朝
世界が淡い白色とした霞みのようなものに覆われている。
ここは、どこだろう。
なんだか昨日みた夢に似ている。
ああ、そうか。
これは俺の見ている夢の中だ。
夢か。そうか。
夢ならいいんだ。
あ。あそこに誰かいる。
二人いる。
小さな女の子と中年の男性のようだ。
男性の方はイーゼルを前にたて、パレットのようなものを持っている。右手には筆も持って。
どうやら絵を描いているようだ。
女の子はその男性の横に立って笑顔を見せている。
この女の子は……。昨日みた夢に出てきた女の子だ。
緑色の綺麗な瞳を男性に向けている。
「おとうさん」
「ん?どうしたんだ?」
そうか。この人はこの女の子の父親なんだ。
「あのこうえんでであったおとこのこ、わたしのね、このめがすきだっていってくれたんだよ」
「へえ。それはよかったな」
「おとうさんといっしょだね」
「ああ、そうだな」
「わたし、このまちにすみたい」
「そうか。そうだな……。ここはおまえのお母さんの生まれ育った街だしな。しばらくはこの街にいよう」
「ほんと?」
「ああ。この街にはおまえのことが好きな人もいるみたいだしな」
「うん。わたしのこのめがすきっていってくれたんだよ。そんなひと、はじめて」
「その男の子のこと、好きか?」
「うん、すき。だってよくあそんでくれるんだよ。わたしのともだちなんだ」
「そうか。それはよかったな。それじゃ、お父さんも頑張ってこの絵を仕上げるか」
「うん」
「今度はお前を描いてあげるからな」
「ほんと?」
「ああ。その綺麗な瞳をこの絵に写してな」
「ほんと?」
「ああ。お父さん、頑張ってお前をすごく綺麗に描いてあげるからな」
「ありがとう、おとうさん」
「ああ」
父親はそっと女の子の頭を撫でている。
仲がよさそうな親子。
その女の子の瞳は、緑色で。
あのリサの瞳と同じ、緑色で。
そうか。
きっと、この人がこの子を描いた絵が、リサの絵なのかもしれないな。
ああ、そうだよ。この子が、リサのモデルなんだ。
この子が……。
『森村君―』
あれ……。俺を呼んでいるのか……?
ピンポーン。
なんだか遠くで聞きなれた音がする。
「ん……」
『森村君―』
霧沢さん……?
ピンポーン……。
これは……家のチャイムの音だ。
「あっ!」
そういえば、今日、霧沢さんが迎えに来てくれるんだった。
「しまった……。寝坊した!」
俺は慌てて飛び起きて、自分の部屋から飛び出し、玄関の扉の向こうにいるであろう霧沢さんに駆け寄る。
まだいてくれよ……。
「霧沢さんごめん、寝坊した。これから着替えたりするから先に行っていいよ」
「森村君?」
玄関の扉を少し開けて霧沢さんを見た。
よかった。まだいてくれたみたいだ。
霧沢さんは昨日教壇に立っていたように、俯いて所在なげな佇まいをしていた。しかし俺をみて、ふわっと笑顔になった。
「いや、ごめんってば」
「よかった。まだいてくれたんだ」
「はい?」
「ごめんね。わたしも寝坊しちゃったの」
「ええっ?」
霧沢さんはそう他人事のように言った。
玄関にある時計を見てみると、8時15分。
ここから学校まで走っても15分はかかるから、8時半にあるホームルームには……。
「き、霧沢さん、先に行って!」
「でも……」
「俺はいいから、遅刻しちゃうよ!」
「うん……。森村君も早くね」
「ああ、すぐに俺も行くから!」
「うん」
遅刻しそうだって言うのに俺の家に迎えに来るなんて……。
俺はすばやく身支度をして、家の戸締りをして、家を出た。
この間、5分とかかってはいないはずだ。
「よし、ギリギリ間に合うかもしれない!」
玄関を飛び出そうとした時。
「あ、森村君。早かったね」
霧沢さんが家の門の前に寄りかかるように佇んでいた。
俺は玄関の階段を踏み外しそうになってしまった。
「って霧沢さん!なんでこんなところにいるの?!」
「あのね、森村君」
「う、うん」
「実はわたし、学校へ行く道をよく憶えていないんだ」
「えっ?」
「昨日来た時は近所の知り合いの人に車で送ってもらったし、帰りは森村君と話しながら帰ったからよく憶えていなくて」
「……」
「わたし、歩いて学校に行ったことが1回しかないから、ちゃんと行けるかどうか心配だったから……。今日森村君と行ければちゃんといけるから憶えるかなって思って。森村君が近所だったし……」
「……」
「あ、そうだ。森村君」
「な、なに……」
「おはよう」
「……ああ、おはよう、霧沢さん」
霧沢さんは笑顔でのほほんとそう言った。俺が今急いでいた空気とは明らかに違う、のどかな空気が流れていた。
左手の時計を見る。時間は既に8時25分。
もう遅刻は免れない。
「霧沢さん」
「なに?」
「もう……。転校してきた次の日早々に遅刻だよ」
「あ。そうだね」
霧沢さんも腕時計を見て、さも他人事のようにそう言った。
「はぁ……。それじゃ、学校に行こうか。ホームルームは遅刻……
いや、もうついた頃には終わっているだろうから、1時間目の授業に間に合うように」
「うん。ありがと、森村君」
俺たちは小走りに学校へと向かった。
――――――
学校に着くと上手い具合にホームルームが終り、皆次の授業の準備をしている喧騒の中だった。
とりあえず授業には間に合ったらしい。
「いいタイミングだったね」
「うーん、間に合ったと言っていいやらなんとやら……」
「くすっ。わたしは結構面白かったよ」
「そうだね。ある意味俺も面白かった。でも、もうこんなのは勘弁だからな、霧沢さん」
「ごめんね、森村君。でもありがとう」
「まあ、寝坊した俺も言えた義理じゃないけど」
「くすっ。それじゃ、森村君、また後でね」
「ああ……」
俺も霧沢さんに習って席につく。
こんな形で女の子といっしょに登校するとは思わなかった。貴重な経験かもしれない。
「あーあ。朝飯食べそこなったか……」
「大樹―。うっす」
胡太郎がニヤニヤしながら俺の席に来る。
「ああ、胡太郎、おはよう」
「ふふーん、森村君」
「な、なんだよ」
「二人してこんな時間に来るとはねぇ。何があったのかな?」
「ああ、ただの寝坊だよ。俺たち」
「ええっ!」
「なんで驚くんだよ」
「そっか。そうか。そういうことなんだな」
うんうんと楽しそうに頷く。
「胡太郎、なんだよ。言っていることがよくわからないぞ」
「ああ、大丈夫だ。ただ俺はいつもの大樹だったのかなって思っただけなんだ。すまん、親友。俺はお前を見くびっていた。俺を許してくれ」
「はぁ?胡太郎、一体何を言っているんだ?」
「いや、みなまで言うな。言いたい気持ちもわかるけどな。公衆の面前だ。そういう話題は控えようぜ親友。いや、それにしてもよかったよかった。おれが言った通りがんばったんだな。おめでとう」
「なにがめでたいんだよ」
「それじゃ、詳しい話はまたあとでな。親友」
そのまま言いたい事だけを言って胡太郎は俺の前から離れていく。
「おい、胡太郎……」
「昨日の夕方二人で歩いていくのを見たっていう情報は本当だったのか……」
胡太郎はなにやらぶつくさ言いながら自分の席に戻っていった。
「どうしたの?」
俺たちの会話を聞いていたのか、隣に座っている霧沢さんが話し掛けてきた。
「さあ?でもあの通りよくわからないヤツだからな胡太郎は。霧沢さんも振り回されるかも。気をつけてね」
「くすっ。仲がいいのね」
「そう?」
「うん。そういうのうらやましいな。あ、先生が来たみたい」
「あ、ああ……」
まったく、胡太郎のやつ。一体何を言いたかったんだろ。
後で聞きたいこともあるし、次の休み時間にでも聞いてみるか。
――――――
というわけで最初の授業が終わって早々、俺は胡太郎に話し掛けた。
「胡太郎、ちょっといいか?」
「ああ、どうしたんだ大樹。お前から話し掛けてくるなんて珍しいな。もうさっきのことか?まったく、しょうがないな」
「ん、ああ、それも気になるけど、それはあとでいいや。あのさ、俺たちの小さい頃、俺たちの他に遊んでいた女の子とかいなかったか?」
「ん? 霧沢さんのことか? よく遊んでたぞ」
「えっ? 本当か?」
俺が訊く前に答えるなんて、本当に会ったことがあるのか?
「なんだ大樹、憶えていないのか? あんなに仲良く遊んでいたのに。お前が霧沢さんと仲良くしているのはそうだったからじゃないのか?」
「そ、そうなのか?俺たち遊んでいたのか?」
それじゃ、あの話は本当のことだったのか……。
「あははは。そんなことあるはずないじゃないか大樹。霧沢さんは昨日転校してきたばかりじゃないか」
「えっ?」
「冗談だよ冗談。まったく、そんな話までしてくるなんて、のろけか? このう。もう妬けるね、森村君」
ひじで俺の胸をこつく。
「いや、霧沢さんの家さ、俺の近所なんだよ」
「そうなのか?あの『のこうば』に」
「ああ。目と鼻の先。昨日知ってびっくりしたんだ」
「ああ、もう、だから森村君。そんな自慢話はいいって」
「自慢じゃないって」
「冗談だ。えっと、こういうことだろ? 昨日霧沢さんと一緒に帰ったら、家が近所だって事を知った。だから昔からの知り合いじゃないかって大樹は思った。そう訊ねたら霧沢さんははぐらかした」
「そうそう」
「でも、俺は大樹と会ってからずっと二人で遊んでいたぞ。3人なんて事はなかったぞ。霧沢さんちのことも知らない。俺は。これは冗談じゃなく本当だ。第一、俺も知っていたら霧沢さんとお前にそういう話をするさ。昔一緒に遊んだよな。とかさ」
「そうか……そうだな。だったらいいんだ。すまないな、変なことを聞いて」
「それよりも大樹君」
「彼女、具合はどうだった?」
「はぁ? 具合ってなんだよ」
「もう、森村君はシャイなんだから」
「なんだよ、それは」
「まあ、いいか。そんなことを訊くのは野暮だしな。霧沢さんをずっと大事にしてやれよな」
「胡太郎」
「なんだよ?」
「一体何のことを言っているんだ?さっぱりわからない」
「えっ? 何を言っているんだ。お前が霧沢さんを抱いたってことだろ?」
「はぁ? 抱いた?」
抱いた? 霧沢さんを?
それはつまり……。
想像したら急に顔が赤くなってきた。
「……胡太郎」
「ん?」
「なんでそうなる」
怒るよりもひどくあきれてしまった。そういえば胡太郎はそういうやつだった。
「だって、夕べ霧沢さんと頑張ったおかげで、仲良く遅刻してきたってことなんだろ? いいじゃないか若いってのは。俺も最初はそんなもんだったし」
「はぁ……。そんなことあるはずないだろう」
「そうなのか?」
「今日は霧沢さんがこの学校への道がまだよくわからないからって言うことでいっしょに来たんだよ」
「またまたぁ。俺はだまされんぞ」
「まったく。俺は仕方がないからいいとして、霧沢さんや周りの人にはそういう話はやめてくれよな」
「あはは。すまなかった。セクハラだったな」
「まあ、そういう所は胡太郎はしっかりしているからいいか……」
「で、どうだったんだよ、本当の所は」
「って、霧沢さんとはなんにもないって。なんで俺がすぐにそうなるんだよ」
「本当なのかよ」
「本当に決まっているじゃないか」
「なんだ……。そうなのか。つまらんな」
「まったく、胡太郎は……」
「でもまあ、いずれそうなるだろうしナ。頑張りたまえ、親友」
「ああ……がんばるよ」
「うむうむ」
方向はともわれ、これは胡太郎なりの励まし方なんだ。悪意はないと思う。
それにしても霧沢さんを抱いただなんて。冗談にしても酷いぞ胡太郎。
でも、ほんのちょっとだけ、そうなりたいなと思う自分もいて、恥ずかしいようなばつが悪いような、そんな複雑な気持ちだった。
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