(10)女の砦 前編
「アンコール・ワットは誰のものか。一人二十ドル入場料を払って年間約六十万ドルとして、そのほとんどが回り廻ってベトナム政府の懐に入る。何故かって?戦争賠償金の名のもとに、インドシナ共産党を背後に控えたベトナム政府が取り上げるからよ。
カエサルのものはカエサルに。そんな事を実践していたら、どこもかも干上がってしまう。アンコール・ワットはいまや事実上、ベトナム人のものだわ。彼らは、計画通りにクメール人とその遺産を侵食していった。中国人でさえ出来なかったことをやり遂げつつある。より正確に言うならば、中国がいつでも出来ると油断しているうちに、さっさとベトナムがもっていったということね。全くもって天晴れなお話。」
カンボジアでの体験を訊き始めると、テレーズはこう切り出した。
時代が前後するのではないか。ベトナムがカンボジアに侵攻し、属国とまでは言わなくとも、ほぼそれに近い状態へ持っていったのは、ベトナム戦争が終わり、社会主義国家として統一されてからのことだ。
「その通りよ。あたしは、今現在のアンコールとその周辺の状況を再認識したうえで、話をしたかったの。」
僕は頷いた。
「カンボジアへいらしたのは、やはり仕事で?」
「いいえ。カンボジアのクーデター準備要員に、あたしは含まれていなかった。修道院の仕事で行ったのよ。でも、前にも述べたように父が関わっていたから、プノンペンで何人かのCIA職員には引き合わされた。父を含めたごく一部は、これは時間稼ぎの対症療法に過ぎないとわかっていたから陰鬱な顔をしていたけれど、浮き足立っている人間もいたわ。中には、とんでもない猟奇趣味の工作員もいた。」
「と言いますと?」
テレーズは、鼻にしわを寄せて肩をすくめた。
「完全な変質者ね。ベトコンの耳のコレクターよ。死体から収集したものはもちろん、拷問で切り取ったものを後生大事にホルマリン漬けにしている馬鹿よ。ギャングと変わらない。」
「それは、きわめて危険な異常者ですよ。」
「そうなの。ああいった人間は、いずれ必ず組織に災厄をもたらすものよ。じっさい、そいつは決して周囲から好意的に迎えられていなかった。でも、頭は切れたから、クビにする理由がない。だから、阿片漬けにしてやろうなんて陰謀が囁かれていたのよ。」
僕は呆れながら、聞いた。
「陰謀は成功しましたか。」
「もちろん。あるベテランの工作員が懇意にしているマダムの阿片窟に何度も連れて行って、そこで若い娼婦の耳を切り取ろうとしているところを、拘束したらしいわ。サイゴンの病院に送られてからは、厨房に忍び込んでロースト用のうさぎの耳を切り取ったものだから」
テレーズは、げらげら笑った。
「料理女達にしたたか殴られた揚句、本国へ送り返されたわ。最終的には、精神病院で自分の耳を引きちぎったそうだけど。」
「彼も、ある意味では戦争の犠牲者ではありませんか。」
「彼の頭は、もともとおかしかったのよ。遅かれ早かれ発病していたと、あたしは思います。戦争が終われば、耳を求めて街に出るだろうことを考えると、ああなってよかったんじゃないかしら。」
僕は首を振り、あらためて陰謀を扱う人間達の冷酷さに、複雑な思いを抱いた。こういう時は、質問を変えるべきだろう。
「当時カンボジアは平和な中立国でしたね。プノンペンの印象は、どうでしたか。」
「サイゴンを小規模にして静かにした街ね。人々の性質も顔だちも、ベトナム人より素朴で穏やかな印象を受けたわ。何よりも、街の匂いが違うの。」
「どういう風に?同じインドシナの、フランス人が作り上げた街でしょう?」
「ええ。でも、サイゴンはもっと生活のエネルギーに満ち溢れていたわ。あすこは大都市のカオスなの。埃とガソリン、魚醤と香草、阿片とジャスミンと、どぶ河に生ごみ、コニャックと硝煙、精液と血の匂いに混じってゲランやシャネルが幻影のように漂う街。プノンペンは…もっとナイーヴで抹香臭かったわ。ノロドム王家率いる熱心な仏教国ですものね。夜はさすがに、月下香に阿片が入り交じって退廃の顔を見せていたけれど。」
テレーズは、熱心に過不足なく二つの都市を表現してみせた。やはり、彼女の周囲には、明瞭な美の世界があったのだ。あるいは彼女が、独特の感覚で美を見い出し、認識し、享受していたというべきか。
「それで、あなたの霊的体験ですが、いったいどこでどういう風に訪れたわけですか。」
テレーズは、少し吹き出すように笑った。冷笑的ともとれる笑いだったが、それは僕に対してではなく、己れの内部へ向けて放ったように思われた。
「きっかけは、ある寺を訪れたことだったの。でも、あたしには、いつも戦闘がつきまとった。あたしは、そこへごく気楽な巡礼、なんかじゃなくてほとんど観光気分で出かけたのよ、美術史的に非常に価値のある寺だと評判だったし、いわくつきの場所でもあったから。」
「いわくつき、と言うと?」
「バントアイ・スレイ―女の砦、という意味だそうだけど、フォンが死ぬ一年ほど前に、幼いローズを連れて行ったと聞いていたの。ローズの父親にゆかりのある寺だとかでね、見せたかったらしいわ。だから、あたしも見ておこうという気になったのよ。でも…」
「そこで戦闘に遭遇したんですか。」
「結果的には、そうなった。いいこと、あたしは一介の工作員よ、兵士じゃないわ。それがジャングルでのゲリラ戦に放り込まれたようなものだったから、それはひどい戦いだった、だからよく覚えているのよ。」
「詳しく話して下さい。もちろんバンテアイ・スレイの印象も。」
「…どこから話せばいいかしら。そう、修道院の仕事は、シェムレアプへ行く事だったの。アンコールのそばに住んでいるイエズス会神父に届ける物があったのね。あたしは、彼に届ける骨董的価値のある貴重な写本と一緒に、新しい銃を持って出かけた。いつも悪態をつきながら使っていた重たいコルトに比べると、真新しいMK22は軽量化されて、素晴らしい物に思えたわ。それに、特殊部隊にしか支給されない代物だったから、自尊心をくすぐられもした。」
「あなたが優秀だから、特別に支給されたんですね。」
テレーズは、肩をすくめた。
「まさか、そんなに甘い世界じゃないわ。いくらあたしが、当時のサイゴン支局で最も腕のいい暗殺者だったとしても、特殊部隊の連中の比じゃあないわ。」
「じゃあ、どうやって手に入れたんです。」
「部隊のリーダーに、にっこり微笑んで、彼の頬に手を触れる。翌朝には、あたしのもとにMKが光っていたわ。」
僕は、目玉を上下させてからほほえんだ。
「結構な魔法が使えたんですね。で、あなたはそれを手に入れて、意気揚々とカンボジアへ乗り込んだ…。」
「あたしは、不穏な事を考えていた。バントアイ・スレイは密林に囲まれているそうだから、銃を試すことが出来る、練習になると思ったの。結果として、練習どころか実戦そのものになったけれどね。そう、イエズス会の修道院で用を済ませ、老神父が従軍司祭だった頃の回顧的な冒険談を辛抱強く聞いてから、あたしはバントアイ・スレイを訪ねるつもりだと言った。」
「それで?」
「老神父は、あまりいい顔をしなかったわ。絶対に止めろとも言わなかったけれど、アンコール・ワットのように整備された道のりではないから、女が一人で行くべきではないと警告した。あたしは、ゲリラが出没する可能性を訊ねたけれど、それは大丈夫だろうということだった。そして、あたしがサイゴンから持ってきた地図よりも精巧な地図をくれて、ジープの手配までしてくれた。多分、サイゴンの修道院長から、あたしの正体を聞かされていたのかもしれない。あたしは、日が暮れるまでに戻ってこれるように、早朝に出発した。」 |