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猫さんの瞳に魅せられて 作者:猫村銀杏(ねこむらいちょう)

第一巻

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第五章 アンコとクリーム

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第五章 アンコとクリーム

「シキ! ブレーキかけて」
 ナツミがシキの手をより力強く握りながら叫ぶと、ナツミとマフユは一気にスピードを落とした。
「へ?」
 ところが、シキのほうは全くブレーキをかける心構えをしておらず、ナツミ達が止まるまでの束の間に反応できたことは、ただ一文字、発することだけだった。
 ナツミとマフユが急ブレーキをかけるとあっさりとその場で止まったが、ほとんどブレーキをかけられなかったシキの両手には、慣性の法則によってナツミ達でも支えられない力が掛かり、シキの体ごとすっぽ抜けて吹き飛んでしまった。
 バサバサガサガサ!
 空中に吹き飛び、何にも抵抗できなくなったシキは、そのまま派手に繁みに突っ込んだ。ナツミとマフユの最後のブレーキによりいくらか力を押さえられたとはいえ、その衝撃は凄まじく辺りに派手な轟音を響かせ、辺りに埃を立ち上らせた。
「シキ大丈夫!? あんなにあっさり走れたんだから、楽々止まれるものだと思っていたから油断していたよ。だいじょうぶう!?」
 ナツミはシキが埋まっている茂みに向かって叫んだ。
「完全に計算外だったにゃ。あんなに簡単に走れたのだから楽々止まれるものだと思っていたけど、どうやらシキには止まるイメージというのはなかったみたいね。死んでなきゃいんだけど」
 マフユは冷静に分析したがかなり心配している様子で、繁みを見つめていた。
 シキが突っ込んだのは藤の木の生い茂る藤棚。春には綺麗な花を咲かせる藤だが、今は青々と葉っぱを広げている。
「クリーム大丈夫か!?」
 二人の心配に反して、ビンビンした様子でシキが繁みから飛び出してきて、真っ先にクリームの無事を確認しようとクリームを捕らえた奴の方へと向かった。
「猫キチさんのほうが大丈夫なの?」
 ところが、シキは血まみれで繁みから飛び出してきたので、敵の方に心配される始末だった。
 横たわるクリームの傍にいたのは、シキが常連として通っているコンビニで働いている黒髪の綺麗なお姉さんだった。名札をちらっと見たこともあるので、シキは名前も知っていた。確かアンコさんだ。
 わざわざクリームをさらって行くような人間がいるわけがないし、この人も本当の姿は猫さんなのだろうか。そして、ナツミ達の話からすると人絶縁派のキャッツの一員なのだろうか。
「待って! シキ! 落ち着いて! やけくそに突っ込んだら相手の思うつぼだよ」
 慌ててマフユがシキを押さえ込んだ。
「うるさい! クリームがすぐそこで倒れているのにじっとしていられるか! お前がクリームをさらったのか?」
「いらっしゃいませ。おにいにゃん。あなたなら来ると思っていたよ」
 お姉さんは嬉しそうに笑顔でシキに話しかけた。口調から間違いなく猫さんとわかる話し方だった。シキはナツミ達といろいろ話すことで気づいたが、どうも猫さんは苦手な発音がいくつかあるらしく、おにいちゃんって言おうとするとおにいにゃんになってしまうらしい。いつも店を訪れたときと変わらない笑顔と声にシキは戸惑った。
「本当にお姉さんがクリームをさらったのか?」
 お姉さんの足元には気を失っているらしいクリームが横になっていたので、疑いようもない状態ではあったが、目の前の現実が信じられずにシキは聞いた。
「そう、私がクリームをさらったのよ、常連の猫キチさん。私はアンコっていうの。よろしくね」
 シキはどうやら店で変なあだ名を付けられているらしかった。普通の人間ならこんな風なあだ名をつけられたら不快に思うものだろうが、シキにとってはただの褒め言葉だったので少し嬉しくなって気が緩んだ。
「シキ! 何お人好しなこと言っているの? 状況を見れば明らかでしょう。こいつがクリームをさらった犯人よ」
 ナツミは声を張り上げて言う。
「シキ、そこでまずは私達の戦いを見ときなさい。にゃんダフルシューズで走れたからって、ブレーキをかけることすらできないのにいきなり戦えるわけもないでしょう。それに、まずはその出血を止めないと」
 マフユは未だに出血を止まらないシキを落ち着かせようとした。
「分かった。とりあえずマフユ達に任せるよ。クリームを絶対助けてくれ」
 かっかしていたシキではあったが、状況が見えてきて少し落ち着きを取り戻し始めていた。同時にさっきの衝突の切り傷や打ち身の痛みが体中に響いてくるのを感じた。
 さらに、マフユやナツミの表情に未だにシキが持っていた「この子達は、ちょっと異常な超能力をもっている普通の小学生なのでは?」という幻想を打ち砕く、鬼気迫るものがあった。
 シキはマフユには渋々納得するように見せたが、実際にはうんとうなずくしかないよう脅された感じだった。小学生にしか見えない相手にこんな無言の圧力をかけられるのは、シキにとって初めての経験だ。
「それでよし。そこでまずは私達の戦いを見ときなさい」
 マフユはそう言うと、アンコの方へ向き直った。
「行くよ、ナツミ」
「うん」
 二人は息を合わせて、クリームを助けようとアンコに仕掛けようとする。
「おっと、それ以上近づくとクリームがどうなっても知らないよ」
 ところが二人はアンコの一言に急ブレーキをかける。アンコはクリームの首根っこを捕まえて、脅しをかけながらナツミ達から距離をとる。
 首根っこを捕まれるあの捕まえ方は猫さんをじっとさせるのに有効だということを、シキはよく知っていたのではっとさせられた。特に子猫に危機が迫ったとき、親猫が子猫のあの部分を口でくわえて逃げる習性がある。そんな時に子猫が暴れてしまっては自由に逃げることもできないから、本能的に猫さんはあの部分を捕まえたらじっとしてしまうのだ。そうやって首根っこを捕まれた猫さんのだらーっとした姿を語らせたらシキは止まらないが今はそんな場合ではない。
 ともかく、クリームもその例に漏れずじっとしていた。というか、こんな状況なのにクリームはなぜ起きないのだろうか? 猫さんが長時間眠る理由の一つに、人と比べて猫さんは眠りが浅いからというのがある。浅い眠りを繰り返し長時間することで睡眠量を稼いでいるのだ。そもそも睡眠というのは自然界においては外敵から狙われるかなり危険な行為で、悠々と寝ているのは人間くらいのものだろう。猫さんは浅い眠りをすることで、身の回りに危険が迫ったときや、特に危険じゃなくてもその場に変化があったときにすぐに対応することができる。
 だから、こんな状況になる間にクリームが起きる機会などいくらでもあったはずなのだ。
「卑怯者」
 マフユが一言吐き捨てるが、ここはおとなしく相手の言うことに従って、アンコから一歩距離をとりながらその場で止まった。
「卑怯者ねえ。この場においてクリームの安否がお互いにとって、一番の気がかりなんだからさ。それを最大限利用するのは当然のことでしょう」
 アンコは楽しそうに言った。
「なんで、クリームにそんなひどいことするんだ! 返してくれ」
 シキはまだ状況が飲み込めていなかったが、このおしゃべりでアンコがクリームをさらったことだけは断定して、怒りながらもアンコを刺激しないように懇願した。
「そんなに心配しないでも大丈夫。クリームには少し眠ってもらっているだけだよ。それに私にとっても大事な人質なのだから、簡単に傷つけたりしないよ。もちろん、猫キチさん達が無理にでも仕掛けてくるなら保証はしないけどね」
 今すぐにクリームがどうこうなることはなさそうだが、どうすれば無事に取り戻せるだろうか。とりあえず、ここは探りを入れながら様子を見るしかない。もしアンコに隙ができれば、臨戦態勢のナツミとマフユがすかさずクリームを助け出してくれるだろう。
「クリームを人質にとって、目的はなんなんだ?」
「あれれ? 猫キチさんはもう分かっているんじゃないの? だから、こんなところまで来たんじゃないの?」
 アンコは首をかしげて、シキに聞き返した。
「猫さんの間でピースとキャッツの争いがあるっていうのはマフユ達から聞いた。だからお前もキャッツの一員なんだろう?それでピースのリーダー格であるクリームを狙おうっていうんだろう?」
 シキは以前ナツミ達に聞かされたクリームに迫る脅威の話を、そのままアンコに言った。
「大筋は合っているかもしれないけど、私はちょっと違うにゃ」
「そんな馬鹿な。クリームを狙う猫なんてキャッツに決まっている。クリームが私達ピースのリーダーなんていうのは猫社会の常識なんだから、わざわざ他の理由でクリームを狙うような物好きなんていないわ。私達が黙っていないもの。だから、これは私達を惑わす作戦に違いないわ。シキ、だまされちゃだめよ」
 マフユも相手の目的と素性は測りかねているらしいが、シキにはなんとも判断のつかない話だった。ただ、相手のペースに乗せられるのはよくないので信用できるマフユの意見に同調しておいたほうがいいだろうとシキは思った。
「私達の警戒網をくぐってクリームをさらった器量や、私達の追跡に対する逃げ方を考えるとこいつも相当な実力者だし気をつけたほうがいいわ」
 ナツミもマフユと似たような意見らしい。
「まあ、猫お二人さんが私のことをどう考えるかなんてどうでもいいんだけどさ。猫キチさんは、猫が人間と同じように群れを作って生きているわけじゃないことを知っているよね。私達の普通は、むしろ単独行動で生きることなのよ。だから、広い目で見たら私の行動はキャッツとしての行動に見えるかもしれないけれど、実際はその一派と似たような考えを持つ猫の単独行動ってわけよ」
「まさかそんなことが」
 マフユは驚いているようだが、シキにとっては、猫さんがピースやキャッツのような組織を作って動いているイメージより、単独行動をしているイメージの方が全然強いので、アンコの発言には説得力があった。
「そこのお二人さんやピースのみなさんは、キャッツのグループの行動ばかり注目していたから、私一人で行動すればその穴をつくのは大して難しくなかった。人間だって、普段はみんなが個人を殺して理路整然とルールを守って生きることで、社会のレールは綺麗に回っているように見えるけど、意外と単独行動のどっかの誰かさんがそのルールを外した動きをすると脆かったりするでしょう」
 アンコはこの場で特に脅威になりそうなナツミとマフユには、何故かほとんど注意を示さず興味もないような雰囲気で、この長ったらしいセリフをシキにだけ向けて言った。猫さんの人間との行動性の違いは、今更シキが思い返すようなことでもない。そういう一匹狼で自由なところはシキが猫さんを好きになる一番の理由でもあった。あの自由さは、普段、人間の日常生活で感じる窮屈さを忘れさせてくれる。
「じゃあ、お前はあくまで個人的な理由でクリームを襲ったって言うのか?」
いくらシキが自由な猫さんを好きであろうとこんな行動を許せるわけがない。シキは怒りの表情を露わにしながらアンコを問い詰める。
「そういうこと。だからそんな怖い表情を私に向けないでよ。猫キチさん。個人的な恨みでこの子殺しちゃうよ」
 アンコはクリームの首根っこを捕まえながら、右手で首元に手刀を入れるジェスチャーをしてみせた。ナツミとマフユの体に緊張が走るのをシキは感じ取ったが、シキは二人が止まるよう、アンコとナツミ達との間に入った。少なくともアンコはまだ、クリームを殺そうとは本気で考えていない。シキはそう直感していた。
 動物は人間と違って社会的な理由で、他者を殺すことはないとシキは考えていた。
 動物が殺生を行うのは、あくまで食べるためや、自分か仲間の命の危険から守るときのみだと考えていた。それは、猫さんも例外ではない。
 クリーム達は飼い猫さんだからそんな姿を見せることはほとんどないが、たまに外に出たときに小鳥などの獲物を捕まえてくることがあり。そういう本能があることをいやでも感じさせられる。もっとも、クリーム達の場合はその小鳥を自分達で食べるなんてことはせず、あくまでシキやシズカに見せるためにやっているみたいだが、遊びでやっているのか、狩りでやっているのか、その目的は人であるシキにはよくわからない。どちらにしてもその境界が曖昧になっているのは間違いない。
 それはシキ達の猫さんへの介入によるせいだという捉え方もできて、猫さんの生態を無理矢理に変えてしまっているシキ達が悪いともいえるのかもしれない。
だが、野生の野良猫さんならやはりそれは生きるためなのだ。
 そういう考え方もあって、シキはクリームが他の猫さん達から狙われていると聞いたとき、そんな目にあってしまったらすぐ殺されてしまうのではないかと怖かったのだ。しかし、シキが思いもしていなかった人間社会をも超えかねない猫さんの社会性は、そういう野生の残虐性を薄めているようでこの場では幸いした。
「二人とも手を出さないで。もうちょっと我慢して。少なくともここまで殺されていないのだから、まだクリームを生かしておく利用価値は向こうにもあるはずなんだ」
 シキは今にも飛びかかりそうなナツミ達を必死に抑えながら説得した。
「シキ、確かにその通りだよ。でもさ、だからこそ今仕掛けるべきなんだと思わない。今ならクリームに手を出せないはずなんだよ。もし利用価値がなくなってしまったらそれこそ殺されちゃうかもよ」
 マフユは大いに不満があるようだった。
「クリームの飼い主は僕だろう。僕の言うことを聞いてくれないか?」
 シキはまだ二人には介入してほしくなかった。というのも、どうやらアンコが今気になっているのは、少なくともこの二人ではないみたいだからだ。
 アンコがこの場で気になっているのは、クリームと何故かシキの二人らしかった。それはアンコがナツミ達の名前すら興味なさそうなことからもわかる。逆にシキの名前はコンビニに来るたくさんの客の一人でしかないのに、なぜかアンコに覚えられていた。
「それを言われちゃ弱いわね。やっぱりシキをここに連れてくるべきじゃなかったのかな」
 ナツミは諦めたようで呆れた顔で言った。二人は渋々ながらもここはシキに同調した。
「あなた達二人もさ。人に飼われている猫なの?」
 二人に対してアンコの鋭い言葉と視線が飛ぶ。シキにとって、アンコは普段からよく利用しているコンビニの店員さんだったから顔を合わせる機会はよくあったが、こんな真剣で鋭い表情をするアンコは初めて見た。
「いいえ、私達は人に飼われている猫じゃないけど、人と一緒に生きていこうと考えているただの野良猫よ。今は人間社会で紛れて生活しているけど、それはあなたも一緒みたいね」
 ナツミはアンコの疑問に答えた。
「じゃあ、なんで猫キチさんにそこまで肩入れしているの? クリームならともかく、あなた達は、野良猫達がどれだけ虐げられてきたか、よく知っているでしょう?」
「確かに人間の身勝手な理由で、私達はいろいろな不利益を被っているよ。でも、それが人間の全てってわけじゃないよね。あなたの言う猫キチさんは、シキは、その中でもとびっきりの人間でさ。逆に私達の為に、自ら進んで不利益を被るような人だよ。私達をとってもよく愛していて、私達によく接してくれる。クリームはシキと暮らしていて本当に幸せそうだよ。あなたもシキと顔見知りみたいだし、心当たりくらいはあるんじゃないの?」
 マフユはアンコがシキのことを妙に気にかけているのに気づいたようで、そのことに言及した。
 シキは、もし人間関係のことでこんな褒め言葉を連発されたら、顔が火照って爆発してしまうところだったが、猫さんのことでこんな風に言われてもただ誇らしいだけだった。
「そうだよ。そこの猫キチさんと来たらうちのコンビニに来ても猫のことばかり。毎週、猫関係の雑誌を信じられないほど長時間にやけ顔で立ち読みしていくし。この前、五百円くじで猫グッズが出たときなんか、店の半分は買い占めたんじゃないかっていうくらい引いていったし。本当にどうかしているっていうくらい猫好きね。猫キチってあだ名も私が言い出したんじゃにゃいのに、満場一致だったんだから」
 シキは普通のことをしているつもりだったのだが、一般人からみると異様に見えるらしかった。
 ちなみに件のくじびきは、最も近所のアンコのコンビニでのラストワン賞を逃したため、シキはおなじくじを他のコンビニでも買い漁ることになった。なんとか少し離れたコンビニでラストワン賞をとれたのは僥倖だった。
 猫さんのくじなんて滅多にないから、ここ数年でも指折りで数えられるくらい嬉しかったのをシキは鮮明に覚えていた。ラストワン賞の猫さんクッションは、今ではクリームのすっかりお気に入りの寝床の一つになっていた。
「アンコさんが僕の猫キチっぷりが気になるのはわかったよ。でも、なんでクリームをさらおうってなるんだよ。コンビニに来る変な客なんて僕以外にもいっぱいいるだろう?」
 シキには肝心なことがさっぱり分からなかった。
「猫キチさんこそ何言っているの? 私は猫なのだから、どんなに変人が来てもあなたみたいなのが一番気になるに決まっているじゃない。猫キチさんの猫への執着ぶりといったらこっちがうらやましくなるぐらいなんだから。猫キチさんは人間の癖に人間の女には興味ないの? うちに来るお客さんの男達ときたらエロ本や美少女が載っている漫画を立ち読みしたり、買い漁ったりしていったりするけど、あなたと来たら生身の人間にはまるで興味ないみたいに見向きもしない。人間に化けた私だって、結構人の中でも美人の自信があって、言い寄ってくるお客さんも少なくないんだけど、シキは私のことをどう思う?」
 確かにアンコは均整のとれた顔立ちにつやつやとした黒のロングヘアをもち、プロポーションも素晴らしい。だが、それでシキにどうということもない。シキにはアンコが何を聞きたいのか分からなかった。
「アンコさんはすごくきれいな美人だと思うよ。そこらへんのコンビニにいるのがもったいないくらいだよ」
「私は、そういう一般的な意見じゃなくて猫キチさんがどう思うか聞いているの?」
 アンコは怒りながら聞いた。一体、何を怒っているのか。クリームを捕らえられて怒っているのはこっちだというのに。しかし、ここでことを荒らすとクリームが危ない。
「どうって……」
 シキは言葉に詰まった。
「要するに、あなたシキに惚れているの? それでシキがあなたをどう思うか気になるの?」
 すると、そこまで黙って二人の会話を聞いていたナツミが突っ込む。アンコはシキに惚れているなんて、シキは思いもしなかった。
「そうよ。私は猫キチさんのことが大好き。だから、クリームのことをさらったの。猫キチさんはクリームにべた惚れみたいじゃない。クリームが邪魔で邪魔で仕方がない。クリームと猫キチさんを絶縁させるのが私の願いよ」
 アンコは怒っていながら笑うと表現するしかない、シキが今までに見たこともない表情でシキに言った。
 シキはこんなふうにストレートに告白されたのは生まれて初めての経験だった。
 妄想ですらこんな告白は思い描いたことはない。シキはこんな状況なのに心臓が激しい脈を打つのを感じた。つい一時間程前に感じた人生最大の鼓動以上の衝撃がシキを襲う。さっきは大ジャンプからの恐怖感によるものだったが、今回のは突然の告白による極度の緊張感からだろうか。
「で、でも。僕とアンコさんとの関係なんて、ただコンビニにくる大勢の客の一人だろう。どこに惚れるところがあったんだよ」
 シキは、告白にストレートに向き合うのが怖くて、戸惑いながら、話のベクトルを変えるような質問をアンコに向けた。
「惚れるのに理由なんているの? 私にも分からないけど、とにかくあなたのことが気になるの。強いて言うなら猫に対して素直で優しいところだろうけど、その様子から察すると人型の私のことを特に気にしていなかったんだろうなあ」
 アンコは悲しそうに言う。確かにこんな事態になるまで、シキはアンコのことを近所のコンビニの一店員としか見ていなかった。
「ごめんなさい。アンコさん。確かに一人の店員さんとしか見ていなかったよ。でもそれも仕方ないよ。人によっては状況次第で一目惚れみたいなことをすることもあるだろうけど、そんなのは偶然もあってできる話で滅多にないんだよ。僕たちの関係は、端から見れば店員と客でしかないんだし、そんな気にならなくても仕方ないよ」
 シキは精一杯、誠意を込めた自分の気持ちをアンコに伝えた。自分でも表現が不器用すぎて、自分の口下手が嫌になった。
「仕方がない!」
 アンコは怒った口調で繰り返した。その怒気にシキ達三人は気圧されて身動きがとれないほどだった。
「仕方がない……か」
 アンコが二度、シキの言葉を繰り返すと、ところがその怒気は急に薄れて、アンコが気落ちしているのを三人ははっきりと感じた。
「今だ!」
 その気落ちした気配をきっかけに、ナツミが合図を出しマフユと同時に動いた。シキには上手く隙をついた攻撃に見えたが、アンコはうつむいたように見えて冷静だった。ぎりぎりのところで攻撃を避けると、二人の攻撃を上手くいなして、再び三人から距離をとった。
「全く油断も隙もあったものじゃない。何? そんなに早くクリームを殺して欲しいの?」
 アンコは体勢を整えながら、クリームを再び盾にとって、再びナツミ達に離れるよう無言の圧力をかけた。
「ごめん、しくじった。舐めていたわけじゃないけど、こいつは予想以上に用心深いみたい」
 ナツミはシキのほうへ振り返って謝った。
「アンコもこんな状況なんだから、気落ちしているように見えても、注意はしているのよ。それに思っていた以上の身のこなし。野良猫だと思って甘く見ていたけど、相当手強いよ」
 マフユは歯ぎしりしながらアンコのほうをにらんでいた。
「お互い野良猫なのに連れないなあ。そっちにどう映って見えたかは知らないけど、そんなに気落ちもしてないんだよね。シキが私に興味なさそうなのは割とはっきり分かっていたから、むしろちょっとすっきりしたって感じでさ。あはは」
 マフユは不敵に笑った。その表情はシキには不気味にも艶っぽくも映り、シキの不安を煽る。
「ナツミ、マフユ、ありがとう。でも、もうちょっと手を出すのは我慢してくれないか」
 シキはまだ臨戦態勢の二人に念を押した。まだ交渉次第で事態を打開できる余地があると思ったからだ。
「アンコさん。納得してすっきりしているなら、クリームを返してくれないか。僕の大切な家族なんだ。お願いします」
 シキは再度アンコに願った。
「確かに猫キチさんは、人としての私には興味がないかもしれない」
 アンコはシキの目をまっすぐ見ながら言った。
「でも、猫としての私ならあなたなら受け入れてくれる。運動能力があるないを別にしても私が人間であるなら、猫キチさんはそこの二人をそこまで止めたりしないでしょう? 私が猫であるから迷っているんだ」
「確かにアンコさんが猫さんじゃないと分かっていたら、無理矢理にでもひっ捕らえていたかもしれない。でも、こんなことする奴を、いくら猫さんでも受け入れたりできないよ」
 シキは猫さんに対して甘いということはひどく自覚していた。
「それは私の誤算だったかもね。何も言わずにさっさとクリームのことなんか殺しちゃって、その後、猫キチさんに取り入るのが一番上手いやり方だったのかも。そうすれば、猫キチさんは、私がクリームに危害を加えたなんてこと知る由もなし。一時は、クリームの死を悲しんでどうにもならなくなるかもしれないけど、私がつけいる隙もその内にはでてきたんだろうね」
 アンコはシキから目線を外していった。その表情は冷静ではあったが内容はとんでもないものだった。
「アンコ。あなたはシキともっと親密になりたいんでしょう? それなら、こんなやり方は間違えているよ。人と仲良くやっていきたいなら、暴力的な手段を使う必要はないわ」
 ナツミもアンコを説得した。
「分かってないにゃあ。私はキャッツの一派ではないって言ったでしょ。確かにキャッツからの勧誘もあって目的に一致する部分があったから部分的に手は借りているけど、私は自由に生きたいのよ。私はただクリームとシキを絶交させたいの。目的はキャッツと一緒だけど、目指す結果は全然違うわね」
 アンコがクリームを狙う目的はここまで来て何も変わっていないらしい。それどころかシキと会話を繰り返したことでより強くなっている気さえした。そして解釈によってはアンコの目的はキャッツよりもやっかいな話だった。
 キャッツはあくまでも人と猫さんの分離を目指しているから、ピースのリーダーのクリームを狙うのは一つの手段にすぎない。
 だが、アンコの狙いは純粋にシキとクリームなのだ。問題の中心が完全にクリームである以上、解決策が他に向かう手段が、シキにはまったく思いつかなかった。
「アンコさんはどんな猫さんなの? もしかして僕の知っている猫さんなの?」
 シキは最初から気になっていたことを初めてアンコに聞いた。
「私はあなたもよく知っている猫よ。今から見せてあげる」
 するとあっさりとアンコは了解した。以前、シキがナツミ達に変身した姿を見せてくれと言ってもダメだと断固拒否されたので、てっきり易々と見せられるものではないと思っていた。
「な! まさかここで変身しようっていうの!?」
 するとマフユが、今までに聞いたこともないような慌てた声を出した。
「そうよ。何か問題でも?」
 アンコがそう言うと、アンコは眩く光り始めた。
「大問題よ! 猫が人間に変身するのを見られちゃいけないのなんて常識でしょ!」
 マフユが声を張り上げた。お昼は昼寝の時間という常識以外にも猫社会にはいろいろあるらしく大変らしい。
「そんなの知ったこっちゃにゃい。シキには私を見て欲しいんだから。それにあなた達だってこのことをシキに教えたんでしょう?」
 今やアンコの姿が見えないほど、アンコ全体を包んだ光の中から声が応えた。
「ぐぬぬ」
 マフユは返す言葉もないようだった。
「確かにそれは私達もまずかったかもね」
 ナツミはマフユと対照的に全く慌てておらず呑気なものだった。
「うわっ!」
 シキが思わず声を漏らす程の一段とまぶしい光がアンコから飛び出し、シキは思わず目をつぶった。

 シキが目を開けると、アンコのいた場所には黒猫さんがいた。
 その黒猫さんは人間のアンコの黒髪を模倣したようなきれいな艶のある黒猫さんで、シキもよく知っている黒猫さんだ。きれいな赤い瞳とピンと伸びた尻尾は忘れようもない、シキの家の付近を住処にしている黒猫さんで、先日、シキがコンビニ帰りにおやつをあげた黒猫さんでもあった。
 あまりの状況に眩い光で眩んでいたはずのシキの目は釘づけになり、意識は呆然となった。
 シキがナツミ達の家に行った時に聞いた話から、一番シキが恐れていた現実がそこにはあった。
 あの時から、ただ猫さんを愛して大好きというそれだけだったシキの想いは変化をはじめ、人間と猫さんとの関係を考え直すようになったのだ。人間が身勝手に行動するせいで猫さん達にどれだけの迷惑をかけたのかを考えるようになった。
 人間が自分達の世界を広げる中で、猫さんの自由な行動をどれだけ奪ってきたのかと。人が猫さんを飼って、飼われている猫さんは幸せだというのはただの自分の妄想なんじゃないかといろいろな葛藤が産まれた。
 人間の身勝手な猫さんへの仲介はするべきではないのかという恐れが生まれた。
 この状況は、まさにその身勝手な現実が引き起こしてしまったものではないか。
 だが同時に、シキの気持ちの中には昂るものもあった。猫キチというのは、それがどんな状況であれ野良猫さんに遭遇したらテンションがあがってしまうものなのだ。当然、シキも例外ではなく、その才能も猫キチの中でも随一だ。シキはすぐには、気持ちの整理がつかず呆然となった。
「猫キチさん。この前はおやつありがとうね。あのクッキーは本当に絶品で嬉しかったよ。さすがに、この姿だと私のことよく分かるみたいだね。嬉しいにゃ」
 シキは黒猫さんが日本語をしゃべるのを産まれて初めて聞いた。いや、有名な見習い魔女の映画でしゃべっている黒猫さんがいたか。でもあれは映画の演出上しゃべっているように見えても、主人公の魔女の妄想であるなんて説をシキは聞いたことがあった。なんにせよ、フィクション以外ではまるっきり初めてだった。
「お前がアンコなのか?」
 ごく最近の非日常的な体験の数々によって、ある程度は突拍子もない状況に慣れ始めていて、猫さんが喋っているという事態にもそれほど驚きはしなかったが、一応目の前の黒猫さんが先程目の前に立っていたお姉さんと同人物なのかを聞いた。
「こいつがアンコに決まっているでしょ」
 するとその質問に答えたナツミが今にも飛びかからんとする様子を見せた。それを察したアンコはクリームの首根っこをくわえて様子を伺った。
「その姿でクリームをくわえた状態で、私達と戦うつもりなの?」
 マフユも、今がチャンスと見て戦う体勢を整えていた。
「いや、それはさすがに無理よ。首をくわえたのはクリームを掴みながら戦うためじゃないわ。あなた達が仕掛けてきたときに首を引きちぎるためだから下手な動きはしないでね。さすがにこの状態ではあなた達二人を相手にして戦うことはできないからね。保険は賭けておかないと」
 黒猫さんの姿になってもアンコの行動目的は変わっていないらしく、すかさず脅しをかけてきた。これではナツミ達も動くことはできなかった。
「アンコ、僕は確かにお前のことをかわいいなあと思ってエサをあげたり、遠目から視姦したりすることもあったよ。でも、お前がもしクリームを殺したりしたらお前のことを一生恨むし、飼ってあげることなんてできない」
 シキはアンコに同情もしたが、それでもクリームのことをゆずることはできない。アンコはナツミ達が攻撃してこないことを確認すると口からクリームを離した。
「猫キチさん。さっきと違ってよくしゃべるね。それに、猫キチさんの言葉ではっきりかわいいと言ってくれて嬉しいよ。でも視姦までされていたのは、さすがの私でも気づかなかったよ。そこまで私のこと気にしてくれていたんだね。でも、私にその気がなかったらどん引きだったよ。人間だったら完全にアウトだね」
 アンコはさっきまでより全然上機嫌だった。
「言葉は悪かったけど、お前のこと普通の黒猫さんとしか考えていなかったんだからずっと見ていたってしょうがないだろう。人間社会では他人をずっとじろじろ見ていたらまずく思われるだろうけど、猫さんに対してはそれが悪いなんて風潮もないんだよ。僕だってお前と今までどおり、仲良く……、今の関係を仲がいいっていうのか分からないけどさ、やっていきたいんだよ。だから、クリームを離してくれよ。おやつなら今までよりいっぱいあげるからさ」
 猫さんとの関係を見直さなければいけないという考え、つまりアンコとの関係を考え直す、という思いもシキには芽生えていたが、とにかく今優先すべきはクリームを助けること、というその第一義は変わらなかった。
「それは無理だね。私は今までの関係じゃ満足できないんだから。クリームの居場所を私の居場所にしたいんだから」
 しかし、アンコの願いは変わらず、シキの願いとは真逆で相反するものだった。
「お前が何と言おうと、クリームを殺されたらお前によくすることなんてできない! こんな状況見せられたら逆に一生縁を切るぞ」
 あまりに状況が打破できる要素が見当たらず、シキは思わずぶちまけた。こんなのじゃ脅しにすらならないかもしれない。
「いいねえ。猫キチさん。猫が相手だとやっぱ本音も出やすいのかな。さっきまでの猫キチさんとはまるで別人ですごいや」
 シキの予想とは裏腹に、思った以上にシキの脅しはアンコに響いたようだった。
 ただし、脅しとは明後日の方向でアンコがポジティブな方向に傾いたのはこれまた予想外だった。アンコは目を爛々と輝かせていた。猫さんの目なんて普通の人間から見たら、黒目が大きくなるか小さくなるかくらいで表情なんて読めるものではないが、シキならそれを読むくらい造作もない。
「いい加減にしろ。遊びでやっているのか?」
 シキはさっきより怒気を込めた声でアンコに言った。
「もちろん遊びでやっているよ。逆に猫が遊びでやっていないなんてことなんてあるの?人間は、遊びじゃなくてもいろいろやるみたいだけどそこらへんは私達にはなかなか理解できないね。人生、楽しまなきゃ損でしょ?」
 確かに猫さんは遊びでなんでもする生き物だということをシキはよく理解していたから、このセリフには説得力があった。大体、猫さんは人間みたいに打算なんて考えずに自由気ままに生きているからシキは猫さんを大好きなのだ。
 このセリフはシキにとって、アンコを懐柔するのは相当難しいと悟らされる破壊力があった。しかも、これは以前シキがナツミに悟らされた言い回しとそっくりで、シキははっとさせられた。
「なら遊び方を考えようよ。なにもこの遊び方じゃなくてもいいだろう?」
 シキはなんとかアンコの思考を変えようとした。
「確かにそうだね。今のやり方じゃどうにもならないからね」
 しかし、口ぶりから察するにアンコには逆の意味でとられてしまったようだ。
「お前がクリームを殺したら絶対に許さない」
 シキは改めてアンコに宣言した。
「いやいや、そう言いきれたものでもないよ」
「なんでお前にそんなことわかるんだよ」
 シキは売り言葉に買い言葉だと思ったが、アンコのリズムに乗せられるわけにもいかなかった。
「わからないから言っているんだよ。未来がどう転ぶかなんて誰にも見えないでしょう。私がクリームを殺したらすぐには、私のことをよく思うことなんかないと思うよ。いや、長い目で見ても普通はよく思うことなんかない。でも、予想外のことが起こるから人生面白いもので、例えば人間にも自分が監禁されたのにその犯人と結婚しちゃうなんて話もあるらしいにゃん。こういうの吊り橋効果っていうらしいけどね。怖い場面を一緒に体験してドキドキすることで相手のことを好きになっちゃうことがあるんだってさ。すごいよね」
 アンコは楽しそうに言った。
「そんな身勝手な理屈でクリームを殺そうっていうのか?」
 アンコのそんな態度もあって、シキはどうすればクリームを助けられるのか皆目わからなくなっていた。
「もういくら話しても無駄ね。シキ、猫ってこんなものなのよ。あなたならよく知っているでしょう」
 ナツミが痺れを切らして口を挟んできた。
「でも、それじゃあクリームが」
 シキがすかさず突っ込んだ。
「アンコ、あなたは実際のところクリームの生死に興味があるわけじゃないでしょう。シキがあなたをどう思うかが重要で、その足枷になっているからクリームが邪魔だと思っている。場合によってはクリームを殺して成り行き次第で、シキに取り入ろうっていう魂胆なんだね」
 マフユはアンコに真意を確認する。
「んん。どうだろうね。概ねあっているとは思うけど、クリームのことを殺したいっていう気持ちはあなたが思っているより強いかもね。なんでこんなにクリームのことむかつくんだろう」
 さっきまでの様子からは楽しんでいるようにしか見えなかったが、アンコにも迷いはあるようだ。
「じゃあさ。私達と戦ってクリームの取り合いっこしようよ。あなたが勝ったらクリームのことをあなたの好きにしていいよ。あなたが負けたらクリームを返してもらう。あなたもその辺決めかねているみたいだし、すっきり戦いで決めちゃってもいいんじゃない」
 さすがにマフユは戦略家だなとシキは感心させられた。いざクリームを人質にもたれない戦いに持ち込めれば三対一の戦いでこっちが圧倒的な優位だ。(シキを戦力に加えていいのかは怪しいが)問題があるとすれば、アンコがこの提案を受け入れてくれるかどうかだ。
「いやよ。そんなのを受けて私にどんなメリットがあるのよ」
 やっぱりアンコはすんなりと受けてはくれなかった。ここまでの行動からある程度わかってはいたが、やはりこの猫さんは切れ者だ。
「クリームを殺されたらさ。私達もシキ程じゃないにしろ怒るよ。その場合はシキの喪失感に付け入ろうとしているみたいだけど、あなたに私達の相手もできるのかな? 見方によってはシキより厄介な敵をあなたは敵に回そうとしているんだよ。私達以外にもクリームを守りたい猫はたくさんいるんだから」
 マフユはアンコが受けないということはあらかじめ想定していたらしく、アンコに受け入れさせるために脅しをかけた。この二人が味方に付いていてとても頼もしいとシキは思った。
「にゃるほどね」
 そう言うと、アンコは考え込み始めた。これでうまくアンコがマフユの案に乗ってくれるといいのだが。
「どいつもこいつもなんでシキを守ろうとして、こんなに親しそうにしているかなあ?」
 アンコはしばらく考えたのち苦虫を噛み潰すような表情で歯ぎしりしながら言った。アンコが出した結論は、どうやらマフユの思惑とは違う方向にいってすんなり受け入れるのではなく、怒りの方向がナツミとマフユにも向いてしまったようであった。
「わかったよ。あなた達も殺してあげる。シキと仲良くしようとするやつは全員許さないんだから」
 アンコはナツミ達に向かって宣戦布告した。同時にさっき猫さんに化けた時と同じ光が猫さんのアンコを包み込んだ。また、人になって戦うつもりだろう。シキはアンコは冷静だと思っていたからこんな決断をするとは思っていなかった。やはり、猫心は猫さんのほうが分かるということなのだろうか。アンコの交渉はすんなりいったのだろう。
「私達にまで殺意が向いちゃうとは予想外だったね。もうちょっと上手いやり方なかったのかな。シキ、今度こそホントに危ないから下がっていて」
 ナツミはマフユにいちゃもんをつけて、シキを自分達の後ろに立たせた。
「うるさいわね。ナツミじゃ説得することもできないでしょうに。シキ、取りあえず私達の戦いを見てどう動いているかきっちり見ときなさい」
 マフユにとってもちょっと予想外の状況だったらしいが、とにもかくにもナツミと同様、臨戦態勢を整えつつシキにもアドバイスをした。
「さっきのにゃんダフルシューズの走りで分かっただろうけど、思いとイメージでその靴はあなたが思い描いた動きを実現してくれる。実際の戦いでもそれは一緒よ。思いっきり私達の動きを頭に刷り込みなさい」
 マフユは念を押した。先程は走れはしたものの止まれはせず無様な結果となった。おかげでまだ所々痛い。しかし、クリームも目の前にいるのに醜態をさらすわけにはいかない。
「わかった。クリームをよろしく頼むよ。二人とも」
 シキは二人と交互に目を交わして頼んだ。
「任せときなさい。なんならシキの出番なんか無しに助けて見せるわ」
 ナツミはそう言うと、アンコが発する光のほうへ振り返った。シキは先程アンコが猫さんになる時の光を見ていたので、同じくらいの光なら備えがあれば大丈夫だろうと思い目線を光の中心からは微妙に外しながらも集中して見ていた。猫さんサイズから放たれていた光は、人間サイズへと徐々に広がっていき、一段と眩い光を放ち、光を予期していたシキだがやはり思わず目をつぶってしまった。
 その瞬間、シキの周囲に突風が巻き起こり凄まじい衝突音が鳴り響いた。
 備えていた分すぐに調子の戻った目を空けるとシキの眼前では、まだシキが目をつぶった状態で夢でも見ているのじゃないかと疑うような光景が広がっていた。
 ナツミと思われる金色の閃光と、マフユと思われる青色の閃光と、アンコと思われる黒色の閃光が交錯する。閃光が衝突するたびにあたりに轟音が響き、閃光は先程の走りなんかとは桁違いの速度で、時に物理法則を無視したかのように直角に曲がるなど奇想天外な動きをした。
 シキは猫さんの動きについて熟知しているつもりだったがこんな動きは想定外だった。人型になるとここまで速度があがるものなのだろうか。さっき走った速度がほとんど全力だと思っていたので、シキは動揺せざるを得なかった。
 しかし、少し考えてみるとこっちのほうが自然なのかもしれない。先程は距離のある相手を追いかけていた長距離の移動だったので、それに合わせた走り方をしていたとすれば合点がいく。
 猫さんはそもそも長距離を走るのが苦手だ。というか、野生の肉食動物はあまり長距離を走る必要性がない。見つけた獲物は素早い動きの短距離で仕留めるのが基本でだらだら追いかけるなんてことはやらない。
シキや世界最速の人間が、本気で走った猫さんに百メートル走で勝つことは絶対に不可能でも、長距離の競争になれば話は別だろう。そもそも、一キロも連続で走る機会すらない猫さんなのだから、人間に長距離走で勝てる道理はない。さっきの移動は猫さんの能力を使ったものだとシキは思っていたが、実際は人化した猫さんが逆に人間の能力を上手く使うことで実現した動きだったのではないか。そして今ナツミ達が繰り広げている動きが、まさに猫さんの動きをリアルに出したものではないか。
 シキがこの考えで閃光の軌跡を見ると途端に三人の動きがくっきりと見えた。三人はまさに今獲物を捕らえようとする猫さんの動きを体現していたのだ。瞬間の動きがだらだらした走りなんかとは桁違いなのも納得だった。
人の姿に戻ったアンコは先程と同じ服を着ていた。さっきの変身では突っ込み忘れていたが、猫化したアンコは猫さんが産まれたままのあられもない姿になっていて着ていた服は消えていた。対して、猫さんから人に戻ったときはどこからか服も戻ったらしい。とはいえ、こんなのはここまで起きてきた不思議なことに比べれば些細な話だしこういう話のお決まりなのかもしれない。
 先程と違うのは、漆黒のアンコの閃光の中に純白の閃光も交じっているところだ。アンコは背中にクリームを背負えるような服を着て、そこにクリームを寝かせた状態で戦っていた。あれなら、両手両足は自由に動かせるしクリームはそんなに重くもないから眠っていて抵抗しないなら大した邪魔にもならない。そんな状態で、アンコはなんとかナツミとマフユの猛攻を凌いでいた。
 ナツミとマフユはにゃんダフルシューズの潜在能力を如何なく発揮し、アンコに上下左右から襲いかかってはいたが捕らえるには至らなった。アンコのほうは必要最小限の動きとキレのある動きでナツミ達の攻撃をいなしているように見えた。
 それでもシキの目にはナツミとマフユが、アンコより勝っているように見えた。じりじりとだがアンコは後退させられているように見えたし、何より攻撃がほとんどできずに防戦一方に見えた。シキは先程マフユから言われた通り、とりあえず動きを見るのに集中していたのと、今の猫さん達の動きとシキのイメージする猫さんの狩りのイメージがそっくりだったので状況がよく見えた。このままならすぐにアンコを倒すことができると思った。
 だが同時にシキは不安にもなる。ナツミ達は確かにアンコに猛攻を仕掛けていたが、運動量がアンコと比べて桁違いに多かった。先程のシキの考察があたっているのなら短時間での運動において猫さんの能力は真価を発揮するはずなのだ。
 ナツミ達の攻撃が耐えられてスタミナが切れてしまったら逆にやられてしまうのではないのだろうか。アンコはぎりぎりの戦いをしているように見えて、表情にはまだ余裕があるように見えた。
 シキは普段の二人の動きを見ていたから大よそ予想はついていたが、ナツミは猪突猛進、積極的に直接攻撃を仕掛ける勇猛果敢な純粋なアタッカーだ。
 マフユは戦略的に相手の急所を突いて適格な攻撃を仕掛ける、にゃんフォンは兵器にもなれるらしく、レーザーを出し、近づかれたら剣の形状になるなど変幻自在の兵器を使う策略家だった。
 二人はお互いの長所を伸ばしあい、欠点を補う抜群のコンビネーションを誇っていた。その動きはシキのもつ猫さんのイメージや二人のイメージとぴったり重なるものがあって、見えるというよりは感覚的に捉えることができた。
 ところが、アンコの動きはナツミ達に比べたら極めて少なく、傍目には見極めるのもそんなに難しくないであろう動きなのに、シキにはその動きが不可解なものにしか見えなかった。ここには何か落とし穴がある気がする。さっきイメージで走ることはできたのに止まることはできなかったのと似たような落とし穴が……。
 ナツミ達はアンコに遅れをとるのではないかという懸念と、アンコの不気味な行動のイメージは、シキの不安を駆り立てた。
「ナツミ! 一旦態勢を戻そう!」
 今まさにアンコに飛びかからんとしていたナツミに向かってマフユは大声で叫んだ。
「なによ、せっかくいいところだったのに」
 ナツミは今の状況を楽観的に捕らえているらしく、それでも渋々マフユに応じた。あっという間にシキのところまで戻ってきた二人は、シキの思った通り疲れており、特にナツミはかなり消耗しているようだった。
「マフユ、もう少しってところだったのになんで止めるのよ」
 ナツミは珍しく怒っているようだ。
「ナツミ、息があがっているよ」
 マフユは鋭く突っ込んだ。
「マフユこそ随分ときつそうじゃない?」
 ナツミはマフユに指摘仕返した。
「ええ、私もね。どうも私達はアンコの戦略にはめられていたみたい。ナツミ、一発でも手応えのある攻撃ができた?」
「いやギリギリのところで避けられているね。でもほんのひと押しでやれるって」
 シキの思った通り、二人は有効打を与えられていないようだ。一旦距離をとられたアンコは、一休みにと余裕を見せつけるように猫さんストレッチをしている。アンコは、前足をぐーっと前に出して体を伸ばした後、体を前に出して後ろ足をぐーっと伸ばす。猫さんがやると可愛らしいこの体操だが人間の姿のアンコがやっていると妙にエロかった。戦闘中にストレッチとはナツミ達と違ってアンコにはやはりまだ余裕があるようだ。
「どうしたの? もう終わり? ごちゃごちゃ作戦タイムなんてやってないで。早く掛かってきなよ」
 アンコはそう言ったが、のんびりしているだけで自分からは仕掛けてこなかった。
「シキ、ちゃんと見ていたと思うけどあなたの目にはどう映った?」
「わからない……。最初はマフユ達が押していて、アンコを倒すのも時間の問題だと思ったんだけど、アンコは必要最初限の動きで上手く攻撃をかわしているように見えた。ずっと見ていてもナツミ達は何をしているのかよく見えるのに、アンコの動きはよくわからないんだ」
 シキは思ったままを言う。
「シキはもう私達の動き見えているんだ。本気だったんだけどにゃー」
 ナツミは少し残念そうだったが嬉しそうでもある。
「シキのほうがナツミより状況見えているみたいじゃない。どうも私達そろってあいつに踊らされていたみたいね。明らかに力を抑えながらこっちの消耗を狙っている。のらりくらりとしのいで虎視眈々、反撃を狙っている切れ者だわ」
 マフユは簡潔にナツミに状況を説明する。
「どうりで手応えがないわけだ。お相手さんもなかなかの策士ってわけだ。で、どうするの? マフユ」
 ナツミはまるでちょっかいを掛けるようにマフユに聞いた。どうやら戦略という面は完全にマフユが実権を握っているようで、ナツミもマフユに全幅の信頼を寄せているようだ。
「シキもナツミもちょっと耳貸して」
 マフユはシキ達を引き寄せてひそひそ声でしゃべり始めた。
「とりあえず少し冷静になって、こっちも相手の様子を見るわよ。アンコもすぐには攻撃してこないのはこの状況があっちに都合が悪いってことよ。こっちからは無暗に攻撃しないで逆に相手の隙を突く戦いをするよ。こっちは数の上では有利なのだからどっしり構えていればいいわ」
 マフユは簡潔に戦略を伝えた。さっきまでの戦いの様子を見るに無難な戦略ではあったが、シキにもよい戦略に思えた。このあたりはさすがゲーム界に名をはせるゼロだ。
「危ない!」
 シキがマフユの洞察力に感心して安心していた数秒の油断の隙、ナツミが凄まじい声で危機感を表しシキをどついて吹き飛ばす。
瞬間、シキの顔が今まさにあった場所にアンコの手が現れた。
 シキの背筋が凍りつき同時に尻餅をついた。アンコもこちらの戦略を簡単に受け入れてくれるほど甘い敵でもなかった。
「なにのつもりよ。シキが死んだらどうするつもりなの? あなたの目的は私達のはずでしょ!」
 シキはナツミがここまで怒りを表すのを初めて聞いた。シキも自分がいきなり狙われる展開になるとは思っていなかったので一瞬よぎった死の恐怖に身を震えさせられた、が、すぐにそれ以上の鳥肌がシキを襲った。
「もちろんそのつもりだよ。ちゃんと攻撃はあなたに当たっているじゃない。あなたならシキを守ろうとするって分かっていたから、こんな遠回しな攻撃をしたんだから」
 アンコがニヤリとナツミに向かって笑いかけた。こんなに嫌な感じの笑顔をシキは今までに見たことがなかった。先程シキをかばったナツミの右腕には、アンコの鋭利な爪が深く突き刺さっていた。その傷口からはシキなんかとは比べ物にならないくらいの出血もあった。シキはあまりの光景に言葉を失う。
「ごめん、シキしくじった」
 シキの想像を絶する痛みが走っているだろうに、ナツミはいつもと変わらない笑顔で言う。そんな表情をされるとシキはどうにかなりそうだ。
 なんてことだ……。僕がこの場にいなければ、二人だけならさっきの攻撃は楽に避けられたはず。僕のせいでナツミが……。
 シキの全身を絶望感が襲う。
 その笑顔の横でもう一方の笑顔が狂気を携えてもう一方の手でナツミに留めを刺そうとしているのがシキには見えた。
「ナツミいいいいいいい!」
 マフユの叫び声がどこか遠くからシキには聞こえた。どうやらアンコの襲撃に一番早く気づいたのはナツミらしく、マフユもシキと同様に吹き飛ばされていたようだ。マフユはシキなんかより備えがあったので、もし察知されて避けられてはいけないと、ナツミも必要以上に力を込めて飛ばしたらしい。マフユは猛スピードでこちらに迫ってきてはいたが間に合わない。シキには周りの動きが全てスローモーションに見えた。
 途端にゃんダフルシューズがシキを勝手に突き動かしたかのように、シキの体が勝手に動く。
 シキがイメージした最悪の結果を防ぐため、ナツミをアンコから守るため、シキの右足が鉞のような切れ味でアンコに襲い掛かる。
「にゃああああああああああああ!」
 轟音と絶叫が辺りに響く。
 アンコの腹にもろにクリーンヒットしたシキの蹴りは、アンコを悶絶させる。だが、あまりに強い蹴りの反動でシキはまたしても尻餅をついた。シキはあんな蹴りが繰り出せたことに驚いたが、そんなことより、危機一髪のところでナツミを傷一つつけることなく救うことができたことに安堵する。怯んだアンコ相手に今度はマフユが突っ込んでいった。冷静にいこうといった本人だが、さすがに状況的にかっかしているように見える。とはいえマフユのことなので案外振りかもしれない。
「ありがとう、シキ」
 ナツミが傷つけられなかった方の手をシキに差し伸べながらシキにお礼を言った。その笑顔がとっておきに可愛かったのが逆にシキの不安を煽った。ナツミがいつも通りならこんなときでも、普段と変わらない笑顔でもうちょっと口数も多いはずなのだ。
「無事でよかった。ナツミ大丈夫?」
 シキが確認すると、ナツミはその笑顔のままとっさに顔をしかめて右腕をかばうような仕草をする。とっさに痛みが走ったのだろうか。まだ生々しい出血が続いている。
「大丈夫だよ。シキだってひどいケガしているんだから私も頑張らないとね。今の蹴りは本当にすごかったよ」
 こんなこと聞かれて、大丈夫じゃないというのはよっぽどの時じゃないとない。ただ本当にひどいならそれは言うはずなのだ。だがそんな状況になってしまったらすでに手遅れのときもある。どう見てもナツミのそれは空元気だった。シキがナツミの状態を不安視しているのに気づいて、シキを安心させようとしているのが見え見えだった。
「ナツミ、ちょっとじっとしていろ」
「え? 何する気なのシキ?」
 シキは自分の服を見直すと、自分も結構ぼろぼろなのに気づいた。服はあちこち破れて出血だらけ。シキはその中でも比較的無事な右腕の袖部分を選んで思い切り引きちぎった。普段ならどんなに力をいれても服なんてそう簡単に破けるものではないが、あっさりとちぎることができた。
「これでとりあえず止血しよう。ほら、腕出して」
 シキがナツミの手を取ろうとすると、ナツミは素直に傷ついた手を出した。傷口を身近に見るとシキはまた鳥肌がたつのを感じた。シキは破った服を器用にナツミの傷口を覆うように包帯がわりに巻くと、左腕の袖部分も引きちぎって腕の根っこ部分に巻き付けて血の流れを止めるようにした。
「シキ、そんなにきつく縛らないでもいいよ」
 ナツミは縛られるときに痛みでしかめっ面をした。
「うるさい。怪我人は黙っていろ。念には念をいれてだ」
「同じ、怪我人には言われたくないにゃあ」
 そう言いながらもナツミは、大人しくシキに包帯代わりの服の切れ端を巻かせた。
「ありがとう、ところでさっきの蹴りはどうやって出したの?」
 ナツミはシキに不思議そうに聞いた。
「自分でもあんな蹴りが出せるなんてびっくりだったけど、ナツミを助けたいと死にもの狂いで願ったら、勝手ににゃんダフルシューズが蹴ってくれたみたいだった」
 そう言う以外に説明が思いつかなかった。あんな蹴り生身で出すことは絶対出来ないし、やれたとしても逆に足が吹っ飛んでしまいそうなほどの破壊力だった。
「そっか。シキのにゃんダフルシューズは随分と成長しているのかもね。それともシキの猫キチの凄まじさのおかげかな」
 ナツミは少し考え込んでいるようだった。
「シキ、マフユ気をつけて!」
 マフユの声が辺りに響く。アンコと交戦中のマフユだったが、消耗したマフユ一人では留めるのすら難しい状況だった。アンコは隙を見て、マフユから離れると手負いのナツミとシキを狙った。
 だが、今度はナツミとシキは、アンコのことを油断せず見ていたので二人とも対処する準備はできていた。ナツミはすぐに危険を察知して離脱した。
 シキも同様に避けようとナツミとは逆側に動こうとした。
 シキは避けようとしたはずだ。
 ところがにゃんダブルシューズはシキが思い描いたようには動いてくれず、普段のシキでもできるような、猫さんの動きから見るとのんびりした動きでしか回避行動がとれなかった。
 そんなシキでは、アンコの格好の的である。アンコはシキの重い動きに楽々ついていくと、さっきのお返しとばかりに思い切りシキを蹴りとばした。シキはその蹴りは見えていたのにガードすることすら間に合わず、胴の中心にもろにくらった。まるで全速力のバイクにぶつけられたかのような、体をまっぷたつに引き裂かんばかりの衝撃がシキを襲う。あまりの衝撃に声を発することすら許されず、シキは無言のままに宙を舞った。
 それほどの蹴りを受けながらも何故かシキの意識ははっきりしていた。いっそ気を失えばどれほど楽だったろうか。このままでは、また地面と衝突する素晴らしいイベントが待っている。今のシキでは衝突に備えて身構えることすらできない。
 ポスッ
 シキが予想していたよりもはるかに優しい衝撃がシキを包んだ。てっきりさっき繁みに突っ込んだときくらいのものをイメージしていたのでシキは面食らった。
「なんで避けないのよ。シキ」
 シキのクッションになってくれたのはナツミだった。シキが吹き飛ばされたのとは逆方向にナツミは避けたはずなのに、どうして追いつけたのだろうか。ナツミは捕まえたシキといっしょにふわりと地面に着地した。
「なんで避けないのよ。猫キチさん。さっきほどの蹴りが出せるなら、あれくらい簡単に避けられるはずでしょう?」
 アンコはどうやら当てるつもりはなく、脅しのためにシキを蹴ろうとしたらしい。まさか当たると思っていなかったらしく、その場で呆然としていた。
 その隙をついて再び、マフユがアンコと交戦するが、アンコは冷静に対処する。
「ありがとう、ナツミ。避けようとはしたんだよ。でも、体が動いてくれなかったんだ」
 痛みが少し引いてきて、ようやく少しは口が聞けるようになったシキが弁明した。
「にゃるほどね。シキがどうにゃんダフルシューズを使いこなしているのか何となく分かった気がするよ」
 ナツミは悟ったように言う。
「まあいいや。これでみんなまともに動けなくなっちゃったし、二人とクリームを殺して、私達だけの世界が作れるね。シキ」
 消耗したマフユはアンコを少しの間しか留められず、その場で動けなくなっていた。アンコは余裕をもって歩きながらシキ達のほうへ近づいてきた。
「まだ、私が動けるわ」
 ナツミはシキをゆっくりと地面に置くと、アンコのほうへと振り返った。
「そんな右腕をかばいながらで私に勝つつもりなの?」
 アンコは首を傾げて笑いながら言った。
「当然よ。シキ、私の戦いしっかり見ていてね」
 ナツミは自信満々を装いながら言った。先程、マフユがシキに戦いを見るようにといった命令とは明らかに違う口調で、それは心からのお願いであるように聞こえた。同時に不穏な匂いを含んだ発言にも聞こえた。しかし、ナツミを止めたくても、まだシキは満足に動けそうもない。
「ナツミ。無理だよ。そのままじゃ」
 その表情から決意は固いと見えて、止められる言葉が想いつかない。想いを伝えたくとも断片的な言葉しかでてこない。
「大丈夫」
 そんなシキの想いをナツミは分かっているのか分かっていないのか。とてもすっきりとした表情で最後にシキにウインクした。
 ナツミはアンコとの間合いを一気に詰めると左ストレートを放つ。だがナツミの渾身の一撃は無慈悲にもアンコにあっさりとかわされた。交わしざま器用なアンコの足裁きによって足をかけられたナツミは、無惨に転がり満足に受け身を取ることすらできない。
「さすがに右腕一本やられちゃうと弱っちゃうね。左手のパワーも半減だよ。さっきの啖呵はどうしたの?」
 アンコが煽る。ナツミはゆっくりと立ち上がるが、あまりの痛々しさにシキは見ていられなかった。しかし、さっきのナツミの「見ていて」という言葉に鬼気せまるものがあったから、シキはそれを凝視する。何もできない自分がもどかしかった。
「ナツミ、逃げなさい!」
 マフユは動けないながらも必死に叫ぶ。
「どうせ逃げられないって。それに大丈夫だから」
 ナツミは立っているのもやっとのふらふらな状態なのに、目だけは輝いていて、もうナツミはどうかしているんじゃないかとシキは思った。
「観念して達観しちゃったのかにゃあ。もうちょっと遊びたかったのに残念だなあ。逃げようとしたって逃げられないんだし、せめて楽に殺してあげるね。獲物をいたぶるのは好きじゃないから」
 アンコは笑いながらナツミに近づくが、ナツミは微動だにしない。
「ナツミ、お願いだから逃げてー!」
「そんなこと言う前にあなたも逃げた方がいいんじゃにゃい? あなた一人なら逃げられるかもよ?」
 余所見したアンコに向かって、またも左ストレートをぶち込もうとしたナツミだが体勢を崩しながらもアンコはそれを防いだ。無防備になったナツミにアンコが留めをさそうと腕を振りかぶる。
 その刹那、予想だにしないことが起こった。だらりとして、全く動かさなかった右腕が突如として動きアンコを襲う。さすがのアンコも、油断もあったせいでこれには反応すらできなかった。
 ドーーーーン!
 ナツミの拳はアンコの顔面にクリーンヒットする。アンコの顔は歪み、辺りに爆弾でも爆発したかのような轟音が響きわたった。その破壊力はさっきシキが繰り出した蹴りとは比べ物にならないものだった。あまりの威力にさっきシキがナツミの右腕に巻いた包帯がわりの服は吹き飛んでいる。
 これほどの攻撃ならアンコは立ち上がれないだろう。包帯が解けた右腕は今度こそ動かすことすらできなくなったみたいで、ナツミの右腕はだらりとさがり、その腕は赤に染まっていた。ナツミ自身の出血か、アンコからの出血か区別できなかったが、それはパンチの衝撃を物語っていた。
「死んでいる右腕で、まさかあそこまでのパンチができるなんてね」
 渾身のアンコの攻撃もアンコに致命傷を与えるには至らなかった。アンコは頭部から出血していてぼろぼろながらもゆっくりと立ち上がった。その表情にはさっきまでとは桁違いの殺意が見える。今の一撃で怒りのボルテージが一気にあがったようだ。
「全くこんな姿、猫キチさんに見せたくないのに台無しだよ。さっき、万が一、猫キチさんに当たることを考えてちょっと力をセーブしたのが悪かったかな。でも残念だったね。猫キチさんが巻いてくれた包帯がなければ、私をやれていたのにね。それはお互いさまってところかな」
 今度こそ抵抗できなくなったナツミにアンコはゆっくりと近づく。どうやらさっきシキが巻いた包帯がクッションになってしまい、アンコの致命傷を防いでしまったようだ。
「やめてくれ!」
 シキは必死の想いで叫んだ。
「あは、いいね。その表情も大好きだよ。猫キチさん」
 アンコは一度だけ顔をシキに向けると、今度は油断すらないのか、隙を見せないよう一気にナツミのほうへ突っ込んで留めの一撃をくわえようとした。
 その刹那、シキの世界が変わる。
 あたりの音は静まり心臓の鼓動が妙に大きく聞こえ、アンコの動きはほとんど止まっているようなスローモーションで見えた。全身の器官の動きがはっきりと捕らえられるような感覚にシキは陥り、体は勝手に動く。
 アンコの拳がナツミの顔面を捕らえる瞬間、シキのタックルがアンコを襲う。同時に先程の蹴り以上の衝撃がシキを襲うが、それほど痛みは感じなかった。
 アンコは派手に吹き飛び、繁みに突っ込んだ。
 先程は、シキ自身ですらどうやってアンコを蹴ったのか認識できなかったが、今度は自分の体がどうやって動いたのかはっきりわかった。ナツミが確実に殺されるとシキが思った瞬間、にゃんダフルシューズは勝手に動いた。
「もう遅いよ! シキが助けてくれるのに賭けていたんだから。あんまりはらはらさせないでよね」
 シキに守られたナツミは後ろからシキを軽く叩いて喝をいれた。
「僕頼みで戦っていたの?」
 シキはこれがナツミの狙いだと聞いて驚いた。
「頼みというか。信じていたんだよ。これまでにもシキの猫キチっぷりは私達もよく見てきたからね。今日のこれまでの戦いからも、私が窮地に陥ったら覚醒してくれると思ったんだ。とはいえ、あんまり遅いから私も怖かったよ」
「命を賭けてまでなんて無茶するんだよ」
 シキには、ナツミがこんな策に自分の命を賭けられるのが信じられなかった。そういうあっと驚くような奇策はむしろマフユの専売特許じゃなかったのか。
「どっちにしても窮地だったしね。さっきは自分がどうやって蹴ったのかも分からなったようだけど、今はどう? 動き方はわかる?」
 ナツミはシキに賭けるのは当然だったという口調でシキの様子を確認した。
「うん、なんとなくだけどイメージできるよ。さっきとは全然違う感覚だ」
「一瞬の覚醒だけでまた終わっちゃうんじゃないかと、それだけが心配だったんだけど、よかった。私達はこんな状態だから頼んだよ、シキ」
 ナツミは全てをシキに託す。
「まさか、こんな短期間にここまで猫の動きをマスターしてしまうとはね。もう言わなくてもわかりそうだけどイメージさえできれば思い通りに動けるはずよ。あなたがクリームを助けなさい」
 いつの間にか立ち上がって、シキの元に来たマフユも励ましの言葉を掛けた。
「ああ、任せといて」
 まさか、自分からこんなセリフがでること、二人からこんな言葉を掛けられるような展開になることを、シキは想像すらしていなかったがとにかくもうシキ自身でやるしかない。とにかくクリームを助けること。それが三人の共通意思だ。
 だが、シキにはこの場でやりたいことがもうひとつあった。
 シキ達が話している間、アンコの突っ込んだ繁みからはまだ土埃が舞っていたがその切れ目からようやくアンコがでてくる。シキの蹴り、ナツミのパンチ、シキのタックルと三度の強烈な直撃を食らいながらもアンコはまだ戦えるようだった。この強烈なタフさと忍耐力はどこからくるのだろうか。
「今のはすっごく効いたよ。猫キチさん。こんな衝撃はあの時以来かにゃあ?」
 アンコはぼろぼろになった服についた葉っぱを払いながら、シキに向けて笑顔を向けた。
「あの時?」
「私がここらへんで放浪しはじめた時に、猫キチさん、私のコンビニで買った焼き鳥を私にくれたでしょう。猫キチさんは覚えていないと思うけどね」
 アンコはシキのことを猫キチというほどシキのことを評価しているようだが、シキの猫キチっぷりはアンコの想像は超えていた。
 というのも、シキはその時のことを覚えていた。というか、今までに会った全ての猫さんのことを覚えているし、エサをあげた猫さんのことなんか忘れるわけがなかった。まして、その猫さんとはそれからも近所で何回も会うことになったのだし、遠目から眺めていることだってあった。
「いや、覚えているよ。あの時はお前に引っかかれたんだよ。あれは痛かったなあ。おまけに焼き鳥までとられちゃうし」
 そう、はっきり覚えていた。あの日は夜に小腹が空いて、コンビニで適当に買った焼き鳥を持って家に帰る途中で、新月の夜の暗闇に映える黒猫さんと遭遇したんだ。野良猫さんと遭遇したらどんな状況でもテンションが上がってしまう。もちろんその時もその例に漏れなかった。最初は遠目に黒猫さんを見ていたシキと、シキを見ていた黒猫さんだったが、シキはどうしても黒猫さんとお近づきになりたかった。
 シキは買った焼き鳥のパックを開けると、そのうちの一本味付けが最も薄そうな串を選んで黒猫さんに見せた。黒猫さんは焼き鳥を見て一気に近づいてきたが、シキから一歩半程の距離を置いて止まった。遠目に焼き鳥を見ていたが、警戒心のほうが強いのかそれ以上近づかなかった。
 そんな黒猫さんをおちょくるように、シキは焼き鳥を見せつけながら腕を右へ左へ振ると、黒猫さんの目も左右に振れた。そのうち、黒猫さんは一緒に右手を動かして焼き鳥をとろうとするが、捕らえることはできない。シキはその様子を見て、串から一つ身を取ると黒猫さんのほうへ差し出した。そうなると、お腹が空いた野良猫さんというのは加減を知らない猫さんもいる。黒猫さんは思いっきり、右手を飛ばして肉を奪うと、同時にシキの手の皮も少しもっていかれた。
無事に獲物を奪った黒猫さんは、また少しシキから距離をとると焼き鳥の身を一回地面に置くとゆっくりと食べ始めた。電子レンジで温めたばかりだったのでまだ熱かったはずだが、少しずつ食べる様子をシキは食べ終わるまでゆっくりじっくり見ていた。その間、切れた手の痛みなどはすっかり頭の中から消し飛んでいた。
 その黒猫さんがアンコだったのだ。
「うわあ、嬉しいにゃあ。覚えていてくれたんだ。私もあの焼き鳥の味はまだ覚えているよ。あの時、猫キチさんにもらった焼き鳥があったから私はあのコンビニで働こうと思ったんだよ。あれから、何回も焼き鳥を食べる機会はあったけれどあれよりおいしい焼き鳥はなかったにゃあ」
 アンコは今日一番の笑顔でシキに言ったが、その表情に不穏なものは一切ない弾ける笑顔だった。
「でも、それとこれとは話が別だ。クリームは返してもらうよ」
 シキはアンコに宣戦布告した。
「はあ、まさか猫キチさんとここでマジで戦うことになるなんてね。こうなったらまともに決着をつけるしかないのかにゃ。私は猫キチさんのこともらうからね」
 二人は同時に動いて戦いが始まった。
 シキはにゃんダフルシューズを完璧に使いこなして、人間では不可能な動きを体現し、その様は狩り中の猫さんである。同時に、先程のナツミ達の戦いを見るだけですでに実践的な動きのイメージも吸収していたシキは、力の使い方をうまくセーブして緩めるところは緩めて、気を入れるところはいれて上手くアンコの動きに対応していた。
 アンコはさっきのタックル一つでシキの能力に大よその予想がついていたので、最初から全力でシキにしかけていった。シキを傷つけたくないのがアンコの願いではあったが、こんな状況になってしまったのなら仕方がない。手加減などしていたら逆にアンコが一瞬でやられてしまう可能性があった。
 そのアンコの猛攻は、覚醒したシキにとっても厳しく辛いものであった。同時に、シキが先のナツミ達とアンコの戦いでシキが想像していたことをはっきりとさせてくれた。
このアンコの動きはあの黒猫さんの動きと全く一緒なのだ。
 クリームやナツミ達のように人に慣れている猫さんとは全く違う野良猫さんの野生の動きだった。だから、さっきシキはアンコの動きを捉えることができなかったのだ。全ての攻撃は、シキの指の皮をもぎとったあの魂のこもった攻撃と全く一緒なのだ。
その動きをシキがイメージするのは大変なことだった。シキは、飼い猫さんであろうと野良猫さんであろうと今まで猫さんのかわいい部分とか、いわゆる良い部分だけを見ようとしてきたからだ。でもシキが見ようとしなかった、認識しようとしなかっただけで、シキはそんな野良猫さんの野生の動きだってきっちり見ていたはずなのだ。
 あれだけ猫さんのことばかり考えてきたシキだ。飼い猫さんのクリームとトラだって、トイレするときの姿だって何度も見た。そんな隠れたイメージを想起できればアンコの動きも捉えられるはず。シキのこのイメージはぴたりとはまり、アンコの決死の猛攻を凌ぎ続けた。
 こうなってしまえば、さっきのナツミ達とアンコの戦いとは全く逆の結末が二人を待っていた。徐々に動きにキレがなくなったアンコは、反撃を開始したシキに段々と押され始めた。攻め手と受け手が次第に逆転していったこの戦いは、段々とその勝敗の天秤をシキへと傾けていった。
 バシッ!
 ついにシキの右足がアンコを捉える。先程と違ってお腹にもろにヒットという形にはならなかったが、ガードの上から腕をへし折らんばかりの蹴りがアンコの左半身を捉える。さっきの蹴りと違って受ける備えのあったアンコはその蹴りの威力に任せるように体を飛ばすことで衝撃を上手く逃がしたが、結果として派手に吹き飛ぶことになった。
「猫キチさん、すごいね。まさかここまで強いとは思わなかったよ。今日のところは、とても敵わないからひとまず退散するね。ばいばーい」
 さっきの立場と逆になって、シキに敵わないと悟ったアンコはとっさに逃げに移った。シキはこの状況は予想できていなかったので、虚をつかれた。しかし考えてみれば、この行動も当然考えられる選択肢だったことにシキは気づかされた。野生の生き物は獲物を取ることも大事だが、自分が獲物にならないことはそれ以上に大事なことだ。だから敵わない相手ならあっさり逃げを選択するのだ。人間のように面子にこだわって最後まで戦うなんてことするはずないじゃないか。
「ナツミ、マフユ!追うぞ!」
 アンコに出遅れたが、まだ肝心のクリームを取り返していなかった。シキ達の戦いの間に少しは回復したナツミとマフユが後を追うが、まだ十分に回復していなかった二人はシキからさらに遅れをとり、実質シキ一人でアンコを追うはめになった。
 かなり距離をとられたとはいえ、まだ今のシキの視力なら捉えられる範囲にアンコはいた。ここぞの事態にシキのにゃんダフルシューズはトップスピードをはじき出した。今や音速をはるかにしのぎ、どこぞのミサイル並のスピードで地と空を駆けるシキは、全力で逃げるアンコとの距離を徐々に詰めた。
「クリームは返してもらうぞ!」
 アンコを射程圏内に捉えてさらに一段、ギアをあげたシキは一気にマフユの懐に飛び込み、その右手につかまれていたクリームをひっぺがした。
だが、シキは迂闊だった。アンコはクリームをさっきまで背中に背負っていたはずなのに、わざわざ走りにくい右手にクリームを持ち替えたという事実に気づかなければならなかったのだ。
「本当に猫キチなんだから。」
 クリームを助け出した瞬間、アンコはささやいた。
 どすっ
 鈍い音がシキの胸に響いた。クリームを助け出した瞬間、シキがほっとした一瞬の油断をアンコに突かれた。シキがそれに気づいた瞬間、胸部には強烈な痛みが走った。胸にはアンコの鋭い爪が突き刺さっている。
「シキ、ごめんね。こうなったらあなただけを連れていくほうが手っ取り早いかと思って」
 アンコはシキの手をとってシキを連れて行こうとするが、シキはあまりの激痛にその声も、手を握られたことも、認識することができない。
 朦朧とする意識の中、シキは間近で光が輝くのを感じた。
 今日は何度も目の前で光が輝くのを見たが、その中でも一際強く大きい光。
 これまでの光は直視することができなかったが、何故かシキは目をつぶることなくそれをしっかりと直視することができた。その光はとても強かったのに、優しく、温かかい。
 光が収まり、意識が闇に落ちる刹那、シキは純白の閃光が煌めくのを見た気がした。
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