(5) 修道女
「南国の空と海を見たことがある?
ハワイでもない、カリブ海の島々でもない。 アジアの重い湿気を帯びたあの圧倒的な青さ…今でもはっきり覚えてるわ。
飛行機の窓から見た南シナ海は、漆を塗ったようにつややかだった。
あたしはサイゴンに帰ってきた。
度重なるクーデターの後、ようやく落ち着き始めたサイゴン。 これから末期的症状に突入してゆくサイゴンの行方を見届ける事になるのに、懐かしさでいっぱいになっていたあたしは、何もわかっていなかった。」
今日のテレーズは、熱に浮かされたような、あるいは夢を見ているような話し方をしている。
おそらくは彼女の人生で、最も濃密な時間を語ろうとしているからなのだろう。僕は微笑んで、促した。
「最初の仕事について聞かせて下さい。」
「私達は、表向きの仕事を用意されていたわ。
父を始め、ほとんどが大使館関係か経済援助団だった。でも、あたしはそれを拒んだ…修道女ということにしてくれるよう、画策したのよ。」
「修道女、ですか?」
「そう、自分なりに工作員という仕事の性質を考えたうえで、最も疑われにくく最もベトナム人に近づき易い白人の女の身分は、フランス人修道女になることだという結論に達したの。
それで、上に掛け合って、何とか実現させたわ。」
「よく承知しましたね、いや、カトリックの修道会といえば、ひどく厳格で排他的なところでしょう。」
テレーズは、にやりと笑った。
「資金に政治的圧力、当時のCIAはどちらも豊富に持っていた。
戦時国家の中で孤児や避難民を援助する団体は、金も人手も喉から手が出るほど欲しいものよ。」
「具体的には何をしたんですか。」
「寄附と称して乳児院を建てたのよ、安普請だけど。」
「その見返りが、マスール・テレーズの誕生というわけですね。」
「まあね。一応ちゃんと誓願式もして、少しばかり髪を切って、修道服にベールといういでたちで子供達の世話をする事になった。
でも、抜け出す事も多かったけど。」
「スパイの打ち合わせですか?」
「それもあるけど、情報収集のため、だわね。
家政婦のランや、息子のビンや、修道院に出入りするベトナム人達から、主に解放戦線入りした、あるいは何らかのつながりを持っている人間について、あらゆる事を聞き出す。
末端の工作員が、やはり末端のゲリラを追っていてもいつどこでテロ行為が起きるか、時には掴む事は出来るのよ。
こういう地道な作業は大事だわ、全くのところCIA的ではなかったけれど。
あと、白人達の夜の社交場へも顔を出したわ。
ジャーナリスト連中は勿論だけど、植民地時代から残っているフランス人達は、思いもよらぬ情報を持っていたりする。
あたしは情報の取捨選択に関して、大いに鍛えられたわね。それに…」
テレーズは言葉を切った。
「女であることを利用する術も学んだの。
それを楽しみすらした。」僕は頷いた。
「美しい女性の特権ですね、数多くの恋愛もなさったのでは?」
「いいえ、それはなかった。恋愛はあたしの中での重要事項に含まれていなかったの。
確かに付き合った男は、少なくなかった。 でも、あくまで情報収集のためだったり、気鬱になるのを防ぐためだったり…」
「そうですか、それは残念ですね。
恋愛というのは、彩りとしては最も有効ですからね、ドラマとしては完璧になるところだったんですが…」
「そちらの方面では、あたしの精神と肉体は、やや乖離していたかもしれない。やはり戦時国家という異常な環境にいたせいかもしれないし、あたし自身の資質に問題があったのかもしれないし、とにかく…恋愛としては誰も愛することはなかったわ。」
僕は、否定されると分かったうえで、ジョニー・ジュエルとの関係を持ち出してみた。
案の定、テレーズは笑って否定した。
「ジョニーとの付き合いはまあ、戦友みたいなものよ。そのうち詳しく話すわ。忘れられないエピソードの一つね。」
「わかりました。
それで…情報収集の仕事はなかなかうまくいっていたようですが、危険な目に遭うことは?」
「ほとんどのアメリカ人は最初安全だったと思う。
ただし、戦争が長引くにつれてプレイクやダナンといった町はかなり危険だったわ。
仕事熱心な連中は、そういう所へも行くけれど、心身共に疲れ切ってサイゴンへ戻ってくる。」
「あなたはずっとサイゴンに?」
「いいえ、一度だけベトコンと通じている疑いのある人間を追ってプレイク郊外の村まで行った事がある。そこで戦争につきものの、きわめて残酷な側面を見たの。
彼女―あたしが疑いを抱いた人間は友達だった。
コーチシナのかなりの土地を所有していた実業家の娘だけれど、父親がジエム政権時代にジエムや弟のヌーと接近し過ぎた。
ジエム兄弟が暗殺されてからは、ズォン・バン・ミン一派に謀られて汚職だ脱税だとかでプロコンドール送りになって、そこで死んだわ。
財産のほとんどは没収。
一人娘だった彼女フォンはフランス男と不倫の揚句、娘を持った。
唯一残された郊外の土地と建物を託児所にして、何とか生きていたわ。
彼女はカトリックの家系であたしのリセの先輩だったことから、親しくなったのよ。
知的なのに気まぐれで、官能的な魅力に溢れているのに上品で人を寄せ付けない神秘性がある。
それでいて、あたしをとても気に入ったみたいでね。たいていの女達は、あたしを恐れるか、無意味に崇拝するんだけど、彼女は初めから対等に接してきたわ。あたしはすぐに、彼女を好きになった。」 |