緑の瞳
「ねえ、大樹」
「なに?」
ふと美裕がスケッチブックから顔を上げて俺に話し掛けてきた。
「前に……大樹が絵を描くきっかけになった絵があるって、言っていたよね」
「あ、うん」
「その絵、よかったらわたしにも見せてくれないかな?」
「えっ?見たいの?」
「うん。本当は前からちょっと気になっていたの」
「うーん、でもちょっと恥ずかしいかな」
「恥ずかしい?」
「正直に言うとさ、俺、その絵のこと、好きって言うよりも惚れていたんだ」
「惚れていた?」
「ああ。なんていうか、人を好きになるって感じに近い感情をその絵に持ったんだ。そのおかげで俺は辛かったことから立ち直れることができたんだけど……。だからさ、なんていうか、そういうの普通の人っぽくないだろ?絵のことを好きなんて、なんだかかっこ悪い感じがして恥ずかしい」
「そんなことないよ」
「そうかな……。でも、その絵は女の子の絵だし……」
「でも、大樹がそんなに好きになるくらいの絵なんだから、きっとすごく綺麗な絵なんだよね。だったらなおさら見てみたいな」
「うーん、そんなに見たい?」
「うん」
美裕はにこっと笑顔を見せている。そんな顔をされると俺はどんな事も断れない。
まあ、俺の彼女の美裕にだから隠し事はしたくはないし、見られても絵なのだから別に問題になるものでもないから、いいか。
「それじゃ……。えっと、本物は家にあるんだけど、写したものでよければここにあるよ」
「ほんと?」
「ああ、この絵なんだけど……」
俺は上着のポケットから最近ほとんど見なくなってしまったリサの絵を取り出して美裕に見せた。着たきりの制服の上着だ。忘れる事はない。
「そういえば俺も久しぶりにこの絵を見るなぁ……」
「この絵……」
「どうしたの?」
美裕はその絵をじっと見て、遠くを見るように目を細めていた。
「もって、たんだ……」
「えっ?」
「大樹……」
美裕は座っていた俺の正面に立ち、俺をじっと見つめてきた。
「美裕?」
「あのね……」
「なに?」
「やっぱり、わたし、大樹のことを知っていたみたい」
「えっ?知っていた?」
「この絵に描かれている女の子はね……。わたしなの」
「えっ?どういうこと?」
「だって、この絵は、わたしのお父さんが描いたものだもの」
「美裕のお父さんが?」
「うん。ほら、この片隅に『―risa―』って文字が書いてあるよね」
「う、うん……」
この絵の女の子の名前をリサとつけたのはこの文字があったからだ。
「わたしの苗字は霧沢だよね。ローマ字にすると『kirisawa』ってなる」
「ああ」
「お父さんは名前の『ki』と『wa』のところを伸ばした感じにして『―risa―』って銘を打ったの。銘っていうのは自分が描いたってしるしなんだけど……それをね、こんなふうに絵の片隅に書いたの。だから……。これはお父さんが描いた絵なの。そしてこの絵はわたしのお父さんが、小さい頃のわたしをモデルにして描いた絵」
「小さい頃の美裕をモデルにしたって……。でも、この絵の女の子は俺たちと同年齢に見えるよ」
美裕が言っていることが、信じられなくて。
でも、もし、それが本当のことだったら。
「うん……。それはね、お父さんがわたしを見て、わたしの小さい頃亡くなってしまったお母さんと重ねあわせて、未来のわたしを想像したものなんだよ」
「でも、この女の子の瞳……。虹彩は緑だよ」
美裕の瞳を見つめた。
でも、美裕の瞳は髪と同じ漆黒だった。
「……大樹」
「なに?」
「驚かない?」
「うん」
「あのね、それじゃ、見せてあげる。大樹はわたしの彼氏だから」
そう言って、美裕は眼鏡を外して屈み、手で目を触って何かをしていた。
「わたし、本当はいつもコンタクトをしていたの。虹彩の色素が薄いから紫外線を受けやすくて、明るい所にいると眩しくて見られなくなっちゃうから、学校にはしていけないサングラスの代わりのように使っているの。眼鏡は色付きコンタクトだってわからないようにするための伊達眼鏡……」
そう言って、俺のほうを見た美裕の両目は、リサの絵と全く同じ……。
緑色の虹彩を持っていた。
「ほら……。わたしの瞳、緑色でしょ」
いつも見ていたあのリサの瞳とまったく違わない綺麗な緑色。森の新緑。初夏の樹々が生き生きと見せるあの緑色。
俺をじっと見つめてくれる美裕の瞳に、俺は吸い込まれそうになっていった。
心臓がドキドキしていた。その音が美裕にまで聞こえそうに思えるほどに。
夢じゃないのだろうか。
「美裕……それじゃ、本当に……」
「うん。わたし、特異体質なんだ。こんな緑色の瞳を持つ人なんてほとんどいないんだって。おかげですごく目立つからそれを隠す為にもこれが必要だったの。昔は気持ち悪いってずいぶんいじめられたりもしたんだ。でもね、お父さんもわたしのこの瞳を見て、すごく綺麗だって言ってくれて。この絵を描き残したの」
「……」
もう驚く事なんかないと思っていたのに。
美裕がリサだったなんて。
俺は、俺は……。
「それでね……。もう一人。お父さんの他にわたしのこの瞳を好きだって言ってくれた人がいたの。その人に、別れるときお父さんはこの絵をあげたんだ」
「それじゃ、もしかして……」
「大樹。あなたのことだよ」
美裕の緑色の瞳が俺をじっと見つめていた。
そうだ。この瞳を見るのは初めてじゃない。
ずっと昔、すっかり忘れてしまったほどの昔、俺はこの子を見たことがある。
はっきりとした既視感。
そうだ。
その女の子が俺の初恋の女の子だったんだ。
俺はその子のことを、本当は知っていたからリサを好きになったんだ。いや、知っていたからリサを代わりにしたんだ。
その女の子がいなくなってしまったから、その思い出のカケラ、心に残っていたほんの少しだけの情景を糧として、その面影の残るリサに、俺は今になって、心惹かれたんだ。
本当のこの絵の女の子がいなくなってしまったから、いないと思っていたから……。
そうなんだ。あの夢を見たのもその為だ。
あの夢もきっと、俺に起こった出来事を、忘れてしまった中で、無意識の俺の記憶から見せたものだったんだ……。
「そうか……。そうだったんだ。だから俺は、この絵の女の子を好きになったんだ……。俺は自分でも忘れてしまった記憶の中で、無意識のうちに美裕のことだけを思い出して。それを投影して……。この絵のことを。そうか……。そうだったんだよな」
「大樹……」
「でもさ。俺は、この絵の女の子の事を好きだったけど……。この絵の女の子のモデルがいるかもしれないって思ったことがあったけど……。俺はそれが最初から美裕だってことはわからなかった」
「うん。それはしかたがないよ」
「それにさ。本当は俺はもう、この絵のことはどうでもいいんだ。確かにこの絵を見て俺はこんな絵を描きたいって思っていたけど、この絵の女の子に惚れていたけど、今は違う」
「違う?」
「俺は今、美裕を……俺の目の前にいる女の子を描きたいって思っているんだ。その絵はもう今のきっかけにしか過ぎない」
「大樹……」
「俺は、美裕が俺と逢った時から優しくしてくれたから、今の美裕を好きになったんだ。美裕のことを好きになったんだ。絵は昔の事を思い出せたきっかけかもしれないけど……。美裕が俺と出逢ったときからの美裕だから俺はこうして美裕といっしょにいる。それじゃ、だめかな?」
「くすっ……。大樹はいつも、わたしが思っていることを先に言ってしまうのね」
「えっ?」
「わたしも、そうなの。きっかけは昔の大樹を思い出したから。わたしはこの学校に転校してきたときに大樹を頼ったの。でも、大樹は昔のわたしのことなんて覚えている様子もなかったし、そんな話もしなかったよね」
「うん?ああ」
「でもね、わたしのことを憶えてなくても、大樹はあの頃と少しも変わらずに優しいままでわたしに接してくれた。たくさん気を使ってくれて。優しくしてくれて。それが、嬉しくて。だから、昔の事を忘れたままでも、わたしの知っている大樹じゃなくてもいいって思ってた。だって、過去のことなんか良くても、こうして、今のわたしを見てくれているんだもの」
「ああ。俺は今の美裕が好きだ。それは嘘じゃない」
「くすっ。だからそんな大樹がわたしも好きになったの」
美裕が俺に抱きついてくる。
ふわっと、美裕の甘い、女の子の香りが俺を包み込んだ。
「だから、大樹は、私の彼氏さん」
「美裕……」
俺も美裕を抱きしめた。
美裕は俺を見つめていた。
そのまま、美裕の瞳が閉じていく。
俺は、こうなる事が当然だと思うように、美裕の唇にそっと口付けた。
暖かく柔らかい美裕。
俺が以前、リサに望んで、想像した感覚が、ここにあった。
「大樹……」
「美裕……」
ゆっくりと開けられていく緑色の美裕の瞳。こうしてみると、美裕は最初からこんな瞳をしていたってことに、違和感なく感じられた。
「美裕。その瞳、本当に綺麗だな……。こんなに近くで見て、俺、美裕に吸い込まれそう……」
「くすっ…。ありがとう、大樹」
「でも、ごめんな。今まで昔の事忘れてて。覚えていた方がかっこよかったんじゃないか?」
「ううん。いいのよそんなこと。だって、大樹はこの絵をまだ持っていて、この絵の女の子を好きだって言ってくれて、こんなに大切にしてくれていたんだから。それでね」
「美裕……」
「わたし、大樹の恋人で、いいよね」
「ああ。もちろん。こんな俺でいいならずっと美裕の恋人をお願いしたい」
「くすっ……」
「なあ、美裕。一つお願いがある」
「なに?」
「今度からさ、その瞳をここだけでいいから、見せてくれないか?俺、美裕のありのままを描きたい」
「くすっ。いいよ」
「ありがとう」
「うん……」
「よし、俺はこれから頑張る」
「くすっ。うん。がんばってね。大樹」
「ああ。この美裕のお父さんが描いた絵のように皆が心惹かれるような美裕を描いてみせる」
「あ、でも、それはちょっと嫌かな」
「どうして?」
「わたし、大樹以外の人に好かれるの、困る」
「あはは」
「くすっ」
美裕がリサだった。
なんていう偶然なんだろう。
お互いに過去のことを忘れていても、こうして出会えて、仲良くなって。
再び、あの時の頃と同じように、二人でいっしょにいられるようになって。
これが、もしかして、見えない赤い糸というもので結ばれていたってことになるのだろうか。
でも、そんな偶然、すごく嬉しい。
俺の愛した絵の中の女の子が現れたのだから。
やっと見つけた。
俺の幸せ。
もう大丈夫だ。
俺はこれからも生きていける。
この美裕が俺のそばにいてくれる限り。
―――――
「よし、みひろ、できたぞ」
「えっ?たいき、できたの?」
「これだ」
「わぁ。たいき、おもったよりじょうずだね」
「なんだよ、そのおもったよりって」
「くすっ。ごめんね」
「それでさ、このえをみひろにあげる」
「えっ?ほんと?」
「ああ。そのためにがんばってかいたんだ」
「たいき……」
「このえをみて、おれのことおもいだしてくれるよな」
「うん。わたしぜったいたいきのことわすれないよ」
「ほんとうか?」
「うん」
「おれも、おまえのおとうさんからもらったみひろのえをみて、ずっとみひろのことをわすれないからな」
「うん……」
「それでさ、もし、またであったら、そのときまでにおれはもっとえのれんしゅうをしてうまくなって、またかいてあげるからさ」
「ほんと?」
「ああ。おまえのおとうさんよりもうまくかいてみせるさ」
「くすっ。おとうさんよりもうまくなんてかけないよ」
「いや、やってみる」
「うん。それじゃ、たいき、がんばってね。わたしはかならずもどってくるから」
「ほんとうだぞ」
「うん。だって、わたし、たいきのことがだいすきだから」
「えっ……」
「だから、ぜったい、ね」
「ああ。おれもぜったい」
美裕は、その緑色の目の所為で、明るい所が見られないらしい。
その為に、病院に行く事になり、それを兼ねて画家の為に放浪していた父親と遠くに行く事になってしまった。
でも、それは今生の別れじゃない。
俺は美裕に俺が描いた絵をプレゼントして、またいつか出会えるときに美裕の父親が描いたより上手い美裕の絵を描けるようにと約束して。
いつかきっとまた、出会えることを約束してた。
それが、今、かなったんだよな。
美裕。
俺、まだ美裕のお父さんのようには上手くかけないけれど、これ からもっとがんばって美裕を描くからな。
絶対……。
+注意+
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