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まみちがね

作者: 兵藤晴佳

 「まみちがね」は、沖縄・奄美大島辺りに伝わる、「シンデレラ」に似た物語です。違うのは、主人公が知恵と行動力で運命を切り開いていくというところでしょう。しかし、この物語の場合は……。

1、

 かつて、東シナ海のある険しく起伏に富んだ地形の島に、ある王が治める小さな国があった。小さいながらも多くの豪族が服属し、それなりにほとんど平和な時代が何百年も続いたという。

 今では苔むした石垣や草に埋もれた古い道がその名残をとどめるに過ぎない。資料を探しても、地方で見つかる古い文献の隅っこに、その名が申し訳程度に見つかるぐらいである。地元へ行って聞いてみても、誰もが「そんな国があったの?」と他人事のように言う。

 だが、そんな人たちでも知っている話がある。それは、この島に住んでいたとされる美しい首切り姫の伝説である。

 この美しく賢い姫君には、男という男が恋焦がれたという。だが、この姫は誰とも結婚することがなかった。求婚してくる男には老いも若きも、高貴な身分の者にも下賎な者にも、富貴な者にも貧しい者にも、分け隔てなく難題を課しては失敗させていたのである。失敗の報いは、死。姫の望みを叶えられなかった求婚者はことごとく斬首の刑に処せられ、その首は城の入り口に並べられたという。

 ところが、この姫の難題を解いて婿になった男がいる。婿になったということは、後に王となったはずである。だが、そんな王については、伝説も記録も残っていない。つまり、婿になったのはどんな男で、どんな運命をたどったか、それを知る者は誰もいないということだ。

 

2、

 昔、南の海のある島に、まみちがねという若者がいた。

 背は高く、その手足は逞しい。たいへん器用である。家が貧しく、山で切った竹で笊や籠を編んでは売りに出て、年老いた母を養っていた。整った顔立ちに両の眼がきらきらと輝き、よく見れば眉目秀麗の若者である。しかし、みすぼらしいなりをして腰を曲げ、背中に背負った笊だの籠だのをか細い声で売り歩く姿は見るからに哀れっぽかった。すれ違う人は知り合いもそうでない者も目をそらした。

 健康な体と美しい容貌を持つ心正しい若者がなぜここまで苦労しなければならないかというと、原因は母親にあった。とにかく、強欲なのである。

 そもそもこの母親というのが、もとは大きな娼館からある豪族のが旦那となり、妾として屋敷の中に囲った女であった。大金を叩いて身請けしたというから相当の美女であったようである。しかし天は二物を与えずとはよく言ったもので、この女には思いやりとか恥じらいとか、女性の美徳というものが根本的に欠けていた。

 元は貧しい身の上で、その美貌に眼をつけた両親が自ら金のために娼館に売り払ったというから気の毒といえば気の毒な身の上といえなくもない。しかし、客を取るようになってからは天性の才能というか本性というか、とにかく持って生まれた美貌に加えて奸智にものを言わせ、多くの男を手玉に取った。これが普通の女ならどんな男も恐れて近寄らないところだが、場所が場所である。娑婆の悪徳が苦界では美徳となり、我こそはと思う男は星の数ほど。そしてことごとく餌食となった。

 その女をものにした旦那の得意や知るべし。夜の務めも盛んで、とうとう玉のような男の子が生まれた。これがまみちがねである。

 さて、父親の金力と権力に守られてすくすくと育ったまみちがねに現れたのは、母親から受け継いだ美貌ばかりではなかった。

 多くの男を破滅させた母親の奸智は育ちの貧しさによるものである。したがって、それさえなければ受け継いだ血を真っ直ぐな方へ生かせる道理で、まみちがねは思いやり深く機転の利く神童として評判になった。旦那の得意は頂点に達し、蝶よ花よと眼に入れても痛くないほどの可愛がりよう。母親を身請けしたとき以上に吹聴した。

 面白くないのは、子どものない正妻である。なんとか失地回復をと思っているところへ、妾自ら墓穴を掘った。まみちがねが幼い頃はまだ大人しくしていたが、これが長ずるに及んでは本性を現した。隠れもなき嫡子の母よと、この女は調子に乗ったのである。屋敷の女主人となったかのように使用人を堂々と顎で使い、蔵の金は蕩尽する。とうとう正妻は夫に泣きついた。これでこの豪族も妾に非がなければ当主としての威厳を発揮して妻の悋気を叱りつけるところであるが、道理を通されては何ともならない。それでも息子には母親が必要だからと説き伏せ、その場を収めた。

 そこで正妻も、家を守るためと奮起した。要は、自分が子を成せばよいのである。妾に比べれば既にトウが立っていたので、大陸や半島から秘薬という秘薬を取り寄せ、回春に務めた。それが功を奏してか夫の心も動き、やがて正妻にはこの豪族の後を継ぐべき嫡男が生まれた。

 こうなっては因果もめぐる糸車、妾にはそれまでの悪事のツケが一遍に回ってきた。嫡子の母からタダの妾に立場が変わっても、相変わらず昼間から酒を飲み、金を持ち出し、やりたい放題である。むしろ息子のまみちがねのほうが気を遣って、自分は妾の子だからと厩番を買って出た。誰もが嫌がる、きつい汚れ仕事である。

 だが、まみちがねが朝早くから夜遅くまで働いても、母親の態度が改まらないのでは意味がない。正妻の怒りは解けず、とうとう母と子は屋敷を出ることとなった。門を出るとき自ら見送りに出た父親にまみちがねは深々と頭を下げ、恥も外聞もなく喚き散らす母親を宥めながらその場を立ち去ったという。

 実は家を出るとき、父親は母親に聞こえぬよう、まみちがねに屋敷への出入りを許していたのだが、彼は応ずる気などなかった。屋敷に足を踏み入れたところで、肩身の狭い思いをするのは分かりきっていた。それよりは、たいへんな人間ではあっても実の母親と暮らすほうがよほどマシだと考えたのである。

 ただ、心残りだったのは、厩の馬たちである。特に、父親がいつも自慢していた白馬は、彼も気に入っていた。あまり丁寧に手入れするので、いずれお前に譲ると言ってくれたことがある。そんな嬉しい思い出のある、あの白馬から離れるのは辛いものだった。

 さて、金も住む家も失った母子は、やがて山奥に捨てられた古い小屋を見つけてそこに住み着いた。ろくに働いたことのない母親に何を期待することもできはしない。働くのはまみちがねである。自ら山に入って竹を切り、また鍬を振るって畑を開くまみちがねは逞しい若者となり、母親はその心にふさわしく身体も醜く老いさらばえていった。


3、

 まみちがねが十六になった年、母親は死んだ。年老いても改まらない怠惰と不摂生が祟ったのである。

 草深い山奥に小さな墓を作って母親を弔ったまみちがねは、そのまま家を捨てて旅に出た。母親がいなくなった以上、どこへ行くにも彼を妨げるものは何もない。実のところ、まみちがねもせいせいしていたのである。思えば、彼の子ども時代は母親の犠牲になったようなものであった。それに比べれば、今の彼が望んでできないことは何一つない。つまり、彼は自由であった。

 山奥の小屋を出て平地に入るのは、その日のうちにできることではなかった。まみちがねと母親が流れ着いたところは、それほど人里を離れたところにあったのである。日中に母親を葬って、その足で旅に出たわけだから、道中で日が暮れたのは当然のことである。

 まみちがねは考える。

「どこで寝るか、寝るまいか。寝れば獣も蛇も出てこようし、寝るまいとしても獣も蛇も出てこよう。寝れば食われようし、寝るまいとしても食われよう。」

 ふと道端を見ると、太い枝を左右に張り出したおあつらえむきの木が一本あるではないか。

「登って寝るか、寝るまいか。寝れば蛇が登ってこようし、寝るまいとすれば獣も蛇も出てこよう。寝れば獣には食われまいが、寝るまいとすれば獣にも蛇にも食われよう」

 そこでまみちがねは、木の上で寝るほうがマシだと判断した。

 さて、木に登って枝の上で横になると、日中の疲れがどっと出て、まみちがねは眠ってしまった。しばらくして、微かな物音にふと眼を覚まして下を見ると、果たして大きな蛇がするすると幹に巻きつきながら登ってきていた。まみちがねは慌てて高いところの枝に手をかけた。急いでその枝まで片足を上げると、蛇は闇の中でチロチロと舌を閃かせながら、もう一方の足に絡み付いてきていた。木の幹にしがみついて蛇の巻きついた足を上下に振る。だが、そんなことで蛇が離れるわけはない。かえって手足を預けた枝は、要らぬ力がかかってぼっきり折れた。まみちがねは蛇もろとも、生い茂った下草の中へと転げ落ちる。強く頭を打って、気を失った。最後に考えたのは、蛇の腹の中はどんな様子だろうということだった。

 やがて、がさがさと草の揺れる音で、まみちがねは目が覚めた。てっきり蛇に呑まれたものと思っていたので怪訝に思って辺りを見渡すと、草葉の陰にうずくまっている者がいる。人のようでもあれば、獣のようでもある。まだ夜の明けぬ暗い中にも分かる長い白髪が草の葉の陰に見え隠れしているから、人であろう。一体何者か、それより蛇はどこかへいってしまったのかと考えていると、その草むらの中から投げ出された大きな塊がまみちがねの頭にごつんと当たって地面に落ちた。暗がりに眼を凝らしてよく見れば、先程までまみちがねを呑もうとしていた大蛇の頭である。ぞっとして草むらを見ると、静まり返っている。白髪頭もどこにも見えない。まみちがねは尋ねた。

「そこには誰かいるか。おらぬなら答える者はあるまい。おれば答えよ。」

 草むらが、ガサリと揺れた。まみちがねはなおも尋ねる。

「そこにいるのは人か、獣か。人なら答えよ。獣なら見逃してくれ」

 草むらがガサリガサリと揺れて、声がした。

「人でも獣でもない」

 その声は、知っている誰かに似ていた。そこでまみちがねは重ねて尋ねた。

「そこにいるのは何者か。私の知っているものなら姿を現せ。知らぬ者なら名を名乗れ」

 草むらの中から声が答えた。

「知っているものじゃが、姿を現すわけにはゆかぬ。お前の知っているものじゃから、名乗ることもない。」

 そこでまみちがねは問うた。

「この世のものか」

 草むらの中から声が答える。

「あの世の者じゃが、この世におる」

 そこでまみちがねはぞっとした。思い当たるのはひとりしかない。慌てて下草から腰を上げ、夜の暗い道へと駆け出した。荷物はどこへいったかと、ちらと考えたが、もはやそんなことはどうでもいい。あの草むらから少しでも遠ざかろうと、まみちがねは星明りを頼りに夜の山道を駆け通した。

 やがて、夜が白々と明け始めた。まみちがねは山道を抜けた。ほっとして道端に腰を下ろすと、背中の荷物もどさりと落ちた。はて、荷物は置いてきたはずだがと背中を見ると、それはきちんとそこにあるようだった。しかし、彼自身が背負っているわけではない。どうやら、何者かが背中にしがみつき、それが荷物を背負っているらしい。

 それに気づいたとき、背中のそれが耳元で囁いた。

「世話の焼ける息子じゃのう」

 逃げようとして立ち上がると、背中がずっしりと重かった。若いまみちがねの腰は、老人のように曲がってしまった。

 その日の昼には、まみちがねはそのまま母親を背負って、王のお膝もとの城下街に入っていた。城下街は城の一部であり、長く高い白壁と堅固な門によって外部と隔てられていた。ここへ入るには、門番の許しを得なければならない。裾の長い藍色の服に、羽飾りのついたノッポの鍔広帽子をかぶって、朱色の房のついた槍を持った門番である。彼らは、怪しいものは絶対に通さない、意志強固で、屈強な男たちとして知られていた。だが、その門番たちにさえも、腰の曲がったまみちがねが見とがめられることはなかった。ましてや、背中の母親に気付いてもらえるはずなどない。まみちがねは大きな荷物と死んだ母親を背負いながら、城下町の人混みの中を歩かなければならなった。母親は背中にしがみついているので、まみちがねが首を捻っても白髪頭しか見えない。その母親を背負った姿が道行く人からどう見えるかと思うと気が気でならなかった。

 さて、店に入って遅い昼飯を食べようとしたまみちがねは、流石に死んだ母親を背負ってはまずかろうと考えた。そこで母親に頼んでみた。

「おれは飯を食いたい。死人を背負うては店に入れぬゆえ、どこぞへ降ろさせてはくれぬか」

 母親は答えた。

「わしはお前の行く末が案じられるゆえ、冥土にも行けずこうしてついてきたのじゃ。降りることはできぬわい」

 まみちがねは困ってせがんだ。

「死人を背負うて、どこで飯を食えばよいのか」

 母親はなんでもないという風に答えた。

「わしを背負うたままでよい。わしが見えるのはお前だけじゃ」

 言われるままに昼飯を食いに入ると、なるほど誰一人として咎める者はない。そこで椅子に座って一番安いソバを頼んだ。

「一杯」

 背中で声が聞こえる。

「二杯じゃ」

 店の者が怪訝な顔をしたので、二杯頼んだ。出されたソバは、母も食おうとする。まみちがねはまず自分が食い、続いて自分が食うふりをして、かわりばんこに箸を背中へと運ばなければならなかった。


4、

 日が暮れる頃になって、まみちがねは寝る場所に困った。もともとたいして金があるわけではなく、宿を取ることなどできはしない。いっそのこと住み込みで雇ってくれるところがありはしないかと考えてあちこち探したが、昨日の今日で見つかる筈がない。あちこち探して歩いているうち、知らない街のこと、道に迷ってしまった。

 暗くなった人気のない狭い路地で立ち往生していると、その曲がり角からみすぼらしいなりの娘が現れて声をかけた。

「これ背の曲がった爺、道に迷うたか」

 まみちがねは答えた。

「俺は背は曲がっておるが爺ではない。爺ではないが道に迷うて困っておる」

 娘は尋ねる。

「どこへ行くのじゃ」

 まみちがねは答える。

「どこへ行こうか困っておる」

 娘は背を向けてすたすたと歩きだした。

「ついて来い」

 まみちがねがついていくと、右の路地を左に曲がり、左の路地を右に曲がり、進んだかと思うと戻り、戻ったかと思うと進んで、気がつくと街中からは随分と離れていた。

 まみちがねは尋ねる。

「どこへ行くのだ」

 娘は答える。

「城へ行くのじゃ」

 暗く細い細い道を右に曲がっては左に曲がり、左に曲がっては右に曲がり、進んだかと思うと戻り、戻ったかと思うと進んで、気がつくとまみちがねは城の門の前にいた。

 城の門は鉄の鋲が打たれた樫の大扉だった。その両脇には篝火が焚かれ、城下の門にいたのと同じような門番が立っている。娘が何か言うと門の脇の通用口が開いて、娘は少し待っておれと言うなりその中へ消えた。

 手持ち無沙汰となったまみちがねは背中を曲げたまま立っているほかはなかった。やがて、ずっと黙っていた背中の母親が口を開いた。

「知らぬ道はわしでもどうにもならぬが、知った道は何とでもなる」

 門番を気にして答えないまみちがねに、母親はなおも続ける。

「お前の頭の上にあるものを見よ」

 腰を曲げたまま首を回して上を見ると、篝火に照らされて、いくつもの首が高い台の上に晒されていた。あっと驚くと、母親がけたけた笑った。

「お前、王様の娘、ちゅらひめの話は知っておるか。二つ名を首切り姫というのじゃそうな」

 まみちがねは莚売り笊売りに忙しく、人の噂など聞いている暇はなかった。母親は楽しそうに話し続ける。

「姫の出す難題を三つ解いた者は婿になれるというての。数多の男どもが、老いも若きも、身分の高い者も低い者も挑んだらしいが、みんな蹴っつまずいて首を切られたと」

 まみちがねが逃げ出そうとすると、母親が止めた。

「待て。わしはお前の行く末が案じられるゆえ、止めるのじゃ。逃げてお前、どこへ行くのじゃ」

 まみちがねは囁いた。

「海なりと山なりと、どこへでも行くところはあろう」

 母親は答える。

「海なりと山なりと、わしをおぶって行ってくれるかの」

 答えられないまみちがねに、母親は畳み掛ける。

「わしはお前の行く末が案じられるゆえ、考えたのじゃ。お前、姫の婿になれ」

 まみちがねは唖然とする。

「おれにそんな甲斐性があろうか。首を切られてこんなところに晒されとうはない」

 母親はまた笑った。

「お前に甲斐性がないなら、わしはずっとおぶさっておるわい」

 まみちがねは尋ねた。

「わしに甲斐性があったら、降りてくれるか」

 母親は答えた。

「お前に甲斐性があったら、わしは行く末を案じることもない」

 まみちがねはなおも尋ねる。

「行く末を案じることがなければ、降りてくれるか」

 母親はハッキリ言った。

「行く末を案じることがなければ、冥土へ行ってやるわい」

 そこでまみちがねはどうすればいいか尋ねたが、母親は答えなかった。やがて門の通用口が開き、さっきの娘が出てきて言った。

「釜焚きが、昨日、姫に首を切られて死んだのじゃ。背の曲がったお前は釜焚きにちょうど良い」

 そのとき、篝火の明かりで、初めて娘の顔が見えた。あばただらけで口をへの字に曲げた、ぞっとするほど醜い娘だった。娘も、まみちがねの顔を真っ向から見るのは初めてだったはずだが、こちらは俯いて再び背を向けた。

「お前、名は何という」

 まみちがね、と答えると、娘も名乗った。

「ぬちんだから」


5、

 まみちがねは城の釜焚きとなった。釜焚きの主な仕事は、飯炊きである。まみちがねは、使用人の飯を炊くこの大きな釜の後ろで寝起きしていた。まみちがねは美しい容貌も分からなくなるほど真っ黒になって働いた。やがて、だれ言うとなく灰坊主というあだ名がついた。城は使用人が多く、まみちがねに与えられる部屋は畳一枚なかった。代わりに莚にくるまって寝た。ぬちんだからが、納屋の隅に丸まっていたのをくれたのである。母親が毎晩ぶつくさ言うので、まみちがねはろくに眠ることができなかった。背中の曲がった灰まみれのまみちがねは、皆にいじめられた。

 ある日のことである。賄いの準備が遅いと言って、まみちがねは皆に打たれた。既に死んでいる母親は痛くも痒くもなかったようであるが、まみちがねは数日の間、立つことも難儀した。賄いの準備は余計に遅れ、まみちがねはまた打たれた。起きるにも難儀したまみちがねを看病したのはぬちんだからであった。ぬちんだからは、お前のせいではないと言った。使用人が多すぎて賄いが間に合わず、前の釜焚きのときから、皆、朝飯を昼に食い、昼飯を夕に食い、夕飯は夜中に食っていたのだと。

 どれだけ体が痛んでも、まみちがねは働いた。働いたが、体が痛んでとても飯が食えなかった。食えない分の飯は背中の母親が食った。まみちがねの飯を食いながら母親は、温かい飯が食いたいものだと言った。まみちがねは言った。

「飯を炊こうにも釜が一つしかなく、釜がいくつあっても竈が一つしかない。朝炊いた飯は昼にしか食えず、昼炊いた飯は夕にしか食えず、夕に炊いた飯は夜中にしか食えないのだ」

 母親が言った。

「ならば竈が三つ、釜が三つあればよい」

 まみちがねはぼやいた。

「おれにどうせよというのだ」

 母親が言った。

「お前がどうこうするのではない、竈と釜がどうこうするのだ」

 次の日、竈が喚きだした。一日中喚き続けたので、使用人の皆が恐れて台所へ集った。まみちがねが何で泣くのかと竈に尋ねた。竈は答えた。ずっと独り身で寂しいのだと。どうすればよいかと尋ねると、竈はまた喚いた。皆は恐れ、困り果ててまみちがねにどうしようかと相談した。まみちがねは答えた。

「独り身で寂しいなら、妻と子を迎えてやろう」

 竈はすぐに三つになった。

 また次の日、釜が泣き出した。一日中泣き続けたので、使用人の皆が恐れて、また台所へ集った。まみちがねが何で泣くのかと釜に尋ねた。釜は答えた。父恋し、母恋しと。どうすればよいかと尋ねると、釜がまた喚いた。皆は恐れ、困り果ててまみちがねにどうしようかと相談した。まみちがねは答えた。

「父と母が恋しいなら、迎えてやろう」

 釜もすぐに三つになった。

 竈と釜が三つになったので、朝炊いた飯は朝食えるようになり、昼炊いた飯は昼食えるようになり、夕に炊いた飯は夕に食えるようになり、夜は皆、一晩中寝られるようになった。

 だが、その晩、まみちがねは釜の後ろで寝てはいなかった。闇夜に紛れて城から遥か遠くの夜道を歩いていた。竈や釜を普請する間、その後ろで喚いたり泣いたりするため、母親はまみちがねの背を離れたのである。ここぞとばかりに抜け出して、城を離れたのだった。背中が軽かったので、足取りも速かった。もうこの辺りでよいかと立ち止まり、城のほうを振り向くと、背中がずしりと重くなった。

 首を捻ると、白髪頭が見えた。母親が言った。

「行く末を案じることがなくなったら、冥土へ行ってやるわい」


6、

 竈と釜の一件が姫の耳に入り、まみちがねはちゅらひめへの目通りを許された。

 籐の椅子に脚を組んで座る姫は美しかった。豊かな胸が透けて見えそうなほど薄い白絹の衣はまるで天女を思わせた。瞳は明るく唇は海棠の如く艶を含み、流れるような黒髪は結うのももったいないのか、何の手も加えず長く垂らされていた。姫はこの、真っ黒に汚れて背を曲げた若者を面白そうに眺めていた。

 ちゅらひめは言う。

「灰坊主というのはそなたか」

 まみちがねは答えた。

「私ではありません」

 姫は尋ねる。

「そなたでなければ誰か」

 まみちがねはなおも答える。

「誰でもありません」

 姫は重ねて尋ねる。

「誰でもないそなたは何者か」

 母親が囁いた。

「答えるな」

 姫がなおも問う。

「何故答えぬか」

 まみちがねは、母親の言うとおり答えた。

「私の望みを叶えてくだされば、お答えしましょう」

 姫は笑った。

「望みとは何じゃ」

 まみちがねは、母親に教わったとおりに答えた。

「婿にしてくださいませ」

 姫は手を叩いて笑い、その場で難題を出した。

「よし、明日の朝までに私を迎える屋敷を誂えよ」

 姫の前から下げられたまみちがねは、再び釜の後ろに戻ってきた。母親に尋ねる。

「ああは答えたが、どうすればよいのか」

 母親は背中でケタケタ笑った。

「マア見ておれ。行く末を案じることがなくなったら、冥土へ行ってやるわい」

 夕飯を炊いたらそのまま寝ておれ、朝になって目が覚めたら、お前は大きな屋敷の主じゃ、と母親は言った。

 だが、まみちがねが眼を覚ましたのは夜中だった。体を起こすと、背中がすっくりと伸びた。今だと思って城の門まで出ると、通用口が開いている。城を離れたまみちがねの足取りは軽かった。背中が軽かったからである。闇夜に紛れて城から遥か遠くの夜道をしばらく歩いて、もうこの辺りでよいかと立ち止まり、城のほうを振り向くと、背中がずしりと重くなった。

 首を捻ると、白髪頭が見えた。母親が言った。

「行く末を案じることがなくなったら、冥土へ行ってやると言うたろうが」

 ついてこいという母親に従って野を越え山を越え歩くと、世が白々と明けはじめる頃、どこかで見たような土地にやってきた。あれを見よ、という母親の声に、腰を曲げたまま首を起こすと、薄明の中にぼんやりと見えるのは懐かしい生家である。逃げるなよ、という声が聞こえたかと思うと再び背中が軽くなり、屋敷の門がひとりでに開いた。足を踏み入れると、幼い頃と変わらぬ池や木々や四阿が幻のように霞んで見えた。母親が死んでも泣くことのなかったまみちがねは、涙ぐんでいたのである。その足が自然に向ったのは、あの厩であった。あの駿馬たちは元気か。もう老いているか。ふらふらとあるけばそこには懐かしい馬たち。老馬も成長した駿馬も、それぞれにいなないてまみちがねを迎えた。一頭一頭を撫でながらふと厩の奥を見れば、あの白馬がいるではないか。駆け寄ってその首にしがみつき、大きな頭に頬ずりすれば、白馬も熱い鼻息を噴いた。

 しばらく涙を流していたまみちがねだったが、突如として響き渡った悲鳴に我に返った。何があったのか。声のした屋敷のほうを振り返ると、白馬が首筋に噛み付いてきた。あっと思ったとき、襟首を持ち上げられて背中へと放り出される。白馬はまみちがねを乗せるなり、自らを柱にくくりつけている綱を引きちぎって跳びあがった。ひらりと舞い降りると地面を蹴り、厩から外へ走り出す。庭の池や木々が明け方の光の中で飛びすぎていくのを眼にしながら、まみちがねはつづけざまに上がる断末魔の悲鳴に怯えて白馬の首にしがみついた。

 屋敷の門を抜けて、白馬はどこまでも走り続けた。日が昇って屋敷から遥か遠くの道をしばらく駆け、もうこの辺りでよいかと屋敷のほうを振り向くと、背中がずしりと重くなった。

 母親が背中でケタケタ笑った。

「行く末を案じることがなくなったら、冥土へ行ってやると言うたろうが」

 まみちがねはなにがあったのか尋ねた。母親は答えず、ただ、こう言った。

「城へ行って姫に告げるがいい。屋敷はもうお前のものじゃ」

 城へ戻ると、裸同然に衣服を引き裂かれたぬちんだからが散々に打たれて釜のそばに転がっていた。助け起こして事情を聞くと、なぜ戻ってきたと言う。城の通用口を勝手に開けたのがこの娘であることは察しがついた。介抱してやりたかったが、姫を屋敷に招かなければ、首を斬られてしまう。ぬちんだからは棄てていくしかなかった。

 やがて姫は、まみちがねを伴って屋敷の門をくぐった。姫は庭の池を見ても木々を見ても面白くなさそうな顔をして言った。

「金貸しの家とそう変わらぬのう」

 しかし姫は、邸内に足を踏み入れるなり高らかに笑った。一方でまみちがねはおいおい泣いた。

 まみちがねの父と継母と腹違いの弟が、喉を喰い破られて死んでいた。


7、

 かつての家族をひっそりと葬ると、まみちがねは何事もなかったかのように屋敷に入らねばならなかった。かつて自分の住んだ家で、いずれは自分のものになるかもしれなかった場所である。まみちがねにはこの屋敷について権利があった。彼はもう、釜炊きの灰坊主ではなくなったのである。

 だが、居心地は悪かった。怖い思いをした後に主人が急に変わり、やってきたのはかつて追い出された女の息子である。使用人たちの表情には、怯えと不信の色がありありと見えた。

 いたたまれない理由はそれだけではない。背中にしがみついたまま、意気揚々としている母親のせいである。かつて石持て追われた身である母親は、知った顔の使用人が来るといやらしい声でケタケタ笑った。もちろん姿は見えないが、まみちがねの声には聞こえない。主とすれ違うたびにあの女の嘲笑がどこからともなく聞こえるというので、使用人たちは誰もがまみちがねを気味悪がった。

 やがて姫からの使いが、二つ目の難題を持ってやってきた。馬比べに勝てと言うのである。この馬比べというのがひどい。国中の馬という馬を集めて、この島の山や川を何日もかけて残らず越えさせるのである。こんなことをさせたら、いかなる駿馬でもその日のうちに死んでしまう。まみちがねとしては、幼い頃から可愛がってきた屋敷の馬にそんな思いをさせるのはためらわれた。それでも、招きに応じて馬比べをしなければ首を斬られてしまう。まみちがねは一日の間に何度も厩に足を運んではつぶやいた。

「黒い馬にしようか、栗毛の馬にしようか。黒い馬は夜道に強かろうが昼は暑さに弱い。栗毛の馬は暑さに強かろうが夜目が利くまい」

 白馬がぶるると声を立てた。まみちがねはなおもつぶやく。

「葦毛にしようか斑の馬にしようか。葦毛の馬は山をよく駆けようが川は渡れまい。斑の馬は川をよく渡ろうが山は越えられまい」

 白馬はひひんといなないた。まみちがねはその綱を解いて厩を出るなり、蔵もおかずにその背にひらりと飛び乗った。

「白馬にしようぞ、白馬にしよう。老いたりとはいえ、幼かりし私の苦しみも悲しみも、この馬がいちばん良く知っている」

 それっと叫ぶと白馬は再び高くいななき、屋敷の門を飛び出した。

 城に駆け込んだまみちがねの白い老馬を、皆が笑った。姫の立つ楼の前に集った者は、老いも若きも、富める者も貧しい者も、ある者はとっておきの、ある者はなけなしの財産をはたいて手に入れた駿馬を牽いていた。

 姫も笑った。

「何じゃ、そなたの馬には鞍もないのか」

 まみちがねも、背を曲げて馬のたてがみにしがみついた姿勢のまま、顔を上げて笑った。

「何だ、こやつ等は鞍が無ければ馬にも乗れんのか」

 姫の命令で、美しく刺繍された鞍が下された。姫は言う。

「鞍のせいで負けた者の首を斬っても寝覚めが悪いものじゃからな」

 そういったわけで、突如として公正公平に目覚めた姫のこだわりにより、その晩は老いも若きも、富める者も貧しい者も、共に自らの馬を繋いだ厩に寝ることになった。誰もが仰向けに寝るのに、まみちがねは母が苦しがるのでうつ伏せになって寝なければならない。鼻や口に当たる麦藁の匂いがちくちく痛い。眠れないでいると、背中の母親が囁いた。

「起きよ。起きて馬酔木の葉を取って来い」

 まみちがねは答えた。

「私は寝る。寝て明日の朝は誰よりも早く馬に飼葉をやる」

 母親は愚痴った。

「行く末を案じることがなくなったら、冥土へ行ってやると言うたろうが」

 麦藁の匂いは痛かったが、まみちがねは深い眠りについた。目覚めると、体の下には莚がひいてあった。

 白馬に飼葉をやっていると、外が騒がしくなった。厩に忍び込んで飼葉に馬酔木を混ぜようとした者がいるという。慌てて飼い葉桶の中を改めたが、そんなものは無かった。白馬も平然としていた。背中の母に、何かしたかと尋ねたが、何も知らぬと答えてそれきりだった。

 さて、馬比べに挑むものは再び姫の前に集められ、銅鑼の音と共に城を飛び出した。駿馬たちは速かった。まみちがねはあっという間にしんがりについた。まみちがねは馬に囁く。

「慌てず駆けよ。やがて誰もがまみちがねが白馬を見よう」

 しばらく駆けると、まみちがねは先を行く馬の群れに追いついた。どの馬も足踏みしていて動かない。見れば浅い川のあちこちに、逆茂木がこれ見よがしに植えてある。主の鞭にそろそろと歩き出す馬もあったが、まみちがねはその人馬の背後から大音声を上げて一喝した。

「見よや見よや、これぞまみちがねが老いたる白馬ぞ!」

 白馬は川に駆け込むなり、ひらりひらりと逆茂木を飛び越えて向こう岸に渡った。

 またしばらく駆けると、道は山道となり、目の前には高く高く聳える岩場が現れた。背後からは何とか川を渡りきった馬の蹄の音が聞こえてくる。まみちがねは背後の人馬にも聞こえるよう、大音声を上げて吼えた。

「見よや見よや、これぞまみちがねが老いたる白馬ぞ!」

 白馬は高らかにいななくや、若鹿のようにあちらの大岩、こちらの小岩にひらりひらりと舞い移り、今にも崩れそうな斜面を駆け上った。

 さらに駆けて駆けて駆け続けると、岩の多い山道は深い谷で途切れた。谷間の向こう側にも道があるが、あちらとこちらを結ぶ吊橋は落とされて、目も眩むような谷底に向けて垂れ下がっていた。背後からは、やっとの思いで岩場を登ってきた馬の蹄の音が聞こえてくる。まみちがねは白馬を数歩下がらせ、馬の首にしがみついたままの姿勢で天にも届けとばかりに叫んだ。

「見よや見よや、これぞまみちがねが老いたる白馬ぞ!」

 白馬は前足を高々と上げるなり、地面を蹴って疾走した。まみちがねの身体は馬身と共に天高く舞い上がり、谷間を越えた向こう側に舞い降りた。なおも白馬は走る。馬の背中にへばりついたまみちがねの横を、島の山河が飛びすぎていく。白馬は坂を駆け下り、草原を走り抜け、光る海辺を疾駆した。追ってくる蹄の音は、もうなかった。

 日が沈む頃には、まみちがねは城の門をくぐって姫の前に立っていた。楼から見下ろす姫は言った。

「軽業師とそう変わらぬのう」

 馬から下りたまみちがねは、背中を向けて楼の中に消える姫を、腰を曲げたまま上目遣いに睨んだ。

 白馬を引いて厩へ行く途中で、地面に打ち込まれた杭に縛り付けられたぬちんだからを見た。服を引きむしられたあとから覗く肌には赤黒く乾いた血がへばりつき、青いあざが浮かんでいた。むき出しの足は傷だらけで、腿には股からの血が流れていた。城の使用人たちがひそひそ話すには、何のつもりか分からないが朝早く厩に忍び込み、飼葉に馬酔木を混ぜようとしたらしいということだった。

 厩に繋いだ白馬の顔を、まみちがねは長いこと撫でていた。白馬も、嬉しげに目を閉じていた。背中で母親が面白くなさそうにつぶやいた。

「どこまで頼りになるかのう、その老いぼれ馬が」 


8、

 馬比べに敗れた者達の首が門の前にずらりと並ぶと、婿に名乗り出る者はなくなった。替わりに、馬比べに勝ったまみちがねの噂は瞬く間に城下を駆け巡った。

 まみちがねは姫の前に呼び出され、最後の難題を課された。

「明朝、お前が最も愛する者の首を持って参れ。私の他に愛する者がないという証に」

 姫の前から退がったまみちがねの背中で、母親がつぶやく。

「困ったのう、首くらいやらんでもないが、ワシはもう死んでおるし」

 元より母親の首など念頭にない。本当に困ったのは、まみちがねには愛する人など誰もいないことだった。

 厩に戻って白馬の前に座り込んだ。背を曲げて座り込むと、まるで首を斬られる直前の罪人が頭を押さえつけられているような格好になる。苦しい姿勢で溜息をついていると、ぬちんだからがやってきた。傷ついた身体をひきずるようにして歩くその姿は、散々に打たれたせいで、元から醜いのが目も当てられない姿になっている。ぬちんだからはまみちがねの横にしゃがんで言った。

「ここから逃げよ、まみちがね」

 まみちがねはうずくまったまま言った。

「逃げたら殺されるわい」

 背を曲げたまま、そうそう逃げられるものではない。第一、目立つ。

 ぬちんだからは泣いた。

「私はどうしたらよいのじゃ」

 まみちがねは尋ねた。

「お前がどうしたというのだ」

 ぬちんだからは答えた。

「逃げずともお前は殺される。身寄りのないお前に、どうして愛する者の首が得られようか。逃げてもお前は殺される。私はどうしたらよいのじゃ」

 まみちがねは首をかしげた。

「お前がどうして泣くのだ」

 ぬちんだからはしばらく、大粒の涙をぼろぼろこぼして押し黙っていたが、やがて大きく息を吸って、吐き出すように言った。

「あの路地からお前を連れて来たのは、一目でお前を好いたからじゃ」

 ぬちんだからはまみちがねに覆いかぶさった。しがみつくにはこうするしかないのである。まみちがねはじたばたもがいた。背中の母もぎゅうといったが、ぬちんだからにはまみちがねの声としか聞こえない。ぬちんだからはなおもかき口説く。

「通用口を開けるのは怖かった。だれぞが馬酔木の話をしているのを聞いたときも、天の助けと思うて思い切った。今度が最後じゃろう。私が何とかするゆえ、逃げよ」

 そのとき白馬が高くいなないて、ぬちんだからはハッと身震いした。まみちがねはぬちんだからの体の下からやっとの思いで這い出した。待っておくれ、待っておくれと追いすがる声を背に、ひょこひょこと厩から逃げ出した。母親が背中でぼやいた。

「あの娘よりは姫じゃのう」

 ぬちんだからが怖いので、まみちがねはその晩、厩へ戻らないことにした。城の塀の隅の目立たない暗がりにしゃがみこんで夜を明かすことにした。闇夜だった。もともと人のあまり来ないところなので、背の曲がったまみちがねがうずくってしまえば、たとえ母親がぶつぶつ言っても人目を心配することはなかった。

「困ったのう、ワシの首ではどうにもならんし、かといって他の者の首ではどうもならん」

 まみちがねは笑った。

「そもそも私に人の首など斬れようか。犬も猫もよう殺さんのに」

 母親は頷いた。うなずくと、その顎が背中を撫でさすって気色悪い。

「犬や猫どころか、無視一匹殺せん優しい子じゃ、お前は」

 そう言った母親は、待てよ、とつぶやいた。どうしたかと問うまみちがねに、まず寝よと促して母親は言った。

「マア見ておれ。行く末を案じることがなくなったら、冥土へ行ってやるわい」

 まみちがねが城の塀にうずくまったまま眠りについたその夜半、悲鳴と共に場内が騒がしくなった。何だろうと立ち上がると、背中が軽い。母親が何かをしに行ったのだ。どこへ行ったのか知らないが、この機を逃す手はない。白馬に乗れば、今度こそ逃げられるかもしれない。母親からは逃げられないとしても、城からは離れることができる。母親に追いつかれる前に、できる限り距離を稼げばよいのだ。

 まみちがねは、背のすっくり伸びた身体を思う存分動かして厩へと駆け出した。城の中は広いが、もともと背が高く、手足の長いまみちがねのことである。一生懸命走って走り続けられないことはないはずである。

 だが、まみちがねの目論見は大きく外れた。悲鳴を聞いた城の人々が、一斉に起き出したからである。あらゆる人という人は、まみちがねの走る方角とは逆の方向へと走っている。まみちがねは、まずいと思った。自分だけ反対方向へ走っているのは、怪しまれる。一旦現場へと走って、その人混みの中からこっそり抜け出そう。母親が戻ってきたら、その時はその時だ。

 まみちがねは人の群れと共に走った。たどりついたのは、城中にある霊廟である。代々の王が祀られている、城の中で、つまり国中で最も尊い場所である。その前に血の海ができていた。人が倒れていた。まだ息があるようで、城の医女が介抱している。よく見れば、ぬちんだからである。血は首から流れていた。

 とっさに、まずいと思った。ぬちんだからがなぜこのような行動を取ったかは、すぐ察しがついた。国中で最も神聖な場所で血を流せば、この上ない大騒ぎになるのは子どもでも分かる理屈である。確かにこの機を逃す手はない。二歩三歩後じさりして、人が見ていないのを確かめてから脱兎の如く厩を目指して駆け出した。

 だが、それは徒労に終わった。息せき切って厩に駆け込んだまみちがねの背中が、またずっしりと重くなった。母親の声が聞こえた。 

「あれを見よ。じゃが、泣くな。行く末を案じることがなくなったら、冥土へ行ってやるわい」

 そこで目にしたものに、まみちがねはおいおい泣いた。闇夜にも白い老馬の首が、ぬちんだからがくれた莚の上に噛み切られて転がっていた。

 次の朝、まみちがねは老いた白馬の首を姫に捧げた。籐の椅子に腰掛けた姫の傍には紫の冠に深紅の衣を羽織って鉄の杖を突いた王の姿があった。老馬の首を見て姫は何か言おうとしたが、王は黙ったまま片手でそれを制した。姫は眉一つ動かさず頷いた。


9、

 さて、見事に姫の難題を三つ解いたまみちがねはどうなったか。勿論、姫の婿になるのが当然であるが、そうはいかなかった。まみちがねは顔の形も変わるほど散々に打ちのめされ、城を追われたのである。

 まみちがねは姫の婿に迎えられ、祝いの宴が盛大に催された。美しい姫の傍らに腰を折って座る奇妙な若者に、客のある者達は顔をしかめ、ある者達はひそひそと無責任な噂話をした。背中の母親は、宴席の料理が欲しいとも言わずに黙っていた。

やがて宴が終わると、姫は自室へ戻り、まみちがねは姫が呼ぶまで身体を清めて待つようにと別の部屋に通された。その部屋でまみちがねは白い麻で折られた新枕の装束に着替えた。

呼びに来た姫の侍女の導きで足を踏み入れた部屋は暗かった。大きな窓から見える満点の星だけが明るかった。姫の声がまみちがねを招いた。

「私を見よ」

 声のしたほうには、人が二人三人は横になれそうな大きな寝台があった。寝台には屋根があり、そこからは、あの姫の胸を覆っていたのと同じ白絹が四方に垂れ下がっていた。星明りで、その白衣が透けて見えた。ぼんやりと浮かぶ影は、豊かな起伏を描いていた。その、横たわっていた誰かが呼んだ。

「こちらへ参れ」

 まみちがねは寝台に歩み寄って白絹を除けた。星の光しかないためにはっきりとは見えなかったが、そこには唇を噛みしめた姫が一糸まとわぬ姿で横たわって目を閉じていた。豊かな胸を片手で覆い、もう一方の手は秘部を隠している。長い黒髪が、白い夜具にふわりと広がっていた。

 背中がぞくりとした。足が震えていた。まみちがねは、未だに女性を知らなかったのである。姫はなおもまみちがねを促した。まみちがねは背を曲げたままいきり立った。寝台に上がり、事に及ぼうと姫の身体に覆いかぶさろうとする。

 その時、背中から声がした。

「行く末を案じることがなくなったら、冥土へ行ってやると言うたろうが」

 母親であった。まみちがねの手足が金縛りにでも遭ったように止まった。そろそろと寝台を降りる。母親が耳元で囁いた。

「何をしておるのじゃ。早くせい!」

 まみちがねは寝台に背を向けてうずくまった。母親はがみがみと背中で怒鳴り続けたが、まみちがねは二度と立ち上がらなかった。寝台の上で何かが動く気配があったのでちらと横目で見ると、姫が胸を覆ったまま起き上がっていた。流れる川のような黒髪が肩から艶やかな腕に垂れ下がっていた。目に一杯浮かんだ涙がつっと頬を伝うのが星明りに見えた。

 その次の晩も、まみちがねは姫に招かれてその寝所に入った。同じ格好で姫は待っていた。母親が背中でまた急かすので、まみちがねはまた何もできなかった。まみちがねはやはり寝台の下でうずくまった。だが、姫はもう泣かなかった。さも可笑しそうに高らかに笑いながら、自らの乳房を覆った手を除け、足を高く組んでまみちがねを誘惑するのである。母親は苛立って、まみちがねの耳元でこうるさく喚いた。まみちがねは耳を押さえて床の上に丸く縮こまった。姫は寝台の上をひとり転げ回ってはしゃいだ。

 そんなことが幾晩も続いたある闇夜、まみちがねは突然、着のみ着のまま門の外に引きずり出され、門番によって散々に打ちのめされた。腰を打たれて立ち上がることもできないまみちがねは脳天を叩かれ、頬を張り飛ばされた。かつて美しかった顔はもう二目と見ることができなくなった。切れた唇からひゅうひゅう息を漏らしながら、まみちがねは何が起こったのか尋ねた。通用口の向こうに控えていたらしい、王からの使いがゆったりした袖を合わせ、冠を着けた頭を慇懃に下げてから言った。

「子を成す見込みがないと、寝ずの番から知らせがあった」

 通用口をくぐる使いが後ろ手にぽんと投げ出した小さな袋から、闇夜にもそれと分かる金貨がちゃりんとこぼれた。まみちがねは冷たい地面に横たわったまま、それを黙って見ていた。門番がしゃがんで、その金貨を拾って懐に入れた。まみちがねは手を伸ばして金貨の袋を掴み、よろよろと立ち上がった。

 城に尻を向けて、腰を曲げて歩き出したまみちがねの背中から、母親が囁いた。

「泣くな。行く先を案ずることがなくなるまで、冥土には行かん」

 別に泣いてはいなかったが、母親のその一言で、かえって泣けてきた。


10、

 夜が明けて日が昇ると、背を曲げて歩く醜い男の姿は、城下でも街道でも目立った。すれ違うものは目をそむけ、子供達は面白がって石を投げた。

 昼頃になって、何かがとぼとぼと後をついて来ているのに気付いた。痛む身体に母親を背負って歩くので精一杯で、立ち止まって振り向く余裕もなかった。 

 夕暮れ時になって、まみちがねは街道を外れ、丈の高い草が生い茂る野原に踏み込んだ。草むらの中にも、道はあった。人ではなく、獣たちが通る道であった。その道に沿って、まみちがねは歩いた。草むらをかきわける、かさかさという音が後を追ってきていた。

 西日がまっすぐに差してきた。背中で母親が聞いた。

「どこへ行くのじゃ」

 まみちがねは答えた。

「この道の行く先じゃ」

 母親はたしなめた。

「これはけものみちぞ」

 まみちがねは答えた。

「私はもう、人の中では生きられぬ。人とは人の中で生きるもの、人から離れれば、もはや人ではない。人でなければ獣であろう」

 母親がつぶやいた。 

「行く末を案じることがなくなれば、冥土へ行けるのじゃがのう」

 その時、背後で何かがガサリと動いた。まみちがねは立ち止まって尋ねた。

「そこにいるのは人か獣か。人ならば答えよ。獣ならばそのまま私を喰らうがよい」

 背後で動いた者が答えた。

「人なれば、喰うことはない」

 ぬちんだからの声であった。まみちがねは曲がった腰でよちよち歩きながら振り向いた。そこには誰もいなかった。

 背中に母がいるのも忘れるほど冷たいものが体中を走り抜けるのを覚えながら、まみちがねは問うた。

「ぬちんだから、どこにおる。おるならば答えよ。おらぬとなれば、もしや死んで迷い出たか」

 丈の高い草の中から、ぬっと手が伸びた。

「死んではおらぬが、このままでは生きてもゆけぬ」

 母親の重さが背中に戻ってくるのを感じながら、まみちがねは尋ねた。

「どうしたら生きてゆかれる」

 ぬちんだからは答えた。

「私を背負うてゆけ」

 まみちがねは答えなかった。背中はすでにふさがっている。ぬちんだからが草の中から言った。

「夜が明けぬうちに城を出て、ずっと歩いてきたのじゃ。背負うてくれねばそれでよい。私はこのまま死ぬことにする」

 伸びていた手がすとんと草の中に落ちた。まみちがねは草の中にしゃがんで、ぬちんだからの手を捜した。草が余りにも多すぎるのと草いきれでむせたのとで、まみちがねはひとまず立ち上がった。すっくり伸びた背中から、何かがからりと落ちた。母親の声がかすかに聞こえた。

「行く末を案じることがなくなったら……」

 ぬちんだからの名を呼ぶと、まみちがねの名を呼ぶ声が聞こえた。その辺りの草に手を突っ込むと、ごわごわとした手が握り返してきた。腕を掴んで引っ張ると、ぬちんだからの醜い顔があった。べそをかいているせいで、醜い顔が余計に不細工になっていた。

 まみちがねを見て、ぬちんだからは目を背けた。まみちがねは何も言わずに、せっかく伸びた背中を再び曲げた。ぬちんだからは物も言わず、そこにおぶさった。やってきたときと同じ格好で、まみちがねはもと来た道を戻り始めた。ぬちんだからを背負う影が、西日に照らされて目の前に真っ直ぐ伸びている。その影が指す先には、先程外れた街道がある。

 まみちがねは歩き出した。振り向こうとは思わなかった。振り向いてもそこには丈の高い草むらがどこまでも続いているだけだ。その下のどこかに母親の骸があるのだろうが、別に気にもならなかった。背中にいるのは母親ではなくぬちんだからであるが、振り向けばその顔がすぐ目の前にあるはずだ。気があるなどと誤解されてはたまらない。こんな身体になってもこんな顔になっても、ぬちんだからがどれほど惚れてこようと、まみちがねにその気は全くないのであった。

(完)

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― 新着の感想 ―
[気になる点]  『まみちがね』の元の話を寡聞にして存じませんが、シンデレラというよりは、婿候補に無理難題を押しつける美女という点で竹取物語を連想しました。ただし、煌びやかな前述2作品に比べ、まさしく…
[一言] 容赦のない話でした。 とことん女運のないまみちがね。 死してもなおまとわりついてくる母親は本当に恐ろしいです。息子のためといいながら、息子を苦しめるしかない存在。そんな母親を背中から引き剥が…
[一言] 宮沢賢治の童話を読んでいるような感覚になりました。
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