おばちゃん
おばちゃんが亡くなって、初めての夏。私たちはおばちゃんの初盆のお参りをするため、島に渡る船に乗っていた。
ものごころついた頃から、夏が来るたび、こうして幾度となく島に向かったものだ。母と私と妹、そして、私と妹にそれぞれ娘が生まれてからは、子供たちも連れて。
海のない土地で暮らす私たちは、この船に乗るのがうれしくて、島が見えてくるのを心待ちにしながら、デッキで潮風を楽しんだものだった。でも、今日船上で過ごす時間は、今までと全く違う。浮かれた気持ちには、もちろんならなかった。
「よう来たのう。楽しみにしすぎて、首がなぁごうなって、また元に戻ったわ。」
おどけて子供たちを迎えてくれたおばちゃんの言葉を、もう聞くことはできない。そのことが、周りの風景を変えていた。海を渡っている風も、水面に反射する光も、変わってはいないはずなのに。
めったに会えない人の死を受け入れるのは難しい。今まで通り、会えないだけで、そこに行けばまた、いつものように笑っていてくれる。そんな気がしてしまうのだ。
おばちゃんがいない島に行くのは、今回が初めて。私にとって今日は、おばちゃんが本当にいなくなってしまったことを確かめに行く日のような気がしていた。それを認める心の準備をしながら、私は船室に座っていた。
おばちゃんは母の姉。私たちが住む広島県の隣、岡山県の笠岡市から船で約一時間の北木島にお嫁に行って、そこで生涯を過ごした。
共働きだった私の両親は、幼いころの私と妹を、毎年夏休みになると、おばちゃん夫婦にあずけていた。私は事情もわからず、夏休みになると島に泊まりに行けることが、楽しみでたまらなかった。北木島は、私にとって、夏になると帰りたくなる、ふるさとのような場所になっていた。
おばちゃんの家は石工場を営んでいた。おばちゃんの五人の子供たちは、当時みんな成人するかしないかだったから、やっと子育ても一段落した頃だったろう。そんなとき、わが子よりずっと手のかかる、わがままな私たちが、毎年家をひっかきまわしに行っていたのだ。その頃は考えもしなかったが、きっと大変だったはずだ。
おばちゃんは毎日、浜まで泳ぎに連れて行ってくれた。日傘をさして、私たちが溺れないように、そばでずっと見守ってくれていた。少し体重のあるおばちゃんが、長い時間立っていることは、水遊びをしている私たちよりも、はるかに疲れたに違いない。同じ年頃になってみて、それがやっとわかる。
近所の子供と喧嘩をしたこともある。わが子のしたことでもないのに、おばちゃんが頭を下げてくれたこともあったと思う。おばちゃんには、いろいろ迷惑をかけた。
私が高校生のころ片親になり、それ以来、母が女手一つで私たちを育ててくれた。そんな大変な時代も、おばちゃんは私たちを心配し、支えてくれた。おばちゃんは、母の次にお世話になった人だ。
おばちゃんは、「周りの人に、感謝しなさい」と教えてくれた。さんざん私たちに迷惑をかけ、やっと所帯を分けた父親にまで、そこまで育ててくれたことに感謝するようにと言った。父親を憎んでいた私は、その時は反発を感じ、黙っていたように思う。けれど、年を重ねると、少しずついろんなことが許せてくる。まだ父親に感謝することはできないけれど、もっと年をとれば、そんなことができる日が来るのかもしれない。
おばちゃんの家には、いつもたくさんの人が集まっていた。私と妹以外にも、甥や姪がよく泊まりに来ていたし、大学生になったいとこが、泊まりこみで石工場のアルバイトをしていたこともあった。おじちゃんも、来るものはすべて受け入れてくれた。器の大きい夫婦だった。
おじちゃんは、十数年前、癌で亡くなった。この頃、おばちゃんたちには孫が十五人、ひ孫も数人いて、もちろん、私たち、お世話になった甥や姪もかけつけたから、お葬式に集まった親戚の数はすごいものだった。
おじちゃんがいなくなって、おばちゃんは寂しそうにはしていたけれど、それでも八十の声を聞くころまで、病気ひとつせず、元気でいてくれた。ところが、一昨年の末、突然脳梗塞で入院。その知らせを受け、私たちは、遠い病院を地図で探し、お見舞いに出かけた。
何度も道に迷い、たどり着いたのは、行くと言っていた時間より二、三時間も過ぎたころ。このとき、まだしっかりしていたおばちゃんは、
「危篤じゃいうて連絡したら、骨になったごろ着くわいの。」
と、いつもの穏やかな口調で冗談を言いながら、私たちを待っていてくれた。意外に元気そうで、これならきっと良くなるだろうと、ちょっと安心して病院を後にした。
ところが、事態はそんなに簡単なものではなかった。近しい人たちのほとんどが住んでいる笠岡から、かなり離れた病院での生活。いつも人に囲まれていたおばちゃんには、その寂しさが耐えられなかったらしい。入院が長くなると、うつ病の症状が出始め、痴呆が始まり、坂を転げ落ちるように、おばちゃんの状態は悪くなった。そんな様子を聞きながらも、遠いことを言い訳に、私たちは二度目のお見舞いに行くことができなかった。
一度は退院して、笠岡の娘のところで養生していたのだけれど、人が変わったようにわがままで意地悪な言葉を周りに投げつけ、面倒を見る人を困らせていたらしい。あの穏やかなおばちゃんの、どこにそんな人が隠れていたんだろう。次の冬が来て、風邪をこじらせたおばちゃんは、もう一度入院することになった。
最初の入院の時とは違い、おばちゃんは見ている人も辛くなるくらい、苦しそうだった。酸素マスクをつけ、体中で息をしている。
「しんでぇよう、しんでぇよう・・・」
時々うなされるように言う。私たちが来ていることは分かっているようだけれど、
「しんでぇけえ、もうええわ! 帰れ。」
おばちゃんが投げつけるように言った。人が変わっていると聞いていたし、今のおばちゃんに、人を気遣う余裕なんてないのもわかる。冷たい言葉に驚きもせず、
「うん。じゃあ、また来るね。」
と病室を出ようとした。そのとき、あの状態でどこからふりしぼったのかというほど大きな声で、
「ありがとう! ありがとう!」
おばちゃんが何度も叫んでいた。やっぱり、おばちゃんだ。人に感謝することを、私に教えてくれたおばちゃんだ。どんな状態になっても、あのおばちゃんが消えてしまうことはない。
「もう元気になって帰ることはないかもしれんよ。」
おばちゃんの娘のまぁ姉ちゃんが、ロビーで私たちにそう告げた。でも、まだそうと決まったわけではない。望みがある限り、みんながその可能性を信じている。詳しい病状を聞いていると、病室にいたおばちゃんの長男、かっくんが呼びにきた。
「もう会えんかもしれんけぇ、やっぱり帰るなようる。」
私たちは、もう一度病室に戻った。
おばちゃんは、顔をゆがめて、肩で息をしながら眠っていた。その姿を見ているのも辛かったけど、おばちゃんが望むのなら、そばにいてあげたい。私たちは、しばらくその姿を見守っていた。一時間くらいいたかもしれない。その間、おばちゃんはずっと眠ったままだったので、その日は帰ることにした。
今回の病院は笠岡で、わかりやすい場所にあった。私たちは週末ごとに、おばちゃんに会いに行った。今さらそんなことをしたって、何の恩返しもできないことはわかっていたけど、今まで会えなかった分、少しでも長い時間、おばちゃんと過ごしたかった。
いつお見舞いに行っても、今度はいつも誰かがいた。ここなら、おばちゃんが寂しがることはない。
おばちゃんは、私たちのことがわかる日もあったし、わからない日もあった。酸素マスクの下で、必死に何かを話してくれるのだけど、聞き取れなくて、情けない思いをすることもあった。少し体調がいい日には、まるで私たちの母のような、憎まれ口をたたくことも。でも帰る時には、必ず
「ありがとう。」
と言って送り出してくれた。
一日中マラソンをしているような苦しさに耐え、息をすることだけに全精力をそそぎ、おばちゃんは何か月も頑張った。そして、あたたかくなったころ、おばちゃんは少し良くなった。
最後にお見舞いに行った時には、呼吸が少し楽そうで、もしかしたら退院できるんじゃないかと期待した。
「まだ、お迎えは来んわ。」
おばちゃん自身も、もう大丈夫だと私たちに言った。だけど、それが私たちの聞いた、おばちゃんの最後の言葉になる。五月、おばちゃんは亡くなった。
生を受けたからには、いつか必ず来るのがわかっているその日。だけど、考えたくなかったその日。おばちゃんはおだやかな顔で、眠っていた。
松の木が何本かあるだけで、その重さで沈んでしまいそうな小さい島が見えると、船は豊浦港に着く。フェリーを降りると、私たちはいつもの道を歩いて、おばちゃんの家に向かった。
「遠くから、よう来てくれたねぇ。」
ガラスの引き戸の玄関で迎えてくれたのは、かっくんのお嫁さん。当たり前のことだけれど、やっぱり、おばちゃんはいない。
お盆は毎年、おばちゃんの子供や孫、そして孫がそれぞれ連れてくるひ孫たちでごった返している。ましてやおばちゃんの初盆だから、私たちは遠慮しようと、一日遅らせて来たのだけれど、今日は全くお客さんがいない。
「昨日までたくさん人が来とったんじゃけどねぇ。」
お嫁さんが言った。いつもにぎやかな家なのに、一日ずらしただけで、こんなことも珍しい。
仏壇に手を合わせ、そのあと、お墓に参らせてもらうことにした。おじちゃんのお墓参りに来ていたから、場所は知っているけれど、
「今日は二回目じゃ。」
と言いながら、かっくんもついて来てくれた。
お墓はそう遠くない場所にある。だけど、急な坂を登らないといけなかった。七十になった母は、少ししんどそうにしながら、急な石段をゆっくりと登っていく。それを励ましながら、子供たちも一緒に登った。木の枝がトンネルのようになったところを抜け、開けた場所に出ると、たくさんのお墓が見えてくる。その中の一区画が、おばちゃんの家のお墓だ。
おじちゃんのために手を合わせていたお墓に、今日はおばちゃんのためにお線香をあげる。仲の良かったおじちゃんと同じお墓の中に、今、おばちゃんはいるのだ。まだ実感はわかないけれど、頭では理解している。
「今、お母さんのもの、整理しょうるんよ。何か形見になるもんがあったら、持って帰ってね。」
お墓から帰ると、お嫁さんが言ってくれた。
「ありがとう。」
実は今日、もしもらえるなら、こちらからお願いしてみようと思っていたものがあった。
「おばちゃんが、キーホルダーをたくさん入れた引出しを見せてくれたことがあったんじゃけど、その中のキーホルダー、いくつかもらってもいいかな。」
おばちゃんはキーホルダーを集めるのが好きだった。
「こうやって土地の名前が入っとったら、見ただけで、どこへ行ったんかわかるじゃろう? じゃけえ、どっかへ行ったら、いつもこういうのを買うんよ。ときどき引出しをゆすって、ジャラジャラいうのが楽しみなんよ。」
おばちゃんはそう言って、引出しを左右に振って見せてくれた。だから私も、ちょっとした旅行をするたび、おばちゃんに地名の入ったキーホルダーを買って帰るようにしていた。
おばちゃんが六十を越えたころから、母と私と妹はおばちゃんを誘い、ときどき一緒に旅行をしていた。その時にも、おばちゃんは、行く先々でキーホルダーを買っていたと思う。私たちがおばちゃんと共有した思い出で、形に残っているのは、旅行の写真と、そのキーホルダーたちだけだ。そのままずっと引出しに入っていたら、家に残された人たちには、意味のわからない、ガラクタになってしまうかもしれない。私たちとの思い出は、私たちが預かって帰るのがいいような気がした。
かっくんとおばちゃんの部屋に行き、昔見せてもらったときの記憶を頼りに、その引出しを探した。
「これか?・・・違うのう。こっちか・・・あぁ、これじゃろう。」
押し入れの中に、その箱型の、持ち運びができる引出しはあった。みんなのいる部屋に持っていき、引出しを開けてみる。三段ある引出しは、どれもキーホルダーでいっぱいだった。ほとんどが、買った時の袋に入ったままになっている。おばちゃんがそれらをどれだけ大事にしていたか、よくわかった。
『笑子がくれた 尾道』おばちゃんの字で書いた袋が目に入る。たぶんこれは、私がお土産に渡したものだ。私の名前は「恵美子」と書いて「えみこ」なのだけれど、おばちゃんはお年玉の袋にも、いつも「笑子」と書いてくれていた。おばちゃんは私の名前をその漢字だと思い込んでいたのだろう。でも、それを見るたび、笑顔の少ない私に、おばちゃんが『笑いなさいよ』と言ってくれてるみたいな気がした。だから私は、あえて間違いを指摘せず、いつもそのまま受け取っていた。
「これは、私がもらうね。」
私は、一番にそれを、自分のカバンにしまった。
これはあのときのお土産、これは一緒に旅行したときの、と、思い出を語りながら、母と私と妹でキーホルダーを分けていく。最初は遠慮がちにカバンに入れていたけれど、
「一緒に行ったときのは、全部持って帰りゃいいが。」
そう言われて、それもそうだと思った。私たちとおばちゃんとの思い出を欲しがる人なんて、他にはいない。
ひとつひとつ、袋に入ったキーホルダーを確かめながら引出しから出していくと、底から紙の袋が出てきた。中を見ると、一緒に青森と北海道を旅行したときの遊覧船のチケットや、記念館のパンフレットなど、細々したものがたくさん入っていた。
「おばちゃん、全部大事にとっといてくれたんじゃね。」
と妹。私たちが思っていた以上に、おばちゃんは私たちとの行った旅の思い出を、大切にしてくれていたのだ。その袋も、私たちが持って帰ることにした。
私と母と妹は、三人とも気が強く、よく一緒に行動するくせに、すぐ喧嘩になる。おばちゃんとの旅行中も同じだった。三人のうち誰か二人が喧嘩をし、空気が悪くなると、おばちゃんが和ませてくれて、楽しく旅行が続けられていた。
旅行中、駐車場で、よその旅行者とトラブルになりそうだったときも、
「相手にするな。もう車を出せ。」
穏やかな声で、後部座席からおばちゃんが言った。その通りだ。せっかくの楽しい旅行で、わざわざこんな不愉快な思いをしなくてもいい。私はそれ以上何も言わず、車を出した。
私たちと同じ血が流れるおばちゃんが、生まれつき穏やかな性格だったとは、私は思っていない。考えてみれば、子供の頃には、わが子や私たち姪や甥を叱るとき、うちの母ばりのきつい言葉がよく飛んでいた。そんなおばちゃんが晩年穏やかに見えたのは、おばちゃんの上手な生き方によるものだったのではないかと思う。
おばちゃんはきっと、腹が立つことがあっても、見ないようにし、聞かないようにして、波風を立てずに生きることを選んできたのだろう。狭い島で一生を終えるために、それは必要な知恵だったのかもしれない。
自分が我慢することで、周りがうまくいくならそれでいい。そうやって内に溜めてきたものが、病気になってあふれ出し、わがまま放題になったのなら納得がいく。病院でのおばちゃんの言動は、私の母にそっくりだったから。同じような性質で生まれても、どう生きるかで、人生は大きく違ったものになるのだ。
旅の話をしながら、ひととおり引出しを見終わると、キーホルダーは、ほとんど私たちのカバンの中にあった。おばちゃんと一緒に旅行に行っていたのは、私たちだけだったらしい。
「子どもら、昼から海で泳がせてやればいいが。」
言ってもらったけれど、今日はそんなつもりで来てないから、と、帰りの船の時間を聞く。港までは近いから、十五分も前に出れば充分だ。もう少し時間があったので、ちょっとゆっくりさせてもらって、私たちはおばちゃんの写真にさよならを告げた。
港まで、かっくんが見送りに来てくれた。島に住んでいるまぁ姉ちゃんも、キーホルダーを分けているときから来てくれていて、一緒に港にいた。
おばちゃんがいたときから、帰る時には、いつもこうして見送りをしてもらっていた。その時おばちゃんの家に遊びに来ている子供や孫がいれば、みんなで来てくれるのだ。船が出てから見えなくなるまで、デッキにいる私たちに、ずっと手を振り続けてくれる。この瞬間、いつも胸がしめつけられる。島を去るのは、いつだって名残惜しかった。時には涙が出たこともある。おばちゃんがいなくなっても、この時間は変わらない。
ふたりの姿が見えなくなるまで手を振って、私たちはデッキの椅子に座った。子供たちは、お盆の間だけサービスでやっているというスーパーボールすくいに熱中。その声をかき消す船のエンジン音をBGMに、私は自分の中のおばちゃんの存在について、ぼんやりと考えていた。
おばちゃんはやはり、もうこの世には存在しないことを、今日はっきりと確かめてきた。
人がひとり生きて、そして、いなくなるって、どういうことだろう。おばちゃんという、ひとりの人間がいたことは確かで、そのおばちゃんがいなくなったことで、いろんなことが変わった。めったに会わない私がそう感じるくらいだから、身近で過ごしていた人は、私たち以上に、もっともっとそんな風に感じているはずだ。
五人の子供を育て上げ、甥や姪の面倒を見、孫を慈しみ、十人以上のひ孫と出会い、おばちゃんの一生は終わった。人を育てることに徹した、実りのある人生だった。
いくらかの写真と、このキーホルダー。形のあるものとして、私たちのもとに残った、おばちゃんが存在していた証は、これだけ。そして、これだって、私たちがいなくなったら、なんだかわからないものとして、捨てられてしまうだろう。
歴史上の人物のように、語り継がれるでもなく、綴られるでもなく、こうして人の一生は終わっていく。何の形にも残らなくても、おばちゃんとの記憶を持った私たちが、こうやっておばちゃんを語ることで、おばちゃんが存在していたことを確かめる。
私たちがおばちゃんと同じように、いつか人生を閉じたとき、私たちの存在と一緒に、おばちゃんの記憶も消えてしまうけど、今度は私たちが生きていた記憶が、誰かの中に残っていくのだろう。
おばちゃんに教えてもらったことが私たちの中に残り、それがまた、次の代に伝わっていく。そんなふうにしてしか、おばちゃんの存在を残していく方法を、私は思いつかない。
私も四十代半ばになり、人生の折り返し地点を過ぎた。若い頃のように無理もきかなくなって、ひとりで育てている娘が自立するまで元気で働き続けることにさえ、少し不安を感じ始めている。自分と娘のことだけで手いっぱい。一日一日をなんとか過ごすだけの毎日だ。
ちょうど今の私くらいの年齢のとき、おばちゃんは自分の子供たちだけでなく、私や妹、そのほかにもたくさんの甥や姪を引き受けていた。年を重ねても、孫、ひ孫と、おばちゃんの家には、いつも人がいっぱい集まっていた。
「家いうのは、人がたくさん来るようじゃないといけんのんよ。」
いつかおばちゃんが言っていた。そんなおばちゃんを見て大人になったのに、今の私の生活はなんだろう。仕事で帰りが遅いのを言い訳に、足の踏み場もない部屋。たまに人が訪ねて来ようものなら、大慌てで座るスペースをあける。散らかった部屋を見せられるほど親しくない人なら、玄関先で立ち話をしてお帰りいただくというありさま。おばちゃんに教えてもらったことが、全く身についていない。
「料理はこうやって、ときどき味見をしながら作るんよ。」
と、一緒に台所に立たせてもらったこともあるのに、味見以前に、忙しさにかまけて、まともな料理を作っていない。
でも、いくらか、おばちゃんから学んだことが、自分の中に浸透していると感じることがある。
まずひとつは、人に感謝をすること。最後までありがとうの言葉を忘れなかったおばちゃんの教えは、私の娘にもちゃんと受け継がれている。
もうひとつは、けんかっ早かった私が、人との口論を避け、調和を最優先するようになったこと。職場ではできるようになったけれど、家族の間ではまだまだなので、孫ができる頃を目標に頑張りたい。
近ごろ、「おばちゃん」なんて言葉が似合う人が少なくなってきた。できればそう呼ばれたくないというのが、最近の文化なのかもしれない。
だけど私は、この「おばちゃん」という言葉が大好きだ。「おばちゃん」という言葉には、私が一生かかっても手に入れられそうにない、器の大きさが感じられるのだ。
私にとっての北木のおばちゃんのように、身近な「おばちゃん」に助けられ、育てられている人は、たくさんいるだろう。こんな「おばちゃん」の存在が消えてしまうのはさびしすぎる。
おばちゃんが「おばちゃん」してたのと同じ年代になっても、私には「おばちゃん」と呼ばれるような風格は全くない。できることならいつか、私も「おばちゃん」という呼び名が似合う人になりたい。今はまだ、おばちゃんの足元にもおよばないけれど、少しずつおばちゃんの足跡をたどってみたいと思う。
とりとめもないことを考えているうち、船は笠岡に着いた。これから一時間半の自動車の旅を終えると、私は日常に戻る。そこにもおばちゃんはいないけれど、おばちゃんの記憶を持った私たちが、それぞれの日々を生きていく。