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猫さんの瞳に魅せられて 作者:猫村銀杏(ねこむらいちょう)

第一巻

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第一章 こんにゃちわー

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第一章 こんにゃちはー

「こんにゃちはー」
 近所の学校帰りの女の子が明るい声で元気いっぱいにあいさつしてきた。真夏の灼熱の太陽が照りつけているというのに、子どもは元気だ。しかも照れっぽさなど一切なく、盛大に噛んでしまっている
「こんにちは」
 シキは思わず笑うのをこらえながら、元気な声で返した。
 シキは、普通の大学生。
 午後の授業が休講になって、午前中で学校の終わったシキは、ハイテンションで家路についた。ところが、家につく一歩手前で自転車がパンクしてしまい、重い荷物を押しながら帰るなんともテンションが下がる帰路になってしまった。おかげで、丸ごと午後が休みである解放感も台無しになり、シキは家の前のガレージで自転車のタイヤをいじっている。
 シキは物をいじるのが好きで暇を見つけては、何かを作ったり修理したりしていたので、こういう午後も悪くないと思っていたし、そのおかげでこうして近所の人と交友が深められるわけである。
 ただ、問題があるとすればちょっと暑すぎるということである。せっかく屋根付きのガレージがあるのに、わざわざ太陽光が爛々と降り注ぐ場所で汗だくになりながら作業する必要もないだろうに。シキは太陽大好きなのかそんな場所で作業していた。
 シキに挨拶をしてきた女の子は、近所に住むナツミちゃんという子だ。ナツミは浮き足だったステップを踏みながらシキの目前にまっすぐ近づいていくと、
「にゃんにゃんよく寝ているねえ? お昼寝中でぐっすりかにゃあ?」
 ナツミはシキの目前を通り過ぎて、ガレージの車の下をのぞく。
 ナツミの話し相手は、シキの家の飼い猫さん。クリームと名付けられた白猫さんはぐっすりと車の下で寝ていた。
 クリームは全身を真っ白な毛で覆われた雑種の猫さんである。
 小さな頃は頭の上とかに黒い毛がいくらか生えていたので、シキは、パンダと名付けようとしたのだが、猫愛好家の大先輩である母に反対されて、結局、白という色から連想してクリームという名前になった。
 成長したら黒ぶちは見当たらず、全身純白な見た目には優雅な猫さんになったので、パンダなんて名前にしなくてよかったと、今では母に負けずとも劣らない猫愛好家になったシキは思う。
 もしかしたら、世にも珍しい、可愛らしい、黒い模様のないパンダになれたかもしれないと考えると、必死にパンダを繁殖しているどこぞの動物園から羨ましがられたかもしれない、そんな妄想をすると少し残念な気もする。
 クリームの一番のチャームポイントは、その瞳。
 クリームの瞳は、左の瞳が黄色、右の瞳が青色で俗に金目銀目と言われるオッドアイだ。その水晶のような輝きとアシンメトリーの神秘的な美しさもあって、一目で視線が吸い込まれて魅了されてしまう破壊力があった。
 クリームなんて可愛らしい名前をもらい、見た目にも上品さを感じる白猫さんであるが、性格はなかなかにアグレッシブで、わがままで、おてんばだ。ただ、白猫さんというのは他の猫さんに比べると結構気性が荒いらしい。白というのは自然界にはあまりない色で目立つので、他の色をしている猫さんより外敵に狙われやすく、そのため攻撃的になりやすいようだ。
 でも、せっかく飼い猫さんになったのだし、もう少しでれてくれてもいいのではないか。という願望は、シキのわがままだろうか。
 ナツミはしゃがみこんで手を出し、クリームの気を引こうとしていたが、クリームは我関せずという雰囲気で、身じろぎひとつせず眠っていた。
「今日はいつも以上にぐっすり寝ているねえ。かわいい。お休みの邪魔しちゃったかな?」
「最近は、車の下がお気に入りでよくそこで爆睡しているんだ。また、クリームの気の向いたときに遊んであげてよ。ナツミちゃん」
「そうにゃんだあ。残念。でも、クリームがおねむならしょうがないね。またくるね」
 ナツミは駆け足で家まで帰って行った。と言っても家は隣なのですぐなのだけど。子どもの元気のよさといったら、汗だらだらでこんな立ち話でも休憩になったなあと思うシキとは、雲泥の差である。
 シキがなぜこんな暑い中、涼しいガレージの中で作業しないのかというとそれもこれも全部クリームのせいである。ガレージは車が占拠しているとはいえ、車一台を考慮にいれても十分なスペースがあり、日陰で作業をする場所を作ることもできる。
 しかし、現在車はガレージのど真ん中に居座っており、シキが作業を始めようとした時には、すでにクリームは車の下でのんびりと気持ちよさそうに寝ていた。車を動かす、すなわち、猫さんの眠りを妨げてまで、シキは日陰を作る気にはなれず、わざわざ真夏の太陽と一騎打ちを仕掛けたわけである。猫さんに比べれば太陽なんてお茶の子さいさいである。シキは精神論によって、日向で作業する効率の悪さをぶっとばしたわけだ。
 要するに、クリームのせいというのは建前で、シキはただの猫キチガイ、猫キチなのだ。

 暑いのがネックではあったが、自転車のパンク修理くらいなら手慣れたものであるシキは、愛車のパンク修理を終えると、自転車をもとのガレージのすみっこに置き一息ついた。
 「ふう、疲れた」
 久しぶりの日陰で汗だくのシキは少し涼んだ後、何を考えているのか突然うつぶせになると車の下を覗きこみ始めた。その目的はもちろんクリームである。
 シキが作業を始める前と全く同じ場所で、クリームは我が物顔で熟睡していた。 その愛くるしい姿はシキの疲れを吹き飛ばすものであり、体中に出ていた汗も一瞬で吹き飛ぶ癒しの姿であった。シキはあまりのクリームのかわいさに顔をほころばせると、クリームにちょっかいをかけ始めた。
「クリーム!」
 シキは、普段と比べて二オクターブくらいは高い声で愛猫さんの名前を笑顔で呼びかける。既に完全にメロメロ状態である。クリームのほうは、シキに呼びかけられても何の反応もない。かの有名なスフィンクスのポーズでぐっすりと寝ているクリームは「我関せず」と、ご主人様を気にせずどっしりと構えている。シキは好きな女の子にはちょっかいをかけたくなるあの感覚で、余計にクリームにいたずらをしたくなった。
「クリーーム、クリちゃーん、くう・う・たん、にゃ・にゃ・にゃんこお!」
 シキのクリームの呼び方のレパートリーはゆうに千を超える。シキ自身もその総数を把握しておらず、気分によって新名も作り出す。今も気分に応じて、シキの脳がその状況に適した名前を、自分の頭にある辞書から取り出しいろんな名前を連呼していた。
 ちなみに、「くう・う・たん」という呼び方には「くう↑う↑たん↓」や、「くう↓う↓たん↑」などと複数のイントネーションも存在するらしいが、こうなるともう他人からは何がなんだかわからない。シキにこれを問いただしてみれば、「虫」と「無視」くらい違うとか返してきそうだが、完全に意味不明である。
 シキはクリームの名前を呼びながら、適当に首元を撫で回したり、耳元をかいてみたりしてあげる。クリームはシキの手に合わせてぴくぴくと顔を動かし、なんとものんびりとしながらも、シキが名前を呼ぶのに合わせて尻尾を振っていた。
 クリームはシキの呼びかけに応じて何か反応を示すということがほとんどない猫さんに見えるが、唯一尻尾だけは、それが寝ているときであっても名前を呼ぶたびに、きっちりと反応してくれる。その尻尾の揺さぶりには、シキの心も揺さぶられる。
 猫さんは人間のように熟睡することはなく、ぐっすり寝ているように見えても、体はすぐ反応できる半覚醒状態らしい。そういう体質だからあんなによく寝るのだろう。
 なんにせよ、寝ているときでも些細なコミュニケーションがとれるというのは、シキにとってはうれしいものだった。クリーム全く微動だにしないように見えて、尻尾だけは本心を隠せないのだろうとシキは妄想している。
 シキは車の下に寝そべりながら、千を超えるボキャブラリーの中でも厳選された名前をこれでもかと使って、クリームとの時間を存分に堪能して家の中に戻ることにした。
「クリームは戻らない?」
 最後にクリームを振り返りながらシキは聞いたが、クリームは尻尾を振るだけで振り向きもしなかった。クリームはまだしばらくそこで寝ていたい気分らしい。

「お疲れ様、シキ。自転車は直った?」
 シキが居間に行くと、シキの母親のシズカは夕飯の準備をしていた。
「ただのパンク修理だから簡単だよ。すぐ直ったよ」
 シキは無愛想に答えた。
「あら、さすがね。でもずいぶん汗かいたみたいね。何か冷たいものでも用意しようか」
「そうだね。なんかちょうだい」
 シズカは機械に弱く、ものが壊れることがあると、シキは頼まれてよく修理しているので、シズカの反応もあっけからんとしたものだった。
「クリームはまだ外にいるの?」
「車の下で寝ているよ。最近はあそこがお気に入りみたい」
「そう相変わらずのお転婆ね」
 なにをかくそうこのシズカこそシキをも超える猫キチの一人で、シキを猫キチに引きずりこんだ張本人である。シキが聞くところによると、シキのおじいさんは大の猫キチで、常に猫さんを飼っていたらしく、その影響でシズカも猫キチになったらしい。猫キチの血筋はしっかりとシキまで受け継がれているようだった。
 シキが飲み物を待つのにソファに座ると、家で飼っているもう一匹の猫さんが、テレビの上からのっそりと立ち上がる。
 この子の名前はトラという。名前の通りトラ猫さんのトラは、名前こそ威厳たっぷりで風格までありそうだ。しかし、実際はその名前に似合わず、トラはなんとも飼い猫さんらしい猫さんで、その仕草は上品を通り越して神格性すら垣間見えるほどだ。
 トラは近所の野良猫さんだったのだが、その愛くるしい姿と人懐っこい性格で、易々とシキの母を虜にしてしまいいつの間にかシキの家の飼い猫さんになっていた。黒っぽい柄をしたトラ猫で緑の瞳が美しい。
 近所の人がシキに「かわいいですねえ、アメショですか?」と、聞いてきたことがあるが、アメリカンショートヘアとかいう長ったらしい名をもつ大それた猫さんではなく、トラはただの雑種である。
 その大した処世術をもって野良猫さんの時代から、近所のいろんな家からエサをもらい、まるまると太った体をしているトラは、テレビの上からドスッと音を立ててフローリングの床に降りると、のしのしと歩き始め、次のお気に入りの寝床に標的を定めた。絶対に逃れられない獲物の狩りをじっくり楽しむように、堂々と一直線にシキの足元へ向かって歩いていく。
 トラはソファの下で止まると、値踏みするかのようにシキを見上げる。その可愛すぎる目線にシキは金縛りになったようにトラのベッドと化してしまう。理想の寝床を確認したトラは、身を縮め跳躍に備えると、ピョンとシキの膝の上にダイブした。
 一瞬、ずっしりとシキに重みがかかる。しかし、それはすぐに太ももをちょうどよく刺激してくれるマッサージ機になり、シキを優しい気持ちにさせる。
 トラはベッドの特に寝やすい部分を探して少しうろうろして、お気に入りの場所を見つけるとすぐに丸くなった。この人間様の都合など気にしないふてぶてしさは、もはや図々しいといえるものであったが、完全に人がどうすれば自分の思い通りになるのか把握しているこの猫さんに、シキは完全に支配されていた。
 シキがトラの首元をなでであげると、トラはなんとも気持ちよさそうに目をつむりながら、それに応じてくれた。右耳をなでであげれば右にゆらり、左耳をなでであげれば左にゆらり、トラはシキが触りやすいように首を動かしてくれる。クリームが尻尾だけでやっていた甘える攻撃をトラは全身で使ってくる。
 シキが今度はお腹のほうを触ると、トラは身をよじる。さらに激しくお腹のほうをいじると、トラは仰向けにひっくり返って体をうねうねさせる。見方によっては、これはトラが嫌がっているように見えるかもしれないが、この猫さんは人が喜ぶあざとさというのを計算ずくでやっているように見えるからすごい。
 そんなこんなしていると、シズカがジュースと自家製のクッキーを持ってきた。シズカは料理が得意でお菓子もよく作る。
「はい、どうぞ」
 シズカは、自分もシキの横に座って紅茶の準備を始めた。すごく楽しそうにおやつの準備をしてくれたが、母曰く料理は自分がおいしく食べるのが一番というモットーらしく、こういう時うかうかしていたらシキが食べる分のクッキーなどなくなってしまうことさえあった。普通、こういうものは息子に多く食べさせるようなものだと思うのだが、この母にそんな先入観を持っていたらシキは飢えてしまう。もしかしたら、こういう奪い合いを強いることで競争心を煽ろうとする教育方針なのかもしれない。いらぬ妄想をシキがしている間に、クッキーは五枚ほどシズカの胃袋に収まっていた。
「うん、今日のクッキーも上出来ね。シキも早く食べたら」
 シズカは口をもごもごさせながら、シキを急かした。
「人が一作業終えてゆっくりしているのに、のんびり食べさせようという気はないの?」
 シキはジュースを一気にコップの半分ほどを飲んで、コップを置くと、やっとクッキーに手を伸ばした。
 一口食べると、サクッとした食感と共に口の中に甘い香りが広がる。いつも通り絶品だ。
「あら、でもおいしそうな顔で食べるじゃない。人間食欲が一番。どんな時でも食べられるものよ。それに、もう外で十分涼んできたんじゃないの?クリームと一緒に」
「見ていたの?」
 シキがちょっとびっくりしたように聞いた。
「いえいえ、あなたの行動なんてお見通しよ。猫煩悩の先輩をなめるんじゃない。まあ、私の場合は子煩悩でもあるしね」
 こんな風に見透かされたような言い方をされると、シキはこそばゆくなるのを感じた。
「トラもクッキー食べる?」
 シズカは猫なで声で、クッキーをトラの前に差し出した。トラはクッキーをくんくんと匂いはしたが、どうやら好みではなかったらしくすぐに興味を失った。
「あら残念。おいしいのに」
 トラがクッキーを食べようとする気がないのを確認すると、シズカはそのままクッキーを自分の口に運んだ。
「じゃあ、後は残しといてあげるから適当に食べといてね」
 シズカはそう言って家事に戻った。これだからこの母親は分からない。こうやって譲ってくれる時もあるのだが、シキの分も強奪しかねない勢いで独り占めしようとすることもある。
 要するに気まぐれで猫さんっぽいのだ。こんな人だから猫煩悩にもなるのだろう。シキはシズカに言われた通りゆっくりとクッキーを食べ始めた。
 猫さんを太ももに乗せながら、昼下がりの優雅なティータイム。
 なんという贅沢だろうか。
 シキはクッキーを食べながらも片手でトラの毛繕いをしてあげていたが、トラはなんとも気持ちよさそうだった。
 一通りトラといちゃいちゃして満足したシキがトラをいじるのをやめると、トラもシキの太ももの上で、体をだらっーと伸ばした左半身を上にした体勢で眠り始めた。この人を魅了される魔性と図太さがトラの持ち味である。
 文章だけ見ていると、猫さんといっしょにイチャイチャしてうらやましいと思うかもしれないが、これがなかなかにつらい修行のようなものだ。四キロ程ある重石を同じ場所に乗せ続けるのだ。最初は気持ちよくても、段々とずしりとくる。
 まだ猫さんは眠り始めたばかり、シキの忍耐も始まったばかりなのだ。
 石の上にも三年。
 猫さんが膝の上にも三年。

 トラが膝の上からどいてくれないので、結局、シキは小一時間ほどリビングで過ごした。
 猫を膝の上に乗せてのんびりしていると、時間などあっという間に立ってしまうから恐ろしい。自転車を修理していたときには爛々としていた陽もすっかり落ちて、外はきれいな夕焼けになっていた。
 しっかりと膝の上で爆睡したトラは満足したらしくリビングから外に出られるようにシキが作った猫専用の出入り口を使って、外に出て行った。
 シキは立とうとするも、体が言うことを聞かず立ち上がらない。体勢を変えたシキの全身に止まっていた血液が行き渡るのを感じる。
 なんとか立ち上がったシキは、夕飯まで時間があるので、シキは二階の自分の部屋でゲームでもしようとリビングを出た。

 シキが部屋を出て何に導かれたのか、風呂場に行くと、クリームが風呂の蓋の上にスフィンクス座りをしていた。
 スフィンクス座りとは、猫さんがかの有名なエジプトの像と全く同じ格好で座っている状態である。猫さんが休憩しているが特に眠くもないときに、目を開けてじーっとしながらこの座り方をする。その姿はとてもかわいい。たまにスフィンクス座りのままでうつろうつろしている時もあるが、その時はさらにかわいい。
 もちろんなんの当てもなくシキは風呂場に行ったわけではない。シキくらいの猫キチになると、自分の飼い猫さんがいそうな場所くらい確認していなくても当たりがつくのである。
 風呂場の出入り口と外への窓は、シキ達が風呂を使っていない時でも、猫さん一匹が通れるくらいの隙間を開けて自由に出入りできるようにしていたので、リビングだけでなくこちらの通り道も猫さんは好んで使う。元々は、簡単に開けられるこっちの道だけが猫さんの外への玄関口だったのだが、開けっ放しもよくないということで、シキはリビングに猫さんしか出入りできない専用の通用門を作ってあげた。
 人用の出入り口は基本、玄関一つしかないのに、猫さん用の出入口は猫キチならではの猫さんへのVIP待遇だ。
 クリームは、シキが風呂場に入ってきたのに気づくと、大きなあくびをしてのっそりと立ち上がる。そして前足を前方に大きく伸ばして、お尻をあげて頭を下げて体をグーッと伸ばす。グググーッとして、今度は頭を上げると後ろ足の方をグーッと伸ばす。
 シキはこの一連の動作が大好きで、これを猫ストレッチと呼んでいた。
猫ストレッチは、動いていなかった体に血を流して全身を活性化させるための猫さんの体操。トラは普段からのんびり屋さんで体をそんなに動かさないせいか、この体操はあまりしないのだが、クリームは睡眠のあとには必ずこの体操をする。ここらへんは二匹の行動性の違いだろう。
 クリームは、先ほどトラがテレビ台の上からドスッと降りたのとは対照的に、スタッと軽やかに風呂蓋から降りると、シキの足元を通り抜けて廊下のほうにでる。
 シキが廊下にでて階段のほうに向かうと、クリームもそれについてくる。シキは階段の下で立ち止まると、クリームもそこで立ち止まった。
 二階への階段は十五段ある。シキはゆっくりと階段を上りながら、後ろをちらりちらりと振り返る。十二段目で、シキは完全に足を止めると、ジーッと階段の下でこちらを覗いているクリームのほうを見る。
 二人、いや一人と一匹の間に不思議な緊張感と静寂が走る。
 一体、何が始まるというのだろうか?
 二、三秒ほどその体勢でシキが待っていると、何がきっかけになったのか虚をつくようなタイミングでクリームは突然、階段を上り始めた。シキの倍ある足を巧みに使い、もの凄い勢いで階段を昇ってくる。
 シキもクリームが動いたのを見て、慌てて階段を上り始める。シキはクリームを振り返っている間も足に力を溜めていた。
 だが、クリームはシキがその動きを始めるまでに、すでに三段程階段を上っていた。
 シキもクリームから目を外して、全力で足を動かす。シキには足を階段から離す動作、足を地面につける動作、全ての動作がクリームに比べるともどかしく感じられて仕方がない。
 ようやくシキは最後の段へと足を動かしたが、シキが最後の段に足をかける寸前に、クリームは尻尾をなびかせながらシキの足元を軽やかに駆け抜けていった。
 シキは足元を風が通りすぎるのを感じるだけだった。クリームの両足が二階に付くのにワンテンポ遅れて、シキの右足がつく。
 シキはこの競争に真剣に臨んだのだが、クリームはそんなことはすでに興味がなくなったらしく、シキの部屋の扉の前でじっとお座りのポーズをして「早く開けろ」と目と態度で語っていた。
 この階段競争はシキとクリームの日課だったが、十二段のハンデを貰ってもシキがクリームに勝てたことはない。十三段のハンデがあればシキにも勝ち目はあるのだが、最近はずっと十二段のハンデでシキは戦っている。
 この戦いに勝つのはシキの壮大な夢の一つだ。
 八十メートルのハンデがあれば、百メートル走でオリンピックの金メダリストにも勝つのも楽勝だろうに、これだけのハンデを物ともしない猫さんの身体能力は恐ろしい。
 シキが自分の部屋の扉を開けると、クリームも待っていましたとばかりに部屋に飛び込み、うろうろし始める。部屋に入ると寝床を探すときであれ、遊びに来たときであれ、まずは適当に動き回るのがクリームだ。クリームはまだどうするかは決めておらず、気に入った場所が決まれば、そのあとの行動も追々考えようという感じだろう。
 シキは遊んでいるクリームを放っておいて机に座った。
 無論、クリームのためにベランダに出られる窓は開けておいたが、こんなうだるように暑い日でもそんなのは日常の決まりきった動作、トイレや歯磨きのようなものなので、そもそもクリームのためにどうこうという意識は、シキにはない。
 かくいうクリームは、真夏でもたまにベランダのへりから下界を見渡しているときもあり、適当に日陰を見つけては寝転がっていることもあり、ベランダを満喫しているようだ。
 猫さんの体一つ分隙間を開けているので、気が向いたらクリームは出ていくだろう。その代わり冷房は効かなくなってしまうので、扇風機でこの暑さをしのぐことになる。

 シキがクリームを放っておいて、ゲームを始めてから数分経った後、
「にゃー」
 シキの足元に、いつの間にかやってきていたクリームが鳴いてきた。普通の人なら何かをねだっているらしいと気づく程度だが、シキにはクリームがどうして 欲しいのか容易に察しがついた。
「なぁに? クリーム、お膝に乗りたいの?」
 クリームは一声にゃーと鳴いたきり、足元でじっと座りながらシキを見上げている。
 その綺麗なオッドアイと目が合ったシキは、あまりのかわいらしさで悶えそうになった。シキはもうちょっとクリームと見つめあっていたい気持ちもあったが、あまりクリームをじらしてもかわいそうだ。というか、シキが我慢できなかった。
「わかったよ。おいで」
 シキが飛び乗りやすいように姿勢を整えて、膝をトントンとするとクリームは勢いよく飛び乗ってきた。先程、トラが乗ってきた時はずしりときたが、クリームは実に軽やかにシキの太ももに乗ってきた。クリームはそのままシキの胸の方に上体を上げて、肉球を使ってシキをもみもみしてくる。
 シキはクリームに爪を少したてられて痛かったが、そんなことより気持ちよさがはるかに上回る。
 もみもみもみもみ……
 クリームの肉球を押し付けられる至福の一時はさらに続く。
 クリームは上体をさらに上げ、二本足で立つ体勢をとる。
「ダメだよぉ」
 顔のほうまで、もみもみ攻撃が来たせいでシキは思わず声をあげる。ダメと言いながらも、全く悪いとは思っておらず、声にはまるで覇気がこもっていない。
クリームはシキの太ももを念入りにもみもみすると、そのまま丸くなった。どうやら今日は座っているシキの膝で眠ることに決めたらしい。
 夏の昼下がりに猫さんを膝に眠らせながらのゲーム。
 贅沢の極みである。
 丸くなったクリームはすぐにすやすやと眠り始めたようだ。シキはクリームの背中をなでなでしてやって、ゲームをやり始めた。

 シキはゲームに没頭している間に、いつのまにかすっかり日も暮れていた。
「はあ。今日はこれで終わるか」
 シキは縮こまっていた体を伸ばそうと大きく伸びをしたが、太ももにクリームが寝ていることを忘れていた。
「にゃ!」
 びっくりしたように起き上がったクリームは、シキに爪を立てて襲い掛かってくる。クリームは従順で動かない寝床が好きなので、シキがゲームに夢中になって上の空になったことで、小刻みにシキが動くから機嫌が悪かったのだ。
 そしてシキが伸びの態勢をとったのが留めとなる。
 クリームは寝ている態勢を維持できなくなり、動くベッドとかいうゴミ同然の寝具となったシキはその主から痛いクレームをもらうことになった。クリームはシキから飛び降りるとそのまま部屋から出て行く。普通の人間ならこんなことされたら猫さんを叱るところだろうが、シキはクリームに逃げられてしまったことが、ただただ残念だった。
 シキには階段競争でクリームに勝つ以外に、もう一つ夢があった。
それは、クリームと一緒にベッドの中で寝ることなのだがこれがなかなかうまくいかない。
 トラならむしろあっちからすり寄ってきて、布団に入ってくることもあるくらいで一緒に寝るくらい朝飯前なのに、クリームにはベッドの上で寝られることはあっても、ベッドの中で寝てくれたことは一度もない。ベッドの中に無理に入れることはあるが、少しじっとしていることはあってもベッドの中で眠ってくれることは決してなかった。
 こんな調子では、クリームとベッドで一緒に寝られるのはいつになるのだろうとシキは思うのであった。
 シキは、そろそろ夕飯もできているだろうとリビングに戻ることにする。

 シキがリビングに入るとうなぎを焼くいい匂いが部屋いっぱいに漂っていた。シズカの料理の準備も終盤らしい。
 しかし、うなぎとなるとクリームとトラは黙っていないだろう。普段の食事でも猫さんのごはんの催促は面白いものがあるが、それが大好物の魚になると面白いを通り越して、なかなかにスリリングなバトルになってしまう。
 リビングにずっといたトラはすでに臨戦態勢を整えているようだ。食卓とは離れたテレビの上でじっと様子をうかがっている。
 テレビの上の猫さん用の台はシキが作ってあげたものだ。シキの家も世の流れに逆らえず、数年前にテレビをブラウン管から液晶ディスプレイに買い替えた。
 元々、暖かいテレビの上は猫さんのとびっきりのお気に入りの場所の一つで、クリームとトラはいつも場所争いをしていて、テレビの上でのんびりしている猫さんを見るのがシキは大好きだった。見たい番組をやっているのに、猫さんが尻尾を垂らしているときも、どんなにシキが見たい番組より、その猫さんの姿はシキが見たいものだったので笑って許せた。
 だから液晶テレビに買い替える時、シキは結構残念な持ちになった。ネットで液晶テレビと猫さんで検索してみると、あんなに薄いのに、まだテレビの上を寝床にしている猫さんの画像がたくさんあり、もしかしたらうちの猫さんも居ついてくれるのではないかと期待した。実際、何日間か液晶テレビはそのままで置いて猫さんがどうするかの様子を見ていたのだが、一向に液晶テレビでどうこうしそうな気配はなかった。
 シキが試しに液晶テレビの上に猫さんを置いてみても、すぐに逃げてしまい、どうやって液晶テレビの上の猫さんの画像はとられたのだろうと不思議に思うほどだった。
 結局、猫さんの遊び場が少しでも増えればいいなあということで、液晶テレビの上に猫が乗れる台をシキが作ってあげた。ついでに簡単な物置にもなる便利なやつだ。以前のテレビの上のように暖かくはならないので、それほど気に入る場所ではなかったようだが、それでもよく居ついてくれる場所になってくれたので作った者の冥利につきる。ただ少し高く作りすぎたらしく、猫さんが登るのにたまに苦労している様は見ていて面白い。
 猫さんにとって、その台の上の場所は部屋を見渡すには絶好の位置である。いくら魚が好きでも焼いている途中では猫さんには食べられない。それに当然、シキやシズカの目もある。
 それでまずは、一番いい場所から戦況分析をしているという訳だ。地味に見えるがこの遠距離攻撃が、後々ジャブのように効いてくる。
「あと、五分くらいで準備終わるからもうちょっと待っていてね。トラもクリームも」
 シズカは料理の準備をしながら、猫さん達に呼びかける。なぜか息子であるシキの名前が抜けていた気がするがたぶん気のせいだろう。
 いつの間にか、うなぎの匂いに釣られたクリームもリビングに入ってきていた。クリームはテーブルの上にジャンプして、キッチンカウンターに陣取ると料理中のシズカのほうを凝視しはじめた。トラとは違うアプローチだがあれもエサをもらうための作戦だ。
 トラは変則的な遠距離タイプのアタッカーだ。遠目にただじっと座ってこっちを見ているだけだが、あの遠距離攻撃が後々ジャブのように効いてくる。うなぎは安泰であるはずなのに、突如やられてしまう恐ろしい攻撃だ。
 クリームは純粋な近距離のインファイターだ。直接的な攻撃をこれでもかと連続で叩き込んでくる。にゃーという鳴き声で相手を弱らせ獲物をせしめる時もあれば、適当にちょっかいをかけてくることもあり、それでも獲物が落とせないとおねだりにありとあらゆる手を使ってくる。時には強奪という手段まで使えるオールラウンダーでもある。その攻撃力は凄まじく、家の中にこの攻撃に耐えきれる人間はいない。
「シキ、もうちょっとで出来るからクリームと遊んでいてくれる?」
 料理中で手が放せないシズカがシキにクリームの様子見を任せた。
「いいよ。分かった」
 クリームのインファイトは時として、料理中のシズカや食事にも襲いかかることがある。せっかくのうなぎが台無しになってはシキの胃袋が悲鳴をあげてしまう。というのはただの建て前で、こういう時のクリームは遊んでいて楽しいので、シキはクリームと遊んであげることにした。
「邪魔しちゃだめだよ。クリーム。もうちょっと待っていよう」
 シキは、カウンターテーブルでまだじっとうなぎを見ていたクリームの脇をつかむと、ひょいと持ち上げてソファまで連れて行った。クリームは普段なら手を近づけるだけで露骨に警戒の色を示すのだが、大好物を狙っているときなど、他のものに興味が注がれている時は容易に捕まえることができて、わりと従順にシキに従う。
「うなぎとなると二匹とも目の色が違うね。もう少しで手を出してきそうだったよ」
 シズカが台所から話しかけてきた。シキはソファに座るとクリームを膝に乗せてグルーミングを始めた。
「うなぎなんて珍しいじゃない。クリーム達がはしゃいじゃってもしょうがないよ」
 土曜の丑の日もまだきていないのに、随分と奮発する。何か嬉しいことでもあったのだろうか?
「いいや。特に何もないよ。ただの気分よ。何か他に食べたいものでもあった?」
 こんなところだろうとシキも思っていた。食べたいものを食べたいときに食べる、いかにも自由奔放なシズカらしかった。うなぎの匂いをリビング中に漂わせておいて、今更メニューを変えられるわけもない。どっちにしてもシキはうなぎを大好きだったのでメニューに文句もない。
「いいよ。全然。母さんの好きにして」
「とびっきりの国産うなぎだしシキも満足するはずよ」
 シズカはこのように度々、もう後戻りできない状態になってから事後承諾をとるということをよくやった。自分勝手にやっておきながら結局、自然な流れにしてしまうから恐ろしい。
「国産かあ!楽しみだね」
 シキはシズカに適当に同調しておいた。とはいえ、本当に楽しみだったので、クリームへのグルーミングにも力がはいった。シキがクリームの首元をなでなでしてやると、クリームは気持ちよさそうにそれに応じた。
「クーたんもうなぎ楽しみなの?」
 シキがしゃべりかけるが、クリームの返事はもちろんなく、ただシキの操る手に合わせてのどをゴロゴロと鳴いている。シキはクリームの首もと以外にも、お耳の周りや、お腹など体全体を撫で回してあげたが、その全てにクリームは快く応じた。普段ならここまで大人しく従うことはないから、何をしてでもうなぎが欲しいらしい。
「にゃー」
 シキが手を離して、膝の上から降ろしてあげても、クリームはシキに甘える体勢をとる。シキの膝の上から降ろしてあげても、クリームはソファの横で仰向けになって寝っ転がり始めた。あまりの可愛さに再びシキが手をクリームの方に向けると、その動きに合わせてクリームは右に左にコロコロと転がり始める。これが見るもの全てを虜にするデスロールだ。
 クリームは警戒なリズムで右半身を上にしたり、左半身を上にしたり、それに合わせて多彩に手足を伸ばす。シキの手の動きに合わせて、こっちのしてほしいことを読み取ったかのように回るクリームは、下手したら人を殺しかねない可愛さがある。デスロールの名前の由来がこれだ。ワニが獲物を確実に仕留めるために、獲物をくわえたまま回転して水中に引きずり込むことをデスロールというらしいが、殺傷力からして似たようなものだ。
「クリームも随分と興奮しているみたいね」
 シズカは焼きあがったうな重と準備した付け合わせをテーブルに準備しながら、シキとクリームの様子を見て笑う。
「うなぎとなると目の色も態度も違うね」
「そうね。みんな喜んでいるみたいで、さすが私のおかげね」
 シズカは自画自賛した。絶対に自分が食べたいということしか考えていないのによく言ったものだ。
「さて、出来たから食べましょう。シキも猫さんとじゃれていないで早く来なさい」
 シキはクリームとじゃれあっていた手を止めてうな重が用意されたテーブルへと向かう。
 シキの動きに合わせて同時にクリームと、どっしりとテレビの上で座っていたトラまでも立ち上がり、シキと一緒にテーブルのほうへやってきた。
 トラはテーブルのそばのソファの背もたれに飛び乗ると、そこで座ってシキをじっと見つめ始める。トラはここまで、テレビの上から三メートル以上離れた遠距離攻撃に徹してきたが、ここにきて獲物まで一メートル程度の位置での中距離攻撃に切り替えてきた。それでも直接的な攻撃はしかけてこないが、じわりじわりと弱らせてきた相手をついに仕留めようとしているようだ。
 クリームはテーブルの下のシキとシズカの席の下をうろうろしながら猫撫で声で鳴いている。
 さすがに国産うなぎだけあって部屋中に漂っている匂いからして違う。猫さんほどには食い意地のはっていないシキですら、匂いとシズカの盛り付けたうな重の見た目だけで口の中によだれが溜まっていくのを感じた。
「はい、じゃあいただきます」
「いただきます」
 シズカの音頭に合わせてシキも食事のあいさつを済ませて、早速うな重に食いつく。その間もトラに燃やされかねないような焼ける視線と、下からは爪をちゃんと引っ込めたみだれひっかき攻撃と鳴き声攻撃が続いたが、さすがに一口目から音をあげるわけにはいかない。
 シキが一気にかき入れた一口は、うなぎと味のしみ込んだほかほかのご飯とアクセントの卵焼きのハーモニーで、互いに互いを引き立てあう絶妙の味わいを引き出しとても旨かった。
 シキ達が食べるのを見て、さらに二匹の攻撃が強くなったが、その攻撃ですらこの瞬間だけはシキの食欲に勝つことはできない。シキはうな重に乗った三枚の切り身のうち、一枚を食べ終わるまで黙々と食べた。シズカも同じように黙々と食べた。シズカの食べている時の表情は、猫さんと遊んでいるときと同じくらい幸せそうに見えた。うなぎを準備した本人だし当然だろう。
「どう美味しい?」
 シズカは一旦、箸を止めてシキに聞いた。
「すごくおいしいよ。さすがに国産うなぎだね」
 シキも箸を止めて答えた。恥ずかしすぎて決して口には出せないが、おいしい理由はうなぎが国産であるからだけはなく、シズカの料理の腕のおかげでもあった。あまりのおいしさにうな重の三分の一をあっという間に胃袋に納めてしまった。
 だが、この残ったうな重の見た目には明らかに違和感があった。シキのうな重にうなぎは二切れ残っているのだが、二つの色合いは全く違う。一切れはタレが適当にかかって味が上手くついた見た目をしていた。
 しかし、もう一方は色合いが異常に薄く明らかに焼いただけという感じだった。これはうなぎのそのままの味を楽しんでほしいというシズカの計らいでは断じてない。二人が一切れのうなぎを食べ終わったのを合図に、クリームとトラは第六感で何かを察知したのか、今までで最高潮の視線とおねだり攻撃を繰り出してきた。
 これは、シズカが猫さんのために準備した二切れだ。二切れのうちのもう一切れをシキは確認したわけではないが、間違いなくシズカの器の中にある。
 シキは自分の分のうなぎを適当な大きさに切ってやると、まずはソファの背もたれの上でじっと待つトラの前に置こうとする。
 トラの首は今か今かと待ちわびて伸びている。猫さんの首なんて普段は意識しないほど短いのに、はっきりと首が区別できるほどだ。
 シキが手を伸ばすと、じっとしていたトラの右手が突如動く。事前にその動きを察知していたシキはその動きに合わせて手を引っ込めた。ここまで遠距離攻撃に徹して直接的な攻撃は全く仕掛けてこなかったトラだが、ここにきて一気に獲物を仕留めにきた。ここまできたらさすがのトラも我慢できないようで、射程圏内から離れた獲物をみて、恨めしそうな視線をみせる。
「トラ、ちゃんこ」
 シキがトラに命ずると、トラはソファの背もたれの上でお座りの姿勢をとる。なかなかにシュールな光景だ。その様子を見ているのも面白いとシキは思ったが、あんまり待たせてもかわいそうなのでうなぎを足元に置いてやると。トラの目線がうなぎに注がれる。シキがさっきまで注がれていた視線がうなぎに向いているのだとしたらうなぎは焦げてしまうかもしれない。
「よし」
 シキが命令すると、一気にトラはうなぎにかじりついた。その勢いはさっきのシキ達の一口目にも劣らないトラの素晴らしい食べっぷりに、シキは顔がにんまりとするのを抑えられない。猫さんにも味の違いがわかるらしく、いつも以上にむしゃむしゃとトラはうなぎにかぶりつく。テーブルの下でシキとシズカの間を右往左往しながら近距離攻撃を繰り返していたクリームも、シキがトラにうなぎをあげたことに気づいて、ソファの下からトラにちょっかいをかけ始めた。
「クリーム、お前の分もちゃんとあるから、イタズラしちゃダメだよ」
 シキは立ち上がっているクリームの鼻の頭の上に手を掲げて、クリームのイタズラを止めさせた。クリームは大人しくトラへのイタズラをやめるが、さらにシキへの催促は強くなり、ニャーニャーと鳴く。
「残念。今日はシキのほうに二匹とも行っちゃうの?」
 シズカも一切れのうなぎを猫さんの為に準備していたのに、自分のほうに猫さんがよってこなくて残念そうだった。とはいえシズカにとっても優先事項は猫さんのほうだったため、その切れ端を自分のうな重からとり、シキのうな重の上に乗せる。
「はい、どうぞ。クリームにもあげちゃって」
 そう言うと、シズカは残りのうな重と付け合わせのほうを食べ始めた。
「クリームもちょっと待ってね」
 シキはもらった一切れをクリームにも食べやすいように切ってあげる。クリームはシキの行動や雰囲気からうなぎがもらえることを察しているようで、さらなるおねだり攻撃がシキに襲いかかる。クリームは、シキの膝に向かって後ろ足で立っておりシキを妨害するような形になった。相変わらずの凄まじい攻撃力である。うなぎをせがむはずが、むしろシキを妨害するような状態になってしまっている。
 シキはある程度うなぎを切ったら、クリームが膝に乗りやすい態勢に座り方を変えた。すると他の合図なしでも一瞬でシキの様子を察したクリームはシキの膝に飛び乗った。
「お待たせ、クリーム。さあどうぞ」
 なぜか置いてあった空の小皿にうなぎを置いてあげると、クリームが食べやすいようにテーブルの端に置いた。クリームはシキの膝の上から身を乗り出して一心不乱に食べ始める。クリームにもうなぎは結構好評だったらしい。食いつきがいつもと比べても段違いだった。あげるものによっては、くんくんと匂っても結局食べないなんてこともざらにある贅沢な猫さんなので、分かってはいてもこうやって食べてくれると、シキは嬉しかった。
 シキはトラとクリームに適当にうなぎを切り与えながら、しばらく二匹の様子を見ていた。いつみても猫さんのご飯の姿はかわいい。
「猫さんに見とれているのもいいけど、シキも早く食べないと冷めちゃうわよ」
 いつの間にか食べ終わったシズカがシキに言った。確かに猫さん達の世話に夢中になって、自分の箸を進めるのを忘れていた。
「そうだね」
 シキはまだうなぎ一切れとごはんが半分ほど残っているうな重を再び食べ始める。少し冷めいたせいでさっきより質は落ちていたが、猫さんのご飯を見ながらうな重を食べると先程より何倍もおいしく感じられた。味覚は見た目にも左右されるというが、これほど贅沢な食事風景をシキは他に知らなかった。
「ごちそうさま」
 こうして今日のシキ家の晩御飯は終わった。実際のところ、クリームやトラがねだらなくてもシキとナツミがうなぎをあげていただろうという突っ込みは禁句である。

 夏休みが始まって数日経ったある日、今日は珍しく昼から猫さんが二匹とも外に出ていたので、シキは適当に二匹を探して家の周りを散歩していた。家の中にいれば、シキには猫さん達の居場所はおおよそあたりがつくのだが、今日はお気に入りの寝床を探してもどこにも見当たらなかった。外で猫さんと遊ぼうと思っても、見つからない時は本当に見つからない。
 一体、どこに行っているのだろうか。
 シキが猫さんを訪ねて三十分ほど辺りを散策するが見つからず、あきらめて家に戻るとナツミと出くわした。ナツミはなぜかシキと同じようにがっかりして疲れた様子である。心なしか動きがいつもよりにぶい。ナツミは先日、自転車の修理中に挨拶してくれた時もそうだったが、いつも元気に走り回っているので、こうやってとぼとぼと歩いている姿を見て、シキは必要以上に心配してしまう。
「こんにちは。ナツミちゃん。なんかあったの? 元気がないみたいだけど」
「あ、おにいにゃん。こんにゃちは」
 よく見ると今にも泣きそうな表情である。いつものナツミの調子なら雪崩のように話が続きそうなものなのだが、挨拶だけで終わってしまった。
「大丈夫? ナツミちゃん。なにか、悲しいことでもあったの?」
 シキは心配して聞いた。
「うん。ちょっとね。靴が壊れちゃったみたいで上手く動かないんだ」
 ナツミは子どもの間で流行っているローラー付きの靴を普段から履いていて、シキは、ナツミが家の周りをスイスイと滑っているのをよく見かけていた。ピンクの装飾の可愛らしい靴は、いかにもナツミらしい。
「それは困ったね」
「うん、一応歩くことはできるんだけど、このまま使えないと困っちゃうな」
シキは猫さんにも敏感であるが、ものが壊れたと聞くと何かと直したがる癖がある。特に猫さんが見つからない今となっては、ものいじりは絶好のひまつぶしであり遊びである。
「ちょっと見せてみてよ。もしかしたら直せるかもしれないよ」
「ほんとに!? 休みの日にいろいろと作ったり直したりしているのは知っていたけど、こんなのでも直せちゃうの?」
 ナツミは、少しだけ笑顔を取り戻したけど心配そうに聞いた。
「たぶんね。靴の修理はほとんどやったことないけど、できると思うから任せてよ」
 いつものシキから比べると、自信たっぷりにシキは言った。
「ありがとう、じゃあお願いするね」
 ナツミは左足の靴を脱いでシキに渡す。シキは大事なものを扱うようにそれを受け取る。ナツミは左足靴下、右足靴という何か勘違いされそうな状態になった。
「こういう靴、履いたことないからよく分からないんだけど、どう調子が悪いの?」
 シキはナツミからもらった靴の悪いところを調べようと、しっかりと凝視しながら聞いた。
「うん、そのコロコロがね、上手く回ってくれないの」
 コロコロというのは靴底についているローラーのことだろう。シキが手でローラーを回してみると、確かにひっかかりがあって回りにくい状態になっていた。一回転するたびに同じような場所で回転が悪くなるような気がするが、普段との違いがシキには分らない。
「ナツミちゃん、もう一方の靴も見せてくれないか?」
「え、こっちの靴はいつも通りに動いてくれるよ?」
「うん。だからいつもの状態がどんなものか確かめてみたいんだ。違いが分からないと直し方の方針も立たなくてさ」
「そういうことか。さすがおにいにゃん。じゃあこっちの靴も脱ぐね」
 ナツミはもう一方の靴を脱ごうとした。
「ナツミちゃん、靴下じゃ立っているのも危ないだろうし座ったら?」
「全然大丈夫だよ? ただ、立っているだけじゃん」
 ナツミは手を止めて、首を傾げた。
「靴下だけだと何か踏んじゃうと怪我しちゃうよ。それに靴には衝撃から足を保護したり、温かくしたりする以外にも、足を疲れさせない効果もあるんだよ」
「そうなんだ。じゃあお言葉に甘えて座らせてもらうね」
 そう言うとナツミはシキの真横に座った。シキはナツミに近くに置いていた作業中に使う折り畳み椅子に座るように言ったつもりだったので、突然のナツミの行動に面食らった。
 しかも、ナツミはシキの真横の至近距離で靴を脱ぎ始めた。ナツミはミニスカートで無防備な脱ぎ方をしていたので、細くて若々しい生足をしっかりさらけ出していた。見方によっては、足の根元まで見えかねない際どい角度にシキは思わず目をそらした。
「はい、脱いだよ。おにいにゃん?」
 どうやら靴を脱ぎ終わったらしいナツミがシキに靴を渡そうとした。しかし、シキはそっぽを向いてしまっていたため、ナツミはシキの挙動不審を感じ取ったらしく疑問形でシキに呼びかけた。
「うん、ありがとう」
 シキは慌ててナツミから靴をもらう。
意図せず、シキの目線に入ったナツミは健康的な太ももをさらけ出している。鈍感なシキですら危ないと思う状況だが、不幸中の幸いで、生理現象により勝手に吸い寄せられてしまったシキの目線からは、白かそれに類する布地は発見できなかった。これならいかがわしいことは何もない。まさか履いてないなんてことはあるまいし、ノーブレムとシキは自分自身に言い聞かせる。
 もらった右足の靴のローラーはくるくると引っかかりもなく綺麗にまわった。これが正常な状態なら、確かに左足のローラーはおかしかった。一方が綺麗に回っても、一方が止まってしまったら転びかねない危ない状態だ。
「これが普通なら左足の靴は大分悪いね」
「やっぱりそうだよね。直せそう?」
 ナツミは身を乗り出してシキがもっている自分の靴を覗き込んできた。
「これくらいなら直せると思うよ」
 見たところ、ローラー部分に雑草とかゴミが溜まっているから回転が悪くなっているようである。ゴミを取り除いてあげればなんとか動きやすくなると思う。それでダメならお手上げかもしれないがその時はその時だ。
「本当! よかった。やっぱりおにいにゃんに任せて正解だったね」
 ナツミは顔を輝かせて喜んだ。シキは直らなかったらそれもしょうがないと思っていたが、こんなぬか喜びをさせてしまったら後味が悪いと思った。絶対に直してあげようと気を改める。
「ちょっと道具の準備をするから待っていてね」
「うん、わかった」

 シキは立ち上がって、家の中に工具を取りに入る。
 両手にはナツミの靴を持ったままである。
 シキはこの状況のまずさに今更になって気づく。家の外に靴を脱いだ少女を待たせて、その少女の靴を持って家にいる青年の図がそこにはあった。見る人によっては妙な誤解を招きかねない状況ではあったが、今更、靴だけを戻しに家の外に出るのもかっこ悪いので、結局、シキは靴を持ったまま工具を取りに行く。
「シキ、猫さんは見つかった?」
 二階に登ろうとしたところ、突然シズカがシキに声をかけた。驚いてシキは慌てて靴を後ろ手に隠した。猫さんみたいに突然現れるなとシキは思った。
「いや、いなかった。その調子だと家にも帰っていないみたいだね」
「そっかあ。お昼だしどっかで寝ているのかもね。それにしも、随分と落ち着かないみたいじゃない。何かあったの?」
 シキはどきりとした。このやりとりでそんなところまで察せるとはさすが母親だ。
「なんでもないよ。ちょっと近所の女の子が、靴を直してほしいって家の前に来ているんだ」
「あら、デートなの?」
「違うよ!」
 シキは慌てて否定した。
「なによ、そんなに動揺しないでもいいじゃない。冗談なんだから。でもそろそろ年頃なんだから彼女の一人でも作ったら?」
 確かにその通りだが、実の息子にむかってよくここまではっきり言える。もうちょっと遠慮とか憐れみとかはないのだろうか。
「余計なお世話だよ。外で待たせているからお茶でも用意してあげて。僕は二階に工具とか取ってくるから」
「はい。わかりました。おにいにゃん」
 さっきまでのやり取りを知っていたかのような呼び方でシズカはシキに応じた。

 自分の部屋から工具箱を持って下に降りると、玄関には既にジュースを用意したシズカが待っていた。
「遅いわよ。シキ。レディーを待たせるものじゃないわよ」
 シキが二階に行った時間は一分かそこいらだったのに、その間にジュース二人分用意してスタンバイしているとは、シズカはどれだけ手際がよいのだろうか。
「用意が早すぎるんだよ。両手塞がっているから先に出てくれない?」
 シズカはシキに軽口が言いたいがためだけに神速で準備をしたのだろう。シキはわざわざ構う気にもなれず適当に応じた。
「あらやだ。若い二人の邪魔をするほど、私お節介じゃないよ」
 シズカはシキの工具箱の上にコップを二つ押しつけた。両手で持っているとはいえその両手にはそれぞれ靴も持っていたのでバランスがとりづらく、危うくこぼすところだ。
「おい、何するんだよ」
「若い二人でごゆっくりどうぞ。玄関なら開けてあげるから一人でいってらっしゃい。なんならあがってもらってもいいわよ」
 シズカは召使いのような仕草で扉を開けた。その表情は猫さんと遊んでいるとき以上に楽しそうであった。なんでこう女というのは色恋沙汰にきゃあきゃあ言うのかね。シキはシズカに言いたいことはいろいろあったが、こんなところで口論しても仕方ないと思い、おとなしくシズカに従う。
「ジュースの用意どうも」
 ナツミを待たせるわけにもいかないので、シキはシズカに軽くお礼を言ってに外に出た。

「お待たせ、ジュースあるんだけど飲む?」
 シキは工具箱と靴を足下に置くと、ナツミの横に座ってジュースを差し出した。
「いいの? ありがとう!」
 ナツミはジュースと聞くと、表情が一気に明るくなる。シキは一口ジュースを飲むとコップを置いて、工具箱を開け始めた。
「おいしいねえ。おにいにゃん、大きな箱を持ってきたけど、そんなに修理は大変そうなの?」
 ナツミは一気にコップの半分ほど飲み干して、シキに聞いた。
「いやそんなことないけど、何か必要だったら一々取りに行くのも面倒だからさ。この箱があれば大抵の道具は揃っているから困らないんだ。そんなに手間はかからないと思うよ」
「そっかあ。楽に終わりそうならよかった」
 ナツミは安堵したが、直せる保証はシキにはないので戦々恐々だった。シキは壊れているほうの靴を手に取ると再び手に取って、ローラーがつっかかる場所を探り始めた。
「ナツミちゃん、ずっとこの靴使っているの? いろんな場所で履いているんでしょう?」
「もう長いこと使っているよ」
「ずっと使っているからローラーにゴミがいっぱい溜まって、そのせいで回りにくくなっているんだよ。定期的に掃除してればかなり長持ちするんじゃないかな。今からゴミをとってみるね」
 シキはドライバーとキリを上手く使って、ローラーを掃除し始めた。上手くほじくってやると面白いくらいゴミがとれた。
「ほら、こんなにゴミが溜まっているでしょう」
「ほんとだあ。すごく溜まっているね」
 一分ほどでシキの見た目にはゴミがみえない綺麗な状態になった。仕上げにローラー部分を水で洗い流すと、ローラー部分はさらにつやのある状態になった。
「これで少し乾かしたら大丈夫だと思うよ」
 シキは用意していたタオルで靴を拭きながら言った。
「すごいね。こんなあっという間に直せちゃうんだ」
「そうだね、こんなのでよかったらいつでもできるから、何かあったら言ってよ。右足の靴もついでにきれいにしておくね」
「ありがとう。本当に優しいねおにいにゃん」
 シキはひとまず、さっき洗った靴をタオルの上に置いて、壊れていない右足の靴にも同様の作業を始めた。こっちの靴もローラー回り方こそよかったが、結構ゴミが溜まっていた。
「ところでさ、さっきおにいにゃんが家に入っている間に気づいたんだけど、クリームがベランダの屋根の上にいるのは大丈夫なの?」
 シキがナツミの目線の先を見ると、確かに屋根の上には目立つ白いのがいた。クリームは白猫さんだったから屋外ではかなり目立ち保護色になるような場所はあまりないのだが、あそこなら壁が保護色で見つけづらいし、そもそも目線の下ばかり探していたので完全に盲点だった。
「大丈夫だよ。猫さんの運動能力はすごいからね。そこらへんの木でも伝って簡単に降りてこられるよ。そもそもあそこには自分で登ったんだからね」
 そうやって自分から変な場所に行って抜け出せなくなる猫さんもいるにはいるが、今のクリームはそんな状況ではないと、シキにははっきりわかっていた。
「あんなところから降りられるの?」
 ナツミは信じられないという表情で言った。
「今はお昼寝中みたいだけど、お腹でも空いたら勝手に降りてくるよ」
「へえ。そっか」
 とりあえず、その場ではナツミは納得したようだった。両方の靴のゴミをとって乾かした後、適当にオイルを塗って仕上げた。シキがローラーを回してみると先程とは段違いのキレのよさで、修理が上手くいったことに満足する。でも問題はこれが履いてどうなるかということだ。
「ナツミちゃん。とりあえず履いてみてよ。どんな感じかな?」
「うん。ありがとう」
 ナツミは靴を履くとすぐに滑りはじめた。どうやら問題ないみたいだ。
「すごーい。新品のときみたいにすいすい滑れるよ」
 ナツミは本当に嬉しそうで、シキもよかったと思った。シキは内心、うまくいかなかったらとびくびくしていたので安心もした。
「ちゃんと動くみたいでよかったよ」
「ほんとにすごいよ。ちゃんと動くどころか前よりすごいみたい」
「それは言い過ぎだよ」
「また、なんかあったらおにいにゃんに言うね。いい?」
 ナツミは、家の前を旋回し、シキの目の前で急ブレーキで止まると上目づかいで聞いてきた。
「僕なんかで何かできるならいつでも言って。物いじるのは好きだしさ」
「うん。じゃあまた何かあったらおにいにゃんに相談するね。ありがとう」
 ナツミはそのまま帰ろうとしたが、思いついたように急ブレーキをかけて、Uターンしてくる。
「どうしても気になるんだけど、クリームは本当に大丈夫なの?」
 どうやらナツミはまだ屋根の上のクリームの様子を気にしていたようだ。
「クリームは好きであそこに行っているんだから問題ないよ」
 唯一、問題があるとすれば、あそこに居座られたらシキの好きなときにクリームと遊べないことくらいで、シキは全く心配していなかった。
「でもやっぱり危ないよ」
 しかし、ナツミの表情はとても心配そうで、シキがどういっても安心してくれそうにない。
「うーん。まあ確かにちょっと危ないかもね」
「助けてあげられないの?」
 屋根の上とはいえガレージの上なので、家に置いてある脚立でも届くような場所でクリームは寝ていた。こんなに心配しているならちょっとナツミが気の毒でもあるし、かっこいいところを見せたいという欲も、少しはシキにはあった。
「わかった。助けてあげようか」
「うん、助けよう」
 ナツミの表情は、ぱっと明るくなる。
 シキは脚立を取ってきて、クリームの寝ている屋根の傍に登る。
 屋根の上のクリームは、丸くなってぐっすりと眠っている。人の気も知らず呑気な奴だ。シキが手を伸ばすとクリームが気配に気づいて起きたが、逃げ出す前になんとか捕まえることができた。シキは慎重に脚立を降りようとしたが、
屋根の縁で腕を擦ってしまった。
 シキの腕に激痛が走りバランスを崩してしまう。クリームは危険を察知して自ら腕から逃げて脚立をぱっぱと降りてしまった。シキはバランスを崩しながらもなんとか脚立に捕まって無事に降りた。
「よかった。ほんとに心配だったんだ」
 どうやらナツミはシキが怪我をしたことには全く気付いておらず、クリームの無事にほっとしたようだ。
「うん。お昼寝を邪魔しちゃったけど本当によかった。クリームも家に入りたいみたいだし、またね。ナツミちゃん」
「うん。またね。おにいにゃん」
 シキは、そう言って脚立とか工具箱を片付けもせずに家の中に引っ込んだ。ナツミの前では冷や汗垂らしながらも笑顔でいたが本当に痛かった。物を片付けようなんて思考が全く頭に思い浮かばないほど、シキには余裕がなかった。
 シキは、一歩一歩踏みしめるように自分のベッドで寝ようと階段を上る。そのシキの足元をクリームが走り抜けていく。どうやらどさくらに紛れてクリームも家の中に入ったようである。それにシキが気づかなかったことが、事態の深刻さをシキに認識させた。
「にゃあ」
 クリームは部屋の前で扉を開けろとおねだりしている。こいつは本当に呑気なものである。シキは扉を開けてベッドに飛び込むと、クリームもそれに追随してシキのベッドの上に飛び込んできた。どうやら次の寝場所はここに決めたらしい。
 シキは腕をかばいながらも、少し冷や汗が引いて来たらあっという間に寝てしまった。

 シキが目を覚ますと、すでに日も暮れかけた夕方だった。腕の痛みはすでに引いていて少し赤く腫れているだけである。どうやら一過性のもので済んだようだ。
 シキは小腹が空いていたので、近所のコンビニにアイスを買いに行った。
 シキはこのコンビニの常連だったので、よく知った顔の黒髪のきれいな女性が会計をしてくれた。なぜかこの店員さんは。シキ相手だと妙に機嫌がいいような気がしていたが、たぶん気のせいだろう。見た目と仕草だけでこんな風に思ってしまうとは人間も結構罪なものだ。
 家に帰るとクリームはまだベッドの上で寝ていた。シキはその傍らに座ってアイスを食べた。夕焼けの下、猫さんと一緒に食べるアイス。なんという贅沢だろうか。

 これが猫キチなシキの日常だった。この日常がこれから変わっていくなんてこの時、シキは思いもしていなかった。
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