序
昼休みを告げる鐘の音が、教室に響いた。
「それでは、これで授業を終わります」
黒板の前に立つ教師の言葉を最後まで言う前に、生徒たちはそれぞれ動き始めた。
女子生徒は机をを持ってきて集まり、男子生徒は友人と共に食堂に向かう。教師が出ると同時に、周りの音が一際大きくなった気がした。
それらの光景を尻目に、猫塚優人は教科書を机の中に入れる。
(……いつもの場所に行くか)
賑やかな教室の中、猫塚は静かに弁当を取り出す。
今日は大好物の魚のフライが入っていたことを思い出し、物音を立てずに席を立つ。廊下へとまっすぐに出ようとして、ふと足に何かが当たった感触。
足元を見下ろすと、茶色い犬の形をした消しゴムと目が合った。
「それ、私の消しゴムなの」
顔を上げると、一つの席を取り囲む三人の女子生徒。
見るからに派手で目立ちそうな女子たちの中、一人の小柄な女子生徒が、申し訳なさそうに両手を合わせていた。
肩まで切りそろえた髪はふんわりとした柔らかさを感じさせ、茶色の大きな目は子供のような純粋さを残している。小柄な体躯からにじみ出る人懐っこさは、童顔も相まって、まるで小型犬のように見えた。
(誰だっけ?)
一ヶ月経っても人の名前を覚えていない自分に不安を覚えつつ、消しゴムを拾う。
女子生徒の元まで行くと、椅子に座っているせいか、さらに小さく見えた。
「ありがとう、猫塚くん」
「ああ」
消しゴムを女子生徒に手渡すと、猫塚は僅かに頭を下げる。そして、足早に廊下へと出ると扉を閉める。
(……同級生と話したのって、初めてかも)
我ながら情けないと思いながら、猫塚は足音を立てず目的地へと向かった。
「あいつがしゃべってるとこ、一ヶ月経って初めて見たんだけど」
「私もー」
猫塚が視界から消えると同時に、潤と薫が弁当をつつくのを再開した。女子生徒ーー犬飼奈緒は筆箱に消しゴムを入れる。
「ていうか、昼休みどこいってんだろ?」
「毎回、教室にいないよね」
「一人寂しく便所飯、とか?」
「さすがに、それはないっしょ!」
「いやいや、ああいう根暗なやつならありそうだって」
友人たちの楽しげな話を聞きながら、犬飼は密かにほっと息を吐く。安心して弁当を食べようとして、
「そういえば、さっきの話、ナオちゃん決めてくれた?」
体がビクっと、一瞬飛び上がる。
背中に冷や汗が流れているのを感じつつ、犬飼がぎこちない表情で口を開く。
「その、本当に行くの?」
「行くに決まってんじゃん、合コン」
必死ではないことを装いながら、犬飼はやんわりと断ろうとする。
「ええー、私はいいよ。別に、彼氏とかいらないし」
「それでもいいんだって。あたしたちにとったら飯をおごってもらいに行くだけなんだし」
「なんか申し訳ないよ、それは」
「本当いい子すぎでしょ!」
突然、薫が犬飼の小柄な体に飛びつく。薫との体格差もあり、まるで姉妹のじゃれあいのように見えた。
毎度の薫の行為に抵抗するのを諦めた犬飼が、潤に顔を向ける。
「本当に行くの?」
「当たり前でしょ、ともかくそれで決まりだからね」
潤の容赦ない言葉に、犬飼は心の底からため息を吐いた。
誰ともすれ違わず、猫塚は廊下を歩く。やがて、校舎の隅っこまで来ると、目的地に続く扉を開ける。そこは、昼休みのたびに来るいつもの場所だった。
校舎側には冷たいコンクリートが敷かれている。扉の斜め正面には、ぽつんと置かれた木造の体育倉庫があり、茶色く錆びた錠で扉が閉ざされている。周りには手入れが忘れられた雑草が生えていて、膝ほどまで伸びきっている。
所々に傷がある体育倉庫まで歩き、いつも座る場所を手で払って座る。弁当を広げて、黙々と食べる。
そよ風で揺れる猫じゃらしを眺めながら食べていると、ピコンと電子音が鳴り響く。
ポケットからスマホを取り出し、確認する。中学時代の友人の涼からだった。
『よう、元気にしてっか』
弁当を床に置いて、すぐに返信する。
『まあまあ、かな』
『お前らしい返事だな』
『そうか?』
『そういや、新しい友達はできたか?』
なんと返事しようか、一瞬考える。
『一応、いるよ』
『それなら安心した。お前って、あんまり話さないから』
『余計なお世話だ』
『あ、後、最近彼女できたんだよ』
『……それって、ちゃんと実在してるか?』
『実在してるわ! 失礼だな』
涼の叫んでいる顔が脳裏に浮かび、思わず苦笑する。
『悪い悪い』
『お前もさ、彼女作れば?』
指が止まる。なんと返信したらいいのか分からなくなる。
猫塚の指が動き始める前に、ピコンと電子音が鳴る。
『悪い、友達に呼ばれたから、もう行くわ』
その返事を見て、やっと猫塚の指が動く。
『ああ』
『また今度遊びに行こうぜ』
涼の返信を確認して、猫塚がスマホの電源を切る。
長い長いため息を吐く。
弁当を食べる気が無くなり、ぼんやりと空を眺める。吹き抜けるような青空が、ただただ広がっていた。
しばらくして、魚のフライを残して弁当を片付けると、雑草の中から動物の鳴き声が聞こえた。
今まで聞いたことがない声が気になり、雑草を掻き分けて覗くと、野良猫たちが気持ちよさそうに丸まっていた。
それに気づいた猫塚が慌てて教室に帰ろうとして、一陣の風が校舎裏を通り過ぎた。
瞬間、鼻をむず痒さの波が襲う。
「へっくしょん! へっくしょん!」
我慢する暇もなく、猫塚が何度もくしゃみをする。慌てて口と鼻を抑えるが、くしゃみが止まる気配は全くない。
弁当を置いて、猫から距離を離す。
廊下に続く扉の前まで来て、くしゃみは次第に落ち着いてきた。くしゃみをする気配がなくなると、安心したように息を吐く。
体育倉庫にたむろする猫たちを見つめながら、弁当をどうしたらいいか考えていると、
ーードンと扉が勢い良く開く。
扉に押し出された風が猫塚の顔を叩き、目の前で扉がピタリと止まる。
当たる寸前だったことにひやひやしながら、扉から僅かに顔を出す。そこには、見覚えのある小柄な女子生徒の後ろ姿。
(あれって、さっきの……)
女子生徒は猫塚に気づいている様子はなく、足早に体育倉庫に向かう。すると、ポケットから出した鍵で扉を開け、中に入る。
女子生徒の行動を猫塚がぽかんと見つめていると、
「なんで、合コンに行かなきゃならないのよ!」
突然の甲高い大声に、猫塚は扉の後ろで耳をふさぐ。
「合コンって大学生からじゃないの! 近頃の高校生ってどうなってんのよ!」
体育倉庫からの声に雑草が揺れ動き、猫たちが一目散に逃げだす。
「というか、三次元なんか興味ないし! 二次元のみだから、私のストライクゾーン!」
その後も女子生徒の叫びは延々と続く。気のせいか、校舎全体が揺れているように感じた。
しばらくして、ピタリと音が止む。
耳を塞いだまま体育倉庫を見る。さっきまでの騒音が嘘のように静まり返っていた。やがて、女子生徒が何事もなかったかのように出てくると、猫塚は咄嗟に扉に隠れる。近づいている気配を感じて、息をひそめる。女子生徒は猫塚に気付かず、扉を閉めて廊下に戻る。
足音が遠くまでいくと、猫塚はやっと息を吐く。
(な、なんなんだ、今のは)
信じられない光景を見た猫塚は、コンクリートの段差に何かが落ちているのに気づく。
それは、ピンク色の髪の男がウインクしているキーホルダーだった。
さっきまで何もなかったから、多分女子生徒のものなのだろうか。
猫塚は教室で見た女子生徒と、さっきの怒号を比べる。
「……女って、すごいな」
遠くで、猫の鳴き声が聞こえた。