蝉は知っている
蝉の鳴き声が、聞こえる。
五月蝿さと暑苦しさで、彼は目を覚ました。外はもう暗くなり始めている。
受験勉強をしようと思ってもなかなか手につかず、寝転がっていたら、そのまま眠り呆けてしまったのだ。
起きたとは言っても、なにもやる気など起きない。
ただただ天井を見上げながら、彼は蝉の鳴き声に耳を傾けた。
「蝉……か」
ふと、小学生の頃の思い出が、頭に浮かび上がってきて、彼は少年時代へと引き込まれていった。
*
あの時も、こんなうだるような蒸し暑さで、蝉が五月蝿かった。
しかし、あの時の彼は、今よりずっと元気で、エネルギーの塊だった。夏休みは友達と一緒に、ほとんど毎日と言っていいほど、どこかへ出かけてはふざけあって遊んでいた。
その日も、彼は友人の一樹を連れて、学校の裏手にある森に、虫を捕りに出かけたのだった。
しかし、なかなかうまくいかず、木の幹に網を叩きつけるだけ。一向に虫は捕れなかった。
「なあ、もう帰んねえ? 全然ダメだしさ」
虫と奮闘していた一樹は、疲れて飽きたのか、だるそうにそう言った。だが彼は意地になっていた。ここまできたら、一匹くらい捕まえたかったのだ。
「諦めんなよ。もうちょっとだけ、な?」
懇願する彼に負けて、一樹は渋々了承したが、もう虫を追いかけるのはやめて、その場にへたり込んでいた。
一樹を尻目に、彼は根気よく虫を捕えようと、森の中を駆け回った。
がさっ。
白い影が、木々の間を通っていったような気がした。
「誰?」
森に向かって尋ねてみるが、返事はない。見間違いかと思って、首を捻った。
昆虫を捕まえるほうに躍起になっていた彼は、さして気にも留めずに再び走り出した。
そんな哀れな彼に昆虫のほうが同情でもしたのか、無防備に幹に止まっていた一匹の蝉を、ようやく手中に収めた。
「あ! やった!」
思わず叫んだ。
手の中で蠢く蝉を見て、優越感に浸っていた彼は、一樹の姿が見えないことなど、全く気付いていなかった。
「あれ、一樹? どこ?」
辺りをキョロキョロと見回し、一樹を探す。誰もいない。
鬱蒼とした木々と青々とした背丈の長い草が生い茂った森が広がっているだけ。蝉の鳴き声。風で擦れる葉の音。
急に不安に駆られて、汗が身体にじわりと滲んできた。
「一樹! どこにいるの!」
焦燥感から震える声を張り上げた。しかし、返事はない。
まるで別の世界に一人入り込んでしまったように感じられた。それでも、せっかく捕まえた蝉を逃さない様に、しっかりと押さえながら、走って一樹を探し回った。
緑の隙間から見える空が、綺麗な夕焼け色に染まり始めている。
しかしその時の彼には、不気味な色に見えたものだった。
早く帰らないと、真っ暗になってしまう。こんなところに取り残されたら……。
とても耐えられそうにない。
「一樹! 一樹!」
一層声を大きくして、腹の底から叫んだ。既にそれまでの疲れのせいで、喉が腫れて声は掠れてきていた。こうして声を上げるのも、後どれだけできるだろうか。
彼はとにかく足を動かして、森から出ようとやってきた方向を戻った。
しかし、行けども行けども、同じような景色が続いて、自分がどこに向かっているのか、だんだんわからなくなっていった。
同じところをぐるぐる回って、森に弄ばれているようにも思えた。
そうこうしているうち、空は次第に端から暗くなっていき、森の中に夜が到来し始めた。
もうすっかり叫び過ぎたせいで、喉は腫れ上がり、声は完全に出なくなっていた。
周りが暗くなって、視界が閉ざされていくと、彼は本当に自分一人だけ取り残されてしまったように感じて、寂しさが込み上げ、その場にしゃがみ込んで泣き出してしまった。
手の中の蝉は、もう鳴きもせず動きもせず、生きているのかさえもわからない。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
一樹の言う通り、早く帰っておけばよかったんだ。
泣いても、声は出ない。涙だけが頬を伝って、顎に溜まった水滴が垂れた。
がさり。
背後で音がした。
草を踏み鳴らす音。足音はこっちに忍び寄ってくる。
誰かが助けに来てくれたんだ。
助けて! ここにいるよ!
声は言葉にはならず、空気が喉から漏れるだけ。
しかし、やっと現れた希望の光。
彼は涙を手の甲で拭って立ち上がった。
……がさ……がさ。
足音はさらに近づいて、彼のもうすぐそばまで来ている。
彼は待っていられずに、音のほうに近づいた。
しかし、そこにいたのは、一樹でも、彼の先生でも、彼の両親でもなかった。
白装束に身を包んだ、黒い髪の長い人。男か女かもわからなかったが、暗闇の中に、その白は不気味に映えた。
その人物の放つ異様な雰囲気を、小学生ながらに感じ取った彼は、震える足で本能的に後退った。
声を上げてはならない。物音を上げてはならない。
慎重に後退する。
その時、掌の中で、蝉が鳴いた。
びくりと身体が竦んで、完全に全てが停止してしまった。
しかし、白装束の人物は、その音に過敏な反応を見せた。
ぎろりと、こちらのほうに顔を向ける。獲物を捕らえた肉食動物さながらに、鋭敏な動きだった。
ヤバい。早く逃げないと。
そう思っても、身体は言うことを聞いてくれない。
鳴き止まない蝉。
こうなったら逃がしたほうがいいと頭ではわかってていても、接着剤でくっついてしまったように、力のこもった彼の両手は離れなかった。
何とか逃げようとしたときに、石に躓いて尻餅をついてしまった。
更に距離を縮める白装束。
もう、ダメだ。
目を瞑って、覚悟を決めたのだが、その時はいつまでたっても訪れなかった。
恐る恐る目を開けていくと、既に夜が明けていた。
否――。
夕方に戻っていた。
「あ、やっと見つけた。こんなとこまで来て、探したんだぞ」
一樹だった。彼を探しに来てくれたのだ。
彼は心底安心して、泣き出してしまいそうになったが、一樹の手前、それを必死で堪えた。そのせいで、変な顔になってしまった。
「何か捕まえたか?」
彼は両手の中にいる蝉を、一樹に見せようとした。
だが、そこに蝉の姿はなかった。
いつの間に逃げたのだろうか。いや、ずっとこの手は繋がっていた。逃げられるはずはないのだが。
「なんだ、やっぱり収穫なしか。帰ろうぜ」
彼は黙って頷いて、一樹の後を追った。あれだけ探し回っていた出口はすぐに見つかり、すんなりと森から出ることができたのだ。
*
それから数日後、彼はあの森から、白骨死体が発見されたというニュースを耳にした。
歯型から身元が分かり、何か月か前にその森の近くで行方不明になった女性だということが分かったという。
蝉は、その人生の大半を地中で過ごし、外界での生活は僅か一ヶ月程度しかない。
もしかしたらあの蝉は、誰にも見つからずに埋められたままだった彼女の生まれ変わりで、ようやく地上に出てきて見つけた俺に、その存在を知ってほしかったのかもしれない。
あの白装束は、その彼女だったのだろう。
彼は子供心にそう感じたのだった。
*
少年時代の記憶から、現実に戻ってきた彼は、窓に張り付くようにして止まって鳴き喚いている蝉を見た。
彼は窓を少し開けた。心地の良い夜風が、部屋の中に入ってくる。隙間から手を伸ばし、蝉を捕まえた。何も知らなかった小学生の頃とは違い、コツを知っているから昆虫を捕まえるなど、彼にとっては造作もないことだった。
逃げない様に、両の掌で優しく包み込むようにして、指の隙間からその姿をまじまじと見つめた。
「もしかしてお前も、誰かの生まれ変わりなのか……?」
ふっと心の声が漏れた。
あの時のように、どこかで誰にも知られずに死んだ誰かが、俺に何かを訴えようとしているのかもしれない。
しかし勿論、返答などない。蝉は逃げようとじたばたと手足を動かすのみ。
なんだか馬鹿馬鹿しい考えだと思い直して、彼は自分を嘲るように苦笑した。
開けた窓から、蝉を逃がして、飛んでいくその姿が見えなくなるまで、彼はただ見続けていた。
それでも、まだどこかに蝉がいるようで、鳴き声は止むことがなかった。
……そういえば、あの事件の犯人って、捕まったんだっけか……。
まあ、もう十年近く前の話だし、捕まってるだろ。
彼は机に向き直って、止まっていた勉強を再開した。
しかし、
ピンポーン。
玄関のインターホンが鳴った。
今日この家には、彼以外に誰もいない。両親はまだ仕事に出ているし、兄は一人暮らしでここにはいないし、弟は部活。
彼が出るしかなかった。
いい感じで高まっていた勉強の気分が、すっかり削がれてしまった。
まったく、誰だよ。こんな時に、タイミングが悪い。
蝉の鳴き声が、心なしか大きくなった気がする。
彼は心の中で悪態を吐きながら、玄関のドアを開けた。
リビングで点けっぱなしになっていた、テレビの音声が聞こえてきた。
『――市の森の中から女性の遺体が発見されてから十年が経ちましたが、現在もその犯人は捕まっておらず、警察では情報提供を呼び掛けております。こちらが、目撃者の証言を元にして作られた、犯人のモンタージュ写真です。犯人は170cm程度の男性で、白いシャツに白いズボンを身に着けていたとのことです』
あの事件だ。
蝉の鳴き声が、更に大きくなった。
テレビに釘付けになっていた彼は、玄関にいる来客に、全く気付いていないようだった。
犯人の顔が映し出されたテレビ。
「あの……」
声を掛けられて、ようやく客のことを思い出した彼が、玄関に向き直った。
「あ……」
本当に驚いたとき、人は悲鳴を上げたりなんかしないし、目を見開いたりなんかしない。
彼はただそう呟くことしかできなかった。
蝉の鳴き声は、まるで耳のそばで鳴いているかのように、鼓膜を揺るがした。
そこにいたのは、紛れもなく、白装束の男だった。
彼はやっと気付いた。
気付いてほしかったんじゃない。警告していたんだ。
暗闇に浮かび上がる白。
蝉の鳴き声が、聞こえなくなった。