼女の肩が小刻みに震え始めて、僕はどうにかしなければと思った。しかし言葉を浮かばず、手も伸びない。
 そうしていると突然、一さんが彼女の肩に手を置いた。
「いいかい。この世には、二つの嘘があるんだよ」
 そして、彼女の目線まで膝を折り、慎重に言葉を口ずさむ。
「ひとつは、他人のためにつく嘘。もうひとつは、自分のためにつく嘘。そのふたつともに共通するものが何か、君にはわかるかな?」
「ぁ……」
 嗚咽を漏らして、彼女の肩がそれまで以上に震えた。なにしてくれてるんだと歯軋りしかけるが、なんとか堪える。
 ……一さんは良い人だ。
 この街では、僕や彼女のようなちょっとした有名人はちょっと髪型や服装を変えるだけで暮らすことができる。そうだから平々凡々な生活をできているけれど、それではごまかせない輩と会うことも世界中では起こり得る。そうして、ある公演の自由時間に僕を見つけた物好きがいたのだ。そいつは大声をあげて興奮して、意味もなく周りに僕の存在を教えて。まあその事態のおかげで外を歩くことの危険の大きさに気づけたのだけど、少しは野次馬という存在が嫌いになった。しかし、一さんは違う。一さんは、違ったのだ。
「麗華ちゃん。君に嘘をついたその人は、きっととてもつらいのだろう。君がすべきこと、それは君がしたいと思うこと。
この言葉の意味、わかるね?」
「……は、ぃ。わかり、ます」
 泣きじゃくるのに押しつぶされながらも、その言葉はしっかりと発せられた。
 一さんはコクリと頷き、身をもどす。そうして僕へと向いた。向いただけだった。気がかりだ。僕に何と伝えてきているのか。
 ――と同時、懐で携帯が鳴る。
 取り出し、ディスプレイを見れば、表示されている名は哉鶯だった。
 何事かと思い、しかしあいつと会話するのもめんどいなと思い、そうして迷った挙句に通話ボタンを押す。
『とまあ、そういうわけだ』
「わかった。じゃあな」
『うぉい!! いきなり切ろうとするんじゃねよ!』
「や、だって、用件は伝え終えただろう?」
『いや、何も言ってないぞ?』
「ちゃんと伝わったぞ」
『……マジ?』
「俺は哉鶯のこと信じてるからな。絶対早まるなよっ」
『全っ然伝わってねー』
 切った。携帯を懐に滑り込ませる。
 哉鶯が言いたいことはわかる。なぜなら、もうそれがすぐそこに来ているからだ。
「邪魔する。私の娘はここにいるかね?」
 視線を向ける。
 巨漢を数人引き連れた晴海さんが仁王立ちしていた。
 ――哉鶯。ちゃんと伝わってるよ。
 何年家族やってきたと思ってるんだか。
 この人が来るってことを教えようとしてくれたんだよな。手遅れだったけど、その気持ちは身に沁みたよ。
「パパ……」
 小さく呟いた彼女に、僕の視線は移った。
 言いたいことは、内心だけで呟く。
 ――親に黙って来たのかよ。
 妙に神経質になっているあの人のことだ、言っても許してはくれなかっただろう。しかし、こうなるのは予想できただろうに、なんで手のひとつやふたつ打っとかないのかね。僕がどうにかしてくれると思ったのだろうか。まあ、逃げたいと強く思う人ほど逃げた後のことは考えていないのだけれど。
 彼女は怯えた風にしながら、ぎゅっとケースを両腕で抱きしめる。
 フンと鼻で笑った晴海さんが、スタスタと彼女に歩み寄る。
 そして――
「心配かけおって、この馬鹿娘が!!」
 彼女を、った。
 凄く音が響いた、ような気がする。すくなくとも、僕の中ではとても大きく響いた。渇く、酷く、痛く、鳴り響いた。
 よろめいた彼女に駆け寄り、肩に手を当て支えてやる。ぼんやりした瞳をする彼女を見て、晴海さんが彼女を打ったのだという実感がわいて、いろいろな感情がごちゃ混ぜになった。
 言いたいことがいくつもある。しかし、どれから伝えたらいいのかわからなくて、順番なんか付けられるはずがなくて。そのせいで、溢れた感情の行き場がなくなって。
 僕は彼女をしっかり立たせると、彼女と晴海さんとの間に身を割り込ませた。
 キッと晴海さんを睨む。そして、ゆっくり、俊敏に、いろいろなものを籠めて、片手を振った。
 ぱぁんとあざやかな音が響いた。
 振り切った僕の片手に残る、人に触れたという感触。些細なものだったけど、とても印象的だった。
 しかし、そんなことに浸る暇もなく、思考が吹っ飛ぶ強烈な一撃をお見舞いされてしまった。
 勢いを殺しきれずに、その場に尻餅をついてしまう――ったく、反撃にしては威力高すぎるだろ。こっちの勝手な言い分だけどさ!
 ちょっとの時間を置いて起き上がろうとしたそのとき、さきほどと同じような甲高い音が響く。
 ハッと顔を上げた。
 ケースを二の腕で抱えたままの彼女が、己の右手を呆然と見ていた。何が起こったかはわからないけど、つまりはそういうことなのだろう。
 僕のときとは違って動揺したらしい晴海さんが、表情をつくるのに失敗して憤りのままにもう一度彼女を打った。
 慌てて立ち上がり、彼女を支える。
「とにかく、家にもどるぞ。話はそれからたっぷりと――」
「お待ちください。野々宮晴海さん」
 ぶっきらぼうに言い募る晴海さんが、突如口の動きを止めた。見れば、一さんが晴海さんへとゆっくりゆっくり歩み寄っている。
 晴海さんが困ったという風に微笑んだ。
「……ニノさん。これは、あなたには関係ない問題です」
「あなたのようなアホを止めるのが、私のような年配者の役目ですよ。まあ、早速本題に入りますとですね、麗華ちゃんがあなたに言いたいことがあるそうなんですよ。訊いてあげてくださいね、命令ですよ」
 唖然とした。
 強気な一さんなんてはじめて見たからだ。
 ……あなたは一体、何者なんだよ。
 そういう目を送ると、一さんはにっこりと微笑んだ。
 その意味は――はてさて、どういったことなんだろうね。


==♪===♪===♪===♪===♪===♪===♪===♪===♪===♪===♪===♪===♪===♪=


『あの子な。小学生の頃に母親をなくしたんだそうだ』
 強い夜風が、肌に刃を突き立ててくる。
 気にせず、手すりの向こうに広がる暗黒の街を見下ろして、言った。
「知ってる。それらしいこと言ってたから」
『やっぱり、そうか。なら、あのケースの中身にどんな思い入れがあるかは、知らないよな? 知らないって言ってくれよ。そうじゃねーと俺の言えることがなくなるから』
 屋上からの眺めは、やはり良い。しかし、そんなものは催促目に入っておらず眼前には今日を振り返る走馬灯が流れている。
 少しだけ考えた後、言った。
「……家族愛?」
『まあ、ぶっちゃけその通りだな。詳しくいうと、彼女が音楽を楽しいと思えた日々の総てが籠められてんだ。
父親と母親が楽しげに弾いていた頃をいっしょに生きてきた。彼女がピアノを弾き始めてからを見てきた。その総てが笑顔で、つらいことなんて何ひとつ映してない。だから、とっても暖かいんだ。
彼女が音楽を好きになった理由があれなのは間違いない。彼女の音楽もあれから派生してる。楽しい音。まさに音楽。素晴らしいよなぁ。それに実力がついてくるんだからよっ』
「それだけ好きだったのに……いや。それだけ好きだったから、かな」
『ああ。っつうか、純粋なもんってのはデリケートにできてんだよな。だから、母親が死んじまって、父親が母親との思い出から顔を背けるようになって、そうして積もった悲しみが彼女を苦しめて。
そりゃ音楽も楽しめなくなるよな。でも、それでも、彼女はそれから数年間は耐え続けたんだ。自分の音楽でパパが笑顔を取り戻してくれたら、彼女はそう言ってた。優しい子だよな。自分がつぶれそうだってのに、他人の心配してやんの。俺には真似できねぇよ。天賦の才ってやつなんだろうかねぇ?』
「あいつらしいな」
 彼女が大切に想っているから――才能があるなしじゃなくて、それが彼女なんだ。
『言うようになったじゃねぇか。息子の分際で』
「いま……あいつ。どうしてる?」
 ちょっとした無言のあと、哉鶯が笑い声を抑えるような声で言った。
『弾いてるぜ。例のやつをな。パパにでれでれしてやがる。ううん、デレっ娘も萌えるが、やっぱツンデレが最高だよなぁ』
「そうか。それじゃ、ゲームの世界にいってらっしゃい。止めないよ」
『いや、全力で止めてくれ。頼む』
「やだよ。手が汚れるじゃん」
『俺って汚物ッスかー!』
 今さらなことを何口走ってるのか。
「っていうか、弾くって表現間違ってないか? あいつもお前も、なんであれを"弾く"っていうんだよ」
『てめぇは空気が読めてねぇ。いいか、あのデカ物は回し切るのに十分はかかるんだ。あの親子どもは丁寧に、楽しげに回しやがる。それはそれは心を籠めてな。
"回す"よりも"弾く"のほうが妥当になっちまうんだよ。籠めた感情が、回しきったのを合図に音となって鳴り響く。音に想いを乗せてんだ。それこそまさに"音楽を弾く"の基盤だろーが。もうお前はスカイだなスカイ。スーパーケーワイだ。SKYだ。スペシャルキング哉鶯様だ。おお、すごい閃きだなこれは。よし、これからは俺をSKYと呼べ。ものごっつ喜ぶから!』
「平和だな」
 あのオルゴール・・・・・・・はやはり鳴らすのほうが妥当な気がする。
 鳴らすでも弾くでも、思いを籠めたというのは同じなはずだ。なら、僕は、あのオルゴールは鳴らすという表現に留めておきたい。
 ――麗華。
 ――次は音楽を弾けるといいな。
 痛いこと、つらいこと、悲しいこと。彼女から全部が取り払われた。
 だから、弾けるよな。
「どうだろ。ねーちんは私に弾いて欲しいの?」
 俺の意見で変えていいことでもないだろ。ちゃんと自分で考えろよ。
「厳しいね」
 まあな。
「ねーちんの性格が、見た目と全然違ってちょっと驚き」
 俺も驚きだ。お前がそんなに神出鬼没だとは思わなかったよ。
「どこから来たのか、知りたい?」
 知りたいな。
「どうしても?」
 どうしても。
「そっか。じゃあ教えてあげる」
 晴海さんといっしょにいた部屋からワープしてきた、とか言うのかな。
「あら、バレてた?」
 ああ、バレてるよ。
「幽霊だよな。麗華」
 僕は夜景から顔を背け、振り返った。
 淡い微笑を携えた彼女が、立っている。
 それだけならまだ良い。しかし、
 向こうが透けて見える・・・・・・・・・・ほど希薄な存在という・・・・・・・・・・のはどういうわけか・・・・・・・・・
「そうみたい。恐い?」
「全然……あー、でも、ある意味恐いかな」
 素直だね、と彼女がクスクス笑った。その間にも彼女が足元から消え始めている。
「消えるまでに、ちょっと話してくれるか?」
「うん。そのつもりで来たんだもの。パパとは十分いっしょにいれたから、ね」
 彼女が僕の隣にきて、手すりに持たれかけた。
 吹き抜けた夜風が僕を撫でる。
 彼女の髪が一切揺れないことに、僕は少しだけ悲しくなった。


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運命さだめが上手く辻褄を合わせてくれるらしいから、何も気にしなくていいんだって」
 彼女があっけらかんと言ったので、僕は微笑みながら首をかしげた。
「誰に言われたの?」
「死神。可愛い児だったよ。ねーちんが親ばかになっちゃいそうなくらい、世話のし甲斐がある児だった」
「疲れちまいそうだな。できれば遠慮したい」
「うっそだ〜」
 彼女が目を細めて微笑んだ。何かが吹っ切れたようで、とても美しく、とても儚かった。
「ねーちんは世話焼きだから、絶対あの児も助けちゃうよ」
「いや、どうだろーな。俺にも選り好みがあるし」
「ほんと?」
「嘘」
「やっぱり」
 両手を合わせて嬉しそうに言った彼女が、何かに思い当たって首を傾げる。
「ねーちんの"ねーちん"って、どういう意味があるの?」
「いまさらだな」
 学校での技術授業中、パソコンでメッセンジャーの勉強があったこと。そのときのハンドルネームが『神様』だったこと。友達に神と言われてたこと。義之がネ申ねもうと言い出したこと。そしてねーちんになったこと。ちゃんと順を追って説明した。
 言い終えたあとに大きく納得した声を漏らして、彼女がおもしろいねと言いたげな顔をして笑う。
 何か、しっくりとこない。彼女自身を押さえ込む障害は消えただろうに、何か彼女らしくない。
「麗華。もうひとつだけ、俺のこと、聞いてくれるか?」
「何?」
 目をきらきらさせる彼女にニヤリと微笑んで、僕はその両手を彼女の頬に当てた。
「俺、ツンデレ萌えなんだ」
「…………へ?」
「ツンデレな娘が可愛く思えて仕方がないんだ」
「ぇ、ええ!?」
「麗華。こんな俺のために思う存分ツンデレしてくれ、頼む」
「な、なんでアンタのために――むぐ」
「ツンデレ萌えー! ツンデレ麗華たん萌えー!」
「麗華たん言うなっ」
 ぷるぷると震えて顔を背ける彼女。キツい視線や物腰が普段の彼女に戻ってきて、やっと彼女としゃべっているという実感が湧いてきた。僕はけらけらと笑う。
 ――笑い、続ける。
 自分の中で笑い声が軽く響いて、感情の器が空っぽになって、そこに溢れ始める感情があっという間に抑えきれなくなって、目元から流れ出そうとするのをひた隠しにしたいがために、弾かれるようにして彼女に背を向けた。
 今にも消え失せてしまいそうな彼女を見届けるのに、耐えられなかったのかもしれない。
 背中の向こうに気配はない。
 彼女はもう消えてしまったのだろうか。
 さよならを言えないのは、名残惜しくなってしまいそうだな。
「麗華……」
 声を漏らす。震えていて、今にも崩れてしまいそうだった。どうもできない。割り切って、僕は言葉を続ける。
「――好きだ」
 すると、ふわっと暖かな風が背中に触れたような気がした。
 その風がありがとうと告げてきて、僕は今度こそ耐え切れなくなる。
 涙が溢れた。
 悲しかった。
 彼女にいなくなってほしくなかった。


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 ざわざわ……
「転校してきたばかりのあの子、どうしたんだろうね」「野々宮麗華ちゃんだっけ?」「知らないの? あの子、自殺したらしいよ」「ゲッ! マジかよ。このクラスにいた怨念でも乗り移ったのかな?」「サイテー。悪い意味でアンタのこと見直したよ。これから距離置くね」「フヒヒ、サーセン」「引き篭もれよバーカ」「バカとはなんだ」「ごめん。ほんとうのこと言いすぎた」「友達のことが信じられなくなりました。人生オワタ」
 ――晴海さんに聞かされた話だと。
 彼女と家に帰ったあと、ずっと施錠し続けて忘れようとしていた妻の部屋を久しぶりに開けたそうだ。
 そして、そこで見つけてしまった。もうカチカチに凝固してしまった血みどろの中で横たわる、野々宮麗華の死体を。
 晴海さんが言うには"腐敗した塊" 自分の娘の成れの果てとは思いたくなかったのだろう。
『どうも、辻褄の合わないことがある』
 哉鶯の言葉を思い出す。塊が小さすぎて、そして腐りすぎていると。
 まるで、死んでから何十年も経っているかのように――
「どうも、怪奇現象だね。ここに転校してきた彼女が"幽霊だった"かのようだ」
 花瓶の置いてある机を見ながら、義之が話しかけてきた。
 僕は首を横に振る。
「ちゃんとあいつはここにいただろ。あいつは、ちゃんと俺たちと同じ時の流れで生きていたよ」
「……ねーちん。もしかして、彼女に惚れてたの?」
 クリッとした瞳で、義之が僕を覗き込んできた。容姿端麗と言われるだけある美貌を前に、僕はどう言葉を返そうと迷い、
「俺、ツンデレ萌えなんだ」
 義之の髪をポンポンと叩いた。
 義之はニヤリと微笑み、僕の手を両手で被い込む。
「それでも僕は諦めないよ。君が好きだから」
 そして自身の双丘にぽっそりうずめ、ショートヘアの髪を傾げた。
 可愛いと思う。顔へと血が行きそうになって、乱暴気味に振りほどいた。
「ふふ。もう少し君を玩びたいところだけど、そろそろ先生が来ちゃいそうだね。退散することにするよ」
 片手を上げてウインク。短めのスカートを揺らせて義之は僕に背中を向けた。
 僕はほっと一息を漏らし、頬杖をつく。
 教室の賑わいが耳に入ってきた。
 だから、気づく。気づかされる。彼女の音は、もうどこにもない。気づきたくないけれど、気づかされてしまう。
 嗚呼と、陽の光に目を細めた。
 ――彼女は何処にも無くなってしまった。


 BAD END...














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