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新テレーズ物語
作:加賀いつ子



(9) 殺戮の日々


鉄とガラスとコンクリート、そしてアスファルトから立ち昇る、すさまじい熱気に汗だくになりながら、僕は毎回、テレーズの住居を訪れる。建物の内部は幾分涼しいが、それでも空調は相当控えめで、僕のインタビュウは、常に暑さとの戦いだった。
当のテレーズは、全く意に介していない。南国育ちだから、暑さには慣れているということもあるだろうが、年令と病気のせいで、五感が鈍っているのだろうと思われた。だが、頭の中だけは明晰さを保っている。そして、舌も絡まることなくよく動き、完璧な英語を紡ぎだす。
これは物語かと、ふと思う。事実だけを提示してゆきながらも、テレーズの話すことは、どこか遠いアジアの架空の国の優雅な金色の靄に包まれた、残酷な夢ではないかという錯覚を起こさせる。
僕は、テレーズにそのことを告げた。取りようによっては、ひどく失礼な意見かもしれないが、なぜだか僕は、滑稽にもほめたつもりだった。
「あなたもジョニーと同じらしいわね。」
テレーズは笑った。苦笑したと言った方が当たっている。
「事実をありのままに見て伝える人がいる。事実をきっかけに見た自分の夢に執着して、なにごとかを伝えたい人がいる。その中で才能のある人間は、芸術家になるのでしょう。」
僕は、薄ばかのように笑って、頷いた。

 「ラオスで秘密作戦が行われていたのは、もちろん知っていた。でも、カンボジアにまで手を広げようとしていると知った時は、やばいと思い、本気でこれはだめだと思った。
父の予言は当たるに違いない、アメリカはもうどうしようもない泥沼に嵌まり込んでいて、もがけばもがくほど沈み込んでいく。彼等はアジアを知らなさ過ぎたし、ドミノ理論の呪縛にがんじがらめにされていたから、カンボジアのクーはアメリカの苦しまぎれの置きみやげだったんじゃないかと今でも思ってるわ。」
「クー…ああ、クーデターですか。シアヌークの外遊中に起こした軍部の?」
「そうよ。CIAお得意の、大好きなクーデター。世界のあちこちで性懲りもなくやり続けた、あのクソの役にも立たない茶番劇。
何としてもホーチミン・ルートを叩き潰すよう、ワシントンからの命を受けたCIAは、ラオスでの軍事行動の成果がはかばかしくなかったから、カンボジアに目を向けたのよ。
あの頃南ベトナムの大統領だったグェン・バン・チューは役立たずの腰抜けだったし、テト攻勢なんていうコミュニストの思い上がり丸出しの残虐な作戦による打撃がまたひどかった。国内の惨状を収拾するのに手一杯で、とてもホーチミン・ルートを何とかする力量なんてなかったわ。」
「苦渋の選択、という訳ですか。アメリカが、南ベトナムのかわりに手を汚してやるということですね。」
「ええ、テト攻勢以後、アメリカは撤退を表明を決意し、軍を段階的に引き揚げていった。援助も大幅に減らしたけれど、ベトナムを去る前に何か大きな作戦を遂行して戦局を少しでも有利にしておく必要があったんだわ。」
「アメリカの名誉にかけて。」
「南ベトナムが、あまりにひどかったからよ。政治家も軍隊も筆舌に尽くしがたい腐敗ぶりで、泥棒で腰抜けで中身のない自尊心ばかり高くて、もはや笑うしかないくらいに堕落していたけれど…。」
「けれど?」
「南の人間がどれだけ堕落していようと、北のコミュニストの恐ろしさに比べれば、まだしもましだった。少なくとも、より人間的ではあったわ。あだ花にはあだ花なりの存在理由≪raison d'^etre≫があったのよ。もっとも、わがCIAもいい加減嫌気がさしていた部分もあってね、たとえばグェン・カオ・キを暗殺しようか、なんて本気で言い出す連中も出たくらいだった。結局暗殺は割りに合わないという事になって、止めたけれど。」
「グェン・カオ・キは、確かサイゴン政権末期では副大統領を務めた人物でしたね。空軍出身である事を利用して密輸業に精を出していたとか。」
「そう、麻薬にまで関わっていたから、アメリカとしても困った訳よ。
あの戦争では、アメリカ人の下で働いている人間がベトコンと内通しているのはおろか、シクロの運転手も屋台のヌードル売りも、教会の寺男も、大学教授も、阿片窟兼料理屋の経営者も、米兵にまとわりついて
「You, No.1」を連呼する女衒も、みな何らかの形でベトコンと繋がっていると言ってもよかった。食いつめて、武器をベトコンに売り渡す政府軍兵士なんてざらだったしね。皮肉なことに、自分達が闇市に売り飛ばしたM16でベトコンに撃たれた南の兵士も、決して少なくなかった。でも、貧しい者と上に立つ者では事情が違うわ。軍隊マフィアは、やはり捨ておけないものだった。」
「米軍内部にも、捜査官はいましたよね。彼等と協力することはあったんですか。」
「ああ、CIDのことかしら。いいえ、彼等とは活動領域が全く違っていた。あたし達は、あくまで対外諜報活動だったの。民間レベルから閣僚レベルに至るまで、周辺諸国の動向へも目を配りつつ、コミュニストの動きを掴まえる仕事ね。情報収集、そして時には汚い仕事…。」
「汚い仕事、ですか。」
「それ専門のセクションもなくはなかったけれど、あたしはなるべく自分で片をつけたわ。」
「汚い仕事とは、つまり」
僕はこだわった。
「邪魔な存在は消す、ということを意味するんですよね。」
テレーズは頷いた。
「コミュニストらしき集会があると聞き付けると、あたし達は徹底的に調査した。北とのつながりを確認すると、泳がせておくべきか、捕らえて尋問すべきか、即座に消すべきかを討議した。戦争中でなければ、たいていは監視を続けるけれど、そんな悠長な事はやっていられなかったから、結局消すしかなかった。
工作員達は皆、それを嫌がったわ。当然よね。陰謀は知性の証、されど実行は汚れ仕事でホワイトカラーのやるべき事に非ず−だからといって軍に依頼する事もまずいとすると?いずれにせよ、誰かが手を汚さなければならない。」
「それで、あなたが?」
「腕の立つ人間、言葉が解ってサイゴンの地理に明るい人間…あたしは適役の一人だった。女には誰でも油断するものだしね。」
「愚問を繰り返すようですが、ためらいというか、葛藤はなかったんですか。」            「なかったわ。」
テレーズは、いやにきっぱりと答えた。
「コミュニストのやりくちには、我慢がならなかったの。彼等は、貧しい者の話を黙って静かに聞いて、頭を撫でてやる。時に美しい理想、耳ざわりのいい未来を小出しに出して関心を引き付けながらね。」
テレーズは顔をしかめると、首を振りながら話し続けた。         
「インドシナが共産化されて、自由を奪われて裏切りと密告、粛清の嵐が吹き荒れるのは、ただもう嫌だったわ。あらたな祖国アメリカの思惑なんてどうだっていい、あたしは美しいインドシナ、爛れきってはいても美しいサイゴンの延命治療に躍起になっていたの。コミイを殺せ。一人でも二人でも多く殺せば、あたしのインドシナは生き永らえる…だから男を、女を尾行した。市場、カフェ、聖堂、オフィス、本屋、路地裏、阿片窟、売春宿、港、郊外の街、水田…彼等の行動パターンを読み取った。必要とあらば協力者の手を借りた。修道女の身分は、目論見どおりの隠れ簑になったし、ギャングのビンの存在は阿片窟や女郎屋に忍び込むのに大いに役に立ったわ。」
「コミュニストが、そんな所へ行くんですか。」
「そうよ。ベトナム人ですもの、阿片の一つや二つ、コミイだってたしなむわ。でも、あたしが突き止めたケースは、北からの連絡係が客と従業員のふりをして会ってたの。」
「それで、彼らは?」
僕は思わず上目遣いになって、低い声で尋ねた。
「阿片を吸う小部屋で刺し殺した、呼ばれて部屋を間違えたフランス人娼婦のふりをして。死体の処理はビンの組織に任せた。彼はCIAの下請け業者になれたって喜んでたわ。」
「他にもどのくらい殺したんですか。」
僕は、妙な興奮にかられて聞いた。
「正確な人数なんて、勿論覚えていないわ。でも、記憶に残っているのは…そうね、郊外のジャディン地区のコミイとベトコンのアジトに爆薬を仕掛けた。それは、他の工作員との共同作業よ。サイゴン港で、暗殺した事もあった。調べていくうちに、女を殴るのが好きな男だとわかった貿易商人でね、しばらく泳がせて武器の横流しの現場を押さえるつもりだったんだけれど、たまたま一緒に仕事をしていた同僚が、その男がタイに出国しようとしているという情報を入手したから、暗殺命令が下ったの。あの時は、向こうもボディガードを付けていたから、ごく小規模ながら銃撃戦になったわ。それから…ビエンホアへ行く途中の水田の中で相手の首を絞め、ショロンの旧大世界裏で、キャバレのパウダールームで、名もない路地裏で『ムシュウ』と呼んで、振り向いたところを発砲した。」
僕は、首を振った。
「そんなにコミュニストを見つけては殺していたんですか…CIAは、それじゃ暗殺集団も同然ですよ、テロリストと同じだ、やってる事は変わらない。」
「ええ、そうね。あたしはCIAの肩を持つつもりはこれっぽっちもないけれど、言い訳もしないわ。
政治は数の問題でもあるから、あの頃アメリカも北ベトナムに対して必死だった。皮肉な事に、現代もアメリカはテロリストに対して必死、そしてテロリストはやはり冷酷で残虐で手段を選ばない。何も変わっていないかのようだわ…実際、国家と政治が存在する限り、紛争の潜在的な危機は永久的と言えるのではないかしら。」
「それは、アナーキストの論理ではありませんか。」テレーズは僕の顔を見つめると、片方の眉を高く上げて目を大きく見開いてみせたが、そこに多少の茶目っ気が感じられたので、僕は頬をゆるめた。
「あなたが意識的に、政治的な主義主張を自らに禁じてきたのは理解しているつもりです。」
「そんなにご大層なものじゃないわ。言うなれば、好きか嫌いか、だけで生きてきたのよ。」     
「いや、まあ、それはわかりましたが、あなたの不信感、虚無感は一歩間違えるとアナーキズムに通じるのではないかという気がしただけです。」
「アナーキズムね…逆説的なロマンティスムだわ。悪くないわね。でも、あたしはもう、長く生きられない人間よ。もう少し違う考えを持ったうえで死にたいと思ってるわ。それを説明するためには、カンボジアでの体験を話す必要がある。内的体験、という事だけどね。」
「内的体験。」
僕はそう繰り返してから、突然頭の中にひらめいた言葉を口にした。
「霊的体験、と言った方がいいんじゃありませんか。」
「それほど素晴らしい事ではないわ。でも、さっきのアナーキストよりはずっといいわ。いい言葉だわ。」テレーズは珍しく、満足気な笑みを浮かべ、僕の顔を見ると、目を閉じた。












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