(8) 処刑
「サイゴンは罪深い街になってしまった。
他者の死の瞬間を、毎日己の目で確認せずにはいられなくなるという緩慢な悪意に蝕まれた街。
街の住人も訪問者も、すべてが死に対して麻痺状態であると同時に興奮する。
瀕死の命運に目をそむけながら、日々の泡に浮かれ騒いでいた人々。密林の中の沈黙と忍耐は、都市には存在しない。
貪欲、素朴、正義という幻影、美的退廃、腐敗、散逸…。我々全体が生み出した混沌だけが、圧倒的に君臨、支配する。
秩序も均衡も完璧なまでに姿を消し、永遠の夏に彩られた闇、それがサイゴンだった。」
「サイゴンに戻って来てから、大変だったでしょう。何と言うか、その…」
「あたしとマルクはホテルマジェスティックで三日三晩狂ったようにセックスしまくったわ。それから、別れたの。」
「恋人関係を解消した、という事ですか。」
「ええ、そうよ。友人ではあり続けたけれど。
ホテルを出て、シクロに乗ったのを覚えてるわ。シクロって、とても気持ちの良い乗り物なのよ、陥落前には禁止されてしまったんだけどね。街中の屋台に座ってぼんやりしていたら、どうやって見つけたのか、支局長がやって来たわ。
彼は、公開処刑が行われる、と言った。明日の夜明けにクァンの銃殺が執行されるが、見るかね、と尋ねた。黙っていたら、見ておくべきだと言ったわ。
支局長と入れ代わるようにして、父が来た。
明日からしばらく、カンボジア出張で留守にすると言い、その夜あたし達はショロンで食事をした。
大きな店、素晴らしい料理…南ベトナムの政府要人の姿を何人か見かけたわ。
西欧の教育を受けた東洋の支配階級は、貪婪でしたたかで、陰謀という毒に耐性を持った連中だった。
父が、護衛官と共に個室に案内される彼らを横目で見ながら、呟いたの。
―この戦争は、おそらく我々の敗北に終わるだろう―父はあまり口数の多い人間ではなかったけれど、時々、アジアを理解し予測することはアメリカにとって至難の技だとこぼしていたわ。同僚や部下はもちろんのこと、支局長ですらわかっちゃいないと思う事がよくあるとも言っていた。
CIAの陰謀なんて、中国に千年以上も支配され、次いでフランスに統治されながら生き延びて来たベトナムという強か者の前では児戯に等しいものなのね。」
「何だか、男性原理が初めて女性原理を前にして、面食らったみたいですね。」僕のせりふに、テレーズは例の低い声で笑った。
「なかなか面白い例えね。それに、本質を突いているかもしれない。あたしは学者じゃないから、うまく説明出来ないけれど。」
「あの国は、フィリピンともキューバとも違ったタイプでしたね。」
「ええ、違うわ。
米西戦争の事を言うなら、フィリピンは地理的条件や民族の性格から考えて、ベトナムよりもはるかに楽だったし、キューバ危機は、あれはカストロにしてやられた、というよりもソ連との駆け引きで負けたのよ。CIAは、破壊工作は得意でも、浸透と育成が苦手なの。今をごらんなさいよ、アラブのテロリストどもがいかにCIAの苦手分野で暗躍している事か…。」
僕はいちいちテレーズの言う事に頷いていた。
「どうも、その方面はアメリカの得意とするところではないようですね。」
「もう随分前から指摘されてはいるけれどね。
話が横道に逸れてしまった…父はカンボジア行きの理由については、帰ってから詳しく話すとだけ言って、後は黙って食事に専念したわ。あの頃のアメリカ人には珍しく、アジアの料理が好きなのよ。父は東洋の文化を異国趣味的に愛していた。あたしと母にとっては生まれた時から自然にあるもので、対立するものでもなければ異国趣味をかきたてるものでもなかったのだけれどね。
それから、カティナ通りの自宅に戻ったわ。正しくはツヅー通りなんだけど、あたし達は昔のままの呼び方を通していた。
父に、クァンの公開処刑を見に行くか尋ねたら、ああいうものは見飽きた、と言って、でも、あたしには見るべきだと言った。
ふと、あたしは、支局長が処刑の事を伝えてきたのは父の差し金かもしれないと思ったの。」
「お父様は、支局長を支配出来る立場にいらしたようですね。」
テレーズは首を振った。
「陰で、ということならね、公式にはあくまで補佐だったけれど。
父も変わった人でね、出世にはあまり関心がなくて、とにかく現場が好きだったのよ。
支局長は、ワシントンに人脈を広げる事しか興味のない男だった。だから、若い連中がへまをして自分に責任が飛び火しないよう、父に仕切りを任せて頼り切っていたわ。」
「よくある話、という訳ですか。」
「ええ、そう、よくある話ね。情報部の堕落だわ。
で、夜明けに迎えの車が来て、あたしは中央市場へ行った。処刑だというのに、野外コンサート並の人出になるのが、サイゴンという所なのよ。」
「何だか人間は、ローマ帝国の頃から変わらないようですね。人の死すらも、大衆の娯楽にしてしまう。」
「公開処刑は、戦場での死よりも、ある意味では悲惨なのよ。」
「名誉の戦死、ではないからですか。」
「それもあるけど、一方的に敵に断罪されて、無抵抗のままに殺される、衆人監視の中で。
ジャーナリストや野次馬の誰が、クァンの人生を理解していたかしら。
そして、彼を処刑に追いやった直接の原因はあたしだわ。合衆国の職員としての大義名分は持っていたけれど、友人を死に追いやり、ドク・ラップ(独立)を夢見て闘う若者を、あの馬鹿げた広場に引きずり出した…あたしは確かに見届ける義務があったのだわ。」
「クァンの銃殺から、何か変わりましたか、あなたの中で。」
「いいえ…むしろ、漠然とした意識がはっきりしたの。この戦争は馬鹿げている、という事。そしてあたしが行動する事の理由。」
「…何だったんですか。」
「生きる目的がないから、行動したの。過去から今に至るまで、ずっと。」
「あなたはその、つまり、虚無に浸され続けていたんですか。」
「そういう事になりますか…それをはっきり自覚させてくれたのがクァンの処刑だった。
彼は、細い身体がいっそう細くなっていたように見えた。夜明け前の、まだ暗い中でも、彼の顔は白く浮き上がっていて、はっきり見えたわ。近くにいた、おそらく市場に店を持っているおかみさん達が、可哀相に、きれいなお兄ちゃんじゃないか、とか言っていた。あたしは、一瞬彼女達もベトコンか、なんて考えた。」
テレーズは、ため息をつくと続けた。
「クァンは完全に表情を奪われていたわ、まるで人形のように兵士達に引きずられて、積み上げられた砂袋の前に立てられた柱に縛られた。そして、目隠しの布をあてられるまで、完全に虚ろだった。
でも、彼は、一度だけ顔を上げて、空を睨んだ。それは、あの村で最初に見た時の兵士の顔だった。
死の直前に彼が選び取ったもの、それは救国の闘士としてであれ反逆者であれ、いづれにせよ、あの場のすべてに対する否定だった。
肉体は、ほどなく破裂したわ。何発もの銃弾、そしてとどめの一発。
あたしは見届けた。あたしは自分自身をはっきり自覚した。そして…フォンとクァンは、あたしが生きている限り、あたしの中で永遠に生きる存在となった。」
「あなたは、彼らの死に責任を感じていた、という事ですか。」
「死そのものは、あたし一人に背負い切れる事ではないわ。それに、あたしが思ったほどには彼らはあたしの存在に関心を持っていなかったでしょうよ。
彼らは社会に目を向け、変革を志していた。あたしはその社会に組み込まれていながら、何も信じる事が出来なかった…すべてはむなしいだけ。それが、かえって自分を行動に駆り立てる。多分、恐怖に浸されていたのね。」
「テレーズ」
僕は呼びかけた。
「あなたも十分傷付いたのですね。」
テレーズは微笑んだ。
魔女と聖女が交錯した。 |