菊池くんの恋愛事情-9
「おかえりー、奏」
部屋に入ろうとしていた奏を引き止めたのは、つい五分ほど前。
一瞬身構えるかのように鞄を持つ手に力が入ったのを、俺は見逃さなかった。
「もう、気にしなくていいのだが……」
所在無さげにテーブルの前で座っている彼女に、まぁまぁと声をかける。
「この後飲み会なんだけどさ。あと一時間くらい暇なんだ。少し、付き合ってよ」
「――私は、暇つぶしの道具ではない」
沸かしたお湯で、紅茶を淹れる。
「じゃ、俺を暇つぶしに使って」
とん……と、目の前に紅茶の入ったマグカップを置いてにこりと笑うと、彼女は一瞬目を見張って噴出した。
「引っ張り込まれたのは私なのに、お前を暇つぶしに使えと言うのか? 面白いことを言う男だな」
「そう?」
彼女と向かい合わせに座って、マグカップを手にとる。
まだ熱いな――
猫舌な俺はすぐに飲む事ができずに、ふぅーっと口で風を送る。
その姿を見て、再び彼女が噴出す。
「お前は猫みたいだ」
その言葉に顔を上げると、目を細めて笑う彼女と視線が合う。
「猫舌なんだ。猫じゃありませんー、人間ですー」
「ははっ、そう言う意味ではない。年齢を聞いた後で申し訳ないが、お前は可愛い」
――どきん
……、は? どきん?
一瞬、鼓動が早まった自分の胸に手を当てる。
まてまてまて。
可愛いって言われて、どきんってなんだ。
慌てて脳内思考を頭から追い出し、マグカップをテーブルに置く。
「男に可愛いは褒め言葉じゃないよ。それにしても奏、なんでそんな男言葉なの? しかも、昭和なおじさん。昨日会った時は、敬語だったけどそんな言葉遣いじゃなかったよね」
「よけいなお世話だ」
一蹴。
苦笑いをしつつ、後ろに手をついて足を伸ばす。
「だって、この会話って目を瞑って聞くと、声の低い女と声の高い男がしゃべってるみたい」
「お前、自分を女らしいと認めてどうする」
仕方ないよと肩をすくめる。
「だって、俺がホントに男言葉使うと似合わないんだよ。高校の時、笑われた」
背伸びしてるみたいってね。
彼女は、ふむ……と腕を組んで首を傾げる。
「私も笑われるが、やめようとは思わない。これが私だ、何がいけない?」
――
なんだろう。
後ろに、富士山とか波飛沫とか見えてきそう……
「かっこいいねぇ、奏は」
「そうか?」
首を傾げる彼女は、恥ずかしそうに笑う。
――その表情は、可愛い女の子だと思うけど。
そんなことを考えたけれど、怒られそうで口には出さなかった。
「さてと……」
腕にはめたデジタル時計は、十七時を浮かび上がらせている。
和弘との待ち合わせ、十七時半だったな。
本社のある駅までは、ここから二十分ほど。
そろそろ出なきゃ……
既に戸締りは終わっている。
俺は傍らにあった上着に手を伸ばした。
目の前に座る奏は、時間が来たことに気がついたのか俺が言葉を発する前に立ち上がった。
「ごめんね、奏。付き合ってもらって」
鞄を持って玄関に歩き出す彼女の、後ろからついていく。
「いや、いい暇つぶしになった」
玄関のドアを開けると、そのまま奏は自分の部屋の鍵を開けた。
俺はその音を聞きながら黒田んちの鍵を閉めて、振り返る。
奏は開いたドアの中に、入っていくところだった。
「じゃね、奏。いってきますー」
ぴらぴらと手を振ると、奏の目線が地面に落とされる。
「? 奏?」
歩き出そうとしていた足を止めて彼女の方に向き直ると、奏は気づいたように慌てて顔を上げた。
「気をつけてな」
そのまま、ドアは閉まった。
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