18
アポトキシンを飲んだ?
この少年が?
あのベルモットが?
コナンがかすれた震える声で告げた言葉は衝撃的だった。
しかし、飲んだとしたなら彼も彼女もいったいどこにその
効果が現れているというのだ。
一見思い当たるようなものは見られない。
だがコナンはもう見当がついていたらしく動揺を抑えながら問いただす。
「お前、まさかその右目……」
「ご名答。やっぱり気づいとったか」
――右目ですって?
彼女にはもう何がなんだかわからない。
隣で少年は俯いて気にかかっていたことを告白する。
「もしかしたら、とは前から思っていたさ。お前が怪我するのは決まって右側だったからな」
剣道の試合で突かれた耳の裏側も、シンフォニー号で背後から殴打された時も、大阪の試合会場で起こった殺人事件の時も、
怪我するのは必ず右側だったのだ。
「普段は普通に振舞っているが、ふとした瞬間右が見えていないような素振りがあった。……でも、お前がそのことについて何も言わない以上俺から聞くわけにも行かなかった」
何か言いたくない理由があるのだろうと。
だから無理に聞こうとは思わなかった。
「聞いてたらもしかしたら俺が黒やと気づいたかもしれんのに、人が良すぎるわ、工藤は」
変なところで気ぃ使うから自分の首しめるんやで?と子供に注意するように腰に手を当ててたしなめる素振りをした。
そしてすっかり忘れていた過去を呼び戻すかのごとく遠い目をする。
「去年の春ごろやったかなあ。ちょっとした爆発事故に巻き込まれて右目の視力が完全に無くなったんや。それを聞いた厚司さんが爺ちゃんを通じて親父にアポトキシンを渡してくれてな」
――どうせ何をやっても視力が戻らないなら、一縷の望みをかけて使ってみたらどうですか?
厚司が平次の祖父に勧めた言葉は悪魔の囁きでもあったのかもしれない。
孫を溺愛していた祖父は、その悪魔の薬を娘婿に渡してしまった。
「お前、あれを飲んでなんともなかったのかよ」
健常者にとっては劇薬でしかないと先ほど言ったばかりである。
「まあ、話は最後まで聞けや。俺はあれを飲んではおらん。効果を部分的に留めるためにアポトキシンの液体を右目の眼球に注入したんや。」
「……直接患部にアポトキシンを入れたのね。眼球の細胞は死滅状態だからそれ以上悪化することはない。効果があるなら細胞の再生だけだから使用できたんだわ」
やっと話に追いついてきた哀が開発者としての見解を示した。
確かに、できないことはないと。
「そういうこと。結果、視力は完全には戻らんかったけど失明はなんとか免れたわ」
「ベルモットはどうなんだよ」
「それはお前のほうが知ってるんとちゃうか?」
「何?」
予想外の返事に戸惑う。
「去年俺がちょうどその爆発事故に遭った時、お前アメリカ行ってて通り魔に会うたやろ?そして、その通り魔は深手を負っていた」
だが次の言葉で一つの線が繋がった。
「――!まさかあの男は……!?」
「そう、あれはベルモットの変装した姿やったっちゅうわけや。あの時腹にえらい大きな穴できたらしくてなあ。俺のと同じような要領でアポトキシンを注入したみたいやで」
どうやら臓器をやられていたようだと付け足す。
それを聞きながら哀は組織に居た頃の記憶を引っ張り出した。
自分の知らない出来事だったが、その後にあった「あの事件」には心当たりがある。
「じゃあやっぱりベルモットは、怪我をした後に起こったあの事件で私のことを……」
「あー、あんたはベルモットに憎まれているのを自覚していたな」
「一応は、ね」
ベルモットの冷ややかな視線を思い出して冷や汗が出たが、ここは苦笑してやりすごす。
さっきとは反対にコナンは何のことだと言わんばかりの目を彼女に向けていたが。
「話ついでや。工藤にも教えといたるか。クリス・ヴィンヤードは10代のころ母と仲違いして
絶縁状態になったんや。親の七光りでムービースターにはなってたけどな。それでも母と会うことは滅多になかった。そしてワルイオトモダチとつるむようになっていた」
それは知っている。
内心でそう答えた。
母親のシャロンから一年前直接聞いているからだ。
「裏社会にも顔を出してたらしくてな。そこにどこから流出したのか、アポトキシンが麻薬と同じ扱いで出回ってきたそうや。そんでそれをアホなことに彼女は飲んでしまった」
「死んだのよね、彼女。私のお母さんと同じように」
言葉を受けるように続けた。
「ああ。それでそんな劇薬を作ってしまったあんたらを憎むようになったらしいな」
ほんとに麻薬なら死因もわかっただろうに。
アポトキシンのせいで彼女の死は原因不明の突然死と判断されてしまった。
「じゃあ去年の葬式で棺の中に入っていたのはシャロンではなくやはりクリスだったんだな」
今のベルモットがシャロンの変装だと考えているコナンには合点がいく。
しかし開発者として疑問が残る彼女は更に問うた。
「ベルモットの副作用は何だったの? あなたが完全に視力が戻らなかったのなら、彼女も腹部の傷が完治していないのかしら?」
ぱっと見は平次と同じく彼女もどこも悪いところは見つけられない。
腹部ならそれもばれないだろうと踏んだのだが。
「そういえばあんたらは知らんかったんやな。あのベルモットの顔がほんとのシャロンの顔やてこと」
「何だと!?」
――あれはシャロンの変装ではなかったのか?
「あの人は副作用で細胞が完全に以前の状態に戻る手前で止まってしまったらしいで。……お前ら二人のように体が縮むなんて滅多にない作用はなかったけどな。まあ、昔のようなべっぴんさんに戻れたんやしその辺はええんとちゃうか?」
その後娘が死んだんは災難やけど。
彼が冗談めかして笑う。
そして話を続けた。
「薬を飲んで命に関わるような副作用が起こらんかった俺らはあの人の目に止まったんや。今の薬の効果を考えたら、ほとんど成功といってよかったしな」
その時、一際大きい銃声がドア越しに聞こえてきた。
構成員とFBIが激しい銃撃戦を繰り広げているのが音でわかる。
その突然の音で一瞬部屋に沈黙が出来た。
そしてその銃声をちらりと後ろを見て確認した平次は、やれやれといった感じにため息を一つつく。
下ろしていた腕をゆっくり水平に挙げた。
「もうそろそろ話は終わりにしたほうが良さそうやな。これ以上ここにいたら外のドンパチに巻き込まれてしまうわ」
ちょうど、コナンを拳銃の照準に捉える形になる。
「ああ、誤解すんなや。俺がこんだけ長いこと話してたんは、別にお前等の命延ばしたろとかそんなんとちゃうで。厚司さんが研究所から完全に逃げ出すまで、ここに来る奴等を足止めしておくのが俺の役目やったし」
「……俺達を殺すのか」
「そら、ここまで来てなんもせんわけにはいかんやろう。いくら観察し甲斐のある実験体やゆうても、これ以上野放しにするわけにはいかへん。俺の正体も知ってしまったしな」
かちり、と安全装置を外す。
それに合わせる様にコナンは哀をかばうかのように彼女の前に身を出した。
そうしている間も視線は平次のほうを向いたままである。
そらした瞬間、何をさせるかわからないからだ。
コナンも同じく時計型の麻酔銃に手をかける。
「やめとけ。それ打つ前に俺のほうが早いわ。――覚悟、決めろや」
彼が本気だと悟った哀は焦ったように目の前に出たコナンの肩を掴んだ。
自分の前から退けというように。
命乞いなどはしない。
ただここでコナンを死なすわけには行かないと思った。
彼女の無言の思いを背中で受け止めながらもその場から動かず彼はぎり、と歯軋りをする。
キック力増幅シューズを使う隙も無ければ、麻酔銃も間に合わない。
何よりこの男の前で小細工が通用するはずが無いのだ。
――このまま俺達は本当に服部に殺されるのか?
何も打開策の無いまま突きつけられた銃口をにらみ続けた。
いや、それしかできなかったのだ。
「ホントにお前には感謝してんねんで? お前の周りには組織の敵がわんさか寄ってきよったし、それを親切にお前は俺に教えてくれた。おかげで組織は対策を早急に打つことができたわ」
一体何に対する嘲りだったのか。
それだけでもお前の存在は十分役に立ったと苦笑した。
それに対して観念したかのように、コナンはさっきからずっと思っていたことを口にしようとした。
聞きたいような、聞きたくないような、そんな疑問だ。
でも殺されるなら、せめてこれだけは聞いておきたい。
「……今までのお前は、ずっと偽りだったのか?」
子供の姿の自分に向かって大人の彼がまるで子供のようにはしゃいで寄って来た。
そして江戸川コナンに「工藤」と何度も連呼した。
それだけで救われてきたのだ、自分は。
見失いそうになる本当の自分を平次のおかげでなんとか維持してきたのだ。
推理に上も下も無いといえば、あっさり自分の考えを見直し
推理で追い詰めて殺してはいけないといえば、命がけで犯人の自殺を食い止めた。
そんな彼を本気で組織の人間だと信じられるだろうか?
これまでの彼の行動が罪人のする行為だと思えるだろうか?
どれだけ証拠を述べられても、感情が追いつかなかった。
探偵失格といわれようがそれだけはできなかった。
どうしても信じることが出来ない少年はやりきれない思いで彼を見上げた。
否定してくれというように。
だが当の彼は、今までの陽気な笑顔から一転して無表情になり、冷ややかな目で二人を見下ろす。
そして告げた。
「偽りも何も、俺はお前に何も言うたことがない」
銃口がコナンの心臓に向けられる。
「今まで俺は構成員やないとか、組織のこと知らんとか、そういうことは言ったことがない。
お前に嘘はなんもついておらん」
ぐらつくような衝撃。
今までの中で最も心に突き刺さる言葉だった。
コナンは何も言い返せない。
彼の言うことは本当だったからだ。
今から思えば白々しいセリフはあったが、嘘らしい嘘は何もついていないのだ。
初めて気付いた事実に戸惑う彼を見たからなのか、
ここへきて初めて平次が眉をしかめた。
何かを苛立っているような目だ。
照準を定めた銃を握る手に力がこもる。
そして吐き捨てるように、こう言った。
「お前が俺に何も聞かへんかったんやろ……!」
その瞬間、けたたましい音と共に扉がぶち開けられた。
驚く三人を他よそに、散弾銃で鍵が粉々に散って煙が部屋を覆う。
「な、何なの?」
チリが舞い降り、無理やり空けられた出口から男の姿が見えてくる。
「その子達から離れろ!!」
赤井秀一。もう一人のシルバーブレッドだ。
かすり傷だらけの顔と所々破れた服。
血をぬぐった手で銃を平次に向けた。
「赤井さん!」
思わぬ出現にコナンが呟く。
修羅場をくぐり抜けてやって来た彼は殺気立てたままの姿で
平次を面と向かい合う。
平次も向かい合った彼に不適な笑みを返した。
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