豆腐屋
「なぁ。“命豆腐”、って知ってるか?」
「……イノチドウフ……?」
――プーーーーーぺーーーーー。
その話を聞いたのは、私がまだ幼かった、小学二年生の時のことだった。
夕暮れ時の公園。近所の友達と一日中駆け回って、疲れ切って、駄菓子屋でお菓子を買って。公園でそれを食べながら、一休みをしている時のことだった。
「教えてやるよ。耳貸せ……」
近所に住む三つ年上の友達、シンちゃんがそう言って教えてくれたのは、こんな話だった。
この町内を、笛を吹きながら自転車で走り回り、豆腐を売る“豆腐屋”さん。
その豆腐屋が、不思議な豆腐を売っているというのである。
それが、“命豆腐”。
命豆腐を一口食べれば生命力が漲り、知力、体力が急激に増すというのだ。
それを、シンちゃんはこう説明した。
「なんかよくわかんねーけど……。“スーパーサイヤ人”みてーになるんじゃねーかって。俺の友達の友達が、そう言ってたって」
シンちゃんの説明を聞いた私は、素直に驚いて見せた。彼は続けざまに、小六の女の子がそれを食べてテストを受け、私立の中学に行っただとか、中学生の男の子がそれを食べ、部活の大会で優勝しただとか。――そんな話を私に聞かせた。
「すっげぇー……」
私は感嘆の声を漏らす。だが、シンちゃんはこう話を続けた。
「でもな……」
顔を近づけ、小声で言う。
「それ食べると、“寿命”が縮まって、早く死んじゃうんだって……」
*
夜、寝る前。真っ暗になった寝室で横になった私は、“命豆腐”について考えていた。
――それには、ある理由があった。
一週間後、私の通っていた小学校で、運動会が行われる予定だったのだ。
その前年、一年生の時。私は徒競走で“ビリ”になってしまった。
転んだとか、スタートで出遅れただとか、そんな理由ではない。単純に、足が遅かったのだ。
父は、悔しくて泣く私を抱きしめ、慰めた。
「確かにビリだったかもしれんがな。頑張ってるお前の姿は、ちゃんと見てたぞ」
――それでも、当時の私は悔しかった。父は仕事で忙しく、休日も家にいないことが多い。
そんな父が、会社を休んで見に来てくれていたのだ。――なのに。情けなさに、涙が止まらなかった。毎年毎年、こんな風に“ビリ”になり続けてしまったら、もう見に来てくれなくなるのではないか。そんなことを考え始めると、当時の私は夜も眠れなくなってしまうのであった。
今年の運動会にも、父は来てくれると言った。でも、もし今年も去年のように“ビリ”だったなら――。
そんな頃。この“命豆腐”の話を聞いた。
(“命豆腐”を食べれば、徒競走でも“ビリ”にならずに済むのかもしれない……)
そんなことを、考えていた。
*
――ガッシャァン。
次の日。私は自室で、ブタの貯金箱を割った。
陶器の破片が思っていたより辺りに飛び散り私は焦ったが、それをある程度片付けると、中に入っていた小銭をかき集めた。
「イッ……ツ……」
陶器の破片が掌に刺さり、小さな血の粒が膨らむ。
それを舐めとると部屋を出た。
“命豆腐”を、買いに行く決心をしたのだ。
――“寿命”――命をすり減らし、早く死んでしまうというデメリットは、もちろん恐ろしかった。“死”に対する漠然とした恐怖は、当時二年生の私でも、理解することができたのだ。
――しかし、今度の運動会。せっかく父が見に来てくれるのだから、“イチバン”になるところを見て欲しかった。――そして、褒めてもらいたかった。“死”への恐怖より、徒競走に勝つことで得られるであろう“喜び”が勝った。
町中を駆け巡り、豆腐屋を探した。もうすぐ秋だというのに、やたらと暑かった。ジジジジ……という、その夏最後の蝉の断末魔を聞きながら、ひたすらに走った。雲ひとつない、澄み切った青空だった。
――プーーー……ぺーーー……。
私は足を止めると、蝉の鳴き声に混ざった音に、耳を澄ませた。
――……プーーーーーぺーーーーー。
間違いなく。それは、豆腐屋の笛の音だ。
私は音のする方へ、再び走り出した。
――プーーーーーぺーーーーー。
しばらく走ると、前方に見覚えのあるシルエットが見えた。自転車の後ろに乗っけた大きな木箱。天にかざした、小さなラッパのような笛。
――プーーーーーぺーーーーー。
「豆腐屋さぁーんっ!」
肩で息をしながらも、やっと見つけた豆腐屋にむかって走る。
「……?」
こちらに気付いた豆腐屋のおじさんは、自転車を止めた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
すぐ近くまで行くと、私は両手を膝について息を整えた。
豆腐屋は声を発さず、ただ見下ろしている。
「あの…………」
意を決し、私は言う。
「“命豆腐”っ! くださいっ!」
「……“命豆腐”ぅ……?」
豆腐屋は低く、響くような声で言った。
――私は、一瞬不安になった。あぁ……やっぱり、ウソなのかな……と。
「……“命豆腐”が、欲しいのかい……?」
豆腐屋は怪しく微笑み、言った。
アッ。やっぱりあるんだ。私はそう思うと、言った。
「……はい。欲しいです」
――言いつつ、私の心の中では一瞬、迷いが生じた。
(“命豆腐”を食べなければ、きっとまた徒競走で“ビリ”になる……そうすれば、お父さんはガッカリする……。でも、“命豆腐”をもし食べれば。きっと徒競走では“イチバン”になって、お父さんは喜ぶ。…………でも……僕は早く死んじゃう……)
「……ホントウニィィ……?」
豆腐屋は私の方へ屈み込み、顔を近づけながら言った。
おじさんの目は、笑っていなかった。口は三日月型に、口角をツッ、と吊り上げ、ニタァッ、と笑う。
影の濃くなった顔の中で、両の眼だけが濡れ光っていた。
――私は恐怖のあまり「ヒュッ」と息を吸うと、身体を一瞬強張らせ、次の瞬間にはその場から逃げるように走り出した。
――死にたくない! やっぱり、死にたくない! ――そんな風に、思った。
*
その日からというもの、私はあの音が――
――プーーーーーぺーーーーー。
――トラウマになってしまったようで、嫌いになったしまった。そして――“豆腐”に罪はないのだが――“豆腐”も食べられなくなってしまったのだ。
結局――“命豆腐”が実在するのかどうかは今だにわからず、今思えばおじさんも私を脅かすためにあんなことを言ったのかもしれないのだが――それを買うこともなく、私は運動会に出た。
徒競走の結果は、“ビリ”から二番目。四人中、“三位”だった。
順位が一つ上がったのは、あの日豆腐屋を探すために、町中を必死で走り回ったからかもしれない。――今はそんな風に思う――。