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1・蒼い目の鴉
 高層のマンションの十五階の南側の端の区画にあるベランダの手すりに、一羽の鴉が止まった。 その鴉は中を窺うように首を上下させる。 その鴉が他の鴉と徹底的に違うのは目が深い海のように蒼いからだ。

 しかし、違うのはそれだけじゃない……。


「とうとう、やっちゃった」
 なぜか俯瞰ふかんした構図で葵は、自分が死に行く様を他人のように眺めていた。
 浴槽の脇に崩れるように倒れているスウエット姿。 左手はその浴槽の縁まで溜められている水の中にあった。 そこから流れる朱赤の液体が水に溶けるのを拒むように浸けられた手の周りを縁取って広がる。 まるでその主のように――周りから拒絶されている、葵がそう感じ始めたのはいつの頃からだろうか。
 兄と同じ中学の受験に失敗して地元の公立中学に通うようになった時か……それともレベルが落ちる別の中学の合格通知を親の前でちぎって捨てたあの日からだったか。 いや、もっと前からかもしれない。
 あれから三年、自分なりに見返してやろうと頑張ったはずだった。 いや、頑張ったのだ。
 しかし、頑張れば夢は叶うなんて現実はそう甘くない。


 中学三年生の十一月にもなると高校をどこにするのか、そろそろ本格的に決めようという頃だ。 そして、何回目かの三者懇談の日。
「澤田、そこそこできるんだから公立を一つは受けないか。私立専願と言ったってここはレベルが高すぎるよ。先生は勧められない」
 担任が何枚もの書類を交互に見ながら口にした言葉に葵は苛立つ。
 ――先生、そこに入れないわたしなんてどこにも居場所なんてないんだよ。 葵は胸の内で先生に訴えるが、口は堅く引き結ばれていた。
「やはり、ここは無理ですか、そうですよね。わたしも主人も塾の先生もそう言うんですけどこの子聞かなくて」
 ――お母さん、そんな大きな溜息をつかないでよ、と葵はちらりと母親を見る。
「自分も主人も勉強だけは出来たんですよ、運動のほうはまあ見られたもんじゃないんですけど。この子の兄もねえ、わりとするっと希望の学校へ入れたものですから……。小さい頃からあまり勉強、勉強と言わなすぎたんでしょうかねえ、先生?」
「いやお母さん、決して成績が悪いわけじゃないんですよ。希望の学校のレベルが高過ぎるだけで」
 延々としゃべる母親の横で葵は懸命に吐き気をこらえていた。 この会話、この場所、すべてに吐き気を覚える。
 そして――奇跡は起こらない。 やはり合格通知は来なかった。 それからの長い長い春休み。 泣いて頼まれて受けた公立の二次募集の試験を受けたが……葵はそれきり部屋から出なくなった。


 そして初夏の爽やかな風が吹く季節になる――じめじめする六月は嫌だな、じめじめするのは自分だけでいい。 それくらいの気持ちで日にちを決めた。 それが今日だった。 弁護士である母親の帰宅は、今日も遅いだろう。 弁護士事務所を、共同経営している父親もたぶん同じ。 その間にすべて終わっているはずだ。
「死ぬのって結構時間がかかるんだ」
 葵がそう、呟いたすぐ後に玄関を開ける音が聞こえた。
「あの書類どこに置いたかしら。出かける前だからリビングだわね、きっと」
 ぱたぱたとスリッパの音が近くなり、ぱたりと止まる。
「葵、シャワーでも浴びているの? 朝ご飯食べた?」
 母親の傷口に触れないように。 そこにそっと消毒をしようとするみたいな、気遣うような声が聞こえる。 しかし、どこに傷があるのかなんてこの人は知らない。
「――葵、戸が開けっ放しよ、水が外に漏れるから母さん閉めていい?」
 浴室の折り戸を閉めようと扉に手をかけた母親の動きが止まり、掠れたような声が上がった。
「あ、葵、あおい、あおい、しっかりしなさい。た、大変だわ、お父さんに電話しなきゃあ。そうだ、圭にも連絡しなきゃあ」
 何で救急車じゃないんだよ、この人は。 葵は軽く溜息をついて慌てふためく母親を眺める。 こんなに容易くパニックに陥る人だったっけ?
「母さん、葵がどうしたって?」
 しばらくして現れたのは大学生の兄だった。 そして浴室を指差す母親を一瞥して中に入る。
「葵、大変だ。何やってるの母さん、救急車呼んで、早くっ。なんで葵をそのままにしとくんだよ、手からの出血を止めなきゃあ」
 葵の体を抱いた圭が動転して浴室の前に立っている母親を突き飛ばすようにしてリビングに運ぶ。 辺りを見回して手近に適当な物がないと見るや、葵の履いていたスウエットのズボンから紐を引き抜いて傷口から心臓に近いほうを縛った。
「母さん、電話した?」
「ああ……今、したわ」
「どれぐらい経ってしまったんだろう。おい、葵目を開けろ」
「あたしのせいなんだわ、葵がこんな事になったのは。そうでしょ、ねえ、圭」
 縋りつく母親を引き剥がして圭がきびしい声を出す。
「今はそんな事どうだっていいよ、毛布持ってきてよ。体が濡れて冷たいんだ、わかる? 母さん、今は自分の気持ちなんて置いておけよ。葵が死ぬかもしれないんだぞ、あんたの気持ちなんて知らねえよ」
 こんな頼りになる奴だったんだ、圭。 いつもすましててわたしの事見下してるか、それとも眼中に無いのかと思っていた出来の良い兄の姿。 ちくりと痛むのはわたしの体じゃなく心の方か。 葵はそっと胸をおさえた。


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