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白兎の娘と、黒猫

作者:髙橋祐貴斗
月宮家の坊ちゃんが、屋敷の蔵に少女を一人飼っているっていう話は知っていたさ。

あそこの家は金持ちのわりに結構変な家で、大旦那が奥さんを亡くして以来、人買いから若い娘を買っては捨てているのは、近隣でも有名な話だからね。
うまく取り入って、妾にでもなれれば、一生食う物には困らないだろう。だけど、毎夜のように響く悲鳴を聞けば、そこに売られたいなんて娘はいないだろうけど。

だから、月宮の家に人買いの商人が、俯いて顔を頭巾で隠す娘を一人連れて入って行ったのを見かけても、ああまたかと思っただけだった。それくらいには慣れてる。この辺の住人も、おいらたちも。お金持ちの人間の考えることは、よくわからんもんさ。

だけど、そのあと、ひそひそとこれまでにはなかった噂が、囁かれるようになった。
この娘を買ったのは、大旦那じゃなくて坊ちゃんなんだと。

大旦那の良くない趣味は皆知ってるものだったが、そこの坊ちゃんにはとんと妙な話は聞かないものだった。
お屋敷で働く人間は、聡明で落ち着いたぼっちゃんだと言うけど、あんまり外に出てくることもないし。このあたりじゃ、誰に聞いても、大人しく、やや小柄で、大旦那の陰で淡々としてる印象ぐらいしかないんじゃないかな。

そのぼっちゃんが、高い天窓しかない空き蔵の中を屋敷の中のように設え、娘にそれまでの名を捨てさせて、花蝶という名を与えたとか。

どうしてそんな名にしたのかと問えば、坊ちゃんはにこりと微笑んで「深窓の娘は蝶よ花よと愛でるのだろう?」と答えたとかなんとかで、あぁ、やはり血は争えないもんだと、そんな話を聞いた。

ろくに日の射さない蔵の中に、女の子が一人きり。そのうちまた、無縁仏を引き取りに坊主が入っていくのも遠くないだろう、ってね。


そうなる前に、その女の子を見てみたいと思ったんだ。

その子の住む蔵は、月宮の敷地のやや奥まった橋の方にあって、見た目は本当にただの蔵だったよ。白い土壁に、閂のかかった大きな扉、屋根に近い上の方に明かり取りの小窓があって、中から歌をうたう声が聞こえなければ、それだとわからなかった。

ん?おいら?昔は結構小さかったし、身が軽いからさ、ちょっと目を盗んで、ひょひょいと屋敷の塀を超えて、蔵の近くの背の高い木に登ってきょろきょろしてたんだ。屋敷の人間にバレやしなかったよ。
ほら、おいらは、こんななりだからすぐにわかるけどさ、生まれついてこの方、家も無けりゃ身寄りもない、ただの根無し草なんだ。人の目を盗んで、どこかに忍び込んだり、物を取ったりなんてお手の物なわけ。

日ごろは店先から食べ物をくすねて、夜はあったかい場所を探して丸くなって眠るような生活しかしたことないから、蔵の中を覗いた時は腰を抜かしたよ。

光を反射して輝く白髪に、抜けるような白い肌、瞳は血のように赤かったんだ。髪も肌も真っ白で、瞳だけが血のように赤い、まるで童女がつくる雪兎みたいじゃないか。

「そこにいるのは、だれ?」

格子の嵌った小窓じゃ、おいらの姿はよく見えなかったらしい。逆光に目を細めて、作り物のお人形さんのような少女が問う。

真白の娘は、そりゃあ大事に大事に飼われていた。
床には畳が敷かれ、壁には本棚、燭台に文机、蔵の中に部屋が仕切られて、家の中とほとんど大差ない作りになっていた。屋根裏は半分が二階になっていて、階段が掛けられて、簡単な倉庫になっていた。そこにいくつもの葛籠が重ねてあったから、衣類にも困っちゃいないだろうね。

その中に、季節の柄をした、質の良い着物を着ていた娘が、ポツンと座っていた。
「雪兎みたいだ」
こちらの気配を察して見上げた瞳が、血のように真っ赤で、最初は言葉が出なかった。

「え?」

今なら、もっと気の利いた事が言えるのに、おいらは馬鹿正直に答えたんだ。

「おいら、あんたを見に来たんだ」



その日、外の世界から空色が落ちてきた。

天井裏に近い窓の外から、声がしたような気して、思わず日光の降り注ぐ窓を見上げた。
「そこにいるのは、だあれ?」
にい、にいと赤子のような鳴き声が聞こえてきて、どうやら、蔵の外にある木に子猫が登って、降りられなくなったらしい。

屋根裏へと続く階段は、階段というより梯子に近いような急な角度で、足場も狭い。登るのはためらわれて、しばし悩んだ隙に、子猫は声のするほう……蔵の中へ向かって飛び出してしまった。

あ、と思わず息を飲んだが、黒いしなやかな影は窓の桟に足をかけ、器用に格子の隙間から頭を押し込んだ。しかし、後ろ足は宙をかいたらしく、蔵の中に突っ込んだ上半身がずるずると落ちていく。あぶない、と思って慌てて階段を上ったが、それより早く黒猫の後ろ足が壁を捉えた。

バタバタともがきながら黒猫が窓から滑り込んだは良かったが、態勢を整えられなかった猫は頭から蔵の中へ落ちてくることになった。思わず両手を差し出したが、抱え込む前に黒猫は差し出した腕を蹴って、階段の方へ飛び出してしまう。

「だめ」

身をよじった変な体制のまま、着地に失敗した黒猫は階段を滑り落ちて、床の上で情けない声をあげた。大変。大丈夫かしら。

後を追って階段を下り、駆けよった猫は思っていたよりも大きい。もしかしたら子猫でもないのかもしれない。人慣れしていないのか、警戒して立ち上がろうとしたところで、かくん、と前足から崩れ落ちた。
痛めたのであろう前の右足を庇いつつ、黒猫は警戒した瞳で私を見上げる。

蒼、だ。

先程までは、まぶしくてよく見えなかったのだが、猫は蒼い瞳をしていた。私とはまるで逆の色彩。
その日から、黒猫が一匹、私の同居人となった。



おいら正直、ヘマこいたなって、焦ってたんだ。
登っていた木の下から、屋敷の人間の声がして、逃げる時間も隠れる場所もなくってさ。

咄嗟に向かいの蔵へ逃げ込もうとしたはいいものの、格子をすり抜けるときにうまく窓枠に乗れなくて、頭から落ちちまってさ。咄嗟に手をついたものの、いつもと違う嫌な痛みでさ。
立ち上がるのにも激痛で、おいらは情けなくも雪兎の嬢ちゃんに抱えあげられる羽目になった。

「怪我をしたのね。暴れないで」

雪兎の嬢ちゃんは、おいらを邪険にしなかった。おいらの色を見て、不吉だとか死神だとか、石を投げる人間はたくさんいたから、ちょっとびっくりしたな。

「足を動かしてはダメよ」

痛めたところに添え木をして、細く切ったさらしを巻いて固定し、嬢ちゃんは困ったように周囲を見回した。

「ごめんね。今食べられるものはないから、ちょっと待ってね」

すっと立ち上がると、油皿に水を注いで持ってきた。毒でも入ってるかと思ったけど、揺れる水に嫌な臭いもしなかったし、喉が渇いてたからほんの少し舐めてみたら、雪兎の嬢ちゃんはすごく喜んだ。

それ以来、その油皿がおいら専用の食器になった。




足が治るまでのしばらく、嬢ちゃんとの生活は穏やかだった。

食事を分けてもらって、寝そべって嬢ちゃんの歌を聞いて、手毬を転がして遊んで……あんまり動きすぎると怒られるんだけどさ。
そうやって数日過ぎるうちに、嬢ちゃんの生活が見えてきた。

朝は決まった時間に起きて、一日三度、蔵の外から食事が運ばれてくる。食事の受渡しは、扉についた小窓から。昼間は、あまり日の差さない蔵の影で、蝋燭を灯して書物を読み、歌を歌う。外から鍵がかかっているから、自ら外に出ることはできないけれど、日が落ちると外に案内されて湯あみをしてくる。時々、嫌がるおいらを連れて行かれたから、少し離れにある湯殿もみたよ。

暴れるおいらを湯につけて、あら、男の子だったのねと笑われたときは、これ以上の屈辱は無いって思ったさ。水は嫌いなんだ。

そんな生活に、変だな、と思い始めたのが数日経ってからだったかな。
嬢ちゃんを買ったというぼっちゃんが、全く来ないことに気づいたんだ。
蔵に閉じ込めて、食事を与え、衣類を与え、書や手慰みの工芸品を与えて、でも、ぼっちゃん自身は一度も姿を現さないんだ。

嬢ちゃんは、そんな待遇の良い囚人みたいな生活を、ただ受け入れて生活している。ただ、時折、光の差す小窓を眩しそうに眺めていた。
そんな時は、おいらがじっと嬢ちゃんを見上げると、おいらの瞳をのぞき込んで、ほんの少し、寂し気に笑うんだ。

「あなたは、外の空気がするのね」

って、そう言って。
だからさ、おいら、嬢ちゃんは外に出たいんだと思ったんだ。一緒に過ごす時間が、ひと月、ふた月とながくなって、おいらの足もだんだん良くなってきた。

だって、どう考えても窮屈だろ?こんな蔵の中で、生きていくなんてさ。ぼっちゃんが何を考えてるか知らないけど、人目を避けて行動するのはお手の物だから、きっと簡単にいくと思ったんだ。
おいらも、この優しい嬢ちゃんに同情しちまってたし。

だから、天気のいい昼間に、屋敷の人間が昼餉の食器を下げに来たとき、ほんの少し目を盗んで蔵の扉をあけてやったんだ。
おいらが扉から外に出たら、さすがの嬢ちゃんも扉に鍵がかかってないことに気づくだろ?



正午を少し過ぎたあたりから、近隣が少し騒がしいとは思っていた。

筆の手を休めて、ざわめきのする方向を確認する。遠さから、敷地内ではない。だとすればこの近隣になるのだが、父親の所業に慣れ切っているこの周辺の住人が慌てふためくような何かが、そう簡単に起こるものだろうか。女の怨霊が屋敷の周囲を徘徊しているとなれば、そちらのほうがまだ腑に落ちるというものだが、あいにくと今は昼間だ。

月宮の大旦那……つまり私の父親は、数多の財はあるものの、人格者とは程遠い性質をしている。
昔なじみの屋敷の者は、奥方を喪ってからだと同情めいたため息をこぼすけれど、だからといってその所業が許されるとは到底誰も言わないだろう。

人買いから若い娘を買っては、戯れにいたぶり、死ぬか興味を失えば、また新しい娘を買う。
鬼畜のような所業を財力と権力との繋がりを使って繰り返す。破滅と転落を招くような行動を諫める者は、今のところ誰もいない。

「ぼっちゃま、お忙しいところ、誠に申し訳ございません」

バタバタと慌ただしい足音と、部屋の襖があけられる音がした。父親は家を空けているから、どうやら私のところへ指示を仰ぎにきたらしい。

「どうした?」
「お気づきとは思いますが、屋敷の傍で、騒ぎが起こっておりまして」
「ふん」

大した興味はない。適当に生返事をして追い返すつもりであったが、それに構わず屋敷の者は困ったように告げた。


「”ついに月宮の屋敷から、女の怨霊が出てきた”、と」

まさか、と思いつつ、腰を上げる。怨霊には心当たりはないが、そう見えても仕方のない娘になら、ひとつ、心当たりがある。
屋敷の外に出て、そういくばくも歩かぬうちに、騒ぎの中心へとたどり着いた。

捕らえろ!屋敷に入れてはならん!と叫ぶ警護の者。
来ないで、化け物!あたしを呪うのは筋違いだよ!と叫ぶ女。
おびえて泣きながら石を投げる子供。

その中心に座り込む少女は、やはり、予感通りの人物であった。
月宮の所業を見て見ぬふりをする者たちならば、赤い瞳は血のように、白髪は山姥のように、肌は幽鬼のように映るだろう。そう見えても、仕方ない。めったにない色を持つ娘だ。

人垣を割って入り、呆然とした視界に入る位置で立ち止まる。
「光は肌を焼いたかい?視線は矜持を切りつけたかい?君はね、夜にしか、蔵の中でしか生きられぬ蝶なのだよ。それがどうして、日の光を浴びようと思ったんだい。おいで。帰って、爛れる前に薬を塗ってあげよう。自分がそうでしか生きられないと、よくわかっただろう?」
差し伸べた手を、赤い瞳が拒絶する。こんな日差しでは、目を開くことすら苦痛であるだろうに、限界まで見開いた大きな瞳から、涙が一粒落ちて染みをつくる。
「月宮のぼっちゃん。その娘に御用で?」
おそるおそる、といった体で、声をかけてきた男は、私の言葉の意味が分かっていなかったらしい。
「あぁ、これは、私のものだよ。大事にしているのだから、誰かに傷でもつけられたらたまらないな」
父親をまねて薄く笑えば、ひっと情けない声をあげて男は黙り込んだ。あぁ、月宮の名前もこういう時には多少は役に立つな、と頭の隅で考える。
「貴方が、私を、守ってくれていると、知っていました」
擦りむいた掌を握りしめて、彼女は自力で立ち上がる。

「だけど、そんな生き方を、私は」
「自分の命を粗末にしないでくれるかな」

彼女の言葉を遮って、剣呑な言い方になってしまったのは仕方ない。急な運動と、光と人々視線と投げられる石礫と、彼女自身ももう限界だろう。

ふらり、とふらつく彼女の身体を支えようとして、自分の背では抱きとめることもできず、たたらをふむ。
付き人に籠を呼ぶよう指示しながら、自分の幼さが、ほんの少し、憎い。



「花蝶の探していた、黒猫を捕まえてきたよ」

私が蔵を抜け脱して騒ぎになった一週間後。ぼっちゃんは小さな籠に、あの子猫を入れて連れてきた。どうやら、屋敷の者を何人か使って探させたらしい。

「そんなに気に入ってるようだから、首輪と鈴も準備させたよ。私が触ろうとすると暴れたから、これはあとで花蝶がつけてあげるといい」

鞣した革でできた小さな首輪と、音の良く通る金色の鈴。坊ちゃんが手渡ししたものを、呆然と受け取る。

蔵を逃げ出したことを怒らないのか、罰は与えられないのか、それよりもむしろ、わざわざ子猫を探して、首輪を準備させて……そんなふうに、坊ちゃんが私を扱うことがただ不思議でならなかった。

坊ちゃんは、用が済んだら名残も惜しまずに蔵を出て行き、蔵の戸に外から錠が落ちる。それを合図にか、籠の中から黒猫が顔を出す。
蒼い瞳が二つ、キョロキョロと周囲を見渡している。


夜と薄明りの中に生きる私にとって、空色とは見たことの無い自由の色だった。
昼間は日の差さない蔵の中で過ごし、明かりは蔵の小窓と燭台の蝋燭だけ。外に出るのは夜の屋敷を付き人とともに歩くぐらい。私の知っている世界は、闇に包まれた場所か、ゆらゆらと揺れる橙の炎が照らす場所でしかない。そういう生き方をして、もう十年になる。

五つまでは生家にいたけれど、奇怪な見た目をした娘を両親は扱いあぐねていたらしく、その年の実りが少なかったことを理由に私は人買いの手に渡った。私を買った人買いは、月宮の大旦那様の御贔屓で、私の持つ色彩がとても珍しいからと、先物買いで私を買ったのだという。

生まれついて持った、白い肌と白い髪、血のような赤い瞳。野兎のようなこの色彩を見て、鬼か妖怪かと騒がれることはあっても、”商品”であった私に手を出そうとする人間はいなかった。そういう意味では、売られたことで身の安全を手にした私も、売ったことで金銭を得た両親も、珍しい商品を手にした人買いも、だれも損をしない良い取引だった。そう思うことにしている。

年端の行かない童子だった私は、いずれ女になれば月宮の大旦那に買われるためのもの。そうなれば、遠くない将来に、長くはない生を終えるであろう。その哀れみは、誰からともなく理解していた。
だけど、ほんの少しの違いが、私の生を大きく狂わすことになった。私を買ったのは、大旦那ではなく月宮の坊ちゃんだった。

私とそう年の変わらぬであろう坊ちゃんは、物静かな態度に利発そうな瞳をした少年だった。買った商品である私と向かい合って座り、まっすぐにこちらを見て名を問うた。
「名は?」
「ありません」
「じゃあ、君のことを周囲はなんと呼んで区別してたの?」
両親になにかそういった特別な呼称で呼ばれたことはなかった。人買いのところで暮らした数年は、ほかの娘たちと区別するために、私を示す言葉があったため、躊躇いながら口にする。

「……兎、と」

芸がないなぁ、とぼっちゃんは呆れた。そうしてしばらく考えて、私に一つ、名を与えた。

「花蝶。今から君は花蝶だ。いいね」

はい、と表を伏せて、新しい名を受け取る。蝶に花。日の光を浴びて生きることのない私に、なんて皮肉な名前だろう。

ちりり、と鈴がなって、はと物思いにふけっていたことを思い出す。
黒猫は首輪を玩具とでも思ったのか、鈴に向かってじゃれ始めていた。

この子に、名と首輪を与えるということは、きっと。
「首輪をつけて、部屋に閉じ込めて、必要な時だけ構うのが愛だっていうのなら、それは貴方には必要ないものよね」
すとん、と決意が固まって、首輪を片手に立ち上がる。おいで、と黒猫に呼びかけて、屋根裏へと続く階段を上る。

蔵の扉には鍵がかかっているけれど、明り取りの小窓は内側に錠がある。窓の外にはこの子が登っていた大きな木があるから、地面に落ちてまた怪我をすることもないだろう。
夜の星だけが瞬く闇夜に、私の肌と目を焼く光は無い。日頃近づくことすら少ない格子窓はすんなりと空いて、冷えた外気が首を撫でる。
「お行き。あなたはきっと、自由に生きていける」

自由の色を持ったものは、自由に生きるべきだと思う。
黒猫は窓枠に乗って身体を曲げると、一息に枝へと飛び乗って、あっという間に闇に紛れていった。



騒ぎがあってから、ちょうど半年。

天井裏を何かが歩く音で、はた、気づいた。本来ならあるはずのない天井の隙間から、青い瞳が二つ、じっとこちらを見つめていた。どうやら、あれが私に何か用があるらしい。
「やめておけ。おまえと我々とでは生きる世界が違う」
対話をしてやるつもりはない。肌に感じる視線を瞼で遮って、ほんの少し大きな独り言を言うだけだ。
「あれは、日の光の下では生きられぬ娘だ。よしんばおまえと行ったとして、同じようには生きられまい」
かさり、と天井裏の気配が身じろぎする。ほら、やはり。こいつは人の言葉が分かっている。
「あれを買ったのは私だ。それでもほしいというのなら、それ相応の準備をしてくることだな」
ふん、と息をついて、眠るために呼吸を深くする。しばらく、顔の上をじっと見つめてくる視線を感じたが、そう長居もせずに気配は去っていった。


猫は十年経てば人の言葉を解し、十五年経てばモノノ怪となるという。
彼女も、厄介なものに魅入られたものだ。

深い息をついて、上着を羽織って外へ出る。
こんな深夜だ、外には誰もいない。暗いようではあったが、月がないだけで外は晴れ渡っていた。
行く場所は、決まっている。敷地の離れにある、蔵の裏手だ。

花蝶が猫を飼いたいというのなら、そんなことぐらいなら許してやるつもりだった。
だから、今、なんとなく納得がいかないのは、決して嫉妬ではなく、あれがただの猫じゃないと気づいてしまったからに他ならない。

あれが、力のあるモノノ怪だとして、彼女を蔵に閉じ込めている私と、どちらがましかと言われれば、それは明確な判断がつくものでもないのかもしれない。
人ながら、人ならざる姿を持って生まれた娘ならば。人の世は生きにくかろう。
ならば、この私から奪い取れるくらいの力を持ってくれば、考えてやらんでもない。

……なんだ、まるで娘を持った父親のようではないか。

自分の感情の正体が分かって、くつくつを笑い出してしまう。あぁ、そうさ。私は、あの娘を、大事に育ててきた。
生まれ持った姿が異質でも、親に売られても、年端のゆかない子供に飼われても、それでもなお、凛と伸びる背を、生きた輝きをもつ瞳を、私は確かに慈しんでいた。
「そこにいるのは、だれ?」
声を殺していたはずなのに、笑い声が聞こえてしまったらしく、蔵の中から声がする。やはり、起きていたらしい。そして、その問いに、答えるのは自分ではない。蔵の壁に背中を預けて、笑みを消して呼吸を整える。

横目で確認すれば、今まさしく、蔵の隣の大きな木を何かが登って行ったようだ。
「今度は、おいらの言葉はわかるのかい?」
窓から花蝶に声をかけるのは、蒼い瞳をもったなかなかの美丈夫だった。まったく、そんなところまでこちらの神経を逆なでせずとも好いのにと、線の細い自分の身体を見下ろす。
こんなに細い腕では、あの子を抱きあげることもできなかったのに。たぶんあいつは、そんなことも簡単にできてしまうのだろう。
「え?」
「おいら、あんたを迎えにきたんだ」
全く、この私の前で逢瀬なんて、なんて図々し黒猫だろう。そう言ってやりたい気もしたが、それは腹の中にとどめておいた。そうだ、決めるのは、花蝶だ。あの娘を選択を、私は尊重したい。

私が買ったのは、物珍しい標本じゃない。どんな時でも羽ばたきを止めない、美しい生命なのだから。
十六 立ち別れ いなばの山の 峰に生うる まつとし聞かば 今帰りこむ

百人一首アンソロジー さくやこのはな sakuyakonohana.nomaki.jp  

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