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『道化師』

作者:ぱぶろふ
ひとりの道化が暗い夜道を歩いていた。

その道は陰湿で少しでも足元を見失うと棘が刺さるようなところだった。

彼は足元に気を配りながら必死になって歩いていた。

しばらくしたところに、少女が倒れていた。

彼はひどく疲れていたが、仕方なく近づいた。

「お嬢さん、どうかなさいましたか?」

彼はその少女の手足を見た。

おそらくこの茨の棘で傷ついたに違いないと察したからだ。

しかし少女の身体にはかすり傷ひとつなかった。

道化は不思議に思い、また声をかけてみた。

「お嬢さん?」

よく見ると少女の目から何かが流れていた。

(これはもしかすると人間特有の『涙』と呼ばれるものではないのか・・)

道化は暫し様子を伺い、やがてポケットから白いスカーフを取り出した。

このスカーフは、よく仕事場のステージに立ったときに使う大切な小道具の

ひとつだった。

もっとも、観客は道化のことなど興味がなく、その後に順番を控えている

色鮮やかな衣装を身に着けた乙女の踊り子たちや、動物たちの演じる華麗な技、

そして執りを飾る一座の長でもありながら、それでいて若々しく

気品に満ちたエンターテイナーの、観客までを巻き込んだ大胆な魔術に

魅せられてしまうのだったが・・・。

いってみれば、道化はコース料理においてオードヴルのような存在だったのだ。

だから、いつもステージが終わる頃と道化が家路に着く頃の時刻は

たいてい似たようなものだった。今、この日を除いては・・・。

「もしよければ、このスカーフをお使いください」

道化が差し出すと、少女は無言のまま受け取り、それを『涙』に当てた。

「どうもありがとう」

少女が一言だけぽつりと言葉を発したので、道化は少し安心してみた。

ふと、返ってきたスカーフを見ると、少女に触れた生地の辺りだけが

真紅に染まっていた。

(血か・・・)

少女は少し落ち着いてきたのか、自らの足で立とうとした。

しかし、すぐに足元がふらつき、道化に身体を預けた。

すでに意識をなくしていた。



道化は考えていた。すぐ傍には眠ったままの少女がいた。

彼は眠ったままの少女を起こさぬように近くのベンチまで運ぶと、

少しずつ離れ、そのまま地べたに寝転んでしまった。

(自分はいったい何をやっているのか・・・)

(この人間はどこから来て、なぜあんな場所にいたのだろう・・・)

やがて、彼もまた、眠りに落ちた。



目が覚めたとき、少女の姿はなかった。

そろそろ寒くなる季節頃だと記憶していた道化は、起きた瞬間、

後悔を覚えるはずだった。しかし、なぜか身体全体がぽかぽかしている

ことに違和感を感じた。

(暖かい・・・)

起き上がりかけて、すぐ傍を何かが散った。

(これは・・・)

彼の身体を覆っていたものは無数の落葉で、さらにその上から、昨夜、

少女に着せてやった薄いレインコートが被せられていた。

道化は姿のない少女を必死に追った。

しかし、辺りに人気はなく、彼は探すのをやめた。



それから、道化は仕事場からの帰り道に少女を見かけるようになった。

それは偶然の産物のような擦れ違いの連続で、彼が訪れるたびに

彼女は去り、痕には微かなキャラウェイの香水の残り香と、

そこにはない彼女のアンニュイな雰囲気が交錯された空間だけが広がっていた。

しかし、それも時間とともに薄れ始め、道化はいつもの日常を取り戻していた。

そんなときだった。道端で泣いている少女が目に映ったのは・・・。

道化はそのまま通り過ぎようとしたのだが、何かが足に躓き、そして

コケタ・・・。道化には痛みというものがなく、そのときも彼は痛みを

感じなかったが、地面に顔がぶつかるときの衝撃で、鈍く、骨が軋むような

音がした。その動作に気づいた少女が道化と初めて視線を交わした。

道化は表情を全く崩さずにいたが、先ほどの衝撃で顔全体が膨れ上がり、

鼻は潰れ、頭部からは血が滴り落ちていた。

少女はすぐにハンカチーフを取り出そうとしたが、その日は持ち合せがなく、

自分の不甲斐なさに嫌悪した。しかし、すぐに気を取り直し、代わりの物を

探そうとする少女に対して道化からスカーフが差し出された。

「大丈夫ですか?お嬢さん・・・」

道化は冷静な表情で、倒れている少女を気にした。少女の目にもまた、以前と

同じように血の雫が流れたままになっていたからだ。少女はそのスカーフを

見つめ、以前にも同じようなことがあったことを記憶から再生し、その日

初めて表情を崩した。

さらに道化の顔を見た少女は、もう彼を笑うしかなかった。

彼の顔があまりに真剣で、あまりに不細工だったのだから・・・。



「私の名前はエレクトラ」

エレクトラは道化に自分のことを話し始めた。自らの育ったところの話や

今の生活のこと、未来の自分自身について目を輝かせた。その目が瞬間、

憂いたようにみえた彼がまたスカーフに手を伸ばそうとしたが、

それに気づいたエレクトラに遮られた。

「私は大丈夫よ。それよりあなたが・・・」

そう言って道化の傷を手当てしたエレクトラは、自らの傷について話し始めた。

やがて一人の男の名前を口にした。

「彼の名前はカストル。世界中を旅して周るエンジニアなの」

エレクトラは無邪気で奔放的な彼を愛していた。それは、話している表情や

動作からも道化に伝わった。カストルもまた、彼女を愛していたが、

同時に彼には子供の頃から宝物のように大事にしている夢があった。

その夢を叶えるための時間と二人にとっての時間。アンビバレントな空間に、

しかし自分という存在はふたつとなかった。

「彼の夢は私の夢でもあるの。ホントはすぐ傍に居たいけれど、それは

無理なのよ。それでも時々会える時間は嬉しくて・・・。なのに彼に会えて

もすぐに別れがきちゃうし、それでまた喧嘩になっちゃう。

私、彼を困らせてばかりいるの。」

道化は不安と自己嫌悪で押しつぶされそうになっているエレクトラの

華奢な背筋に手を当てた。エレクトラの身体は小刻みに震えていたが、

道化が擦ってやると少し落ち着いてみせた。

「ありがとう」

道化は何やら得体の知れない眩暈に俯いたが、すぐにまた元に戻った。

(アリガトウ・・・)



街灯りは何処となく静寂になり、人の気配は益々疎らになっていった。

道化はステージを降りるとそのままいつものように家路を辿った。

エレクトラは少しずつではあったが表情に艶を取り戻していった。

彼女は徐々に道化に気を許し、やがてステージが終わるとエレクトラが

外で待つようになっていった。

「どうして中に入って観ちゃダメなの?外で待つのはとても寒いのよ」

なら待たなければいい・・・。そう思った道化だが、なぜか口には出せずに

いた。やがて雪が舞い降りる季節になり、それでも外で待つエレクトラの

姿があった。中に入って待てばいいとは言えなかった。この頃になると、

彼は自分がなぜ言い出せずにいるのか気づき始めていた。彼は震えた。

寒さのせいかもしれないと感じた。

「あら?どうして室内にいるはずのあなたが、そんなに顔色を悪くして

いるのかしら?」

エレクトラの問いかけにも同様にして答えた。それでもまだ呆けている

道化の顔に何かが飛んできた。

「ごめんなさい。私、あなたが避けると思って・・・」

言葉とは裏腹に、彼女の表情には少しも悪びれる様子がなく、すでに

二つ目の雪を丸めていた。その姿は純粋そのもので、道化の心を溶かした。

道化は足元にある雪を丸め、身体を丸めて巨大な物体作りに夢中になっている

エレクトラに向けてぶつけた・・・。

そこにいたのは、もはや道化ではなかったのかもしれない。

彼は自分の感情を認めようとしていたが、それは同時に道化としての

仕事を失くすことに等しかった。

(だが・・・あんな仕事失くしたところで何になる・・・)

そう思いながらも、いつものように仕事場に向かう彼は矛盾も感じていた。

(そもそも私は何を秤に掛けているのか・・・)

ふと、カストルという男がどんな人間なのか知りたくなった。そして、

道化自身がただの人間に過ぎないのだと知った。彼はその日の仕事を

無理を言って休みにすると、ひとりで図書館へと向かった。

カストルという男の情報を少しでも得るためだった。

カストルがどんな人間なのか知ったのは、そのすぐ後だった。





その日はなぜかエレクトラの様子がいつになく違っていた。どうしたのか

尋ねても答えようとせず、無邪気に笑ってみせたかと思うと、今度は物思いに

沈んでいた。そして、道化に突然こんな質問を投げかけた。

「もし、道端で泣いているのが人間ではなくて子猫だとしたら、

あなたはその猫を助けてあげる?」

道化は少し考えてから答えた。

「いや、助けない」

エレクトラはがっかりしたような表情をしてみせたが、そのあとは何事も

なかったように時が流れた。



道化のステージは相変わらずの内容だったが、帰りに女性を伴い歩いて

いたという情報が広がり、周囲の脚光を浴びた。道化はメインではなく

オードヴルに興味を持ってくれたことに嬉しさを感じた。と、同時に、

コース料理でひとり浮いてしまった道化としての存在を恥じた。

だが、一度注目を浴びた波はちっぽけな道化の存在を、いとも簡単に

飲み込み、演目の『道化師』はオードヴルからデザートへと移される

ことになった。

(こうなった以上、客席に呼んでみせてやる事だってできる)

道化は喜びを隠せず、すぐにでもエレクトラに伝えたいと思った。急いで

着替えを済ませ、出口へ向かおうとする道化の元に、ひとりの同僚が

話しかけてきた。猛獣使いのポルックスだった。

「ねぇ君、まさか前座から執りを飾ることになるとは思わなかったよ。

最近は客足も減り始めてきているそうだし、座長も随分と苦労していると

思われるね。道化なんてやってる君が、まさかカストル公爵と親しくして

いたエレクトラ嬢と仲がいいなんて驚きだよ。そういえば、今日の公演を

カストル公爵も見に来られたそうじゃないか?」

そこまで言ってから、道化の答えを待った。

「そうなのか・・・」

先程まで陽気だった道化が浮かない表情をしていたのに気を好くした

ポルックスは、さらに続けた。

「ねぇ君、カストル公爵に気づいていたのかね?」

道化は少し考えてから答えた。

「いや、気づいていなかった」

待ち望んだ答えにポルックスは表情を緩めた。

「無理もないだろうねぇ。カストル公爵は御忍びで来ている様だったし、

気づいた人間はといえば私を含めて一部だけのようだよ。

まぁ、これから外を歩くときは気をつけることだね」

ポルックスは満ち足りたような表情をみせると道化に背を向けた。



それから何日かして、ある記事にカストル公爵とエレクトラ妃との婚約が

伝えられていた。道化の表情に不思議と笑みが浮んだ。

それは喜びでもなければ悲しみでもない、祝福を込めた笑みだったに違いない。

道化は始めてカストル公爵の顔を知った日のことを思い出していた。

それは、あの雪遊びの翌日のことだった。

図書館へと向かった道化は、そこである記事を目にして、その場に崩れかけた。

その日を費やしてでも見つかるとは思っていなかった彼は

『山登りを楽しむカストル公爵』という記事の見出しに驚かされた。

けれども、世界中にカストルという名前が散りばめられた中で、まさか

彼の探しているカストルが公爵であるはずがなかった。しかし、その記事に

載っている写真の人物が雪の降りしきるゲレンデにいたこと、機械工学に

興味を持っていること、最近になって破局したということなどから

エレクトラとの接点がなくもなかった。

(あの公演後の雪の中で、私を待っていた理由もこれで説明がつく・・・)

(彼女は私ではない誰かを想うことであの寒さに耐えることができた・・・)

道化はまた、心に何かが積もる気配を感じたが、そこでふと矛盾に気づいた。

(ならなぜ彼女は私に近づいたのか・・・)

(何も利用価値などなかったはずなのに・・・)

茫漠とした深淵の中で道化は苦しんでいた。しかし、そのときになって道化が

秤に掛けていたものが何か分かった。そこにはふたつの事の顛末があった。

偶然にもよくできていたのは、どちらに傾いても誰も傷つかないということ

だった。

(誰も傷つかない・・・か・・・)

道化は静かに笑った。

それからというもの、道化は結末に向けての作業に取り掛かった。

といっても単純なことだ。ひたすら小刻みな嘘をついたのだ。

それは他愛もない日常生活を覆うほどであったが、あまりに細かなもの

が多く、滅多に人目につかなかった。

まして普段の彼は観客から相手にもされない道化である。大抵の嘘が

膨れていったとしても、直ぐには弾けないように繊細に創られていた。

そこまでして道化が守りたかったものは何か?それは、どうしても知られ

てはならない守るべきたったひとつの嘘だった。誰も傷つけないような

偶然を生み出すためには必然的なものが不可欠だったのだ。

道化は何処かで何かが弾ける予感だけを感じていた。



エレクトラ嬢と道化の関係について、とある新聞が小さな記事にした。

そこに僅かながらの人間が興味を示し、それにまた新聞社が興味を示し・・・

波が少しずつ近づく気配を感じた道化は、それでも逃げようとはしなかった。

その波は自然的かつ必然的で、どのように押し寄せてきても受け入れる覚悟が

彼にはあったのだろう。やがて、撒き散らしていた嘘が嘘のように弾けだした。



カストル公爵はある新聞の記事を見て狂おしいほどの嫉妬を感じた。

それは、一方的に別れを告げたエレクトラ嬢が道化などと親しくして

いるということだった。自らの地位とは比較にもならず、侮辱感は増して

いった。それに呼応するかのように、エレクトラの知らせをまさかこの

異国の地で目にするとはと嬉しさに奮えた。これがまさか道化の

仕組んだものだとは思いもしていなかった。



エレクトラは道化との関係について、在りもしない嘘が綴られている記事

について気にしないようにしていたが、道化の方でも気づいていない様子

なので、これがまさか道化の仕組んだものだとは思いもしていなかった。

そして、そのすぐ隣にあった記事に目を移して思い悩んだ。

記事には『カストル公爵とエレクトラ嬢の復縁説』という大きな見出しと、

カストル公爵は近頃になって頻繁にある女性の名前を口にし、

愛を叫んでいるとあった。エレクトラはこの記事もあまり気にしないつもり

で読んでいたが、最後の文脈に視線が注がれたとき、眩暈のようなもの

を感じた。

『私がすべて愚かで、九月の相手と三月にやり直したいと思っている、と

友人に語ったカストル公爵の眼差しは愛に気づいた無垢な青年そのもの

だったという・・・』

記事はそう締め括られていた。エレクトラの心は激しく揺れ動いた。










あなたが純白の衣を纏うとき、私は漆黒の衣を纏いて闇に消えよう










ひとりの道化が薄暗い夕焼け道を歩いていた。

その道は少しくらい足元を見失っても何もないようなところだった。

彼は足元に気を配りもせずに歩いた。

しばらくしたところに、とある少女が立っていた。

彼はその少女に近づいた。

「お嬢さん、どうかなさいましたか?」

彼女は答えた。

「えぇ、道化さん。あなたを待っていたのよ」

そこに立っていたのは、道化が初めて会ったときの少女ではなく

幸せに生きる女性の姿であった。

「これをお返ししなきゃと思って・・・」

そう言って、彼女はあの白いスカーフを取り出した。

「何度も洗ってみたのだけど、私の『涙』の痕が少しだけ残ってしまった

の。ごめんなさいね」

彼女は悪びれた様子で舌を出した。その姿は道化に一匹の子猫を

連想させ、一瞬にして、あのときの彼女の言葉が脳裏を過ぎった。


『もし、道端で泣いているのが人間ではなくて子猫だとしたら、

あなたはその猫を助けてあげる?』


「エレクトラ・・・」

道化は何かを言いかけたが、止めてしまった。

「いや・・・」

道化の言葉に何か考えているようだったが、彼女もまた止めてしまった。

「そう・・・ではそろそろ行くわね、道化さん」

「ええ、さようなら」

「さようなら」          

ふたつの影がカーテンコールの合図のように左右に分かれた。道化は

手渡されたスカーフを広げてみた。スカーフに浮んでいた真紅の模様は、

いつしか夕焼けの光に照らされ、オレンジ色に染まっていた。


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