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新テレーズ物語
作:加賀いつ子



(4) 工作員前夜


  僕はしばらく言葉を失い、呆けたようにテレーズの顔を見つめた。テレーズは無表情で、何の感情も浮かべていなかった。
 やがてテレーズは、淡々と言った。
 「あたしのはじまりは、殺人者だったの。」
 なるほど、そういう事か。
 「まるで映画そこのけの展開ですね。       
 それで、あなたは罪に服した?それとも無罪放免ですか、いわゆるその、治外法権のような形というか…。」
 「あたしは応急手当てを受けた後、米軍の捜査官に身柄を引き渡されて、あっさり釈放されたわ。もちろん泡をくった父が、あちこち駆けずり回ったおかげでね。当時の南ベトナム政府はすでに腐敗し切っていたから、事は簡単に運んだみたいよ。         
 トンキン湾事件が勃発したのは、その翌年で、あたしは17才になろうとしていた。」
 「ビンやジャニーヌはどうなりました?」
 「ビンはしばらく入院してその後、少年刑務所に入れられた。出てきてからは、街のチンピラ、そして密輸業に手を染めてギャングスターになった。彼はあたしの重要な情報源でもあったの。彼なりに、あたしの顔の傷に責任を感じていたらしいわ。ジャニーヌは結局すぐに、母親と一緒にフランスへ帰った、その後の事は知らない。」
 「ビンは徴兵を逃れたんですか。」
 「ええ、そうよ。賄賂をばらまきまくってたから。
 でも、彼はアメリカ亡命に失敗したの。サイゴン陥落直前に何とか香港へ逃れたけど、地元マフィアとのトラブルで結局殺された。」      
 「そうですか。ギャングに相応しい最期かもしれませんね。」
 「でも、ビンの母親のランは可哀相だったわ。あたしが顔を切られた事を知った時は怒り狂って、お嬢様に申し訳ない、ビンを殺して自分も死ぬって大変な取り乱しようだったの。彼女は入院しているビンを、この親不孝者!と泣き叫びながら天秤棒で滅多打ちにしたらしいわ。医者や病院の人間に止められなかったらビンは死んでいたかもしれない。」
 「悪いけど、どこか滑稽ですね。」
 「そうね。東南アジア特有の母権制社会は、西欧人にとっては理解不可能なところがあるでしょうね。」
 「あなたが釈放されてからの事を聞かせて下さい。」
 「米軍の施設であらためて傷の治療を受けたわ。でも、どうしても痕が残る、視力も危険な状態だと言われた。        
 そんな時、父と一緒に情報局の人間が来たの、男女ペアで二人。彼らはあたしが殺した少年の死体を短時間のうちに念入りに調べたらしいの。で、死因は刺した後、あたしが首の骨をへし折った事に気付いた。」     
 「まさかそれでスカウトを?」          
 「スカウトでもあり、交換条件でもあった。    
 殺人はなかった事にするかわりに、CIAのために働けという事よ。父だって大統領じゃないんだから、娘の殺人をもみ消すには条件を呑むしかなかった。」
 「承諾したんですね。」
 「あたしは半ばやけっぱちで、OKした。ただし、正式な訓練はリセを卒業してから。それまでは学校の帰りに、エージェントの研修を受けること、と言われた。エージェントからケースオフィサーになるには、どうしても…」
 「ラングレーへ行かなければならない?」
 「ええ、そうよ。それに大学へも行っておくべきなのよ、父はそうさせるつもりだった。」
 「大学へは行きました?」
 「行くもんですか、あんなところ。」
 僕は何だかうれしくなって理由を尋ねた。
 「あの頃のアメリカの大学なんて、インド人みたいな格好で髭だらけのくず共がきわめてムーディに反戦の歌なんか歌ってるような所よ。何も学ぶものなんてなかったわ。」
 「なるほど。」
 「とにかくあたしは、卒業まで、毎日訓練を受けた。格闘技に関しては問題なかったし、それ以上にあたしには射撃の才能があることがわかったの。動体視力が並外れていいんですって。ただ、片目というハンディがあったから、大変だったのよ。肉体的にも精神的にも辛かったけど、戦乱の田舎へ行った時の方が、もっと辛かった。」
 「そのエピソードはぜひ、聞かせて下さい。その前に、卒業してからラングレーでの訓練について伺わなければ。」
 「訓練は、あちこちで行われたわ。        
 ヴァージニア州を皮切りにアリゾナの砂漠やマイアミの擬似ジャングル…しばしば正規の軍事訓練に参加させてもらう事が多かったわ。当時はベトナム戦争真っ只中だったから、それは過酷な訓練だった。
 本当はね、そこまでやらなくてもよかったのよ。何といってもあたしは女なんだし、父はえらく心配していたから、裏から手を回してサボることも可能だった。          
 でも、あたしの中で、サイゴンでの出来事がトラウマになってたのね。恐怖心から異常なまでに訓練に打ち込んだ。ある種の依存症になっていたんだわ。」      
 「無理もないことですよ、年令的にもそうだし、相手が悪かったでしょう。」           
 「ええ、許せなかった。 
 ただ、あたしは自分の中の、度しがたい激しさ、残虐さにもショックを受けた。 だから、完璧なセルフコントロールを身につけるよう努力した。工作員なら当然だけど。」
「 でしょうね。それで、訓練が終わるとすぐにサイゴンへ?」
「いいえ、しばらく工作員達相手にベトナム語の講習のアシスタントをやらされたわ。完璧とはいえないけど、ビン達との付き合いから日常会話程度はこなせたし、俗語も知っていた。ベトナム人の風俗や習慣についても教えるよう言われたけど、誰も真面目に聞かないの。        
 バカバカしい限りだったわね。
 戦争に負けた原因なんて、案外この辺にあるんだと思うわ。」
 「アメリカの思い上がりですか。」
 テレーズは頷いた。
 「全ての準備が終わった後、父とあたしはサイゴンへ戻る前にパリへ立ち寄ったの。あたしに、母の故郷を見せておきたかったんでしょうね。といっても母は植民地生まれのフランス人てやつだったんだけどね。」
 「パリはどうでした?あなたには合いそうですがね。」
 若い頃のテレーズなら、北欧からパリコレのために出てきたモデルのように見えたかもしれない。
 「自由でもあり、堅固に保守的でもあり…サイゴンが熟し過ぎて墜ちたマンゴーだとすると、パリは大理石ね。いろんな意味での中継地…気に入ったわ。
 パリで、父はあたしにドレスや何やかやと買い与えた。女を磨いておくのも大切な任務だと教え込まれていたけれど、あたしは単純にうれしかった。上等な衣類や質の良い化粧品と香水が、どんなに女を幸福にするか、にめざめたのね。
 あたしはそれらの戦利品と共に、サイゴンへ戻った。ノスタルジーと悪夢に充ち溢れた徒花のようなサイゴンへ。」












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